エピローグ

文字数 28,129文字

   心がどこにあるのか、誰も、いつも、見えなかった
   気持ちの行く場所も分からない
   目の前にあるものは静寂だけ
   それだけで良かった


      ☆


 浪岡哲治(なみおかてつじ)がそのアパートに到着したのは、連絡をもらってから半日程が経過した頃。
 すでに時間は夜。
 電話をもらったのは早朝だった。
 東京からは時間の掛かる場所。しかも浪岡としても直接来るのは初めての場所だった。知っていたのは住所と周辺の環境だけ。それでもその場所に家族を引っ越させたのは浪岡自身。当然その日が引っ越し翌々日であることも分かってはいた。
 しかし浪岡としては少し落ち着いてから連絡を取ろうと思っていただけに、明らかに冷静を欠いた電話をもらい、浪岡自身も慌てて駆けつけた。
 まだ新しい戸籍謄本も健康保険証も完成していない。
 国の中枢に入り込んでいた清国会の力を利用すれば、そういったものの偽造は難しくない。現在五〇を過ぎた浪岡も二〇代で財務省に入った時から密かに清国会にも入り込んでいたから出来たことでもある。
 それでも一般的には、夜逃げという扱いになるのだろう。
 それを浪岡が後押しした。
 緊急だったため、とりあえずは古いアパートしか見付からなかったが、出来るだけ早くに別の住まいを用意しようと考えていた。
 しかし、これからの家族の身の振り方まではまだ確定していないまま。
「先生!」
 アパートの薄い玄関ドアが開いた途端に、家族の妻、理恵(りえ)が浪岡の足に縋り付き、崩れた。
「……お願いします先生…………娘を…………娘を探してください…………」
 涙を止めることの出来ない声。
 浪岡もまだ冷静でいる自信がないまま、どう声をかけていいか迷った。
 夫婦は浪岡を〝先生〟と呼ぶ。これは浪岡自身が身分を偽っていたからに他ならない。清国会の人間として財務省に勤めながら、夫婦の元々の地元の資産家、という嘘の仮面を持っていた。
 その方が良かった。行政的にではなく、地元の有志からのバックアップというほうが周囲から怪しまれることも少ない。どうして浪岡が家族をバックアップするのか、それを説明することが出来ないからでもあったが、浪岡も自分の正体を知られるわけにはいかなかった。
 部屋の奥から理恵の夫、俊一(しゅんいち)の低い声が聞こえる。
「……先生…………娘は…………娘はどうして…………」
 そしてその姿がゆっくりと浪岡の視界に入り込む。
 今にも倒れそうなほどに、足取りがおぼついていない。
 朝に目覚めると、一人娘がキャリーバッグと共に姿を消していたという。
 娘はまだ一七歳。高校には通っていなかった。
 幼少期から他人の心の中を見透かし、未来や過去を見れる能力を持ち、その力を父親の俊一と母親の理恵は伸ばそうと考えた。そして、その可能性に乗った。
 二人が新興宗教の立ち上げを考えるまではそれほどの時間は掛からなかった。しかし夫婦共に地元の村役場勤務。決して世間を知っているほうではない。それを地元の資産家を装った浪岡がバックアップしてきた。宗教の立ち上げがなくても元々接触する予定だったという部分も大きい。
 最初話を聞いた時点では小さな〝宗教の勉強団体〟的な側面を持つ組織だと思っていた。少なくとも浪岡はそう感じたし、実際に最初はそうだったのかも知れない。
 しかしやがて、強すぎる娘の能力が話題となり、そこに幼い〝教祖〟が生まれる。
 しかも、俊一と理恵が考える以上に娘は神格化されていった。
 集まる人の数が増え、集まるお金も増えていく。
 田舎の小さな村に湧き起こった宗教団体の波。常に話題の中心となり、夫婦は浮き足立ち、娘が学校に行きたがらなくなったことを咎めようともしない。娘が学校で虐めにあっていたにも関わらず、その理由にも興味を示さないまま、そのほうがお金になるとしか考えない。
 そのまま組織が大きくなり、娘が中学を卒業。高校には進学しないまま、教祖として生きることを決める。まだ幼い娘にとって世界はあまりにも狭く、広い世界の存在に背を向けたまま。
 しかし大きくなり過ぎた組織に、綻びが見え始めたのもその頃。
 いつの間にか増えていった御布施に、内外から不満が溢れ出す。
 やがて事実か否か、悪い噂が広がっていく。
 田舎の小さな村。
 税務署の査察が入り、地元暴力団の話が聞こえ始めた時、浪岡は決断せざるを得なかった。
 絶対に、家族を傷付けるわけにはいかない。
 しかしその結果としての〝夜逃げ〟という判断は、自分の人生に何の疑問も持っていなかった娘に不信感を抱かせたのだろう。
 そして引っ越しから二日目の朝、娘は失踪する。自分の荷物の入ったキャリーケースと財布。しかも両親の財布からも僅かにお金を盗んでいたらしい。状況を考えれば自分の判断での行動と考えざるを得ない。
 まだ身分証明書が出来ていない状況で、警察への捜索願いをどうすればいいのかも分からないまま、夫婦は浪岡を頼るしかなかった。
 そして古いアパートの玄関先。
 浪岡の黒いスーツに爪を立てて皺を付けながら、理恵が泣き疲れ、腫れた瞼を上げた。

「……娘を…………咲恵(さきえ)をさがしてください!」

 正式に捜索願いが出されたのは二週間後。
 しかし、黒井咲恵が見付かることは、なぜかなかった。


      ☆


「……萌江(もえ)様は、大丈夫なのですか?」
 いつもの広い本殿の祭壇の前。
 そこで西沙(せいさ)に向けて不安気な言葉を向けたのは(さき)だった。
 それは西沙も感じていたこと。そして現在の一番の懸念材料であることは間違いない。更には、萌江自身がそれを意識していないことが問題の中心でもある。
 西沙は小さく息を吐いて応えるだけ。
「お母さんに適当な返答は無意味か…………」
 傾き始めた陽の光。
 それが本殿に差し込み始めていた。
 冬の終りに大掃除をしたばかりの祭壇が、その淡い光を反射する。そのタイミングでの掃除は珍しかったが、西沙からの報告を待っていたからでもあった。〝カバネの社〟の一件が収束して新たな展開を迎えたが、しかしそれは今すぐに解決出来るものではない。
 誰にも想定外で、誰もが手に余す存在。
 新たな〝命〟。
 それを素直に受け入れられる人間はいないだろう。
 おそらく受け入れているのは萌江だけ。
 しかし最初は咲が〝見定める〟ことになった。それは現場で赤ん坊を抱きしめた萌江の姿を見た西沙が決めたこと。恵麻も反対はしなかった。
 もちろんあの場に子供を育てたことのある経験者がいなかったことも大きい。
 そもそも育てるよりも、それ以前の問題を見極める必要もあった。

 一体、何者なのか。

 それすらも分からない。
 そして西沙が頼るべきと判断したのは、母の咲だった。
 数日前に子供は萌江と咲恵に引き渡されたばかり。それは萌江が自分で求めたこと。同時に、誰もが反対出来なかった現実がある。
 それを安易に〝運命的〟と言ってしまうことは簡単だろう。それでも他に代替出来る表現を誰も出来ないまま。
 そして咲も未だに完全に見極められていたわけではない。

 〝新たな命〟か〝誰かの産まれ代わり〟か。

 一度は御世(みよ)の産まれ代わりかとも考えた。
 〝カバネの社〟の一件を鑑みれば、その可能性は捨てきれない。
 総てに於いて、スズという存在を、時を越えて守り続けた巫女。
 その御世なら、有り得ると、咲は考えた。
 それでもその理由までは分からない。
「萌江も咲恵も、まあ表面上はいつも通りにしてるし…………粉ミルクとか色々大量に買い込んでたし…………楽しそうではあるけど…………」
 そう言葉を繋いだ西沙は、自分の表情を見据える咲から視線を外して続けていた。
「……その裏までは見えない、というより、見せてない感じかな」
 応えるように咲の小さな溜息が聞こえた。
「相変わらず萌江様らしいというか…………」
 その咲の言葉は決して嫌味を含んではいない。
 萌江のそういうところは誰もが理解していた。同時に、その萌江の〝らしい〟部分があるからこそ今があることも理解していた。
 決して慌てずに冷静さを保ち、常に先頭に立てる。
 それは先を見ることが出来るからでもあったが、萌江自身が求めた立ち位置でもあるのだろう。そしてそれは萌江でなければ出来ないこと。
 だからこそ西沙も心酔してきた。咲も分かっていたこと。自分よりも強い能力者でもある娘でありながら、その西沙ですら敵わない相手。その時点で結果は決まっていたのかもしれない。今の咲ならそれが理解出来る。
 しかも西沙の報告を聞く限り、限りなく萌江は〝産まれ代わり〟と思われた。

