第二五部「黒い点」第3話

文字数 13,275文字

 夜。
 深夜。
 日付が変わった頃。
 そこは静かな場所だった。周囲の信仰住宅地からは少し小高い丘の上。かつて山を削って作られた広い敷地に、その総合病院はあった。
 正確に言うならば、そこは元総合病院。
 廃業から一七年。
 現在は完全に廃墟となっていた。住宅地から少し離れ、周囲を林に囲まれているためか、幹線道路となっている敷地前を車で走る以外で目にすることはないだろう。山の入り口のような立地条件も相まって、もちろん周囲を誰かが歩くような場所でもなかった。
 それでも、地元ではお決まりの心霊スポットとしても有名な側面を持つ。
 過去、医療ミスが騒がれた。
 マスコミの加熱報道に患者が減り続け、経営が成り立たなくなった末に経営者が失踪することで廃業を余儀なくされる。医療法人としても裁判所からの指示で解散。現在は建物の管理者も不明なまま放置され、不法侵入が絶えず、中は荒らされ放題。
「とりあえず、今夜は誰も来てないね」
 車を降りると、杏奈はそう言いながら建物の正面入り口に向かって歩き始めた。林に囲まれているせいかどこか肌寒い。それでも風は強くなかった。葉の騒めきも聞こえない静かな空間が広がる。それでも微かに吐く息は白かった。
「こんな場所だし、肝試しの人たちとかいると面倒だったけど」
 そう言う杏奈の言葉を追いかけるように、すぐ後ろから西沙が追いかける。
「こんな寒い時期に肝試しなんかするの?」
「動画配信者は年中やってるみたいだよ」
「なるほどね……だったら昼間に来れば良かったじゃん。何もこんな深夜に来なくても……」
 すると、そんな西沙に杏奈は笑顔で振り返って応えた。
「これでも一応、不法侵入だからさ」
 それでも後から来るいわゆる〝肝試し〟の車対策に、敷地に入ってすぐの目立つ場所に車を停めていた。隠すことで誰もいないと思われても困る。仮に警察が来た場合は謝罪とジャーナリストの肩書きを利用しようと考えていた。それでも不法侵入であることは変わらない。
 この場所を見付けたのは杏奈。萌江からの依頼でもある。杏奈は数日かけて探していたが、結局管理者を探すことは出来なかった。
「元々が人の来るような所じゃないんだから昼間でも同じでしょ」
 そう言う西沙に、杏奈は小さな懐中電灯のスイッチを入れながら。
「管理者がいないって言われてるし……まあ私も辿り着けなかったのは事実だけど、そんなことないはずだよ。絶対にどこかの不動産屋が土地を押さえてる。もしくは行政。でもそれなら辿り着けないのもおかしいか…………どこかの不動産屋の書類の奥って感じかな。放置されてるのは建物の取り壊しにもお金が掛かるから。不動産会社がお金を出しても売れる保証がある土地ならやるんだろうけど」
 杏奈は周囲にライトの光を回しながら続けた。
「こんな場所じゃ確かに病院かホテルくらいか……取り壊しも含めてお金出せる人が買ってくれればいいんだろうけど……悪い噂のある場所は売れにくいよねえ」
「まあね。しかも心霊スポットで有名な場所じゃ、ホテルなんか建ててもダメか」
「そういうこと。せっかくの心霊スポットだし、私たち二人で来るにはちょうどいいでしょ?」
「最悪じゃん」
 西沙のその返答を無視するかのように、杏奈は正面玄関の中をライトで照らし続け、足を進める。ガラスはすでに大きく割られ、ほとんどが残骸として下に散らばるだけ。
 中は壁紙が剥がれているのはもはや当たり前の状態だった。むき出しの石膏ボードすらも崩れている場所が多い。天井が崩壊している所もあり、危険は間違いなくあった。
 床も壁やガラスの残骸が散らばり、二人は足元を気を付けながら歩くしかないほど。
「やっぱり……何か感じる?」
 足元を照らしながら歩く杏奈が、背後の西沙に言葉を向けた。
 西沙は平然と返していく。
「ああ、そういうヤツ? 別にないかな…………」
「感じられる西沙でもそうなんだ……」
 強力な力を持つはずの西沙の意外な言葉に、杏奈はどこか寂しそうな声。
 杏奈も西沙だけでなく萌江や咲恵と関わることで、何度も信じられないような現場に立ち会ってきた。今さら幽霊の存在にどうこうという感情はなかったが、同時に、周りに能力者が多過ぎるせいか、疎外感がないわけではない。もちろん自分には自分のいる意味があることは分かっている。それでも西沙と同じものを感じられるわけではない。
 努力で得られるものでもなかった。
「……どこでも一緒だよ。病院でもそうじゃなくても…………命の消えた痕跡はどこにでもあるからね」
 そんな西沙の言葉に、杏奈は罪悪感に近いものを感じた。

