第十四部「憎悪の饗宴」第4話
文字数 7,882文字
大学の卒業と共に、咲 は正式に神職に就いた。
学生の頃から手伝い程度はしていたが、これからは正式に母である美麗 から総てを学ぶ。
そして最初に美麗 から聞かされたのが清国会 の話だった。
女神伝説、水晶の伝承、雄滝 神社や唯独 神社との関係。
「分かりますか?雄滝 神社は我らの分社ではありません。我らこそが雄滝 神社の分社なのです」
そう言う美麗 に、咲 は素直に聞き返していた。
「でも…………どうしてですか? どうしてそんな嘘を…………」
「御世 の力から姿を眩ますためです。いずれあなたは雄滝 神社の滝川 家を助け、この日 の本 を立て直さなければなりません。この国は腐り過ぎました…………このままでは天照大神 様に顔向け出来ません。その御子孫 に当たる唯独 神社の再興を図るのが我ら清国会 の願いです。唯独 神社を守る直系の金櫻 家を持ち上げて〝大掃除〟をするのです。その為にはやがて産まれるあなたの娘が必要になるでしょう。その娘は恐ろしい力を持つことになるはず…………」
「どうしてその子が…………」
「おそらくは…………イザナミとイザナギの御子 の産まれ代わり…………あなたはその母になるのです」
母の言葉に疑問を持つことは許されなかった。
それからは修行の日々。
清国会 は長い間、唯独 神社を探していた。
唯独 神社を護 る金櫻 家を探していた。
御世 の力で隠され、ひっそりと営まれていた唯独 神社を見付けたのは二〇年以上前。見付けたのは政府内の秘密の組織────それが後に内閣府の〝総合統括事務次官〟となる。
金櫻 家との血の繋がりを作る為に送り込まれたのは美麗 の妹の依 。
しかし、その唯独 神社は土砂災害で姿を消す。
災害の救助活動では全員の遺体は見付からなかった。全員がそこで見付かれば血は絶たれる。
「一人だけ…………生き残りがいるはず…………」
そう言ったのは雄滝 神社を継いで日の浅かった滝川陽恵 。
清国会 の調査が始まる。
それからしばらくの後、咲 が正式に御陵院 神社の代表となり、その直後に父と母を亡くす。
咲 が雄滝 神社を訪れたのはその直後。
本来であれば代表となった直後に挨拶に行くべき立場。御陵院 神社は清国会 の中でも二番手。雄滝 神社としても直属に当たる。
「お前が御陵院 の新しい代表ですか…………挨拶が遅かったですね…………」
出迎えた陽恵 が、祭壇の前で背中を向けながらそう口を開いた。
その背中に深々と頭を下げながら、咲 が応える。
「大変失礼致しました…………先日まで葬儀が続きまして…………」
陽恵 は常に背中を向けたまま、祭壇に向かって正座をしたまま姿勢を崩さない。
嫌な間が開いた。
そしてゆっくりと陽恵 が返していく。
「娘に代を譲った直後に逝きましたか…………美麗 らしいですね…………」
咲 が何も返さないまま、陽恵 は小さく息を吐いて続けた。
「蛭子 様の産まれ代わりはまだですね…………お前の娘は三人…………三番目が蛭子 様…………その前に、まずは金櫻 家の再興を急ぎなさい…………唯一の天照大神 様の直系をなんとしてでも探し出すのです…………」
「かしこまりました…………」
それから数年、西沙 が産まれたのは、陽恵 の娘────恵麻 と同じ日だった。
☆
西沙 を連れてくるように、との指示が雄滝 神社から来たのは西沙 が小学校に通う直前。
すでにこの頃、西沙 の言動には不思議な言動が目立った。咲 も二人の姉との違いを感じ取ってはいたが、時として西沙 には自らの言動の記憶が無い場合もあり、咲 自身もその力の度合いを測りかねていた。
蛭子 の産まれ代わりとは言われても、何かその確証があるわけでもない。あくまで滝川 家の言うことを信じるしかない。
駐車場で車を降りると、西沙 が咲 の右手を握った。
咲 は驚いた。西沙 の手を握ったことなどほとんどない。いつもなら振り解く。西沙 もそれは分かっていたはず。しかも西沙 が自分の手を握る力が強い。そこから咲 は西沙 の恐怖心を感じていた。
