第十一部「粉雪」第4話
文字数 6,167文字
その結果は染色体の異常。ダウン症の疑いが濃厚というものだった。もちろん一〇〇%というものではない。しかしその結果は、出産を諦めたとしても誰にも責められるものではない。
まだ胎児は小さい。
しかし
自分のお腹の中に、自分ではない〝命〟がいる。
そして繋がっているのは体だけではない。気持ちのどこか深いところでの繋がりを感じていた。
きっとこの子も元気に育ってくれる…………なぜかそう思えた。
しかし
お互いに、綺麗事だけで決断すべきでないことは理解していた。
そして、何が正しいのかの答えが見付からない。
診断の結果が出てからの家の中の空気は重かった。しかも暗い。考えないようになど出来るはずもないままに、意見が交わることはなかった。
しかしそれは
やがて、意見のぶつけ合いに疲れた二人が辿り着いたのは、とある神社だった。
もしかしたら、お互いにただ第三者の意見を聞きたかっただけなのかもしれない。
心底、疲弊していたのだろう。
広い参道を歩くだけで、不思議と心が安らいだ。
理由は分からない。
ただ、そこに来たことを間違ったこととは思えなかった。
お互いの感情をぶつけ合う度に離れた気持ちが、目の前の本殿が近付くのに合わせて少しだけ近付いていく。
それでも、現実の重みは変わらない。
本殿の裏に通された。裏とは言っても祭壇のある広い板間。障子を通して陽の光が室内を照らすが、まるでそれは間接照明のように並んで座る二人の影を際立たせた。二人の気落ちは厚い座布団が心細いままに繋ぐだけ。
やがて、板間から続く廊下の奥に、人影が一つ。
白と
床を
二人の前に正座する巫女のその立ち振る舞いの美しさに、
それは、まだ神社の代表になったばかりの、
そしてその
「お待たせ致しました…………当神社を任せられております…………
目の前で深々と頭を下げる
そして最初に応えたのは
「お忙しいところ……無理にお願いしまして…………」
「いえ、とんでもございません。急いだのはむしろこちらのほうです…………急を要すると判断させて頂きました」
「……そうですか…………それで、電話で話した通りなんですが…………もう、どうしたらいいのか悩んでいまして…………」
「結論から申し上げます…………」
その
それに気付いたかのように、
「……信じられるかどうかは分かりかねますが…………このままお子さんを御出産されるのは…………おやめになられたほうがよろしいかと…………」
「────そんな…………」
思わずそう声を漏らしたのは
その靖子が反射的に顔を伏せた時、咲が続ける。
「念の為…………
「どういう……ことでしょうか…………?」
その
「……お電話を頂いた時に分かりました…………因縁でしょう…………奥様のお腹の中の者と…………私は以前に会っています…………」
「仰っている意味が…………」
「無理もございません…………奥様は…………お子様を御出産されたいのですね…………」
すると、潤んだ目を上げて
「もちろんです」
震えたその声に、
「お子様は五体満足で御産まれになるでしょう」
「ホントですか⁉︎」
高い声を上げる
「さっき産まないほうがいいって────」
しかしそれを
「──お子様に産まれてほしくない〝力〟がいるのです」
「ちから…………?」
「…………私には、その〝力〟を持った者が見えません…………もう一人…………娘さんがいらっしゃるとのことでしたが…………」
「はい…………七才になります…………」
「…………そうですか……」
すると、
「何ですか⁉︎ 娘がどうしたっていうんです⁉︎」
「娘さんは…………」
小さくそう言った
「────勘の鋭いお子さんではありませんか?」
「それは…………はい…………そうですが…………」
そして
「近い内に、娘さんを連れて来て頂けないでしょうか?