 ──……私は……まだまだだな…………

 そして、それを振り切る。
「どうしてこんな所でもゴスロリなの?」
 一転して眉間に皺を寄せた杏奈が振り返っていた。杏奈の相変わらずのボーイッシュなスタイルに対して、西沙も相変わらずの黒いゴスロリ。
 しかしそんな西沙も負けてはいない。
「私が他に何を着るっていうのよ」
「最初に会った時は違った」
「今はトレードマークみたいなものでしょ」
「デニムだって持ってたでしょ? かわいいヤツ。寒くないの?」
「もう冬バージョンだから大丈夫」
「足に傷なんかつけないでよ。廃墟に来るって言ってたでしょ」
「一応今日のスパッツは厚手だけど」
「厚手って言ったって、お気に入りの服だって傷が付くかもしれないし……」
 杏奈のその言葉の直後、最初に足を止めたのは西沙。
「あっ、ここじゃない? ナースステーション」
 二人が足を止めた場所の上には、まだ辛うじて〝ナースステーション〟の文字が見えた。
「一応は総合病院だなあ。それなりの大きさか」
 杏奈はそう言いながらそのスペースに入っていく。中央には大きなテーブル。壁一面には大きな棚。床は様々な物が散乱し、足の踏み場も無い。
 西沙は足元の硬そうなファイルの一つをパンプスで軽く返しながら口を開いた。
「こんな状態でどうやって探すの?」
 しかし、杏奈の目は真剣そのもの。
「……見付けるよ…………牧田絵留(える)…………」
 そこは、牧田靖子が絵留を産んだ病院だった。


      ☆


 視界が揺れた。
 少しずつ体が浮いていくような感覚に包まれながら、それでも体が重い。
 気持ちと体が離れていく。
 さっきまでの痛みは、もう感じない。

 自分がいつか殺されるかもしれない。
 その考えが(きよし)の頭から離れることはなかった。

  〝 清国会には気を付けなさい 〟

 それは耶絵(やえ)との関係が深まるほどに清を苦しめていく。
 待ち合わせはいつも遠くの離れた街。職場で場所と時間を決め、それぞれ別々に向かって合流。いつも違うホテルに一泊して別々に帰る。
 理由は総て耶絵に説明していた。もちろんすぐに耶絵が理解出来たわけではなかっただろう。簡単に信じられる話ではない。清が嘘をついていないことを信じるしかなかった。
 もちろん不安は募る。
 気持ちが近付けば近付くほど、比例するようにその不安は膨らんでいった。
 それでも毎晩掛かってくる清からの電話が二人を繋いでいく。
 清はいつも幾つかの公衆電話を交互に使っていた。もちろんそれは決まった行動を取らないため。アパートへ帰る道も出来るだけ違う道を通るように意識した。
 それでも完全に尾行から逃げることは出来なかったのだろう。
 その夜もそうだった。
 もっと早くに相手が行動に出ることは出来たはず。
 しかし、その夜だったことは変わらない。
 そしてその夜は、尾行の人数がいつもより多いように感じていた。
 そのせいか、電話ボックスで受話器を持ち上げたのはだいぶ遅い時間。出来るだけ周囲に人の少ないであろう場所。
 しかし、それが仇になった。
 むしろ狙われやすい。
 すぐ後ろからの誰かの圧力。
 続く、左右からの小さな足音。
 腰に何かが押し付けられた。
 一点に集中した服の上からの圧迫感が、やがて弾けるように布を、続けて筋肉を切り裂いていく。
 ゆっくりと奥へ。
 同時に湧き上がる、絶望。
 目の前で、総てが崩れていく。
 いつの間にか、清の目の前には電話ボックスの床。
 体から、自分自身が流れ出ていく。
 もう、痛くはない。
 不思議と、苦しくはなかった。
 ただ、一人になるのが怖かった。
 遠ざかる足音も聞こえない。

