第十三部「水の中の女神」第2話

文字数 9,304文字

 真っ直ぐな石畳。
 その目の前の本殿。
 そこに立つ巫女(みこ)は僅かに俯いたまま。
 それでもその表情からは強い目が垣間見え、口角が少しだけ上がり、微笑んでいるようにさえ見えた。
 身長は決して高くないが、身じろぎすらしない隙の無さ。
 その醸し出すような緊張感が、萌江(もえ)咲恵(さきえ)の足を止めさせる。
 重い空気が、意味も分からないままに張り詰めていた。
 そこに挟まる杏奈(あんな)の声。
「お久しぶりです。すいません、またお願いしちゃって」
 すると、それに応える巫女(みこ)の声に萌江(もえ)咲恵(さきえ)は身を硬くする。
「……構いませんよ…………ずっと……お待ちしておりました…………」
 理由の分からない違和感。
 その声は、まだだいぶ若い。それでも妖艶(ようえん)な響きを伴っている。
 そして、咲恵(さきえ)は感じていた。

 ──……理由の意味は…………ここだ…………

 本殿奥の祭壇の前に案内された三人の前には、先ほどの若い巫女(みこ)。相変わらず視線は少し下げたまま、決して三人と目を合わせようとはしない。それでもさすがに立ち振る舞いは見事だ。所作(しょさ)に無駄はない。そこから〝美しさ〟を感じるか〝畏敬(いけい)〟を感じるかは人それぞれだろう。少なくとも萌江(もえ)咲恵(さきえ)にとっては後者だった。
「代々この雄滝(おだき)神社を守って参りました滝川(たきがわ)家の宮司、滝川麻人(たきがわまひと)の長女……恵麻(えま)と申します」
 その恵麻(えま)が深々と頭を下げる。
 歳の頃は二〇代半ばといった雰囲気だが、その割には大人っぽい。杏奈(あんな)の話では、取材の対応をしてしてくれた窓口のような人だったのだという。
 代表である宮司の麻人(まひと)と、その妻の陽恵(ひえ)恵麻(えま)の妹の陽麻(ひま)。現在はその四人で神社を運営していた。とは言っても御陵院(ごりょういん)神社と同じく〝()(もの)専門〟の神社。一般的な神社の運営とは大きく異なる。
 最初に言葉を返したのは杏奈(あんな)だった。
「二人は私の知り合いなんですが……女神(めがみ)伝説に興味があるみたいで…………」
 続くのは咲恵(さきえ)
「突然すいません…………お時間をいただきまして…………」
 すると、恵麻(えま)はすぐに返した。
「とんでもございません……お二人にお越し頂きましたことは喜ばしきこと……こちらはお待ちしておりました身…………なんなりとお聞きください…………」

 ──……随分と大袈裟な…………

 萌江(もえ)はそう違和感を感じていたが、咲恵(さきえ)はそれよりも何か別の緊張感を感じているようにも見えた。
 その咲恵(さきえ)恵麻(えま)の声に身を硬くすると、大きく唾を飲み込んでから返した。
「ありがとうございます……早速なんですが、文献等は残っていないと聞きました…………伝聞だけと言うことは……こちらの神社で代々伝わっていたものなんですか?」
「……はい…………何か形のある物で残っていれば良かったのですが、あるのは湖のみでございます。まあ、私共も特別広めようとしてきたわけではございませんが、興味を持っていただけるのはありがたきことと…………水月(みづき)様からのご依頼を受けさせていただいた次第です」
「そうでしたか…………」
「元々は女神(めがみ)伝説も、戦前までは観光の目玉のようなものだったと伺っております。湖にもそれなりに観光客もいらしていたそうですが…………今はあの有様です。当神社どころか湖も知る者のほうが少ないでしょう」
「でも、こちらはお(はら)い専門と伺いましたが────」
「いかにも……私共はその()(もの)を相手に神社を守ってまいりました。観光地である頃には参拝に訪れる方もそれなりにはいらっしゃったようですが、現在はどなたも近付かれません…………それでも我々は伝説の中の御鈴(おれい)の怨念を抑え続けて参りました」
「そのための(ほこら)ですか?」
「左様です」
「しかし…………」
「…………何も…………感じませんか?」
 恵麻(えま)の突然のその問いに、咲恵(さきえ)は一瞬戸惑った。

 ──…………気付いてる…………?