──……何かを感じてる…………
咲 は駐車場から西沙 の手を引いたまま参道を歩き始めた。
確かに不思議な圧力を感じる。
季節は秋。枯れ葉が舞う気持ちのいい風が流れているはずなのに、咲 にはあまり気持ちのいいものではなかった。
そして、西沙 を守ろうと思った。
普通の母親なら当たり前の感情なのだろう。しかし西沙 に関しては違った。自分の子供でありながら自分の子供ではない。西沙 は蛭子 の産まれ代わり────そう言われてきた。それに疑問を持ったことはない。しかも自分がその母になる。
これほど名誉なことはない。
そう、思っていた。
本殿が見えた。
参道を二人で歩く。
近付く本殿の扉が開いた。
扉に見えるのは陽恵 の姿。
そして、その声が参道に響いた。
「その御子 が蛭子 様ですね。入りなさい」
二人の姉ですら雄滝 神社に呼ばれたことはない。三姉妹の中で呼ばれたのは西沙 だけ。それを伝えた時点で綾芽 と涼沙 の二人からの嫉妬としか思えないような言葉を、昨夜の内に西沙 は浴びせられていた。
自分で選んだことではない。自分で決めたことではない。西沙 にとってそれは理不尽そのものでしかなかった。
陽恵 が本殿の扉を大きく開ける。
咲が本殿への階段の前で一礼をし、片足をかけた時だった。
「……ダメです…………母上…………」
決して大きな声ではない。しかも子供の声。それでも大人かと思うような口調。
「……〝御世 〟がいます…………上げてはなりません…………」
その声は本殿奥の祭壇の横から。正座する巫女 服を着た子供────恵麻 の声。
陽恵 が返した。
「恵麻 …………今日は蛭子 様をお迎えする大事な日であるぞ……そのような名前を…………」
「なりません…………〝御世 〟がいます」
──……あれが……恵麻 様…………
咲 はそう思いながら、階段の下から声の主を伺った。
影に隠れた恵麻 の顔が辛うじて見えた。影の中でその口元に笑みが浮かぶのを見た時、咲 の背中に冷たいものが走る。
西沙 と同じ日に産まれたことは聞いていた。何か運命的なものを感じていないわけではなかったが、恵麻 と西沙 では〝位 〟が違い過ぎる。だからこそ、同じ日に産まれたことは西沙 には話していない。
その恵麻 の声が本殿を揺らした。
「こそこそと…………騙 せると思ったか」
それはもはや子供の声とは思えない響きだった。
咲 の額から頬にかけて、冷たい汗が流れる。
その時、咲 の足元から小さな西沙 の声。
「わたしに……勝てるの?」
「────西沙 ‼︎」
咲 は思わず声を上げていた。怒りの形相で西沙 を見下ろすと、そこには怯えた表情の西沙 がいるだけ。
そこに聞こえるのは恵麻 の声。
「…………滑稽 な………………去れ…………」
「咲 …………」
そう続いたのは陽恵 の声。
その陽恵 の低い声を、咲 は慌てて遮る。
「────陽恵 様! 大変な御無礼を致しました────」
西沙 の手を振り解き、砂利に膝を落として深々と頭を下げて続けた。
「我が娘には再教育を施します…………ここは…………何卒……………………」
そして陽恵 が返す。
「……咲 …………励 め………………」
陽恵 は声色を変えて続ける。
「…………本日はご苦労様でした」
☆
大きな神社だった。
全国的にも名の知れた神社だけに、その管理された印象は強い。
到着した時はすでに暗くなっていた。空を見上げると僅かに青みがかっている時間。
風は僅か。微かに周囲の林の木々が揺れる。
萌江 、咲恵 、そして杏奈 の三人の目の前には大きな鳥居。
その周囲の街灯が淡く足元を照らす。その街灯は鳥居の奥に向けて、石畳の左右にまっすぐ並んでいた。参道はそれほど長くない。その為、広い敷地と巨大な本殿が視界の先に見えていた。本殿の左右には別棟もある。
「三カ所目でいきなりデカイね」
萌江 がそう言うと、続けるのは咲恵 。
「有名なだけあるね」