 ──……最初からあの人の考えることは見えなかった…………

 ──…………私ごときに……見えるものではなかったな…………

「あなたでも見えなければ、今は様子を見るしかありませんか…………」
 咲のその言葉が憂いを含んでいるように、西沙は感じた。
 理由の分からない不安。

 ──……お母さんも分かっているはずだ…………

 ──…………みんな…………あの子が怖いんだ…………

 ──……萌江のことが…………怖いんだ…………

 途端に板間を激しく踏みつける足袋の足音。
「西沙!」
 足音に顔を向けた西沙に掛かるその声は、巫女服の涼沙(りょうさ)のものだった。
 その顔を見るなり、西沙の表情は柔らかくなる。
 そして涼沙は西沙の隣に膝を落として続けた。
「来るなら来るともっと早く連絡をよこしなさい。そうすれば仕事だってもっと早く────」
「仕事は仕事でしょ。ここを継ぐ立場の姉さんがそんなことでどうするのよ」
 そう返しながらも、西沙は以前のように眉間に皺を寄せることはなくなっていた。
「そうだが…………」
 そう応えながら、涼沙も表情は明るい。
 元々は犬猿の仲。実の妹に対しての能力差の違いからくる嫉妬。かつてそれは同時に西沙に対しての恐怖そのものでもあった。それでもその恐怖を形作っていたものの正体を知ってからは、むしろ涼沙は西沙に心酔していたとも言える。一度は御陵院神社を継いで欲しいと母の咲に進言したほど。
 それでも西沙はすぐにそれを受けてはいない。〝蛇の会〟は存在理由の土台が揺らいでいるとはいえ、そもそもが堅苦しい世界を束ねるよりは現在の心霊相談所のほうが性に合っているのだろう。
 そんな西沙に涼沙が畳みかけた。
「今夜は久しぶりに泊まっていくといい。この間の〝カバネ〟の話も改めて詳しく聞きたい。今後の清国会のことでも色々と意見を聞かせて欲しいし…………」
「でも神社だとピザも唐揚げも無いしなあ」
「────なっ……ならば宅配を頼めば良いではないか」
「神社にピザの宅配が来たら大ニュースだろうねえ」
 そこに咲が挟まる。
「でしたら、水月(みづき)さんに頼んだら良いではありませんか。これからいらっしゃるのでしょう?」
「その手があったか」
 返した西沙の声は明るい。
 現在は西沙の公私のパートナー、水月杏奈(あんな)。杏奈は以前より仕事を減らしてはいたが、それでもジャーナリストの肩書きを捨ててはいなかった。現在は西沙の心霊相談所と掛け持ち。
 しかし、数日前の杏奈からの電話が西沙は気に掛かっていた。
「でもほら、この間も言ったけど、杏奈のお母さん…………入院したばっかりだから、どうかな…………」
 西沙のその言葉に咲が僅かに視線を落とすと、西沙が続ける。
「大事に至らなかったのは良かったけど……脳梗塞だから後遺症とかあるかもしれないって言っててさ…………杏奈も毎日お見舞いに行ってる」
「そうですか…………」
 こういう時の咲の声は柔らかい。
「水月さんには我々も色々とお世話になりました。何か力になれることがあれば、その時は西沙…………遠慮しないように」
「分かった」
 応える西沙の目は鋭い。
 元々、杏奈と最初に接触を持ったのは咲でもあった。その繋がりで西沙も杏奈と関わりを深めてきた。その頃から、いくつもの不安を抱えたのは初めてではない。それでも今回は何か違った。誰もが、何かが違うように感じていた。
 それが何か分からないままに日々が積み重なっていく。
 そしてそのことが、不安を押し上げていた。


      ☆


 〝カバネの社〟の一件が終わり、咲恵はまるでそれが当然であるかのように〝唯独(ただひと)神社〟でもある萌江の家に住所を移した。
 元々、それほど荷物のあるほうではない。若い頃から身軽な人生。それは、両親の元をキャリーケース一つで逃げ出した時から変わっていない。
 しかし今は、一つだけ大きな荷物がある。
 念願だったはずの、大きくも小さな店。
 LGBTQ専門の会員制バー。
 思い出はいくらでもある。とても記憶しておけないほどの厚い記憶。
 そんな店を閉める気など元々なかった。咲恵が最初に声を掛けたのは、やはりナンバー2の仲川由紀。店の従業員の中で咲恵と萌江の裏の顔を知っている唯一の人物でもあった。他に任せられる人が思い付かないまま、由紀もまるで断るつもりなどない素振り。
 事務処理を満田と立坂に協力してもらうことで、経営者名義の移行は滞りなく進んだ。
 咲恵の中に寂しさが無かったわけではない。
 それでも、今までのように萌江を一人にはしておけないと思った。
 そこには何の迷いもない。
 咲恵自身、驚くほどに進む道を真っ直ぐに選んでいた。
 自分にとって萌江がどんな存在なのかも分かっている。萌江にとっても同じような存在でありたいと思った。だからこそ、この先の人生を萌江と一緒にいようと思った。
 例え萌江が誰の産まれ代わりであっても構わない。
 そもそも産まれ代わりなど信じてはいなかった。それでも、今までで一番〝深い〟ところを見た。歴史的な古さではない。
 深さ。
 その点に於いて、これ以上のものはないと思えた。
 新しい命までも迎え入れ、これから萌江と二人で育てていく。
 自分が親になることは想像もしていなかったこと。

 ──…………私は…………自分の親を捨てた…………

 それは、絶対に咲恵の頭から離れたことはない。
 そんな自分が子の〝親〟になる資格があるとは思えないまま、萌江のためだけに動いた。
 だからこその不安。
 しかしその不安を萌江に対して隠そうとはしていない。無理をして隠してもどうせ見透かされるだけ。思えば、今までもそうだった。
 だから、気持ちを隠さずにぶつけようと思っている。
 そして、萌江を信じるだけ。
 しかし、そこに新たな不安要素が生まれたのは咲恵にとっても想定外のことだった。

 この日、店を引退してから数ヶ月。咲恵は久しぶりに店を訪れていた。そろそろ顔を出そうとは思っていたが、まさか満田に呼び出される形になるとは思っていなかった。
 未だに満田(みつた)からの仕事の依頼は続いていたが、現在のところは小さなものだけ。萌江が一人でも充分と判断すれば咲恵が子供を見、二人の必要があると思えば大見坂雫(おおみざかしずく)を頼った。今後の懸念としては遠出になることがないことを祈るだけ。
 以前は咲恵の店に満田が仕事を持ち込む形だったが、現在は直接電話が来る形だった。そして今回の電話は咲恵に対してのもの。萌江には内密での相談があるという。
 萌江には一応仕事の打ち合わせということにした。
 それでも見透かされるだろうとは思っている。
 少し早目の時間。
 ドアを開けるなり、その頭上から大きな鈴の音が降り注ぐ。開店時に萌江に手伝ってもらいながら二人で取り付けた物。そんな小さな思い出ですら、今は懐かしい。
 すぐに明るい声が咲恵の全身を覆う。
「ママ!」
 由紀の声だった。
 咲恵も嬉しくないわけではない。
「今はあなたがママでしょ」
 そう返しながらも笑顔が消えない。
 それでも気持ちのどこかに萌江への後ろめたさが消せなかった。
 客はまだカウンターに一人だけ。若い女性だった。由紀の声と同時に咲恵に顔を向けていたが、その顔を思い出すのに、咲恵は少し時間が掛かった。
 やがて、記憶の奥に辿り着く。
「…………沙耶香(さやか)……ちゃん……?」
 呟くような咲恵の声に、カウンターの女性は優しく微笑んだ。
 安斎(あんざい)沙耶香。以前、亡くなった親友で恋人でもあった女性の意識に取り込まれるように、結果として自分自身を見失った過去がある。そして咲恵の過去を見る能力が本来の自我を呼び戻した。
「お久しぶりです」
 照れ臭そうにそう返した沙耶香は、初めて見た時の印象とは大きく違う。
 あの時の不安に包まれた目を咲恵は忘れていない。まるで世界中の総てのものに対して不信感をぶつけていたような、そんな目。そして、その目が自分自身を取り戻した時の高揚感のようなものも忘れていない。
 萌江がいなければ、咲恵は自分が誰かのためになれる人生を歩めるなどと思ってはいなかった。
 自分が背負った、償えないものがそう思わせていた。
 両親の創り上げた新興宗教の〝神〟として物心がついた頃から祀り上げられ、多くの人たちを騙し、傷付けた。そしてそれが例えどんな親だったとしても、自分を産み育ててくれた両親を捨てた。しかも自ら命を断とうともした。
 そんな自分に他人を救う資格があるとは思えなかった。
 萌江がそんな自分を変えてくれたのは事実。
 萌江のお陰で、生きようと思った。
 生きていこうと思った。
 萌江と一緒に生きていきたいと思った。
 だから、今に後悔はない。
「……久しぶり…………元気そうだね」
 咲恵から出たその言葉に含まれていたのは、高揚感だけではなかった。後悔はないはずなのに、引っかかる小さな傷。間違ってはいなかったと思いたい。それなのに、どこか自分の選択が間違いなかったという自信がどこか欠けたまま。
 それに応える沙耶香の声の明るさが咲恵の意識を突く。
「あの時はありがとうございました。実は最近通い始めて……引退されたって聞いてびっくりしてたんですよ。でも今のママさんもいい人だから…………」
「そっか…………良かった」
 咲恵は薄手のロングコートを脱ぎながら沙耶香の隣に座ると、由紀に顔を向けて続けた。
「まだ私のボトルはあるかしらママさん。もう流しちゃった?」
「そんなわけないでしょ。もっと顔出してくださいよ」
 由紀は応えながらブランデーのボトルを取り出し、ボトルのセットを準備し始める。その手慣れた手付きに安心しながら、咲恵も返していく。
「なかなか来れなくてね。最近、子供出来たし」
「────子供⁉︎」
 驚いた由紀が製氷機から大きく氷を溢し、それでも床から見開いた両目を上げた。
「そりゃ驚くよねえ、養子なんだけどさ。まだ一才にもなってないから最近はお酒も飲んでなくて……今夜は萌江に許可もらって来ただけ」
 そこに挟まるように、隣の沙耶香が呟く。
「いいなあ、私も好きな人はいるけど……まだ気持ちも伝えてなくて…………」
「……女の子は、難しそう?」
 その咲恵の言葉には多くの意味合いが込められていた。同性愛が持つ難しさ。綺麗事ではなく、やはり異性間の恋愛との違いはある。
 咲恵もその壁をずっと感じて生きてきた。萌江にも同じような感覚があったのかは分からない。不思議とそれを感じたことはないが、全くないと思うほうが不自然だろう。
 正しいか、間違っているか、ではない。
 一人ひとり、どう感じるか。
「どうなんでしょう……なんだか、気持ち伝えるのも怖くて…………」
 沙耶香はそう応えながら、手元のショートカクテルのグラスに視線を落としていた。