 恵麻(えま)が続ける。
「あなた様が普通の方と違うことは気付いておりましたよ…………お隣のお方も…………」
 その恵麻(えま)の言葉に、萌江(もえ)が僅かに口元を浮かせる。
 そして口を開いた。
「…………別に大したものじゃないよ。ちょっと人より〝見える〟だけ…………色んなものが…………」
「…………そうですか…………」
 静かなその恵麻(えま)の返しに、やりとりを黙って聞いていた杏奈(あんな)も背筋に嫌なものを感じていた。以前の恵麻(えま)への取材でも確かに独特の雰囲気は見ていた。しかし今の恵麻(えま)から醸し出されるものはそれだけではない。まるで萌江(もえ)咲恵(さきえ)に影響されているかのようにさえ見える。さすがにオカルトライターの杏奈(あんな)でも、どういうことなのか分からないままに戸惑っていた。

 ──……なんだろう…………胸騒ぎがする…………

 そして続く恵麻(えま)の声。
「先ほどお話に出た(ほこら)はもうご覧になりましたか? 元々、伝説の〝御鈴(おれい)の怨念〟を鎮める為に作られたものです。あそこならもしかしたら…………何か感ずるものがあるやもしれません……御案内いたしましょう」
 そして立ち上がった恵麻(えま)に続くように、全員が参道へと降りた。
 恵麻(えま)は先頭に立って歩きながら、説明を続ける。
「元々姫神(ひめかみ)湖は火山の噴火の影響で出来た湖と伝え聞いております。不思議なものでして…………この国で大きな地震のある時には決まって湖の温度が上がります…………もっとも数日前のこともあれば数週間前のこともありまして…………地震がいつ起こるかが分かるわけではありませんが…………」
 それは杏奈(あんな)の記事にも書かれていることだった。
 姫神(ひめかみ)湖の女神(めがみ)伝説の謎の一つ。壮絶で恐ろしい伝説の内容だけでなく、御鈴(おれい)の呪いが今でも続き、現実とリンクしているミステリーの一端。
「僅かながらでも未来を告げてくれるありがたい存在ではありますが…………同時に怒らせてはならない存在でもあると考えております…………その為の(ほこら)でもあるのですよ…………」
 湖に流れ込む川の河口から少しだけ上流に、雑草を刈り取られた開けた場所。そこにその(ほこら)はあった。
 しかしその(ほこら)が視界に見えた時、そこに人影があることに萌江(もえ)咲恵(さきえ)杏奈(あんな)は驚いた。

 巫女(みこ)服の後ろ姿。
 高い身長に、一箇所だけ軽くまとめた長い黒髪。
 見間違えるはずがない。
 全員が確信していた。
 巫女(みこ)姿の────(さき)の背中。

 杏奈(あんな)に伝説の話を持ち込んだことは聞いていたが、まさか(さき)がそこにいるとは誰も予想していない。しかも風光会(ふうこうかい)の一件以来。
 その(さき)に最初に声をかけたのは恵麻(えま)
「これはこれは(さき)様…………ご苦労様でございます…………」
 そして恵麻(えま)は三人に振り返ると、続ける。
「我々雄滝(おだき)神社は、元々御陵院(ごりょういん)神社から分社した所なのです…………(さき)様にはいつもお世話になっておりますよ」

 ──……どうしてこのタイミングで…………

 萌江がそう思った直後、咲は全員に背中を向けたまま口を開いた。
「……やっとここまで辿り着きましたね…………お待ちしておりました…………」

 ──…………やっと……?