そして、鳥居の横にある石の柱を見ながら続けた。
「一応この漢字で〝恵比寿 神社〟って書いてるけど、ホントは別の〝蛭子 〟のほうの漢字なんでしょ…………しかも読み方は〝ヒルコ〟か…………手の込んだ隠れ方ね」
杏奈 が挟まる。
「こんな遅い時間になっちゃいましたけど、話聞けますかね…………」
すると腰を落として石畳に左手をついた咲恵 が応えた。
「…………いるね…………話聞けるどころか…………咲 さんがいるよ」
「いきなりですか⁉︎」
そこに挟まるのは萌江 。
「いいじゃない。手っ取り早くて」
そして歩き始める。
咲恵 と杏奈 も後に着いて鳥居を潜った。
住宅地からは多少離れた山沿いとはいえ、参拝者が来るには簡単にこれるような立地。
とはいえ静かだった。
不思議と闇は神経を刺激する。
聞こえるのは微かに葉の擦れる音と三人の足音だけ。
その広い空気の中、萌江 が口を開く。
「あの人たちって結界好きだよね」
返すのは咲恵 。
「私たちが朝にコーヒー飲むようなものよ。なんとなくいつも当たり前のようにやってるでしょ。まあ……ただの気の持ち様とは言っても、目に見えない何かであることは事実よね。とは言ってもそれだけ…………何の力も無い…………」
「〝念〟みたいなものかな…………それとも超能力?」
「そこは私たちも一緒…………明確に説明出来る人なんていないよ」
「まあね…………ただ、いい加減に…………私たちに無駄なことは気が付いて欲しいね」
やがて大きく開けた敷地。
真っ直ぐな石畳とその左右を囲む砂利。
夜の神社の独特の雰囲気に包まれていた。
石畳を歩きながら口を開くのは、萌江 と咲恵 の後ろを歩く杏奈 。
「夜の神社は昼間とは違うって聞きますけど、結局それって泥棒対策でもあるんですよね」
すると、笑顔の萌江 が振り返って返す。
「杏奈 ちゃんも分かってきたねえ。正解。水の事故を減らすために水場は幽霊が集まるって言ってるのと同じレベルだよ」
そこに咲恵 が挟まる。
「昔の人って、色々考えるわよね。所詮は人の作った物でしかないのに…………」
そして本殿の前。
三人が足を止めると、すぐに本殿の扉が開く。
隙間から見える細い指がゆっくりと扉をスライドさせていくと、そこに現れたのは咲 の姿。
無表情に細めた両眼からでも、相変わらずの隙の無い鋭さ。
街灯と月明かりのせいか、巫女 服がまるで白と黒。
その咲 の声が周囲に流れる。
「お待ち致しておりました…………どうぞ、中へ」
すると咲 は中の暗闇に姿を消す。
数段の階段を登った三人は、反対側の扉も大きく開けた。
一気に本殿の中に月明かりが刺し込む。
奥の大きな祭壇の左右には燭台 の上の松明 。
暗闇に飲まれた高いはずの天井は闇そのもの。
三人は板間に足を進める。
祭壇に向かって咲 が腰を降ろすと、その隣にも巫女 姿が一人。
その女性は三人に正面を向け、俯いていた。
思わず咲恵 が呟く。
「…………美由紀 さん…………?」
すぐに返すのは背中を向けた咲 。
「いえ……彼女はすでにイザナギとイザナミの御子 …………蛭子 様の産まれ代わり…………」
そこに萌江 。
「やっぱり。だから〝ヒルコ神社〟か…………でも残念、私たちが探してるのは彼女じゃない」
咲 は少し間を開けてから返す。
「……元々は西沙 の役割でした…………美由紀 様はその依代 に過ぎません…………」
「役割?咲 さんが勝手に決めた役割でしょ? いい加減にしてよ…………西沙 はそれを望んでいたの⁉︎」
いつの間にか、萌江 は声を荒げていた。
「違うんでしょ⁉︎ だからあんなことになったんじゃない‼︎」
──……杏奈 に言わせちゃいけない…………
萌江 は叫びながらも、そう思っていた。
背後で杏奈 が体を震わせているのを感じていた。
杏奈 は動き出しそうになる気持ちを懸命に抑えていた。
──……抑えて…………抑えて…………
杏奈 はただそう思い続ける。
そして口を開くのは咲恵 。
「…………依代 …………? 彼女を巻き込むなんて…………」