 ──……電話……を…………しなきゃ…………

 体をどう動かしているのかも自分で分からないまま、震える手で受話器を手に。
 電話機の上に重ねていた硬貨を入れようとするが、なぜか入らないまま、数枚は床で音を立てた。
 いつもの番号。
 そして電話にはいつもの下宿先の管理人の声。

「あーはいはい、耶絵ちゃんね」
 受話器を電話機の横に置くと、すでに五〇を過ぎたその女性管理人は階段を駆け上がった。古い木の階段が軋む暇もない。
 耶絵の部屋のドアを激しく叩いていた。
「耶絵ちゃん、電話だよ。早く」
 耶絵もいつもと印象の違うその声に何かを感じ、素早くドアを開けて真剣な表情を管理人に向けた。
 その管理人の表情も重い。
「急いで」
 その声に、耶絵は階段を駆け下り、素早く受話器を手に取った。
「もしもし⁉︎ 清さん⁉︎」
 ゆっくりと聞こえてきたのは、荒い息。
 そして、それがゆっくりと形になった。
『…………逃げて…………早く…………』
「どうしたの⁉︎ どこにいるの⁉︎」
『……来ちゃ…………だめだ…………』
「何言ってるのよ⁉︎ すぐ迎えに────‼︎」
『…………………………ごめん…………』
 電話が切れると同時に、総てが切れた気がした。

 ──…………本当……だったの…………?

 耶絵は呆然と受話器を耳に押し当てたまま。
 もはや自分がそうしていることの自覚すらない。
 そして、唐突に、その手が掴まれた。
 横ではいつの間にか、管理人が厳しい表情を耶絵に向ける。
「これで分かったね。清国会は彼の妄想なんかじゃない。実在するんだよ」
 そんな管理人の表情を見たことがなかった。しかも、その管理人の言葉も初めてのもの。
 管理人は部屋の奥から分厚い封筒を持ってくると耶絵の手に握らせる。そして呆然とする耶絵に向かって口を開いた。
「このお金で遠くに逃げな。あんたのお腹には彼の子供がいる…………これから私たちは、あんたと子供を守る…………だから出来るだけ遠くへ」
「……あなた……は…………?」
 何も理解出来なかった。
 だからそんな言葉しか出てこない。全身で感じるのは自らの大きくなる鼓動だけ。
 管理人は、小さく口元に笑みを浮かべて応えた。
「あんたの子供は、古くに殺された巫女の血を引いた子…………だから清国会に狙われる…………私たちはその血を守るために生きてきた一族…………巫女に支えてた従者の末裔さ」

 ──…………巫女…………? なに……?

「……彼を守れなかったのは我々の落ち度だ……でも……だからこそ、あんたを守らせて……どこに逃げてもいい。我々一族の誰かが、必ず近くで守る。信じて」

 気持ちの中にあるもの。
 不安と恐怖。
 それをこれほど感じたことはなかった。
 そんな状態のまま、耶絵はその夜の内に夜行列車に飛び乗っていた。
 どこまで行くのかも分からない。終点駅までの切符は管理人が買ってくれた。
 どう理解すればいいのか、今の耶絵には間違いなく不可能なこと。
 ただ、人生の何かが大きく動いた。

 六ヶ月後。
 牧田耶絵は女の子を産む。
 小さな産婦人科医院だった。その当時、未婚の女性が子供を産むのは珍しいとされた。通常であれば、耶絵は周囲からの冷たい視線を恐れたかもしれない。
 しかし、誰も自分を知らない街。
 逃走前に管理人からもらったお金で細々と生きてきた。
 元々身寄りの無い人生。
 記憶にあるのは幼い頃の母親のものだけ。
「……あなたも…………お父さんの顔を知らないのね…………」
 子供を抱きながら、古いアパートの一室で、いつの間にか涙が溢れていた。
 あの日、朝に辿り着いた見知らぬ駅で、見知らぬ女性に声を掛けられた。〝謎の一族〟の一人だと名乗るその女性に用意してもらったアパート。その女性とはそれきり。それでもある意味、ここまでは甘えてきたことになるのだろう。しかしこれからは自力で生きていかなくてはならない。