 すると恵麻(えま)(さき)の隣で軽く腰を曲げ、小さく何かの言葉を投げている。
 (さき)とは違うが、独特な威圧感がある。
 一般的な神社とは違い、まるで人々の目から隠れるように湖と伝承を守ってきた神社。そこで女神(めがみ)伝説と生き続けてきた。
 恵麻(えま)自身、巫女(みこ)として神社に仕える中でその伝説に対して疑問を持ったことはない。
 確かに文献は残されていない。それに対しては疑念があった。しかもその理由は代々不明のまま。
 そして(さき)が言葉を続ける。
「……お二人がお知りになりたいのは、女神(めがみ)伝説ですか? 確かに文献も残されてはいませんからね。我々としても伝聞以上のことは分からないのです…………」
 それを恵麻(えま)(すく)い上げた。
「改めて水月(みづき)様からのご依頼もあって、私共も探してはみたのですが…………」
 (ほこら)の前に出た恵麻(えま)のその言葉に、返したのは萌江(もえ)だった。
「その伝説のお姫様ってさ…………そもそもホントにここで死んだのかな…………咲恵(さきえ)がその〝過去を見れない〟のが気になるんだよね…………夢では見てるのに…………何か変な気がする…………」
 そして咲恵(さきえ)は何も言わずに、黙って恵麻(えま)の出方を待った。
 しかし、そこに応えるのは(さき)
 その(さき)は背中を向けたまま。
「……夢…………ですか…………黒井(くろい)さんなら……何か分かるかと思ったんですけどね…………」
 すると、萌江(もえ)がその言葉に目付きを変えて口を開いた。
「やっぱり何か気になるなあ」
 萌江(もえ)風光会(ふうこうかい)の一件以来、(さき)に対しての疑念を払拭出来ずにいた。何か違和感を抱えたまま、どうして(さき)があれほどまでに関わったのかも分からない。ただ単に萌江(もえ)咲恵(さきえ)を守ろうとしたのか、それとも咲恵(さきえ)に用があったのか。咲恵(さきえ)の持つ〝水の玉〟に用があったのか。
 そして、その疑念は直接聞くしかないが、同時に話してくれないだろうとも思っていた。
 それでも萌江(もえ)が続ける。
(さき)さん…………何か私たちに話があって来たんじゃないの? 私たちほどじゃないけど、ここは(さき)さんの所からも近くはないよ」
 そして、やっと(さき)が振り返る。
 その瞳はそれまでの(さき)のものではなかった。
 いつもの涼しげなものでもなく、時折見せる妖艶(ようえん)なものでもない。
 何か、僅かに怯えて見えた。
 その(さき)が口を開く。
「…………私の知っている…………昔話をしましょう…………」





 それは(さき)がまだ高校生の頃。
 とは言っても卒業間近。神事の手伝いが毎日の日課になっていた。すでに大学への進学を決めてはいたが、大学卒業後には神社を継ぐ決心まで固めていた(さき)にとっては、修行に専念出来る今の時間は貴重だ。
 (さき)は三人姉妹の三女。すでに歳の離れた姉二人は他の神社へ嫁に嫁いでいた。どちらかが神社を継ぐ話ももちろん出たが、それを選択しなかった理由は、(さき)の力の強さ。明らかな才能の強さは姉二人を諦めさせるのには充分だった。
 そして(さき)には、一時的とはいえ家を出る前に確かめたいことがあった。
 それは書庫で見つけた文献の一つ。かなり古い物だ。正直神社の修行を続けてきた(さき)でも読み解くのは難しかった。すでに判別の難しくなっている文字も多い。
 もちろん神社に保管されている文献は一つや二つではない。それは神社の長い歴史を感じられるものだ。勉強の傍ら多くの文献に目を通してきた。歴代の先祖たちもそうやって修行を繰り返してきた歴史がある。
 しかし(さき)は、なぜか一つの文献に固執した。
 惹かれていたと言ってもいい。