 ──……もうこんな強いお酒飲めるようになったんだ…………

 以前に会った時はまだ大学生。咲恵からは子供に見えた。その時の記憶が次々と甦る。

 ──……嫌だな…………先入観って…………

 自分を受け入れてくれたのは萌江。それは間違いのないこと。咲恵も萌江を求めた。そこに間違いを感じたことはない。
 どんなことも、いずれはどこかに終着する。
 どんな結果であっても、総てはそのためだったと考えるのは簡単なこと。
 諦め。
 そして責任の行き先を探す。
 それが自分自身でありたいと、咲恵も思って生きてきた。
 だからこそ、そう思っているかのような萌江の隣で、自分の存在価値を求めてきた。
「……私は…………相手が求めてくれたから…………幸せだったんだろうな。最初私は逃げようとしたし…………」
 そう呟くように言う咲恵の指が頼りなげにロックグラスの氷を揺らすと、かつてどれだけ聞いたかも分からないその音に、なぜか気持ちがフラついた。
「どうして私なんかのこと────」
 続けた咲恵の言葉が途切れる。

 ──…………私の血が……御世の血だから…………?

 背筋に冷たいものが走った。

 ──……私を求めたのは…………ホントに萌江…………?

 鈴の音。
 開いたドアから入ってきた空気が少し冷たい。
「あら、いらっしゃい」
 由紀の声に続いて聞こえてきた声。
「直接会うのは久しぶりだな、咲恵ちゃん」
 柔らかく耳に入り込んだのは満田の声だった。その声に、咲恵は顔を向けながら妙な安心感を感じ、すでに片足のヒールは床へ。
「久しぶり。また老けたんじゃない?」
 満田の懐かしい顔に、咲恵から昔の口調が反射的に飛び出していた。
 そしてすぐにその顔はカウンターの中へ。
「ちょっとだけ奥のボックス借りるね」
「はーい」
 応えた由紀は満田のボトルを取り出した。
 続けて咲恵は沙耶香に小さく言葉を振る。
「ちょっとだけごめんね」
 咲恵と満田がボックス席に移動すると、慣れた流れで由紀がボトルセットを運ぶ。
 咲恵の知らない満田のコニャックのボトル瓶。
 引退して数ヶ月。それでも満田が店に通い続けてくれている証でもある。満田は同性愛者ではない。咲恵が店を立ち上げる前のスナック時代からの知り合い。その繋がりで常連客の中でも顔の知れた存在だった。そして裏の仕事を咲恵に斡旋し続けてきた人物。すでに孫も成人している年齢だが、表の会計事務所の経営者としての顔のためもあるのか、身に付ける物には相変わらずうるさいようだ。
「水割りでいいの?」
 咲恵はそう言葉を投げながら、慣れた手付きで、まだ新しい満田のボトルの蓋を回した。
「ああ、すまないね」
 満田もやはり慣れた感じで小さく返す。そして使い慣れたダークブラウンのクラッチバッグから真新しい大きな茶封筒を取り出し、それをテーブルに静かに置いた。
 それを見ながら咲恵が小さな笑みと共に口を開いていく。
「わざわざどうしたの? 萌江抜きで私に持ち掛ける案件って」
 満田も西沙の立ち上げた〝蛇の会〟の中心人物の一人。最近の事情は総て理解した上での流れ。あまり大きな仕事を持ち掛けるのが難しくなっているのも当然分かっていた。
「ああ……いや、恵元さんに聞かれてまずいってわけじゃないんだがね…………その前に、咲恵ちゃんに確認を取っておきたいことがあった…………」
 満田は水割りのグラスを少しだけ持ち上げながら、その中の氷の動きに視線を配り、そしてゆっくりと続ける。
「今回の仕事の資料なんだが……名前を見てくれ…………」
 そう言いながらも、満田は自分でその封筒を開けようとはしないまま、封筒に向けていた視線を咲恵にゆっくりと移しながら、言葉だけを続けた。
「多分、咲恵ちゃんの…………ご両親だ…………」
 咲恵が持ち上げかけたロックグラスが、その手から滑り落ちる。
 テーブルの上のコースターで鈍い音を立てた。
 咲恵の視線は溶けかけた氷の上。
 満田は咲恵の過去を知っている。
 裏の仕事の元締めとして、蛇の会の人間として。
 友人として。
 そして、それに触れたからといって、掘り起こすようなことはしない。だからこそお互いに信頼し合えた。過去は関係ない、と言うのは簡単なこと。それでも〝知らない〟と〝知っている〟は違う。それを理解しているかどうかでも関係性は変化する。〝知って〟しまったら〝知らない〟には戻れない。
 それでも、だからこその信頼というものがあることを、咲恵も満田もお互いに理解していた。
 にも関わらず、それでも、咲恵は視線を上げられない。
 長い間、自分以外は触れることのなかった、自分の過去。
 久しぶりに触れられた。
 久しぶりに入り込まれた。
 何か、恐怖とは違うもの。
「一昨日……依頼主から話を聞いてきた…………」
 満田の具体的なその言葉に、漠然としたものが形を持ち始める。
「……その話の内容に……聞き覚えがあってね…………名字も同じだし…………引き受けるかどうか迷ったが────」
「内容は?」
 まるで反射的に応えたかのような、感情の行き所を失った咲恵の返答に、思わず満田は顔を上げていた。見えたのは、俯き、光を失った咲恵の目。
 逃げているとは感じなかった。
 何か、恐怖とは違うもの。
 そして、満田も覚悟を決める。
「…………一人娘を…………探して欲しいと…………」