 ──……いざとなれば……あの一族はこの子を守るのだろう…………
 ──…………無事に産まれた…………私はもう守られる対象じゃない…………
 ──……だから、清国会に見つかるまでは……この子は私が守る…………

 ──…………守るよ…………靖子(やすこ)………………


      ☆


「……もう……分かってるんじゃないですか?」
 祭壇を前にしたまま、最初に口を開いたのは大見坂雫だった。
 一度遡った過去から戻った萌江と咲恵は、何も応えないまま。
 その二人に背を向けたままの、雫の言葉が続いた。
「もっと遡りますか?」
 僅かに強い声。
「……いえ…………」
 小さく応えた咲恵が繋ぐ。
「必要ありませんよ……雫さん…………」
 すでに、理解していた。
 咲恵に分からないはずがなかった。
 それは、自分の血筋。
「……〝滝川御世〟です……彼女の血筋です……私もその血を継いでいますので……分かりました…………」
 清国会を裏切り、清国会に殺された、一度は清国会のトップを務めた過去を持つ巫女。
 咲恵は、その御世の長女の血筋。
 そして御世には長女と歳の近い長男もいた。その血筋を継承したのが靖子とその娘の絵留。
 それは同時に恵麻と同じ滝川家の血でもある。そしてその血は、京子の母親の血。京子と萌江にも滝川家の血が入っているということになる。
 咲恵が紡ぐ。
「長男の血筋がどうなったのか……分からなかった…………もう……終わってたのね…………」
「咲恵が終わらせたわけじゃないよ」
 その声は隣の萌江。
 咲恵は反射的に返していた。
「でも…………終わる瞬間に立ち会った…………」
 最後の絵留が死んだ時────殺された時、確かにその場に萌江と咲恵がいた。もちろんその時は絵留の血筋のことなどは知りようがない。分かっているのは、スズが取り憑いた絵留が萌江と咲恵を探していたという事実だけ。
 そして、スズが絵留を選んだ理由は不明なまま。
 咲恵にはもう一つ、どうしても絵留を忘れられない理由があった。
 咲恵の持つ水晶────〝水の玉〟。萌江の持つ〝火の玉〟と対になるものだが、絵留が現れた直後に突然咲恵の手の中に現れた物でもあった。それまでは長い期間に渡って所在が分からなかった物だけに、絵留がどう関係しているのか、もしくは絵留との関係はないのか、ずっと咲恵にとっては謎のままだった。
 その咲恵の言葉が溢れる。
「……私に近い血筋だったのに…………どうして…………どうして……私はそれを見せられた…………私が生きてる間は……終わらないの…………?」
 僅かに、その声が震えていた。
 冷静を欠いている事実に、咲恵自身は気が付いていない。
「違うよ」
 そう応えた萌江の強い声が続いた。
「私が生きてる限り…………」
 萌江はこういう時、いつも、わざと声のトーンを上げてみせた。
「私が死んで……スズの血が絶えれば……その時にやっと終わるんだよ。スズも御世も、もう救われた。論点を見失っちゃダメ。今必要なのは、私たちが今、こうして存在してる意味…………過去の誰かを恨んだって…………何も終わらないよ」
 重い話を、いくらかでも軽くしようとする萌江の悪いクセ。
 同時に、救われたはずの御世に関して、未だに気持ちの中に〝わだかまり〟があることも気が付いていた。それは気持ちのどこかに存在する〝穢れ〟そのもの。それが何なのか分からないままここまで来ていた現実を改めて感じた。
 咲恵もそれを分かっているからこそ、萌江の声色に、どこか気持ちが楽にもなる。
「ごめん……そうだね…………」
 その咲恵の返答に、萌江の口元に小さく笑みが浮かぶ。
 そしてその口が再び開いた。
「結論から言えば確かにお母さんには繋がるけど、なんだか強引な引きだなあ…………それにまだ、どうして御世の血筋の胎児をスズが欲しがったのかは分からないね。その胎児でスズがしたかったことって何だったんだろう…………」
 少しずつ組み合わされていくピースに、咲恵もやっと物語を整理出来るようになってきていた。
 その咲恵が繋ぐ。
「確かに御世の能力は弱いものじゃない……だから欲しがって……その力を何かに利用したかった可能性は高いのかもしれない…………」
「能力が強いのは分かるよ、咲恵のようにね」
 返した萌江が咲恵の横顔に顔を向けた。
 咲恵も小さく目を振る。
 そしてその口角が少しだけ上がった。
 萌江はその表情を見届けるようにして続ける。
「でもどうして御世の血筋だったのか……何かしっくりとする理由がほしいなあ」
「もう少し情報が必要みたいね」
「しかもあの胎児は出生前診断で障害を持って産まれてくることが確実とされてた……だから父親は出産に反対だった。その父親の意思が……例えスズに取り憑かれた絵留にコントロールされてても表面化した…………だから靖子だけでなく胎児も殺してしまった…………」
「萌江の推理……だいぶリアルになってきたんじゃない?」
「でしょ? でもまだ足りない。スズが偶然に絵留を選んだとは思えない。絵留を選んで〝御世の血〟を欲した…………その理由が知りたい…………」
「大丈夫……少なくとも私たちが求めるものはハッキリした…………」
 そう返した咲恵の声に、萌江の目付きが変わった。
 その口が開く。
「…………スズは…………〝カバネの社〟で何をしようとした…………?」