咲 はすぐに応えた。
「美由紀 様の御力に御気付きにならなかったのですか? 御本人も御自覚は無かったようですが…………」
「分かってたよ…………」
そう返した萌江 が、声のトーンを落として続ける。
「初めて会った時に分かってた…………西沙 が懸命にその子を守ってたこともね…………でも、知らないほうが幸せな人だっている…………西沙 はそれを分かってた。無理に気付かせるなんて…………私は他人の人生に影響を及ぼしたいと思って生きてるわけじゃない。咲 さんとは違うよ」
「いえ萌江 様……人は誰しも他人に影響を及ぼさずに生きることなどは出来ないもの…………貴女 様自身も、我々に影響を及ぼしているではありませんか」
「勝手な人…………関わってくれなんて頼んだ覚えはない」
「貴女 様は天照大神 様の血を引く唯一の御人…………すでに世界に影響を与えておられる…………」
「いい加減に目を覚ましなさいよ‼︎ ただの神話でしょ⁉︎ どこにそんな神様なんかいるの? 顔も見せにこない神様なんか咲 さんに関係ないでしょ⁉︎」
──……分かってる…………言っても無駄…………
萌江 にも分かっていた。
信じたものに疑問を持ちたくないだけ。一度疑問を持つと、自分のそれまで寄り添ってきたものが崩壊するのを本能的な部分で知っているから。
自分を否定したくないだけ。
自分を守りたいだけ。
そうやって自分を作り上げてきた人間には、何物も否定することは出来ない。
それが〝宗教〟というものであることを萌江 は知っていた。
咲 は背中を向けたまま何も応えない。
嫌な時間だった。
ただ、何かが張り詰める。
その時、咲 の頭の中に、西沙 の顔が浮かんでいた。その西沙 の表情が松明 の灯りに揺れる。そしてなぜか気持ちは落ち着いていた。
──……あの時……私は西沙 の目を見ていない…………
咲 が、その〝何か〟に気が付いた時、静寂を破ったのは杏奈 だった。
「聞かせてください…………内閣府が絡んでるのは事実なんですか?」
「内閣府、ですか…………」
咲 はそう言うと、軽く腰を浮かせて三人に正面を向け、続けた。
「今はそのようですね…………」
自分に向けられた咲 の鋭い目に、杏奈 は怯まずに返していく。
「今は? どういうことですか⁉︎清国会 って────」
「内閣府は新しい組織です。たかだか二〇年ほど前に作られたもの…………もっと昔から我らは日 の本 の中枢に存在していました。日 の本 自ら〝大掃除〟を行おうというのです。その為には神が必要です。今の日 の本 には神がいません。萌江 様…………貴女 様が神に────」
──……ダメだ……何を言ったって…………
萌江 がそう思ったその時、咲 の隣から声が上がる。
「…………面白いお話ですね…………」
それは空気を凍らせるかのような、美由紀 の声。
美由紀 はゆっくりと顔を上げて続けた。
「……私は……何をすれば…………」
それに平然と応えるのは咲 。
「美由紀 様にも神になっていただきます。かつての日 の本 には幾人もの神がおりました…………もちろん頂点は萌江 様が天照大神 様として…………その下には美由紀 様が蛭子 様として────」
「…………お断りします」
そう言って立ち上がる美由紀 に、咲 は顔を上げて目を見開いていた。
美由紀 が続ける。
「……私には…………すでに咲 さんが求めるような力はございません」
「────何を…………」
明らかに狼狽 える咲 の口からは、それが精一杯。
続く美由紀 の声は、とてもこの場には似つかわしくなかった。
「まだ分かりませんか? もう気が付いているかと思っていました…………」
そして、美由紀 の目が変わる。
その場の誰もが気が付いた。
それは、西沙 の目────。
「……………………西沙 …………」
咲 が思わず声を漏らした直後、萌江 と咲恵 は僅かに膝を曲げて身構える。
杏奈 は動けなかった。
──…………西沙 …………さん…………?