      ☆


 杏奈から電話をもらった時、その時はすでに夜の九時を過ぎていた。
「事務所で待ってて」
 その杏奈の言葉に、西沙も何も感じなかったわけではない。もう何年にもなる付き合い。しかも西沙自身の能力的にも、何か大事な夜になるであろうことは感じていた。
 昨夜は実家でもある御陵院神社に久しぶりに一泊。
 正直、落ち着かなかった。何か気持ちの奥底が騒ついた。その理由までは分からなかったが、今日も何かその胸のモヤモヤを引きずっているような気がしてならない。
 そんな夜。
 いつもなら、杏奈は今日も母親の御見舞いに行っているはず。
 なんとなく、いつものように事務所の天井の電気を煌々と点ける気にはなれないまま、なぜか入り口の小さな間接照明だけ。あいにく今夜は月明かりが強い。ちょうど道路に面した大きな窓からまるで照明のように降り注いでいた。
 少し前にスイッチを入れたコーヒーメーカーからコーヒーの香りが事務所内に漂う。いつもと同じ粉なのに、月明かりのせいか、いつもよりも柔らかく感じた。
 一階のコンビニも今夜は静かだ。
 だからなのか、外の錆びついた階段を登ってくる杏奈のブーツの足音がやけに大きく感じられた。それでも、今夜は不思議と響かない。
 一つ目のドアが開き、近付く杏奈の姿に、なぜか西沙は顔を向けることが出来ないまま、二つ目のガラスドアが開けられた。
 やっと西沙は小さく顔を振る。
 今夜は、杏奈の顔を見るのが、なぜか怖い。
 その杏奈は、西沙の予想に反して明るい笑みを携え、静かに西沙の向かいのソファーに腰を降ろし、大きく溜息を吐いた。
 西沙は無言で立ち上がると、コーヒーメーカーへと足を進め、コーヒーを注いだマグカップを二つテーブルに運ぶ。
 それを両手で包むように持ち上げた杏奈がやっと口を開いた。
「…………暖かい…………」
 いつになく、小さく、弱々しい。
 西沙も小さく返していた。
「……いいよ。手続きは?」
「……うん……」
 杏奈の鼻にコーヒーの湯気が香りを運ぶ。喉の奥に流れていく香りと暖かさが絡まり、杏奈はゆっくりと、ゆっくりと噛み締めるように返し始めた。
「夕方…………後は葬儀屋さん呼んで…………明日からの段取り聞いて…………まあ、親戚とかいないからさ…………実際には遠い親戚くらいはいるんだろうけど…………お母さんって身寄りがなかったって聞いてたから……親族は私だけ…………」
 西沙の感じていた通りの流れ。
 その西沙が時間を噛み締めながら返した。
「スケジュール教えてね。私のお母さんも出席したいと思うし…………私も出るから…………」
「来てくれる?」
 その杏奈の声は、今にも崩れ落ちそうなものに感じられた。
 その声に、西沙も気持ちが動く。
「ここに核ミサイルが落ちても行くよ」
 やがて、その西沙の言葉に返すような小さな杏奈の笑い声は、嗚咽に変化していた。
 西沙は上手な慰め方を知らない。
 少なくとも一般的にこういう時はどんな声を掛ければいいのか、分からない。
 ただ、今の杏奈を受け止められるのが、自分だけであることだけは分かった。

 ──……私が崩れたら…………杏奈は自我を保てない…………

 痛いほどにそれが分かる。
 痛いほどに杏奈の気持ちが伝わった。
 それを受け入れるだけでいいと思えた。
 今まで自分を支えてくれた杏奈が、初めて目の前で弱さを見せている。
 いつもの、杏奈を守る鎧のようなその明るさはどこにもない。
 ただただ弱い、崩れ落ちる一人の人間がいるだけ。

 ──……私は……杏奈に出会えて…………幸せだった…………

 その時間はしばらく続いた。
 杏奈は、ただ泣かせてくれただけの西沙に感謝した。
 ただ、泣きたかった。
 思えば人前で泣いたのは何年ぶりだっただろう。
 一人でも泣いた記憶を思い出せないくらいだ。
 何かが蓄積していたのかも知れない。ずっと、常に何かに気持ちを張り続けていた。常に自分の役割を探し続け、何をすべきか考え続けてきた。
 そして、一度は捨てたはずの母親との時間を取り戻せたことを感謝した。

 ──……私は……西沙に出会えて…………幸せだった…………

 少しの時間。
 短かったのか長かったのかも分からないまま、やっと顔を上げた杏奈の表情は穏やかだった。それでも腫れた瞼が痛々しい。
「ごめんね、仕事で疲れてるのに」
 その杏奈の言葉に西沙はまるで待っていたかのようにすぐに返していた。
「全然。最近は暇でさ。気にしないでよ。杏奈のほうが忙しかったでしょ」
「そうだね……最近ちょっと、雑誌社に行くことも多かったし…………この間から内戦で揉めてた国あるでしょ。他の国が色々と絡んでたから心配してたんだけど…………日本のマスコミですら少し騒がしくなってるよ…………隣の国まで正式に参戦したみたいでさ。そろそろニュースで流れるよ。お父さんが行方不明になった所だから、ずっと追いかけてた」
 ここ数ヶ月の世界情勢の不穏な雰囲気は西沙でも感じていたこと。
 そして元々の内戦の起こった国は、かつて杏奈の父親が消息を絶った国。今回はその時以上の大きな紛争になりそうだった。
 杏奈が続ける。
「ずっと続いてたんだよ……内戦…………終わってなんかいないのに、視聴者に飽きられて視聴率が取れないからってテレビじゃまるで報道されてなかっただけ……日本じゃ誰も話題にしようとしなかった……ずっと追いかけてたから分かる…………あまりにも問題を含みすぎた。複雑すぎる。簡単には終わらないままに大きくなった」
 杏奈の表情は重い。
 西沙よりも遥かに世界情勢や歴史にも詳しい。西沙が簡単に口を挟める問題でもなかった。
「行きたいの?」
 西沙が聞きたいのはそれだけ。
 そして、答えの分かった質問。
 杏奈は視線を落として返した。
「分かってるでしょ……敢えて聞くの?」
「まあね、社交辞令ってやつ?」
 その応えが西沙らしいと、杏奈が感じたのはそれだけ。
「で? 未来の見える西沙はどうするの? 止めてくれるの? 今すぐじゃないけど……フリーじゃ簡単じゃないからね。渡航の危険レベルが高いし。お世話になってる雑誌社のグループに混ぜてもらうからいつになるか…………」

 ──……私は……西沙になんて言って欲しいの…………?

「止めないよ。どうせ行くこと分かってるのに…………時間のムダ」

 ──…………やっぱり西沙だなあ…………

 無意識に、杏奈の口角が上がる。
「社交辞令で止めてよ」
 そう返した杏奈に、西沙が繋げる。
「だって、杏奈は帰ってくるから」

 ──……そうか……西沙なんだ…………

「帰ってくるの分かってるからさ。行ってきなよ。私は寂しくなんかないから。行ってる間に素敵な彼氏でも見付けてるからさ。行ってきなって。生きて帰ってくるんだからいいじゃん」

 ──……西沙には……未来が見えてる…………

「生きて帰ってくるのは分かってる。でも…………」
 西沙が目を伏せ、声を落として続ける。
「…………自分が寂しくなるのも分かってる…………」

 ──……そうだ…………西沙だった…………

 まるで宙に浮いたような西沙の声に、杏奈の声が絡まった。
「じゃあ……私が寂しくなるのも分かってるよね…………」
「……分かってる……全部分かってる…………全部見えてる…………そんな未来…………見たくなんかないのに…………」
 その西沙の声は、やがて嗚咽に変わる。
 総てなのか、西沙が何を見たのか、西沙は語らなかった。


      ☆


 満田はその夜、多くを語らなかった。
 詳しくは資料を見てから決めて欲しい、と、ただそれだけで店を後にした。
 咲恵はしばらくボックス席に座ったまま。
 カウンターの中から見ていた由紀も何かに勘づいていた。最も客商売の世界で生きてきた人間として、その雰囲気の変化に気が付かない者はいないだろう。とはいえ咲恵も元々はその世界の住人。プライベートの自分とは違う自分を作ってきたことを自分でも分かっていた。客の側に立った時でもそれは変わらない。無意識にそう振る舞うことには慣れていたはず。
 しかし、明らかに咲恵が醸し出すものがいつもと違った。
 決して封印した過去ではない。封印したくても出来なかった過去と言ったほうが正しい。
 咲恵にとっては忘れたくても忘れられるはずがない。
 捨てた両親と、若かった自分の苦い選択。
 満田が帰る直前に口にしたのは依頼主の名前だけ。思い出したくもない記憶。しかしその名前を探して記憶が頭の中で鮮やかに蘇る。それでもその名前はどこにも見付からない。

 ──……浪岡哲治…………私が知らない人物か…………

 ──…………どうしてその人が…………

 そう思いながらも、やはりまだ封筒を開けずにいた。そこに両親の名前があるのだろう。咲恵の捜索を依頼しているということは、名前だけではなく、おそらくは両親の人生と、現在。
 咲恵が失踪してから、あれから両親がどうなったのかをもちろん咲恵は知らない。調べたこともない。
 しかし、両親はどうなのだろうかと、咲恵はずっと思っていた。
 警察に捜索願いが出されたのかどうかも分からないまま。咲恵自身は名前を変えたこともない。警察が探そうとすれば難しくはなかったはずだった。にも関わらず咲恵がそれを感じたことはない。
 依頼主に会えば総てが分かる。
 それが分かるだけに気持ちが揺らぐ。
 自分が知りたいのか知りたくないのか、断れば総てを終わらせることが出来るのも理解している。