      ☆


 昭和が五〇年代に入ると、その頃は後に高度経済成長の安定成長期と呼ばれた。それがやがてバブル景気へと繋がる。教科書的に、表面上は世界からも注目されるほどに日本の敗戦からの回復具合は目覚ましかった。
 そしてそこに存在するのは、その繁栄を支えた裏の世界。
 決して日の目を見ることのない歴史の闇。
 耶絵は、まだそこにいた。
 新聞やテレビの明るい雰囲気を横目で見ながら、安い労働力を搾取され続けていた。幾つもの仕事を掛け持ちし、丸一日休みの日など何年も経験したことがない。生活が困窮する度、短期間ではあったが何度か体を売ったこともあった。
 現在以上に、シングルマザーへの風当たりの強い時代。
 それでも、そうしてでも、どんなことをしても守りたいもの。
 たった一人の娘────靖子。
 そのために自分を傷付け続けてきたことに気が付いてはいない。
 そのくらいに必死だった。
 病気や事故で命が失われる可能性は誰にでも存在する。誰もがそれを受け入れて生きていくしかない。しかし、産まれてからずっと、誰かに殺される可能性というのは決して大きくはないだろう。限りなく低い。
 しかし靖子は、常にその可能性を持って産まれてきた。
 いつ、誰に殺されるかも分からない人生。
 その靖子を守ることが耶絵の人生に於いて最も大事なことだった。そのため、働く場所は子供を連れて行ける所だけ。誰かに預けることなど出来ない。誰も信用出来ない。風俗店に靖子を連れて行った時はさすがに気持ちも痛んだが、それでも生きるために耐えるしかなかった。
 いつもパートやアルバイトだけ。
 そんなところを渡り歩いて、およそ五年。
 年が明ければ靖子も小学生になる。耶絵にとっては不安も大きかった。今までは常に一緒にいられた。むしろそうしてきた。しかし学校に通うようになるとそうもいかないことは耶絵でも分かる。
 もちろん〝謎の一族〟が守ってくれるかもしれないという期待はあった。しかし初めて逃げた時から、あの一族は姿を見せてはいない。耶絵はずっと、ひっそりと見守ってくれていることを期待するしかなかった。

 夜の仕事の帰り。
 すでに深夜近く。
 そんな時は大概、眠りについた靖子を抱きながらアパートに戻るのが常。その度にいつも耶絵の中で申し訳無さが募る。体はどんどんと大きくなるが、重いと思ったことはなかった。むしろゆっくりと寝かせてあげられないことが不憫で仕方ない。

 ──……私があなたを産まなければ……こんな苦労もしなくて済んだのに…………
 ──…………ごめんね…………

 そのアパートに引っ越してからは半年くらいだろうか。
 そろそろ次の引っ越し先を探そうと考えていた。それは清から聞いていたこと。逃げ続けるための一つの策。
 清はまるでこうなることが分かっていたかのように、耶絵にいざという時の生き方を教えていた。しかし対する耶絵は清に妊娠のことを話してはいなかった。そろそろ話そうと考えていた矢先だったというのもあるが、同時に、知らせてあげたかったという気持ちもやはり消えない。