杏奈 は自分の目に涙が浮かんでいることにも気が付かない。
そして、立ち上がった咲 が叫ぶ。
「────我 を謀 ったか西沙 ‼︎」
そして美由紀 に向けて伸ばした右手には短刀。
その剣先を顔の前に向けられても美由紀 は表情を変えない。
むしろ、僅かに微笑んでさえいる。
その目を見ながら、咲 の目に涙が浮かび、やがて零 れた。
美由紀 は右手を上げると、その掌 を剣先に当て、そのまま咲 に向けて足を進めた。
切先 が掌 に吸い込まれていく。
やがて突き抜けても、美由紀 はそのまま前へ。
そして囁 く。
「〝本気で私を殺せるの…………? 最低だね…………お母さん…………〟」
そして、その姿が消える。
全員が呆然と宙を見続けていた。
咲 が膝を落とす。
その体は僅かに震えていた。
その時、外、参道からの声。
「────私の力…………忘れちゃった?」
全員が一斉にその声に振り向いた。
その歩いてくる巫女 服は、間違いなく、西沙 の姿そのもの。
颯爽 と階段から本殿に登ってきた西沙 が再び口を開く。
「〝幻惑 〟…………お母さんまで簡単に騙されるなんてね」
その西沙 の目は鋭い。
呆然とする三人の後ろで、咲 が叫んだ。
「西沙 ‼︎」
片膝を立てて短刀を握り返した咲 に、西沙 は右の掌 を開いて向けた。
そして、小さく口を開く。
「私に、勝てるの?」
その西沙 の声が低く続く。
「例えお母さんでも許さない…………美由紀 を利用しようとした…………」
咲 の体は動かなかった。
ただ震えるだけ。
そして声を絞り出す。
「……まさか…………あの時の萌江 様と咲恵 様の幻は…………」
「私…………二人にあんな力はないよ。まあ、咲恵 の〝水の玉〟が役に立ったけどさ」
そして右手を下ろすと、咲 の短刀が床で音を立てた。
☆
ドアノブに触れてみると、冷たかった。
こんなに冷たく感じたことが今まであっただろうか。
回してみるが、もちろん鍵がかかったまま。
何度も右に左にと回すが、少しだけで何かに引っかかる。
途端に感情が溢れた。
涙が止まらない。
美由紀 はいつの間にか、ドアノブに手をかけたまま膝を落としていた。
剥き出しのコンクリートに大粒の涙が吸い込まれていった。
叫びたくなる衝動を抑え、隣の自分の部屋に駆け込む。
鍵もかけずにリビングへと飛び込んだ。
何度も、数え切れないほど、西沙 と過ごしたリビング。
小さ目の座椅子に座る西沙 の姿が目に浮かんだ。
これからどうやって生きていけばいいのか分からなかった。
この世の中で唯一自分を理解してくれた。
せめて、最後に何かを話したかった。
分かっていたなら、もっと何かを話せたはず。
押し寄せるのは後悔だけ。
──…………私はいつも…………守られてばかりだった…………
──……どうして? 私なんかを……………………
大きな窓から入る光は、いつしか夕陽から月明かりへ。
部屋が暗いままであることも、今の美由紀 にとってはどうでもいいこと。
自分の体が、まるで自分のものではないような感覚が意識を包んでいた。
──…………もっと……一緒にいたかった……………………
キッチンに歩くと、何の迷いもなく包丁を手にしていた。
何も怖くはない。
そして、美由紀 は包丁を首に押し当てた。
手前に引く。
感覚はあった。
しかし痛みはない。
少し寒くなった。
──…………また…………会えるかな……………………
少しずつ、体が楽になった。
もう、何も感じない。
体が軽くなる。
そして、やっと、西沙 の温もりを感じた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十四部「憎悪の饗宴」第5話(第十四部最終話)へつづく 〜
学生の頃から手伝い程度はしていたが、これからは正式に母である
そして最初に
女神伝説、水晶の伝承、
「分かりますか?