 ──……知りたいんだろうな……やっぱり…………

 咲恵はスマートフォンを鞄から取り出すと、迷わず萌江に電話を掛けていた。
「あ、ごめん……仕事の話だけど、断っちゃった……遠かったし、私たちがどうこうする必要もないレベルだったし……うん…………明日帰るね」
 電話を切ると駅前のビジネスホテルを調べ始め、空き室状況を調べる。
 そして立ち上がるとカウンターに向かい、不安気な表情を浮かべる由紀に声を掛けた。
「ごめんね由紀ちゃん、今夜は帰るね」
 由紀の表情から、自分を心配してくれているのは分かった。例えどんなにプライベートとは違う自分を作れても、それでも本来の自分らしさを捨て切れていない。しかし、咲恵が由紀に店を任せようと思ったのは、由紀のそんな部分を知っていたからだ。
「あれ? 今夜はウチに泊まるって────」
 由紀の中の不安がさらに上がっていく。元々は自分の所に泊まる予定だっただけに当然だろう。しかも満田の表情もいつもより明らかに重かった。
「ごめんね、また来るから」
 咲恵はカウンターの沙耶香にも声を掛けると、静かにドアを開ける。
 そして、その背中は、寂しく見えた。


      ☆


「そうでしたか…………御葬儀は明日ですね。分かりました」
 咲も覚悟していたとはいえ、やはりその口調は重い。
 西沙は杏奈の一件の報告のために朝から御陵院(ごりょういん)神社を訪れ、杏奈は葬儀の打ち合わせで葬儀屋へ。
「日本には、いつまでいらっしゃるのですか?」
 咲の質問は西沙の胸の内を突いた。祭壇に広がる朝の空気の中で、昨夜の杏奈の言葉が頭の中で渦巻く。
 何かが大きく動いているのは西沙も感じていた。同時に、いつまでも今と同じであることなどあり得ない。多くのことが少しずつ、時に大きく動く。杏奈の夢は以前から知っていたこと。杏奈が西沙と出会う前から、そして今でも杏奈は父親を追い求めていた。
 咲の質問に、分からないにも関わらず、何か具体的な時間を突き付けられているようで、応える西沙の口も重い。
「それは、まだはっきりしないみたい…………お母さんのことがあったから雑誌社からの誘いを断ってたみたいだし…………次の海外派遣がいつになるかだね」
「しかし、水月さんの夢だったのですよね。海外でのお仕事は」
「海外の仕事っていうか、お父さんと同じ戦場カメラマンだね。何もわざわざそんな危険な場所に行かなくてもいいのに…………」
「水月さんが、その世界で何を求めているのか、ですよね。確かに水月さんは我々のような能力者ではありません。しかし、人を尊重することにそんなことは関係ありませんよ。我々とは違った形で様々な人と関わってきたに違いありません。むしろ水月さんは我々よりも他人を敬えるはず。見えないから、分からないからこそです。あの方は我々には見えないものを見ています」
 その咲の言葉に、西沙の中の何かが動いていた。
「お母さん…………私たちはいつも死んだ人たちと対話してきた…………でも杏奈は、死んでいく人たちの〝生き様〟が見たいんじゃないのかな…………〝死に様〟が見たいわけじゃないんだ…………」
「ええ…………我々も、そうありたいものです…………」
 咲のその言葉は、微笑みを伴っていた。
 西沙が、どこか清々しい顔を振る。
 初めて見る咲の笑顔に、西沙の表情も解れていった。
 朝の匂いが鼻をくすぐる。幼い頃は朝の神事が嫌いだった。まだ頭がスッキリとしない靄の掛かった状態で、そんな感情のまま強制的に神に触れようとする行為は、その頃の西沙には拷問に等しいもの。神以外の存在を常に感じていた。むしろ神の存在を感じたことなどなかった。その時からすでに西沙は、本来の神道の〝神〟と清国会の〝神〟との乖離を感じていたのかもしれない。
 しかし、現在の清国会にそれまでの〝神〟はいない。
 それは、今目の前にいる咲の表情を見れば明らかだった。
 あの頃とは違う。すでに咲と西沙の間に求めているものの違いはない。お互いに同じものを見ていた。西沙は今、それを強く感じる。
 今の西沙は咲の言葉の一つひとつを素直に聞けるようになっていた。
「だからこそ西沙……この間の話ですが、受けてもらうわけにはいきませんか?」
 それは、杏奈の存在のために西沙が断り続けていたこと。
「いずれ恵麻様から正式に御連絡はあると思いますが、西沙、あなたに清国会をまとめてもらいたいとのことです。蛇の会と融合させる形ではどうかとの案が出ていますが、考えてはもらえませんか?」
 何か、この日はすぐに断る気にもなれないまま、西沙が返した。
「…………萌江と……咲恵はどうするの?」
「御二人には……自由に生きて頂きたいと思っています。恵麻様も同じ考えでした」
「自由に…………か…………おかしなもんだね。今まであの二人を中心に世界が回ってたのに」
「勝手な話ですよね……散々迷惑を掛けておいて今さら自由に、とは…………」
「でも、あの二人は何も気にしてないよ」
「何か報いることが出来るとすれば……それはやはりこれからの清国会の有り様でしょうか。西沙…………これからは、あなたを中心に、この国をまとめあげる必要があるかと思います。水月さんのおっしゃるように、色々なことが大きく動きます。清国会がまとめなければ国という形が無くなってしまうでしょう。その中心になって欲しいのです。この国は一神教ではなく、神道でまとまるべきと考えています」
 咲の目が、僅かに鋭くなった。
 しかし、応える西沙の目は柔らかいまま。
「何を信じるかなんて……何を信じたっていいんじゃない? 好きなものとか、信じられるものがあるなら、それだけでいいよ。それだけで幸せだよ」
「あなたが信じているのは……」
「さあ…………何だろうね…………ゴスロリでも良かったら話だけでも聞くよ」
 西沙は咲に背を向け、外に視線を移した。
 その背中は、咲からは少し寂し気に見えた。


      ☆


 咲恵がホテルをチェックアウトしたのは朝の終わり。
 少し早かったが、やはり気持ちが早った。
 昨夜、満田に電話したのはホテルの部屋から。
「依頼者の浪岡さんに…………明日会えるかな? 連絡してもらえる?」
 ベッドの上に並べた封筒の中身はA4サイズの用紙が三枚。
 一つの家族の記録。
 それがたった三枚の紙の上の文章でまとまる。
 何か不思議な気がした。
 今まで、様々な人の人生を垣間見てきた。それは決して数枚のコピー用紙で終わるようなものではない。むしろ、その紙の外にある部分に関わってきた。もしかしたらそれは他人に触れられたくない部分が多かったのかもしれない。
 自分も同じ。
 依頼書の文章に書き切れない部分にこそ自分の本当の人生があった。きっと両親も同じなのだろうとも感じ、そうすると、やはりそこを無視することなど出来ない。
 封筒の中身を見た時点で動き出していた。
 そしてそれを自分で選んだ。
 だからこそ、もう見なかったフリは出来ない。
 陽差しの暖かい朝だった。
 春。
 寒い冬が終わって、新しい季節が始まる。
 これから多くの草木が芽吹く頃。
 そんな香りが、朝の空気と共に駅前にも広がっていた。
 しかし、咲恵にとってはそんな爽やかさすらも重い。
 待ち合わせに指定したカフェはもうすぐ。
 無意識なのか、ゆっくりと歩く速度が遅くなっていた。
 そこに、文章に書き切れない両親の人生がある。他人の人生になら何度も踏み込んできた。しかし自分の人生には目を瞑ってきた。決して求められたものではない。自分で触れることを決めた。
 だから、例えどんなに重くなっても、足は止めない。

 ──……萌江には話さなくても気付かれる…………

 ──…………でも……理解してくれるかどうかは…………

 ドアの鈴は、昨夜のバーの物よりは小さかった。
 音も軽く感じられる。
 古めかしいカフェだった。喫茶店と表記したほうが合うような、そんな店。よくある大手のフランチャイズとは違う趣がある。本来なら咲恵も好きなタイプの店だ。以前は萌江とよくこういう店を選んで歩き回っていた。
 咲恵の店のあるテナントビルの一階にも歴史を感じる喫茶店があった。午後から日付を跨いで朝方まで営業する、夜の仕事の人たちのためにあるような店だった。高齢の店のマスターが入院してから店は閉まったまま。すでに一年近くになる。
 咲恵はなぜか、その店のことを思い出していた。
 もちろん内装は違うが、その多くのテーブルに目を配りながら、咲恵は目的の人物を探した。
 午前中のまだ早い時間。
 一人の他に客はいなかった。白髪混じりのだいぶ薄くなった頭髪に、頬も痩け、くたびれたYシャツとジャケットのせいもあるのか、印象はかなり疲れて見えた。
 依頼書には七五歳と書かれていた。
 浪岡哲治。
 咲恵の知らない、咲恵の両親の、時間を埋める存在。
 それはあまりにも長かった。
「浪岡哲治さんですね」
 その咲恵の態度は、いつもの冷静なもの。
「昨夜、満田のほうから連絡させて頂いた者です」
 そして咲恵は、名前を名乗ることすら出来ないまま浪岡の向かい側に座る。クッション部分が古くなってだいぶ硬くなったソファーのボックス席。目の前の木製テーブルには傷も多い。その総てが歴史を感じさせた。
 それらの総てが、咲恵の記憶の空白に入り始める。
「ご依頼を受けるかどうかは、お話を伺ってからと思っています。それでよろしいですか?」
「はい……満田さんからも聞いていますので…………それで結構です」
 応えた浪岡の声は弱々しいものだった。僅かに震え、俯いて空になったコーヒーカップを眺め続ける。
 咲恵は目の前に運ばれたコーヒーの湯気に、どこか気持ちを救われたような気がした。
 萌江の入れるコーヒーとは違う豆の香り。
 咲恵の知らない香り。
 咲恵の知らない時間。
 それを埋めるのではない。
 そこに、咲恵が入り込む。
「浪岡さんは…………黒井さん……ご夫婦とは、どのようなご関係なのですか?」
 出来るだけ冷静に、咲恵が繋ぐ。
 そして、浪岡が語り始めた。
「以前なら語れなかったことですが……むしろそれを語らなければ説明にはなりません。おそらく今なら大丈夫でしょう。あなたは…………清国会という組織をご存知ですか?」