 ──……話していたら……何か変わったのかな…………

 それでも目の前の現実は同じ。
 これからの生き方も、これまでと変わらない。
 引っ越した先で小学校への入学手続きをし、その後も引っ越す度に転校を繰り返すことになるだろう。

 ──…………大変だろうな……

 疲れていたのか、すぐに横になって最初にそう思った。
 いつもの固いはずの枕ですら柔らかく感じるほどに疲労感に包まれる。
 横で小さく寝息を立てる靖子の寝顔を見ながら、続けて思う。

 ──……私がこの子を産まなければ…………

 ──…………この子は苦しまなかった…………

 意識が夜の静けさに溶け始めた頃、その意識が小さな音に揺り動かされた。
 初めは何の音かは分からない。
 小さく、小刻みに、続く。
 途端に空間を包む人の気配。
 玄関の扉の向こう。
 扉からの廊下などは無い。直接部屋に繋がる狭く古いアパートの一室。
 その扉はすぐそこ。
 ドアノブが小さく揺れる。
 古い扉は揺れやすい。
 音を立てやすい。
 やがて、そのドアノブから、何かが外れるような甲高い音。

 ──…………鍵が開いた…………

 耶絵の体が自然と動いていた。隣の靖子の体にかけていたタオルケットに手を伸ばし、その体を包んで抱き上げ、畳に静かに膝を立てる。他に手にしたのは財布の入ったハンドバッグだけ。
 ドアが静かに開き始めた時、すでに耶絵は窓の鍵を開けていた。
 靴を履いた直後。
 窓の側に靴を置いておくというのは、やはり清からの情報だった。

 ──……役に立ったよ……清さん…………

 窓から飛び降りながらも、肩越しに、扉を開けて驚く男の顔。
 部屋は二階。
 隣の家のトタン屋根に飛び乗っていた。そこから一階部分の屋根伝いに細い路地へ。いざとなると一階の屋根の高さも低くはない。屋根の下にあるブロック塀にお尻を着くような形で降りた。靖子を抱きながらではそれが限界。足腰を痛めるほうが問題だ。それでは逃げられなくなる。

 ──……足は挫いてない…………

 そして闇雲に走った。
 もうあの部屋には戻れないだろう。
 警察に行っても無駄であることは分かっていた。それでどうにかなるなら、そもそもこんな事態にはなっていない。清が何度も言っていたことが頭の中で渦を巻く。

 ──……警察に行ったら……あいつらに引き渡されるだけ…………

 すぐに背後からの走る足音が耳に届いた。
 見付かったことを全身で理解すると、後は恐怖に包まれるだけ。
 そして、その足音は一人のものではない。
 少しずつ膨らむ恐怖が近付いた。
 静かな夜。
 月が明るい夜。
 空気を揺らすのは足音と自らの鼓動だけ。
 両手で抱いた靖子を重く感じてきた。
 すでに目を覚まし、不思議そうに周囲に目を配るだけ。
 耶絵は背後の恐怖の塊に意識を集中していた。
 近付く。
 荒い吐息すらも聞こえてきた。
 すでに足を動かしていたのは、気持ちだけ。

 ──…………追いつかれる…………!

 その耶絵の、すぐ横をすり抜ける影。

 ──…………だれ⁉︎

 無意識に追いかけた影は、大きくバットを振り下ろし、周囲に甲高い音が広がった。見知らぬ男が、何度も、耶絵を追いかけてきた男にバットを振り下ろす。その度に甲高い音を立て、しだいにその音が鈍い音へと変わっていく。
 足を止めた耶絵の視界に、追いかけてきていた男達の姿。
 その男達を取り囲む別の複数の影。
 呆然とする中で、耶絵は突然誰かに腕を掴まれた。
 そして引っ張られる。
 驚いた耶絵の視線の先には一人の女性。その女性に引っ張られるまま、耶絵も走るしかなかった。
 しばらく走ったところで、さらに横に走り寄る別の女性。
「この先なら大丈夫────一人待ってる────」
 そしてすぐに離れた。
 耶絵が何も理解出来ないままに事態が進んでいく。
 分からないことは恐怖でしかない。