そう言う
「でも…………どうしてですか? どうしてそんな嘘を…………」
「
「どうしてその子が…………」
「おそらくは…………イザナミとイザナギの
母の言葉に疑問を持つことは許されなかった。
それからは修行の日々。
しかし、その
災害の救助活動では全員の遺体は見付からなかった。全員がそこで見付かれば血は絶たれる。
「一人だけ…………生き残りがいるはず…………」
そう言ったのは
それからしばらくの後、
本来であれば代表となった直後に挨拶に行くべき立場。
「お前が
出迎えた
その背中に深々と頭を下げながら、
「大変失礼致しました…………先日まで葬儀が続きまして…………」
嫌な間が開いた。
そしてゆっくりと
「娘に代を譲った直後に逝きましたか…………
「
「かしこまりました…………」
それから数年、
☆
すでにこの頃、
駐車場で車を降りると、
──……何かを感じてる…………
確かに不思議な圧力を感じる。
季節は秋。枯れ葉が舞う気持ちのいい風が流れているはずなのに、
そして、
普通の母親なら当たり前の感情なのだろう。しかし
これほど名誉なことはない。
そう、思っていた。
本殿が見えた。
参道を二人で歩く。
近付く本殿の扉が開いた。
扉に見えるのは
そして、その声が参道に響いた。
「その
二人の姉ですら
自分で選んだことではない。自分で決めたことではない。
咲が本殿への階段の前で一礼をし、片足をかけた時だった。
「……ダメです…………母上…………」
決して大きな声ではない。しかも子供の声。それでも大人かと思うような口調。
「……〝
その声は本殿奥の祭壇の横から。正座する
「
「なりません…………〝
──……あれが……
影に隠れた
その
「こそこそと…………
それはもはや子供の声とは思えない響きだった。
その時、
「わたしに……勝てるの?」
「────
そこに聞こえるのは
「…………
「
そう続いたのは
その
「────
「我が娘には再教育を施します…………ここは…………何卒……………………」
そして
「……
「…………本日はご苦労様でした」
☆
大きな神社だった。
全国的にも名の知れた神社だけに、その管理された印象は強い。
到着した時はすでに暗くなっていた。空を見上げると僅かに青みがかっている時間。
風は僅か。微かに周囲の林の木々が揺れる。
その周囲の街灯が淡く足元を照らす。その街灯は鳥居の奥に向けて、石畳の左右にまっすぐ並んでいた。参道はそれほど長くない。その為、広い敷地と巨大な本殿が視界の先に見えていた。本殿の左右には別棟もある。
「三カ所目でいきなりデカイね」
「有名なだけあるね」
そして、鳥居の横にある石の柱を見ながら続けた。
「一応この漢字で〝
「こんな遅い時間になっちゃいましたけど、話聞けますかね…………」
すると腰を落として石畳に左手をついた
「…………いるね…………話聞けるどころか…………
「いきなりですか⁉︎」
そこに挟まるのは
「いいじゃない。手っ取り早くて」
そして歩き始める。
住宅地からは多少離れた山沿いとはいえ、参拝者が来るには簡単にこれるような立地。
とはいえ静かだった。
不思議と闇は神経を刺激する。
聞こえるのは微かに葉の擦れる音と三人の足音だけ。
その広い空気の中、
「あの人たちって結界好きだよね」
返すのは
「私たちが朝にコーヒー飲むようなものよ。なんとなくいつも当たり前のようにやってるでしょ。まあ……ただの気の持ち様とは言っても、目に見えない何かであることは事実よね。とは言ってもそれだけ…………何の力も無い…………」
「〝念〟みたいなものかな…………それとも超能力?」
「そこは私たちも一緒…………明確に説明出来る人なんていないよ」
「まあね…………ただ、いい加減に…………私たちに無駄なことは気が付いて欲しいね」
やがて大きく開けた敷地。
真っ直ぐな石畳とその左右を囲む砂利。
夜の神社の独特の雰囲気に包まれていた。
石畳を歩きながら口を開くのは、
「夜の神社は昼間とは違うって聞きますけど、結局それって泥棒対策でもあるんですよね」
すると、笑顔の
「
そこに
「昔の人って、色々考えるわよね。所詮は人の作った物でしかないのに…………」
そして本殿の前。
三人が足を止めると、すぐに本殿の扉が開く。
隙間から見える細い指がゆっくりと扉をスライドさせていくと、そこに現れたのは
無表情に細めた両眼からでも、相変わらずの隙の無い鋭さ。
街灯と月明かりのせいか、
その
「お待ち致しておりました…………どうぞ、中へ」
すると
数段の階段を登った三人は、反対側の扉も大きく開けた。
一気に本殿の中に月明かりが刺し込む。
奥の大きな祭壇の左右には
暗闇に飲まれた高いはずの天井は闇そのもの。
三人は板間に足を進める。
祭壇に向かって
その女性は三人に正面を向け、俯いていた。
思わず
「…………
すぐに返すのは背中を向けた
「いえ……彼女はすでにイザナギとイザナミの
そこに
「やっぱり。だから〝ヒルコ神社〟か…………でも残念、私たちが探してるのは彼女じゃない」
「……元々は
「役割?