 ──…………ああ……やっぱりか…………

「分かりやすく言えば、この国を裏から動かしてきた組織ですよ。何百年もの長い間…………歴史の教科書にはありませんが……信じてもらえなくてもいいんです。むしろ信じられるほうがおかしい……こんな話…………」
「構いません。私も……普通に生きていたなら出来ないような経験をいくつもしてきました」
 咲恵は、自然と微笑むことの出来た自分に安心していた。
 こうして話を聞くことは間違ってはいなかったと、今はなぜかそう思える。
 返す浪岡の声も、幾分緊張が和らいでいた。
「そうですか……私は特別な能力はありませんので分かりませんが…………私の先祖は、とある巫女の使用人をしていましてね。さっき話した清国会に刃向かったことで、殺されたと聞いています。しかし幼い子供が二人いた……男の子と女の子…………その二人を、九人の使用人が守り続けました。私もその……〝九士族〟の末裔の一人です」

 ──……そっか…………

「黒井さんは娘のほうの血筋でした。私はスパイのように清国会に入り込んで、裏から黒井さん家族を守る役目でした。宗教法人の相談をされた時は、まさかあのような団体になるとは想像も出来なかった。娘さんの力が強かったのでしょう……結果的に敵を作りすぎた…………逃がすしかなかったんだ…………」
 浪岡が背中を丸め、肩を震わせ始める。

 ──……私たち家族を…………ずっと守って…………

「……その娘さんが…………行方不明ということで間違いありませんね…………」
 僅かに、その咲恵の語尾は震えていたのかもしれない。
 浪岡は少しだけ頭を上げ、少し間を空けて応えた。
「……ずっと探していたんです…………旦那さんも奥さんも、娘さんが失踪してから精神的におかしくなった様に見えました。いくつか小さな仕事はしましたが、どれもうまくいかないままで体だけ壊して……五年くらい前に旦那さんが脳梗塞で倒れて入院しました。すぐに奥さんに癌が見付かって…………何なんでしょうね…………何を信じたって救われない人たちって、いるんでしょうね…………時間が無いと思って色々な所に相談しました。興信所とか心霊相談所とか……でも怪しい所ばかりでしたよ。最近になって清国会の人間から満田さんを紹介されまして…………それで相談しました」
「……そうでしたか…………」
 咲恵はそれしか返せなかった。
 次の言葉が出てこない。
 清国会が形を変えたことで、今の時間がある。
 それは間違いがない。

 ──……清国会を変えたのは…………私たちだ…………

「病院にお見舞いに行くのは私くらいです。あのお二人には身寄りなどいません。誰もが命を繋いだ後に殺されてきましたからね。でも……最後に……娘さんに会わせてあげたくて…………私も…………このままでは死ねません…………」

 ──……どう応えたらいい……この人は今でも御世のために…………

「……お話は…………分かりました…………」
 返した咲恵の声は、おそらく冷静を欠いていた。
 少なくとも今の咲恵に、冷静でいられる自信はない。
 静かに立ち上がった。
 その咲恵の姿を、浪岡の視線がゆっくりと追いかけながら上がっていく。
 浪岡の頭上に、咲恵の静かな声。
「……ご依頼をお受けするかどうか…………改めて満田のほうから連絡します…………」
 咲恵は千円札一枚をテーブルに置くと、それだけですぐに背中を向けた。
 店のドアまで、足が地に着いていない感覚が意識までもを埋め尽くし、背中に覆い被さる想いの強さを感じるだけ。
 何も決断など出来なかった。
 決めたつもりの選択。
 自分にとっての空白の時間を僅かに埋めただけ。
 当事者にとっては空白などではない。一人ひとりのそれこそが人生であり歴史そのもの。他人にとってのものではない。

 ──……私は……何様なの…………?

 ──……親を捨てた私なんかがどんな顔で…………

 外はすでに高い陽射し。
 途端にその陽の光に包まれた。それは外の空気でなければ感じられない暖かさだろう。

 ──……私は……何を聞きたかったの?

 無意識の内に足早に歩いていた。
 それなのに、駅の前にある駐車場がなぜか遠く感じる。

 ──……車に乗って帰って……萌江に会うの?

 ──……どんな顔で会ったらいい…………

「ねえ、お姉さん、どこ行くの?」
 以前によく萌江と通った雑貨屋の前で、その声が咲恵の足を止めた。
 しかし顔は向けられない。

 ──……どうして…………

 近付く足音が、やがて俯く咲恵の視界に入り込んだ。
 そこには見慣れた萌江のハイカットブーツのつま先。
「私よりちょっとだけ背が高いのに、そんなに背中丸めて下向いてちゃもったいないよ」
 そう言った萌江の左手が、軽く咲恵の頭に乗った。
 その暖かさに、咲恵の気持ちは一瞬で崩れ落ちるように、やがて萌江の胸に額を押し付ける。
 そして、萌江が繋げた。
「いいよ、全部分かってる」
 いつの間にか溢れ出た、零れ落ちる涙を拭おうともせず、咲恵は萌江の背中に両腕を回す。
 お互いに、周りを行き交う人々の驚きの視線などどうでもよかった。
 一度崩れた感情は、簡単には築き直せないもの。
 萌江も咲恵も、それを経験から知っていた。
 そして咲恵の頭の上からの萌江の言葉が、咲恵の気持ちを少しだけ引き戻す。
「でも…………時間はないね…………ゆっくりと考えさせてあげたいけど急がないと。でも解決はないよ。答えがあるだけ。咲恵が決めるかどうか…………」
 顔を上げられないまま。
 返す咲恵の声は小さい。
「…………うん…………」
「今まで私は咲恵の過去に口を出したことはない。もちろん見えてたけど。でもだからこそ言わせて。もしも仕事を受けるなら、これで最後にしようよ。後は、私たちだけ……もう充分に色んな人の役に立ったきた。これから救いたいのは咲恵だけ……死ぬまでね…………」
 すると、ゆっくりと、咲恵の顔が上がっていく。

 ──……充分なんて……嘘ばっかり…………

 腫れた瞼と充血した瞳に向けられた萌江の表情に、咲恵は少しだけ笑みを浮かべ、口を開いた。
「……どうせ…………死んでも、なんでしょ?」
「かもね」

 ──……見えてる……萌江には未来が見えてる……私はそれを知ってる…………

 ──……どうして? どうしてそれなのにそんなこと言うの?

 言葉を繋げたのは萌江。
「でも、今回の選択は咲恵にしか出来ない……私には未来なんか見えてはいない。自分にとって可能性の高い予測をしてるだけ。咲恵にとっての高い可能性は? 悩んでるってことは、もう自分の中で答えは絞れてるはずだよ」

 ──……そっか……まだ何も決まってなんかいない…………私が選ぶんだ…………

「…………そうだね…………」
 返した咲恵が体を起こして続けた。
「……やっぱり…………萌江が萌江で良かった…………」
「でしょ」
 そう応えた萌江が満面の笑みを咲恵に向けると、咲恵も気持ちが少しずつ楽になるのを感じる。
 ずっと、その笑顔を見てきた。
 萌江が明確に自分と違うことも前々から感じていたこと。咲恵と違う形とはいえ、萌江も大変な過去を持っている。お世辞にも平坦な人生ではない。何度も、何度も辛い経験を繰り返してきた。それでも萌江は、何度も咲恵に大きな笑顔を見せてきた。
 なぜそんなふうに笑えるのか不思議に思ったことが何度もあった。
 それでも萌江のその笑顔になぜか救われてきた。

 ──……萌江の強さって…………

「……今日は、一度帰るよ」
 そう言いながらの咲恵の表情からは涙を含んだ笑みが消えない。
「そう? じゃあ、バスで来たから送ってよ、お姉さん」
 萌江も同じだった。
 笑顔が溢れ出す。
 そして萌江は咲恵の手を取って歩き出す。
「ああ、スズは雫さんに預けてきた」
「あ、そうなんだ。これから迎えに行くの?」
「一晩預けてきたから、久しぶりに今夜はゆっくりしようよ…………雫さん暇そうだったし。(かえで)ちゃんも喜んでたし」
「ま、いいけど」
 いつも通りに応えながらも、咲恵はやっと素直になれた自分を感じていた。