「しかし…………」
「今日は奥様のお腹の中の命を守るべきです…………そのための
その蛇が目の前にいる。
──……〝あの蛇〟を、払わなければ…………
しかし、なぜ自分が関わることになるのか、それだけは分からないままだった。
☆
「…………どうするの?」
「……宗教団体ってこと…………分かってたの?」
──……よくない時の飲み方だ…………
長い付き合い。しかしもちろん
その
「…………そこまでは分からなかった…………正直、驚いたよ…………」
「ねえ……
「……ごめんね…………巻き込んじゃった…………でも、今回は私だけでやらせて」
「今回はって…………別に誰かからの依頼じゃないし、ちょっかい出してきただけのそんな子供なんか────」
その音も含めて、
「それだけじゃないことは気付いてるでしょ…………お母さんに関係のあることだから…………無視は出来ないよ…………だから、今回は私だけで────」
それを今度は
「尚のこと一人なんかダメだよ────私の中にだって…………」
言葉を詰まらせた
「…………
それを聞いた
その複雑な心情を意識してか、
「私を守りたいのは…………
そしてその目を伏せた。
自分の中に〝
その
──……私は…………誰…………?
やがて、口を開いたのは
「…………嫌だね…………こんなの……………………ごめん…………」
「……やめてよ…………」
決して響くような音ではない。
それなのに、
「…………まだ…………ボトルは……残しておいてよね…………」
その夜は、なぜかドアの鈴の音が小さい。
そして、まだ
☆
「
まだ小学生の娘に言われるがまま、どうして
しかし、気が付いた時、辺りには血が溢れていた。
目の前の光景に、
あるものは、総てから解放された安堵感。
何もかもが終わりを告げたかのようだった。
その背後から、小さく床が軋む音が聞こえる。
そこにいるのは無表情なままの
家に帰ってきて、
ただ、それだけ。
そうしなければいけないと、そう思った。
そして、何も後悔はしていない。
解放感だけが残っていた。
やがて、
口角が上がった。
「よくやった…………お前は〝私のために
──…………
もちろん
さらに
「警察には自分で電話をしろ────お前はもう〝用済み〟だ」
その時、一瞬だけ、
しかし、
やがてやってきた警察に、
時が過ぎ、留置場の中で少しずつ
しかし、毎晩夢の中に現れる
親族の誰も面会に来ることはなかった。事件の直後に
会話を許されない刑務所の中で、恐怖に震えながら時間だけが過ぎていく。
夜が怖い。
眠りにつくのが怖かった。
しだいに睡眠時間も減っていく。
日々痩せ細っていく姿に刑務官が不信感を抱き、医者の診察を受けたことで、処方された睡眠薬を就寝前に飲まされるようになると、結果として精神的に追い詰められていく。
あの〝目〟を見るのが怖かった。
あの時の解放感が、懐かしくさえ感じる。
終わらせたかった。
〝解放〟されたかった。
就寝時間前。
いつものように刑務官に睡眠薬を飲まされた
何の迷いもなかった。
ただ、自分の総ての力を使って、目の前の壁に額を打ちつける。
迷いの無くなった人間の力は強い。
まるでそれは、
☆
教会の場所は資料の住所で分かった。
それでも初めての地。
公安の目があるとすれば、下手に駅からタクシーを使うことも出来ない。
街中を抜け、しだいに周囲の建物が少なくなっていく。
最後だろうと思われたコンビニで飲み物を買って、それからは先を急いだ。
辿り着いた先で何が起こるかなど分からない。しかし、
誰かに邪魔をされているのか、
それでも私的な問題だ。
宗教団体だからということもあったが、今回はやはり
しかも、何より怖いのは未来が見えないことだ。
やはり、普通ではない。
そして資料を見る限り、どう考えても
──……直接、聞くしかないね…………
その気持ちだけが、
持ち物は財布とスマートフォンだけ。
やがて片手に持ったペットボトルですら重く感じられた時、その教会は目の前に姿を表した。
手入れのされた印象ではなかった。もしかしたらかつては美しい印象を与えていたのかもしれない。しかし今は周囲の雑草さえそのまま。周りの空間から教会の建物を覆い隠すような林の木々も背が高い。
まるでそれまでの道のりとは別世界のようなその雰囲気に、
「……どうやら…………向こうも、もう気が付いてるみたいだね…………」
そして道路に面した門に手をかけた。
錆びついた甲高い音が、周囲に木霊する。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十一部「粉雪」第5話(第十一部最終話)へつづく 〜