第十六部「丑の刻の森」第2話

文字数 8,684文字

 妃水(ひすい)が最初に子供を産んだのは一八の歳。
 神社の周りが薄らと雪に覆われる頃。
 産婆(さんば)は代々母親が務める。病院には行かず、神社での出産。
 よく言えば昔ながら。
 昔ならばそれだけで済むが、現代は出産届け等もあり、行政への手続きもある。
 しかし、代々その手続きはしていない。
 いわば、戸籍の無い一族。
 誰が死んでも、死亡届けの必要も無い。
 子供が産まれても学校には通わせず、誰もが神社だけで育てられる。
 食料は裏山で採れる山菜や野草、木の芽、近くの川で取れる魚。
 どうしても必要なものがあれば、定期的に顔を見せる他の神社の人間に頼む。もちろんその神社は清国会(しんこくかい)の関係。
 人が入ってこない深い森を有する山奥。
 そうまでしても、清国会(しんこくかい)にはこの神社を守る理由があった。
 山に巣食う〝念〟が必要だった。
 その〝念〟を守る為に、その一族が必要だった。
 しかし遥か昔から〝男根(おとこね)〟は邪心を生むものとされた。女性だけの(うし)刻参(こくまい)りによって深い念を作り上げてきた。男の存在は女性の念の邪魔になるとされてきた。
 〝妊娠の為の男〟以外は不要とされた。
 一族の娘が年頃になると、婿(むこ)養子が充てがわれる。その婿(むこ)養子は幼い頃に(さら)われ、雄滝(おだき)神社で育てられた者。
 一族に必要な娘は一人だけ。その娘を全力で守る。必要以上の人数は余裕を生み、その力を削ぐ。
 婿(むこ)養子を充てがわれた娘が女の子を産めば、婿(むこ)養子は用済み。
 しかし、妃水(ひすい)が最初に産んだのは男の子。
 自分が望まれていないことを知っているかのように、あまり大きな声では泣かなかった。
 母である美水(みすい)は寂しい目をするだけ。当然出産を喜ぶことはない。
「では妃水(ひすい)…………お願いしますよ…………」
 美水(みすい)はそれだけ言うと、無表情で立ち上がった。
 出産に立ち会うことが許されない婿(むこ)養子に、死産であると伝えに行く。
 (へそ)()を切ったばかり。妃水(ひすい)は震える体で上半身を上げようとするが、体の力は殆どが出産で削がれた後。
 隣には手足を僅かに動かしながら、小さく途切れ途切れに声を上げるだけの子供。未だ羊水(ようすい)に包まれたその姿を、妃水(ひすい)は懸命に〝物〟だと思うようにした。台所や屋根裏に巣食う(ねずみ)と同じだと思った。

 ──…………子供じゃない…………私の子じゃない…………

 妃水(ひすい)は枕の上の麻布(あさぬの)のタオルを掴んでいた。さっきまで自らの頭を支えていたタオル。自分の汗が染み込んだタオル。
 それを子供の顔に押し付ける。
 タオルから手に、手から体に、命の抵抗を感じた。
 鼓動を感じた。
 暴れる子供の小さな手が、妃水(ひすい)の腕に当たる。

 ──……小さな手…………小さな足……………………

 ──…………人じゃない…………
 ──……私が産んだ赤ちゃんなんかじゃない…………

 やがて、静かになった。
 もはや手も足も動かない。
 鼓動も感じない。
 それでも、僅かな温もりだけが麻布(あさぬの)から伝わる。
 体が震え始めた。

 ──…………どうして……涙が出るの……………………

 妃水(ひすい)は周囲の幾枚ものタオルを闇雲に掻き集め、動かなくなった子供を包んだ。
 障子を開け、板戸を開けると、外は薄暗い。時間は妃水(ひすい)には分からない。
 妃水(ひすい)は部屋の燭台(しょくだい)の下に置いてあったマッチを手にすると、裸足のまま雪を踏みしめる。
 出産直後。
 体力はほぼ無い。
 ゆっくりと足を前に出した。
 小さな石や枝が足の裏に刺さるが、もはや妃水(ひすい)にはその感覚すら伝わらない。
 それでも足の間を流れ落ちていく何かだけは感じる。
 ただただ歩き続け、無心になろうと努める。

 ──…………母上も…………同じことをしたの…………?