 ──……何か、理由があるはず…………

 それだけを信じて(さき)は文字を読み解き続けた。
 大学に入るまでに、母にその文献の意味を問いて見たかった。
「……母上…………この文献のことなんですが…………」
 ある夜、そう言って(さき)は切り出した。
 祭壇に母の美麗(みれい)を呼び出し、その目の前に文献を出して続ける。
「〝水晶〟のことが書かれていました…………」
「古い文献ですが…………よく見付けましたね…………」
 美麗(みれい)は五〇を超え、その力は他の神社からも一目置かれる存在だった。歴代の御陵院(ごりょういん)神社の中でも群を抜く能力者と言われていたが、その美麗(みれい)からしても(さき)は逸材と言っても差し支えない。それだけに、(さき)は二人の姉より大事にされてきた。
 大学に行きたいという(さき)を最初は引き留めた過去もある。元々は高校にも行かせずに修行を本格的に始めたい意向もあった。しかし同時に、美麗(みれい)はそこに〝意味〟を見出そうともしていた。
 (さき)が求めることにも〝理由〟があると考えた。
 その美麗(みれい)が続ける。
「あなたがこれを見付けたということは……何か意味があるのでしょう。水晶の文献ということは…………この神社に伝わる話は〝火の玉と水の玉〟のみ…………」
「……はい…………その水晶です…………母上も知っているのですね…………」
 夜に大きな祈祷(きとう)を終えたばかり。
 二人の横の祭壇からはまだ松明(たいまつ)の燃えていた匂いが漂っていた。微かな煙がどこからかの風に流され、高く(すす)に染まった天井へと流れていく。
 障子を抜けた月明かりが部屋の中を柔く照らし、二人の顔に影を作り出していた。
 そんな中、やがて、ゆっくりと美麗(みれい)が応えていく。
「〝雄滝(おだき)湖〟ですね…………神の啓示があったことで、御陵院(ごりょういん)家の御先祖が雄滝(おだき)湖から引き上げたようです。しかも〝唯独(ただひと)神社〟の〝金櫻(かなざくら)家〟に奉納する為…………しかしその石には強力な力が込められていたといいます…………その力を一度はこの神社で(はら)おうとしたようですが……(はら)いきれなかったのでしょう…………恐ろしい力だったと聞いております。それでも遷納(せんのう)されました。この話は代々語り継がれているのですよ…………いずれはあなたにも伝える話でしたが…………」
「…………唯独(ただひと)神社…………」
「……私の…………〝妹の(より)〟が……嫁いだ神社ですよ…………まだそこにはあるはず…………」
「その水晶とは……どういうものだったのですか?」
「……さあ…………残念ながら私にも分かりません…………そもそも伝承とは言っても、どこまでが真実に沿った伝承なのかも不明なもの…………雄滝(おだき)湖が本当に実在する湖なのかも分かりません。一つだけ言えるのは、確かに唯独(ただひと)神社には二つの水晶が存在するという事実だけです。(より)からも話を聞きましたから間違いはありません」
 結局、美麗(みれい)も昔話を語り継いでいるだけ。
 過去の理由は分からない。
 あくまで伝承として、それからは(さき)も深くは考えないまま、数年後、大学の卒業と共に神社に戻った。
 (さき)京子(きょうこ)の自決現場に居合わせたのは在学中のことだ。
 いつの間にか、あれほど取り憑かれたように調べた文献のこともすでに過去。
 しかしそれから一〇年以上が経った頃、意外な形でそれは再燃する。
 しかもそのきっかけは、まだ四歳の西沙(せいさ)
「どうして?」
 その純粋な目から向けられた質問の意味を、(さき)はすぐには理解出来なかった。
 更に西沙(せいさ)の質問が続く。
「……どうして? どうして水晶をカナザクラにわたしたの?」
西沙(せいさ)…………水晶とは────」
 そして頭に浮かぶ文献の文字。
 (さき)はあくまで優しく続けた。
「……誰かに……その話を聞いたのですか?」
「ちがうよ…………知ってるの」
 それから何度か、(さき)西沙(せいさ)から同じ質問をされるたびに返答に迷った。
 どうしてまだ幼い西沙(せいさ)が水晶の話を知っているのか。水晶の伝承の話を受け継いでいるのは、現在は(さき)だけ。母の美麗(みれい)西沙(せいさ)が産まれる前にすでに亡くなっている。
 知っているはずがない。
 三姉妹の中で西沙(せいさ)が一番勘が鋭いことには気が付いていた。
 それでもどうして水晶の話を切り出すのかは謎のまま。元々はただの古い伝承に過ぎない。例えその水晶が実在するとしても、もはや御陵院(ごりょういん)家とは関わりは無いはず。