いつの間にか、
「違うんでしょ⁉︎ だからあんなことになったんじゃない‼︎」
──……
背後で
──……抑えて…………抑えて…………
そして口を開くのは
「…………
「
「分かってたよ…………」
そう返した
「初めて会った時に分かってた…………
「いえ
「勝手な人…………関わってくれなんて頼んだ覚えはない」
「
「いい加減に目を覚ましなさいよ‼︎ ただの神話でしょ⁉︎ どこにそんな神様なんかいるの? 顔も見せにこない神様なんか
──……分かってる…………言っても無駄…………
信じたものに疑問を持ちたくないだけ。一度疑問を持つと、自分のそれまで寄り添ってきたものが崩壊するのを本能的な部分で知っているから。
自分を否定したくないだけ。
自分を守りたいだけ。
そうやって自分を作り上げてきた人間には、何物も否定することは出来ない。
それが〝宗教〟というものであることを
嫌な時間だった。
ただ、何かが張り詰める。
その時、
──……あの時……私は
「聞かせてください…………内閣府が絡んでるのは事実なんですか?」
「内閣府、ですか…………」
「今はそのようですね…………」
自分に向けられた
「今は? どういうことですか⁉︎
「内閣府は新しい組織です。たかだか二〇年ほど前に作られたもの…………もっと昔から我らは
──……ダメだ……何を言ったって…………
「…………面白いお話ですね…………」
それは空気を凍らせるかのような、
「……私は……何をすれば…………」
それに平然と応えるのは
「
「…………お断りします」
そう言って立ち上がる
「……私には…………すでに
「────何を…………」
明らかに
続く
「まだ分かりませんか? もう気が付いているかと思っていました…………」
そして、
その場の誰もが気が付いた。
それは、
「……………………
──…………
そして、立ち上がった
「────
そして
その剣先を顔の前に向けられても
むしろ、僅かに微笑んでさえいる。
その目を見ながら、
やがて突き抜けても、
そして
「〝本気で私を殺せるの…………? 最低だね…………お母さん…………〟」
そして、その姿が消える。
全員が呆然と宙を見続けていた。
その体は僅かに震えていた。
その時、外、参道からの声。
「────私の力…………忘れちゃった?」
全員が一斉にその声に振り向いた。
その歩いてくる
「〝
その
呆然とする三人の後ろで、
「
片膝を立てて短刀を握り返した
そして、小さく口を開く。
「私に、勝てるの?」
その
「例えお母さんでも許さない…………
ただ震えるだけ。
そして声を絞り出す。
「……まさか…………あの時の
「私…………二人にあんな力はないよ。まあ、
そして右手を下ろすと、
☆
ドアノブに触れてみると、冷たかった。
こんなに冷たく感じたことが今まであっただろうか。
回してみるが、もちろん鍵がかかったまま。
何度も右に左にと回すが、少しだけで何かに引っかかる。
途端に感情が溢れた。
涙が止まらない。
剥き出しのコンクリートに大粒の涙が吸い込まれていった。
叫びたくなる衝動を抑え、隣の自分の部屋に駆け込む。
鍵もかけずにリビングへと飛び込んだ。
何度も、数え切れないほど、
小さ目の座椅子に座る
これからどうやって生きていけばいいのか分からなかった。
この世の中で唯一自分を理解してくれた。
せめて、最後に何かを話したかった。
分かっていたなら、もっと何かを話せたはず。
押し寄せるのは後悔だけ。
──…………私はいつも…………守られてばかりだった…………
──……どうして? 私なんかを……………………
大きな窓から入る光は、いつしか夕陽から月明かりへ。
部屋が暗いままであることも、今の
自分の体が、まるで自分のものではないような感覚が意識を包んでいた。
──…………もっと……一緒にいたかった……………………
キッチンに歩くと、何の迷いもなく包丁を手にしていた。
何も怖くはない。
そして、
手前に引く。
感覚はあった。
しかし痛みはない。
少し寒くなった。
──…………また…………会えるかな……………………
少しずつ、体が楽になった。
もう、何も感じない。
体が軽くなる。
そして、やっと、
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十四部「憎悪の饗宴」第5話(第十四部最終話)へつづく 〜