 やがて行き着いたのは、小さな商店。
 古い八百屋の軒先。
 時間は深夜。
 もちろん周囲は静まり返ったまま、耶絵と先導していた女性の荒い息遣いだけが夜の空気を温めていた。
 改めて耶絵が見ると、まだ若い女性だった。それほど耶絵と変わらない年齢にも見える。
 そして背にしていた店の扉で小さく音がした。
 緊張が走る。
 中の暖簾が小さく揺れ、そこから誰かの目が覗いた。そして小さく扉が開く。
「はやく」
 女性は耶絵の腕を引いて先に中に入れると、周囲に目を配りながら素早く入り、静かに扉を閉めた。
 中にいたのは中年の女性。その中年女性は扉の鍵を掛けると、すぐに耶絵に顔を向けた。
「危なかったね。もう大丈夫だよ」
 助けてもらった。
 それは理解出来た。しかし相変わらず目の前の人達の素性は分からない。

 ──…………あの人たちだ…………

 そして、無意識の内に、耶絵は両腕を伸ばしていた。
 タオルケットに包まれた靖子を中年女性に向け、その両眼からはいつの間にか涙が零れる。
「……この子を…………守ってください…………」
 靖子は目を見開いて母親である耶絵に顔を向けるだけ。
 その耶絵の言葉が続いた。
「私だけじゃ……守れない…………私はこの子の足手纏いにしかならない…………生き残るのは私じゃダメ…………靖子を守って……お願い…………この子だけのほうが守りやすいはず…………」
 動いたのは、若い女性だった。
 靖子を包むようにして、そのまま耶絵を抱きしめると、小さく耶絵の耳に囁く。
「確かにこの世界には、必要のない親はいる。子供に愛情を注げない親…………でもあなたは違う……全部、見てきたよ……あなたは自分を捨ててまで愛情を注いできた…………自分が傷ついてることにすら気付いてない…………だからあなたは必要…………だから私達は、あなたのことも守るって決めたの」
 耶絵は、その女性の腕の中で、靖子を強く抱きしめていた。
 零れ落ちるのは涙だけ。
 言葉も選べないまま、夜が更けていく。

 ──…………まだ…………一緒に生きていける…………

 翌日。
 早朝の内に動いた。
 逃げ込んだ商店の一室で睡眠を取り、朝、中年の女性から分厚い封筒を受け取り、若い女性と共に電車に乗る。
 まだ昨夜の余韻があった。
 眠りが浅かったせいもあるのか、気持ちが張ったまま。
 自分が知らない世界があるということを頭で理解はしていても、改めて実感した夜。
 怖さはもちろんまだあった。しかし不思議と何かが変化していた。ただ怖いだけではない何か。それが何かは耶絵自身まだ分からない。
 行き先を決めて切符を買ったが、行き先がバレないように、少し前の駅で降りると言う。しかも今回は昨夜の若い女性が付き添う。正直、心強かったのは事実。
「何かあっても……私は命を懸けてもあなたたちを守るよ…………」
 ホームで聞いた女性のその言葉は、嬉しくも、やはり重い。自分達のために死んで欲しいとは、やはり思えなかったからだ。
 早朝という時間帯のためか、ホームも電車内もまばらな人影。
 それでも耶絵は気持ちが未だ落ち着かないのか、座ってからも靖子の手を離せないまま。女性が反対側から靖子を挟むように守っている。
 そんな中、女性の声が小さく耶絵に届いた。
「顔を動かさずにそのまま聞いて。この電車の各車両にも、何人か仲間がいる。今回は大人数だから私が知らない人もいるみたい。敵がいるかどうかも分からない…………見分けをつけるとしたら動きだけ…………だから…………気を抜かないで…………」
 電車が進むと同時に、時間も進み、少しずつ乗客が増えていく。
 同時に、緊張も高まった。その緊張が手を繋いだ靖子にも伝わるのか、大人しいままではあったが耶絵の手を強く握り返す。その暖かさで、耶絵は辛うじて平静を保つことが出来ていた。