 ──……〝未来に産まれし金櫻(かなざくら)の幼な子に〟…………

 (さき)の頭の中に、文献の文字が浮かんだ。

 ──……金櫻(かなざくら)家とは……なんだ…………

 そして、大人になってからの西沙(せいさ)に、この記憶はなかった。
 何者かに言わされたとでもいうのか、その謎は(さき)の中で解決することはなかった。





「……何よ…………それ……」
 萌江(もえ)は思わず呟く。
 それに対し、(さき)はあくまで柔らかく応えた。
唯独(ただひと)神社の金櫻(かなざくら)家とは……恵元(えもと)さんの御実家に相違ありません…………そこに水晶を遷納(せんのう)したのは我がご先祖……これは事実です…………」
「じゃあ……(さき)さんは水晶のことを知ってたの⁉︎」
 反射的に声を荒げる萌江(もえ)
 ほぼ同時に、その手を隣の咲恵(さきえ)が握っていた。
 そして(さき)が応える。
「私が知っているのは出所(でどころ)まで…………あの時、京子(きょうこ)さんが持っていたことにも気が付かず…………どうして恵元(えもと)さんが持っているのかも最初は分かりませんでした」
「知らないって言ったのに…………ホントは火の玉の存在を知ってた…………まさか(さき)さんほどの人が間違うわけがない…………その文献の水晶だって知ってたんでしょ⁉︎」
 声を荒げる萌江(もえ)に、(さき)は顔を伏せて返した。
「…………いかにも……」
「まだ何か隠してるんじゃないの⁉︎ 私は(さき)さんを信用できない!」
 思わず叫んでいた萌江(もえ)に、(さき)も僅かに声を高く応える。
「────私にも分からないことはあります────だからこうして…………」

 ──…………だから……?

 言葉を濁した(さき)は、まるで何かを誤魔化すように話し続けた。
「そもそも〝雄滝(おだき)湖〟という名前の湖は現存しません…………もしかしたらこの近くにあったものかとも思います。雄滝(おだき)と同じ水源だった湖が過去にあり、遥か昔に枯れてしまったのでしょう。私はその真実が知りたいだけなのです…………」
 その時、萌江(もえ)の横から声がした。
 囁くようにか細い、それは咲恵(さきえ)の声。

「…………雄滝(おだき)湖って……………………ここ…………」

 一瞬、萌江(もえ)はその言葉の意味が理解出来なかった。
 咲恵(さきえ)は呆然とした表情のまま。
 そしてその咲恵(さきえ)に、(さき)恵麻(えま)が目を向ける。
 その恵麻(えま)の口元が僅かに笑みを伴うと、咲恵(さきえ)の両目が見開かれた。
 その咲恵(さきえ)の〝見えている光景〟が、手を繋いだ萌江(もえ)に流れ込む。

 ──…………これ…………なに…………?

 萌江(もえ)がそう思った時、続いたのは咲恵(さきえ)の声。
「────お二人は……どこまで知っていました…………?」
 しかしその咲恵(さきえ)の言葉には、(さき)恵麻(えま)も応えない。
 構わずに咲恵(さきえ)
「伝説など…………所詮は人が作るもの…………」





 慶応四年。
 後に幕末と呼ばれる時代。
 その最後の年。
 その年に雄滝(おだき)神社を継いだのは、まだ若い娘の御世(みよ)
 一九才だった。
 突然に宮司であった父を失い、御世(みよ)雄滝(おだき)神社の総てを担う。一つ歳下の妹がいたが、まだ修行の途中。御世(みよ)も修行を終えて日が浅かったとはいえ、他に神社を継げる者はいない。
 その年の九月、時は明治へと変わる。

 やがて時が流れ、明治四年七月。
 行政改革の一環として藩から県へ。大きく世の中が動いていた。
 時はまだ血生臭い話が聞こえる頃。同時に先の見えない世の中への不安が蔓延していた頃。
 新しく作られた〝県〟から行政の使いがやってきた時、季節は秋。
 これからどんな世の中がやってくるのかは、誰にも分からない頃でもあり、それは行政の人間たちにとっても同じだった。
 渡された名刺を見ても見慣れない肩書き。多くのことに違和感を感じるのは御世(みよ)だけではなかっただろう。
 使いの男は額の汗を手拭いで拭きながら背中を丸めていた。
「今年はまだ暑いですな」
 歳の頃は五〇くらいだろうか。あまりスーツを着なれているようには見えない。曲がったネクタイは違和感でしかなかった。