 それでも右手に抱いたタオルの塊から、まだ温もりを感じた。
 周囲から夥しい数の視線を感じる。視線を忙しなく配るが、目に映るのは月明かりに照らされた藁人形(わらにんぎょう)ばかり。
 まるで何かを吸い込むような暗い洞窟の入り口。
 妃水(ひすい)は吸い込まれるように入っていった。
 四つん這いになり、右手に子供を抱き、左手で足元を触りながら進み、穴を探す。
 大きな(くぼ)みで歩みを止めた。
 目を凝らすと、ゆっくりと闇の塊が現れる。
 妃水(ひすい)は、そのまましばらく動かなかった。
 妃水(ひすい)にとっては総てが初めての経験。洞窟の中に入るのも初めて。
 人間の命を奪ったのも初めて。

 ──…………ごめんね……………………

 罪悪感を認めた時、妃水(ひすい)はゆっくりと布の塊を穴に落とした。
 聞こえるのは、僅かな傾斜を滑り落ちていく音。そして、小さく鈍い音と共に、静かになった。
 外に出ると、空気が違った。それまでの重い雰囲気は無い。
 松明(たいまつ)燭台(しょくだい)(そば)にある()びついたバケツを手に取ると、近くの雪混じりの土を掻き集めた。スコップで土を掘ろうという発想すら浮かばない。両手が冷たさで硬くなっていく。
 何度か往復すると、マッチに火を灯す。しかし松明(たいまつ)にはなかなか火が着かない。
 洞窟の中に紛れ込んでいた細い枯れ枝を使い、やっと火が広がる。
 途端に、暖かさを感じた。

 それから一年と少し。
 春の香りを感じる頃。
 妃水(ひすい)は二人目を妊娠する。
 病院に行くわけではない。性別が分からないまま、日々と共に不安だけが増していく。
 大きくなっていく自分のお腹に、喜びは無い。
 やがて、音水(ねすい)が産まれた。
 笑顔が浮かびかけた妃水(ひすい)に向けて、美水(みすい)はまたしても寂しい表情を向ける。そして赤ん坊を湯の張った(おけ)で洗い始めた。
 妃水(ひすい)も気付く。

 ──……この子にも……同じ運命を背負わせる…………

 そこに美水(みすい)の声。
「……よく頑張りましたね…………この子は我らの運命を継ぐ子です…………大事に育てていくのですよ…………」
 しかし、この後のことは言わなかった。

 一週間以内にしなければならないことがある。
 それは体力がいること。
 そして、相手は子供とは違う。

 出産から五日後。
 夜。
 妃水(ひすい)は夫の角由(かくよし)を裏山に呼び出していた。
 久しぶりに登る緩い山肌。
 夜になると空気が重い。
 独特の息苦しさを感じる。
 子供の頃から、森の藁人形(わらにんぎょう)に触ってはいけないと言われて育った。
 月に一度ほどの頻度で、深夜に釘を打ち付ける音。
 (うし)刻参(こくまい)り────誰かが誰かを呪う儀式。
 しかしその誰かが去っても、そこには〝念〟が残される。残され続けた。決して消えない。
 足が重い。
 山を覆う〝何か〟が足に絡みつく。
 洞窟の入り口はすぐそこ。
 今回は松明(たいまつ)に火を着けるのにも戸惑わないはず。
 持ち物は懐中電灯とマッチ、そして巫女(みこ)服に使用する腰紐(こしひも)。丈夫で、かつ細すぎない。あまり太い(ひも)は向かないと美水(みすい)から教わっていた。長さも丁度いい。
 妃水(ひすい)松明(たいまつ)を背に、自分の登ってきた山肌を見下ろした。
 遥か下に、小さな懐中電灯の灯りがチラつく。
 その登ってくる夫を待つ間、不思議と妃水(ひすい)の気持ちは落ち着いていた。