 ──……私が……決める…………

 その夜は、久しぶりに二人きりでお酒を飲んだ。
 味覚というものはおかしなもので、その時の感情一つで大きく姿を変化させる。
 咲恵は昨夜のアルコールの味を覚えていなかった。記憶に残るのは、奥から引っ張り出した苦い過去だけ。あからさまに冷静ではなかった。人前であそこまで自分を失ったことがあっただろうか。すぐに思い出せるところには見付からない。
 それでも今夜は違った。
 今回も萌江が繋ぎ止めてくれた。
 それでいいのだろうと、今は思える。

 ──……いつかは……私も何かを萌江に返せるようになりたい…………

 ブランデーの一口、白ワインの一口が体の中を流れていく度、安心感と不安が気持ちの中で溢れていった。萌江の笑顔にもどこか寄り掛かり切れない。
 オリーブオイルと塩胡椒を振りかけたブロック状のモッツァレラチーズにプラスチックのピックを刺しながら、そんな咲恵がソファーで隣に座る萌江に言葉を投げた。
「私の弱さを知ってるのは…………萌江だけだと思ってた…………」
 萌江は即答する。まるで咲恵のその言葉を予想していたかのようだった。
「違うよね……咲恵はまだ幼かったあの頃…………立ち向かうよりも逃げ出すことを選んだ…………それは事実。だから、ご両親も咲恵の弱さを知ってるはずだよ。親が子供の弱さを知らないはずもないしね」
「幼かったって言っても、もう一七だったし…………自分で選択することが出来たはず」
「自分で選択するって、今の歳になっても難しいよ。だから一七歳に責任を押し付ける気はない。問題は……今現在の咲恵自身がそれを受け入れていないこと…………忘れることなんか出来るはずがないのに、忘れようとすることで選択の結果から逃げようとしてる」
 僅かに厳しさを伴いながら、それでもそれは萌江にしか醸し出すことの出来ない言葉の流れ。咲恵も萌江の言葉の総てを受け入れることを厭わなかった。
 総てを曝け出すつもりでいた。
「そう…………ずっとそうだった…………」
 いつも以上に柔らかい口調で、咲恵が続けていく。
「……後ろめたさがあるから、だからなのかな……今まで誰に対しても一歩引いて接しきたような気がする。代わりに誰かが前に出てくれていたんだろうね。萌江に出会ってからは、萌江だと思うけど…………」
「でも自分で店作ったじゃん」
「萌江がいなかったら始めてないよ。萌江が手伝ってくれたから出来たんだよ」
「でも決めたのは咲恵…………そして今回も、私が決めるわけにはいかない…………咲恵の選択が未来を決めるんだよ」
 その萌江の言葉に、咲恵が何かを言いかけ、その唇が動いた時、スマートフォンの着信音が鳴った。
 画面には〝満田〟の名前。
 仕事を受けるかどうかの答え、だと思った。
 しかし、電話に出た咲恵は、やがてその表情を曇らせる。
「え…………お父さんが…………」
 隣の萌江には総てが見えていた。
 咲恵の父、俊一の死の報せ。
 それは突然突き付けられた現実であり、同時にいずれそうなることが予測出来ていた未来。

 ──……未来は……見えてなかった…………

 そう思った咲恵の耳に、萌江は小さく言葉を投げていく。
「これが答え…………未来は確定なんかしてない。未来は選択の積み重ねの先にある。今生き続けてるのは、それを選択してきたから。だから…………選んで」
 咲恵の唇が、小さく何度か開き、そして閉じた。
 萌江は、ただ、待った。

 ──……咲恵なら、大丈夫…………

 やがて、咲恵の声が、電話の向こうの満田に届いた。
「……お母さんに…………会わせて…………」


      ☆


 待ち合わせ場所は病院の待合スペース。
 俊一の葬儀の手続きなどで忙しい中であることは想像出来たが、咲恵はこれ以上時間を空ける気はなかった。
 昨夜の内に満田から浪岡へ連絡が行き、浪岡もすぐに応えた形になる。俊一の死を迎え、浪岡にも時間が残されていないことを再確認させていたからでもある。
 大きな総合病院。
 夫婦共に入院とはいえ、病棟は元は別々だった。それでも一月ほど前に一つの個室に夫婦が二人で入ることが許されていた。理恵もそうだったが俊一の容態がすでに危険な状態になっていたことが一番の理由となる。もちろん浪岡が病院側に頼み込んだ側面も大きい。
 浪岡自身は二人に明確に負い目があった。
 結局、娘を見付けることが出来ないまま。夫婦の命は守ることが出来たが、それでもその二人が一番大事にしている存在を失ったまま。
 そして最後の望みが満田だった。
 その満田からは「昼間に会った女性が母親のほうに会いたいそうだ」ということが伝わっていただけ。
 正面玄関の自動ドアが開く度に入ってくる外の空気が冷たく感じられた。それは入口周辺が少し高めの温度に設定されているためでもあるのだろうか、それでもこの日の気温は低く感じられた。
 そして冷たい空気と共に周囲に流れる、低いヒールの音と、ブーツの厚い靴底の音。
 なぜか静かだった病院の待合スペースに、まるでその音だけが響いているような、そんな不思議な雰囲気に、ベンチに座っていた浪岡がゆっくりと頭を上げ始めた。しばらく背中を大きく丸めて床を眺めていた浪岡は、まるで固まったかのような背中と腰を伸ばし、やがて立ち上がる。
 その目の前、足を止めた咲恵が口を開いた。
「……病室へ、お願いします」
 その目に浪岡が何かを感じたのかは分からない。
 浪岡は何も応えないまま小さく首を縦に振ると、静かに歩き始める。
 咲恵の後ろに付いていた萌江は冷静な表情のまま。
 そして先頭を歩く浪岡は、やはり静かに感じていた。
 目の前を多くの患者や病院職員が通り過ぎていく。しかし、その足音どころか吐息すらも耳には届かない。感じられるのは、自らの鼓動だけ。
 何度も歩いた廊下。
 何度も、日々重くなる足を引きずって歩いた廊下。
 なんとしても、娘に会わせてあげたかった。
 ただ、それだけだった。
 今日の病室は、なぜか遠い。
 すると、背後から咲恵の言葉が浪岡の神経に届いた。
「浪岡さん、母親は…………自分とその娘が、御世の血筋だったことを知っているんですか?」
 昨日咲恵が聞けなかったこと。
 そして浪岡もそのことに付いて説明していないことを思い出して応えた。
「いえ……まあ…………知らなければそのほうがいいことも、ありますから」

 ──……御世……どうしてその名前を…………

 浪岡がそう思い、それでもやがて辿り着いた先、そこにはベッドが二つ。
 一つは皺もないような真新しいシーツに包まれ、そしてもう一つ、理恵が珍しく体を起こし、背を向けて窓の外を眺めていた。
 誰が開けたのか、少しだけ開けられた窓からは、陽射しと緩やかな風。待合スペースとは違う暖かく感じられる空気の流れに、カーテンが僅かに揺れる。
 浪岡は中に入るが、咲恵は病室の入り口で足を止めたまま動かない。
 後ろの萌江は決して急かすようなことはしなかった。そんな時間の使い方が必要な時もあることを知っていた。思えば萌江自身は、例えそれが時間の間の空間であったとしても、母親と言葉を交わすことが出来ていた。そして、記憶の中にいつもいる。
 しかし咲恵の両親との時間は、あの時に止まったまま。
 それは、簡単に動くものではない。
 ゆっくりと、理恵の体が動き、首を回し始めた。
 同時に咲恵は、無意識の内に両手を首の後ろへ回すとチェーンを外し、そこに下がる〝水の玉〟を右手の中へ。
 もう、顔も覚えていない。
 それなのに、一七歳で別れた母の姿をそこに見ていた。
 病に冒され、痩せ、医療用のニット帽すらも大きく見えるほどに、その母の姿は小さかった。