 ──……守らなきゃ…………靖子を…………

 幾つ目かの駅を通り過ぎた後、靖子が降ろしていた顔を上げた。
 それに気が付いた耶絵の視線の先には、靖子の鋭い目。
 耶絵が初めて見る目だった。
 その、靖子が立ち上がる。それでも耶絵の手は離さない。
「靖子?」
 耶絵のその声にも、靖子は車両の奥に目を向けるだけ。自然と耶絵と女性も視線を送っていた。
 その視線に気が付いたのか、一人の男が動き出す。黒いスーツ姿。何かが、周囲の動きとは違う。
 耶絵には、まるで空気が騒ついて見えた。
「お母さん……ここにいちゃだめ」
 靖子が耶絵に首を振る。
 その靖子の手を、耶絵は立ち上がって強く握っていた。そして体が動く。
「行って」
 立ち上がったその女性の声で、耶絵は靖子を抱え上げていた。手を引いて歩いてしまっては、最初に捕まるのは靖子になると思ったからだった。しかしその大きな動きは、周囲からの視線を集めることにも繋がり、結果的に敵から見付かりやすくしてしまったのは事実。しかしこの時の耶絵にそう考える余裕はない。
 走っていた。
 頭の中にあるのは、靖子を守って生き延びることだけ。

 ──……絶対……死なせない…………!

 その時、背後から、甲高い音が聞こえた。
 聞いたことのない音。
 何かが破裂するような音。
 続く、幾つもの悲鳴。
 そして、走ってくる、あの女性の声。
「行って! 逃げて‼︎」
 その直後、再びの甲高い破裂音。
 小さく、女性の体が浮く。
 すぐにその体は車両の床に叩きつけられた。
 その向こうに立つ男。
 その男がこっちに向けている物。実際に見たことがなくても、普通の人間でも分かる。

 ──…………拳銃……?

 しかしそのリアルな音は想像していたものとは違った。
 間違いないのは、その銃口が耶絵を向いていること。
 耶絵は反射的に膝を落としていた。
 そして次の銃声は、耶絵の隣の男性を倒れさせる。
 やがて、銃を持った男に覆い被さる人影。それが仲間なのかどうかも分からない。
 悲鳴と繰り返される銃声。
 恐怖と絶望感。
 総てが入り乱れた。
 相手がどんな組織なのかも分からないまま、リアルに接することのない拳銃の音までも聞くことになり、もはや自分達の身に起きていることが現実であるという確証が持てない。
 逃げ惑う人々の中、やはり違う動きというのは目立つ。
 一人の中年女性が、右腕を上げた。
 その手には、違う形の拳銃。しかもそれは耶絵に向けられている。
 その耶絵の体が大きく押された。隣の車両へ押し込まれるように倒れ込んだ直後、車両の間の扉が閉じられる。
 同時に聞こえた声。
「逃げろ!」
 その男性の顔が小さなガラスに押し付けられ、その目が銃声と共に歪んだ。
 しかし、その車両でも、再び敵と味方が入り乱れる。
 耶絵と靖子に向けられる銃口。
 その銃口の前に出る人物が次々と倒れる。
 しかし、それでも、もはや耶絵の思考は止まらなかった。
 靖子を窓際の椅子に座らせると、そこの窓を大きく開ける。
 強い風が吹き込んだ。
 朝の空気。
「────え?」
 驚く靖子を再び抱え上げると、その足を窓から外へ。
「え⁉︎ お母さん‼︎」
 靖子は暴れながら、振り返りながら窓の枠を掴むが、耶絵の気持ちには叶わなかった。
「…………生きて…………」
 いつしか、電車は高架線の上。
 下には大きく、深い川。
 その上に、靖子の体が、舞った。

 ──…………生きて………きっと誰かが助けてくれる……………

 耶絵が首を振ると、その視界の先、床に倒れながらも震える手で銃口を向ける男がいた。
 体のあちこちから血を流しながらも、任務を遂行しようとする男。

 ──……どうして…………そこまでして…………

 耶絵は男にゆっくりと近付いた。
 近くの女性が倒れたままで叫ぶ。
「ダメ‼︎」
 それでも耶絵は、まるで感情の無い表情で、男の拳銃を取り上げていた。
 もはや男には抵抗する気力も体力も残されていない。
 耶絵にとっては初めて触る拳銃。それがどんな拳銃なのかなど知る由もない。知っているのは、引き金を引けば弾丸が出るということだけ。
 想像していたよりも、重かった。
 ゆっくりと、銃口を男の額へ。
 もう、耶絵に、迷いはなかった。

「……あの子は…………死なせない…………」

 ただ、引き金を引いた。




         「かなざくらの古屋敷」
      〜 第二五部「黒い点」第4話へつづく 〜
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