 ──……あの時とは違う…………愛情なんかない…………

「…………お待ちしておりました」
 肩で息をする角由(かくよし)に、妃水(ひすい)は涼しげな声を掛けた。
 角由(かくよし)は大きく息を吐き出して返す。
「……ここには……来てはいけないと聞いていましたが…………」
「……はい…………今夜は特別な儀式がございます…………お手伝いをお願い致したく、ご足労願いました」
「…………そ……そうでしたか…………」
「どうぞ、中へ…………」
 妃水(ひすい)は懐中電灯の(あか)りだけを頼りに洞窟へと入っていく。
 角由(かくよし)は未だ息を切らしたまま。
 初めての暗い洞窟に圧倒されながらも妃水(ひすい)を追いかける。
 しだいに天井が低くなった。
 腰を落としながら、膝も曲がったまま。
 やがて、妃水(ひすい)角由(かくよし)も完全に腰を落とし、穴の入り口を見下ろした時、角由(かくよし)は手を着いて穴を見下ろしていた。中を照らしながら唾を飲み込む。
「深い穴ですね…………この穴は…………」
 首を回すが、隣にあったはずの妃水(ひすい)の顔が無い。
 妃水(ひすい)角由(かくよし)の斜め後ろ。
 両手に腰紐(こしひも)を巻き付けていた。
 それを角由(かくよし)の背後から首にかけると、そのまま手を交差させ、力の限り引く。
 美水(みすい)から教わっていた。(ひも)は細いと自分の指が痛くなるから力が入りにくい。太いと首の肌に食い込みにくく、かつ相手が指を入れやすくなる。腰紐(こしひも)が丁度いいと。しかも腰紐(こしひも)は丈夫だからと。
 低い呻き声を出しながら、角由(かくよし)の体が波打つ。
 両足を伸ばしたその体に、妃水(ひすい)は馬乗りになって背中に足をかけた。
 時間が掛かった。
 〝あの時〟とは違う。
 そして、やがてその体は静かになった。
 それでもすぐには(ひも)は外さず、妃水(ひすい)角由(かくよし)の心臓の音を確かめた。
 何も聞こえない。
 聞こえるのは自らの激しい鼓動だけ。
 (ひも)を首に巻いたままの角由(かくよし)の体を、妃水(ひすい)は穴に押し込むように落とすと、外に駆け出す。
 息苦しかった。
 いつの間にか呼吸が荒い。
 すぐにバケツを手に、スコップで土を掘る。
 いくつもの視線を感じた。大量の視線が交互に迫ってくる。

 ──……私は悪くない……私は悪くない…………

 一時間後、妃水(ひすい)松明(たいまつ)に火を灯す。
 火の粉を振り撒きながら、その灯りは周囲を明るく照らしていた。
 もし、音水(ねすい)が病気で命を落とすようなことがあっても、次の婿(むこ)養子を招けばいいだけ。





 綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)雄滝(おだき)神社にいた。
 もう二ヶ月になる。
 修行の毎日だったが、その大半は萌江(もえ)たちの動きを探るための祈祷(きとう)に費やされた。
 それは一重(ひとえ)に、誰にも〝見えなかったから〟に他ならない。
 雄滝(おだき)神社の人間を持ってしても居場所も動きも見えない。誰かに邪魔されていることは明白だったが、その足掛かりとして、血の繋がりの濃い西沙(せいさ)の姉である綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)の力が求められた。
 その計画の中心となったのは清国会(しんこくかい)の総本山である雄滝(おだき)神社を(まも)滝川(たきがわ)家の当主、恵麻(えま)
 萌江(もえ)を手に入れるためならば、咲恵(さきえ)西沙(せいさ)の犠牲はやむを得ない。二人を依代(よりしろ)とする御世(みよ)京子(きょうこ)の存在を消さなければ、萌江(もえ)清国会(しんこくかい)の頂点に座らせることは出来ないだろうと考えていた。
 しかし綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)を介しても、未だに見付けることが出来ずにいた。
 そしてその夜も祈祷(きとう)は続いた。
 恵麻(えま)を中心に妹の陽麻(ひま)が横に着く形で祭壇に向かっていた。その二人の背後には綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)
 松明(たいまつ)の火の粉が辺りを照らす。
 やがて、恵麻(えま)呪詛(じゅそ)の声が本殿を揺らす中、涼沙(りょうさ)が体を前後に揺らし始めた。
 神楽鈴(かぐらすず)の音が響く。
 涼沙(りょうさ)の顔や首から大量の汗。
 隣の綾芽(あやめ)はすぐに気が付いたが、決して動じない。初めてではなかった。
 というより、動じてはいけなかった。以前にこうなった時、涼沙(りょうさ)に寄り添った綾芽(あやめ)恵麻(えま)に叱責されていたからだ。
 そして、そのまま涼沙(りょうさ)は床に倒れ込む。
 綾芽(あやめ)は一瞬だけ顔を向けかけて、恵麻(えま)の反応を伺う。
 恵麻(えま)には、背中から総てが見えていた。その恵麻(えま)呪詛(じゅそ)が止んだかと思うと、小さく言葉を発する。
綾芽(あやめ)…………何が見えたのか…………後で報告するように」
 恵麻(えま)陽麻(ひま)は立ち上がり、そのまま祭壇を出ていく。
 綾芽(あやめ)はその二人の姿が見えなくなると、すぐに(ふところ)から手拭いを取り出して倒れる涼沙(りょうさ)の汗を拭った。
 意識はある。気を失っているわけではない。
 荒い息遣いが痛々しかった。
涼沙(りょうさ)……部屋に行きましょう。まずは休まないと…………」
 綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)に肩を貸し、寝室まで運ぶ。
 とても会話の出来る様子ではなかった。まして見えた映像など今の綾芽(あやめ)にはどうでもいい。それよりも、雄滝(おだき)神社に来てから少しずつ痩せていく涼沙(りょうさ)のことのほうが心配だった。
 涼沙(りょうさ)巫女(みこ)服を脱がせると、未だ全身が汗で覆われたまま。綾芽(あやめ)は全身のその汗を拭った。