 ──……あの頃は…………あんなに大きかったのに…………

 足を動かしている感覚はない。
 それでもゆっくりと近付いた。
 総てを理解していたのは咲恵だけではない。
 理恵も気が付いていた。
 すでに霞み始めた視界の中でも、自分の娘の顔を忘れるはずがない。
 何度も何度も繰り返し夢で見ていた。
 その娘は、目の前で崩れ落ちるようにして理恵の手を取ると、床に膝を着き、母親の布団に涙を零し続けた。まるで母親に縋り付いて泣き続ける子供のように。
 昨夜から咲恵は母親にかける言葉を考え続けていた。
 しかし、何も出てこない。
 伝えたいことが多過ぎた。
 やっと出てきた言葉は、一つだけ。
「…………ごめんなさい…………ごめんなさい…………」
 その光景に、浪岡も総てを理解した。
 まるで体の力が抜けてしまったかのような感覚に包まれながら、浪岡も込み上げてくるものを感じる。一つだけ、たった一つだけでも、やっと自分の役割が救われたような気がした。
 その浪岡の耳にも、理恵の柔らかい声は届いた。
「……謝るのは私……私とお父さんは、あなたを利用した…………辛い想いをさせた…………だから…………ごめんなさい咲恵…………本当にごめんなさい…………」
 咲恵は布団に顔を伏せたまま、首を横に大きく何度も振った。
 二度と聞けないと思っていた母の声。
 どう返せばいいのか分からないままに、その母の声が続く。
「……いま…………幸せ?」
 そして、やっと、ゆっくりと咲恵が顔を上げた。
「……うん…………幸せだよ」
 その声が、涙に滲む。
 まるでその言葉を待っていたのか、咲恵の右手から〝水の玉〟が滑り落ちた。
 床で音を立てることもなく、静かに床の上を転がる。
 しかしそのことに、咲恵も、誰も気が付いていない。
 分かっていたのは、病室の入り口に立っていた萌江だけだった。
 やがて〝水の玉〟は、ゆっくりと姿を消す。
 まるで空気に溶けていくように、その姿を隠した。
 それは、萌江だけが知っていること。

 ──……御世…………これが私からの…………あなたへのお返し…………


      ☆


 山の中。
 そこは、そう表現するほうが正しいだろうと思われる場所だった。
 一番近い人家でも歩いて数十分。お世辞にも近くはない。一応、家の前まで道路は繋がっている。
 春の訪れと共に、色々なことが動き出す。
 土に染み込んだ溶けた雪が草木を育て、空気を生み出していく季節。
 冬の厳しさに耐えた強さが芽吹く季節。
 緑に囲まれて生活していると、それが当たり前のことでありながらも、やはりこの季節には様々なことを感じる。
 萌江だけでなく、咲恵もそれは同じだった。
 もう日曜日に通う間柄ではない。毎日の時間を共有し、一緒にこれからの時間を作っていく。
 そして、一緒に幼い命を育てていく。
 名前はスズ。
 漢字は〝鈴〟になった。
 恵元(えもと)鈴。
 一つひとつは小さな音でも、その数が増えるほどに大きな音を奏でる鈴。
 萌江と同じ恵元の姓。つまり戸籍的には萌江が養子を迎えた形となり、生年月日は見付かった日。という形で清国会の力を利用して行政的な手続きがなされた。
 当面の問題は学校に通う年齢になった場合の通学だった。行政的に一番近い小学校でも一〇キロの距離。現段階では毎日車で送り迎えをするしかない。
 萌江も咲恵も今の土地と家を離れるつもりはなかった。たまたま見付かった家だったはずなのに、それにすら意味があったことを知った。
 意味があって、今のこの時間がある。
 だからこそ、鈴の存在にも必ず意味がある。
 二人の中のその考えは変わることがなかった。
 その鈴はお昼寝の時間。
 今日はリビングのテーブルを移動し、鈴の左右では西沙と杏奈も寝息を立てていた。リビングから外に繋がる縁側のガラス窓を開け放していても爽やかな暖かさ。
 陽が傾き始めていた。
 風は緩い。
 やがて暑い夏がやってくることなど想像も出来ないほど。
 やがて秋の寂しさが訪れ、厳しくも優しい冬がまた姿を見せる。
 その移り変わりが、これからどんなものを運んでくるのかは分からない。
 咲恵は子供の頃に比べて未来は見えていない。萌江が見えているのかどうか、咲恵も聞いてはいない。
 コーヒーの香りと共に、その萌江が、縁側に座る咲恵の隣に腰を降ろした。
「明日、お見舞いだよね」
 萌江はそう言いながらマグカップの一つを咲恵に渡す。
「うん、いつもごめんね」
 受け取りながらそう言い、咲恵はコーヒーの香りを吸いこんだ。
 そしてコーヒーを一口飲み込んだ萌江が応える。
「そんなこと言わないで。私は咲恵の選んだことが間違ってたとは思ってないから」
「ありがと。この間、鈴ちゃんも会わせることが出来たし、感謝してる」
 咲恵の母親の容態は落ち着いていた。一週間に二度ほどのペースでお見舞いには通っていたが、どれだけ時間が残されているのかは分からない。少なくとも萌江は何も言わない。咲恵もそれでいいと考えていた。
 その萌江が色の変わり始めた空を見上げて返していく。
「例え養子でも、孫かあ…………私たちはあの子の孫見れるのかなあ」
「……何者か分からない子供か……どんな大人になるのやら。私たちじゃなきゃ受け入れられるわけないね」
「他の誰とも違う人生なんて…………飽きなくていいでしょ」
「みんなそうだよ。いつも……そうだったでしょ?」
「それもそうか。ホントだ」
 薄らと暗さと共に青くなりはじめた空が、少しずつ赤くなっていった。雲の影が存在感を増し、緩やかにその姿を変化させていく。
「ねえ、もう一度確認させて」
 そう言って沈黙を破ったのは咲恵だった。
 しかしその言葉は萌江にまるで見透かされているかのように返される。
「普通だよ。人畜無害。ただの人間。どこにでもいる、普通の子だよ」
 誰もが考えること。
 鈴の正体。
 人間である保証が誰でも欲しい。
 通常の生殖の結果として産まれた人間ではない。
 本来なら有り得ない。
 しかしそれを萌江に聞いたところで、もちろん咲恵もその答えは予測出来ていた。
「…………そう……」
 僅かな自己嫌悪で咲恵は小さく返すだけ。
 しかし応える萌江の声は明るかった。
「もう何が普通なのか分からなくなってきたけど」
 萌江は笑みを浮かべながらコーヒーを口に運ぶ。

 ──……そうだった……これが萌江だった…………

 そう思うと、咲恵にもいつの間にか笑みが浮かぶ。
「でも、それでいいんでしょ?」
 咲恵のその言葉に、萌江は笑みを膨らませて応えていく。
「手間はかかるよ。かなり悪戯っ子だし」
「まあ、そういうものよね子供って」
「そ、私たちと同じ。何も変わらない…………スズの…………新しい人生が始まっただけ…………私はそう思いたい…………」
 どこか清々しさを含んだような、何か遠くを見るような、そんな萌江の横顔に、咲恵の顔が綻ぶ。
 返す口調も自然と柔らかい。
「まさかこんな人生になるなんて」
「そんなもんだよ。未来なんてさ」
「あら、萌江がそんなこと言うなんて」
 咲恵がそう言って笑顔を大きくした直後、萌江は外用のサンダルに足を通して立ち上がった。
 逆光でその背中の影が増す。
 そしてその影に隠れるような萌江の声。
「総てが妄想に思えてきたよ……もしかしたら誰かが作り出した世界の作られた命なのかもしれない。実はベッドの上で機械にでも繋がれてるのかもね。そして頭だけが動いてて…………」
「それは99.9%?」
「…………なんか違うか……だって、今この瞬間も私は咲恵を感じられる。咲恵は幻なんかじゃない」
「いいよ」
 咲恵は萌江の言葉を遮るように、言葉を繋いだ。
「……萌江が私を感じられるなら。だって…………私も今、萌江を感じられるから…………」
 萌江は振り向かずに少し間を空けた。
 そして上を向いたまま。
「じゃ、まだ付き合ってやるか」
 その萌江の背中に、咲恵は言葉にならない気持ちを向ける。

 ──……本当に……スズの産まれ代わりなの…………?

 ──…………それでも私は……あなたと…………

「ねえ、萌江、二度と聞かないから答えて」
 咲恵はその自分の声が僅かに震えていることは分かっていた。
 それでも聞きたい。
「……あなたは…………誰……?」
 萌江の返答は早かった。
「……上から読んでも下から読んでも恵元萌江…………覚えやすいでしょ」
 そして、振り返ったその満面の笑みは、逆光に乗った。

 〝火の玉〟はベッド脇。
 小さな箱に入れられたまま。


      ☆


 古い映画。
 もう何十年も昔のモノクロ映画。
 好きなシーンがある。
 キャラクターの寂しさを表現するために、しばらくその人物の背中だけをカメラが追いかけてた。
 背中は寂しい。
 なぜか、寂しく見える。
 だから、私は背筋を伸ばしたい。
 寂しく見えないように。
 背筋を伸ばして生きていきたい。



   心がどこにあるのか、誰も、いつも、見えなかった
   気持ちの行く場所も分からない
   目の前にあるものは静寂だけ
   それだけで良かった
   でも、だからこそ、生きていける

   いつまで生きるのかなんて、誰にも分からない
   だからこそ、誰もが静寂を求める
   命の終わる時
   その時

   その時は、いつも目の前
   だから
   生きていける
   だから
   生きていく
   いつか終わるその時まで

   だから

   またね、お母さん




       「かなざくらの古屋敷」    終
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