 ──新しい異国の服は新しい文化そのものですね

 そんなことを思いながら、御世(みよ)は男の向かいで涼しい表情を浮かべながら言葉を返す。
「〝御国(おくに)〟の方が…………本日はどのような御用向きで……」
「いえいえ私はただの県の観光課でして…………」
「カンコウ、とは────?」
「えーっと、まあ、旅ですね」
「旅? なるほど……旅には城主の許可が必要なもの…………そのお方が何用でしょうか?」
「いや……これからは許可は必要ありません。ですので、遠くからも旅の人たちが増えると思われます」
「そうですか…………よくは分かりませんが…………まだまだ都のほうでは嫌な話もあるようですし……大事に至らなければ良いのですが…………」
「──それでですね…………」
 男は困った表情を浮かべながらも、真新しい皮の鞄から数枚の書類の束を取り出して御世(みよ)の前に出して続ける。
「我が県でも何か観光の目玉になるものが欲しくてですね…………つまり…………遠くからでも来たくなるような…………そんな話題になるものがですね…………えーっと……」
 御世(みよ)は不思議そうに書類を手に取った。
 男が続ける。
「こちらには雄滝(おだき)湖もありますし、その景色は全国的にも決して恥ずかしくはないものです。それで、雄滝(おだき)湖を守るこちらにご相談がございまして…………」
 とどのつまり県としては雄滝(おだき)湖を観光名所にしたいということだった。それによって来年度の春からどのくらい経済が動くかまで資料にはまとめられていたが、もちろん御世(みよ)には理解が難しい。ただ〝景色〟だけでは難しいであろうことが記されていることは御世(みよ)にも分かった。
 さらに男が続ける。
「それでなんですが、何か雄滝(おだき)湖に…………伝説とかがあると嬉しいのですが……それが話題になってくれればですね……こちらでしたら何かご存知かと…………」
「……伝説……ですか」
 応えながら、御世(みよ)の頭には〝水晶の伝承〟が浮かんでいた。
 しかし、それは世に出せるものではない。
 決して出してはならない。
 しかし、御世(みよ)は思っていた。

 ──…………これは…………利用出来るかもしれない……………………

「一応……お聞きしたいのですが…………」
 そう言った御世(みよ)が続ける。
「……まだ分かりませんが…………湖の名前は、変えてもよろしいですか?」
「名前、ですか?」
「幸い、雄滝(おだき)湖はそれほど有名でもございませんし…………」
「えーっと……まあ、そうですが…………名前くらいならなんとか…………」
「……分かりました…………少々、お時間を頂くことになりますが…………お引き受け致します…………」
 いつの間にか、御世(みよ)の表情が変わっていた。
 男は、その表情に恐怖を覚え、早々に立ち去る。
 一週間後、御世(みよ)は〝女神(めがみ)伝説〟を作り上げる。
 そして湖の名前は〝雄滝(おだき)湖〟から〝姫神(ひめかみ)湖〟へ。
 その作り話のために、雄滝(おだき)神社では祈祷(きとう)が行われた。
 県に御世(みよ)の案が引き渡されてからの三日間、御世(みよ)は寝ずに祈祷(きとう)を続けた。食事も取らずに祈り続けた。

 ──……これで…………〝あの人たちの思想〟を書き換えられる…………

 御世(みよ)には、その〝理由〟が必要だった。





 咲恵(さきえ)の話が終り、先に口を開いたのは恵麻(えま)だった。
「……つまり…………伝承は……作られたものだったと…………」
 そこに萌江(もえ)が呟く。
「だから見えなかったんだ…………」
 咲恵(さきえ)が言葉を繋げた。
「伝説を作り上げる〝理由〟が欲しかっただけ…………そして御世(みよ)はそれを〝依代(よりしろ)〟にして、みんなの意識を祈祷(きとう)で書き換えた…………〝水晶の出所(でどころ)〟を隠すため…………自分の希望だけでは書き換えられなかった…………理由も無しに祈っても土台が不安定なだけ…………すぐに崩れる可能性が高い…………」
 すると恵麻(えま)がさらに食い下がる。
「……分かりません…………そこまでのことをする〝理由〟とはなんですか⁉︎」
「それは私にもまだ見えない…………本当に恵麻(えま)さんは知らないのですか?」
 その咲恵(さきえ)の言葉に、恵麻(えま)は顔を伏せた。
 そこに挟まるのは(さき)
「しかし黒井(くろい)さん…………あなたがその真実に辿り着いた〝理由〟は……お気付きですか? あなたに夢で嘘の伝説まで見せた理由…………」
「…………ええ……分かりました……御世(みよ)は私に気付いて欲しかったはず…………だから私に〝水の玉〟を授けた…………」
 そう応える咲恵(さきえ)の横顔に、萌江(もえ)が顔を向けた。
 その表情は、怯えていた。
 認めたくない現実。
 知りたくなかった現実。
 しかし、咲恵(さきえ)の能力は知っている。
 間違いなく、それは現実。
 その咲恵(さきえ)が、ゆっくりと続けた。
「……私は…………御世(みよ)の血を受け継いでいます…………」




          「かなざくらの古屋敷」
      〜 第十三部「水の中の女神」第3話へつづく 〜
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