 ──……私はどうすればいいの…………西沙(せいさ)……………………

 二人の母である(さき)雄滝(おだき)神社を訪れたのはその頃。
「これはこれは…………娘の様子を見に来ましたか?」
 参道を歩く(さき)に声を掛けてきたのは、恵麻(えま)陽麻(ひま)の母、前当主の陽恵(ひえ)だった。
 (さき)はすぐに深々と頭を下げる。
 陽恵(ひえ)が近付きながら続けた。
「今は湖のほうの滝に行っております…………本殿で待っているがよい」
「左様でしたか……では失礼致します」
 すると、すれ違いざま、陽恵(ひえ)(さき)の耳元で(ささや)く。
(おの)が子を心配するのは血を分けた親として当然のこと…………それは(われ)も同じです」
 陽恵(ひえ)はそれだけ言うと、(さき)から離れていった。
 清国会(しんこくかい)(くらい)ではもちろん(さき)御陵院(ごりょういん)家より滝川(たきがわ)家が上。その滝川(たきがわ)家の前当主が下である(さき)に対して〝同調〟などするはずがない。
 (さき)陽恵(ひえ)の言葉の真意を計りかねた。
 それでも、途端に不安が押し寄せる。二ヶ月の間、会えないだけではなく電話も許されなかった。今日は恵麻(えま)に呼び出されたから来れたようなもの。感謝こそすれ、不安が無いわけではない。
 (さき)は本殿に上がると、入ってすぐの板間に腰を降ろした。
 大きく開け放たれているのは正面だけではない。左右まで板戸が開かれ、神社ならではの広大な開放感の中を爽やかな風が過ぎていく。
 しかし(さき)は、それに誤魔化されないほどの強い〝念〟を祭壇から感じていた。
 ただ強いだけではない。
 しかしその正体は見えない。
 ここで何が行われているのか、もちろん(さき)は知らなかった。綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)を利用することで西沙(せいさ)を切り口としたいことは理解出来た。しかしその上で恵麻(えま)西沙(せいさ)をどうするつもりなのかは見えなかった。
 西沙(せいさ)(さき)から去っていった。
 それは変わらない。
 相対する存在となっていることは事実。しかも御世(みよ)京子(きょうこ)依代(よりしろ)として萌江(もえ)を守っている。清国会(しんこくかい)として萌江(もえ)を招き入れることは必要なことだが、その時に清国会(しんこくかい)咲恵(さきえ)西沙(せいさ)をどうするつもりなのか。(さき)はその真意を恵麻(えま)から聞き出せないまま。
 やがて、参道に背を向ける(さき)の耳に足音が届いた。
 小さく顔を向けると、視界の端に恵麻(えま)を先頭に三人の姿。
 (さき)は体を回して深々と頭を下げた。その瞬間に視界に残ったのは顔を伏せたまま歩く綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)(さき)の不安が膨らむ。
 そこに聞こえるのは恵麻(えま)の声。
(さき)か……よく来た」
 そして恵麻(えま)は階段を上がり、頭を下げたままの(さき)の横を通り過ぎる。
 (さき)が僅かに顔を上げると、そこには階段の下から(さき)を見上げる綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)。その二人の表情には不安と安堵が混ざり合う。特に(さき)が気になったのは涼沙(りょうさ)の痩せ方。やつれてさえ見えた。
 しかし(さき)は振り切る。
 体を回し、祭壇の前に座る恵麻(えま)に向ける。背後からは二人が階段を登る足音。
 そこに恵麻(えま)の声。
「……よくないな…………二人を育てたのはお前ではないのか? (さき)…………」
 (さき)は軽く頭を下げながら応える。
「…………はい……」
 その(さき)の横に綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)が座った。
西沙(せいさ)との繋がりを求めたが…………まるで成果が無い…………血の濃さは関係ないということか?」
 その恵麻(えま)に返す言葉に困った(さき)が、小さく口を開きかけた時、その耳に聞こえたのは涼沙(りょうさ)の声だった。
「…………私なら……出来ます…………」
 その声に、恵麻(えま)が微かに首を回す。その鋭い目が涼沙(りょうさ)に向いた。
 そして小さく。
「…………言うか……」
「姉のサポートがあれば……私には出来ます。現段階で西沙(せいさ)に一番近付けるのは私だけなはず」
 事実だった。
 涼沙(りょうさ)でも完全に見えていたわけではない。しかし一番近付けているのは涼沙(りょうさ)だけ。
 もちろん恵麻(えま)もそれは分かっていた。しかし、いつも後一歩。そして、それが涼沙(りょうさ)の体力を削っていることも理解している。
 その恵麻(えま)はすぐには応えない。
 静寂が緊張を刺激する。
 その静寂に混ざるのは、再びの涼沙(りょうさ)の声。
「……私が……………………西沙(せいさ)の代わりに、ヒルコ様の依代(よりしろ)に…………」
 それに返す恵麻(えま)の声は、立ち上がって振り返るのと同時だった。
「貴様(ごと)きがヒルコ様と────‼︎」
 恵麻(えま)の強い足音が床を揺らす。
 自分に迫るその姿に、涼沙(りょうさ)が僅かに体を後ろに下げた時。
 涼沙(りょうさ)の前には、体を(ひるがえ)し、片膝を着いて半身だけ乗り出した(さき)の姿。
 (さき)涼沙(りょうさ)に正面を向け、背中を恵麻(えま)に向けていた。
 その背中の前で、恵麻(えま)が足を止める。
 (さき)は立てた膝に両手を乗せたまま、目を閉じていた。
 周囲の風さえ止まる。
 動くのは、横で見ている綾芽(あやめ)(まぶた)だけ。
 綾芽(あやめ)の中に何かが込み上げる。
 色々なものが目から(あふ)れそうになっていた。
 そして、最初に口を開くのは、(さき)
「……恵麻(えま)様も…………お分かりのはず…………新たな計画は動いております…………どうか…………今は、我が娘たちを存分に御利用下さい…………」
 (さき)は、細く目を開き、続ける。
 その目に映るのは、怯えた表情の涼沙(りょうさ)
「…………恵麻(えま)様も……………………何卒(なにとぞ)……御自愛(ごじあい)を……………………」
 そして(さき)は、目だけを動かし、綾芽(あやめ)に向けた。

 ──……あなたにも…………迷いがあるのですね……………………

「分かった…………(さき)…………」
 (さき)の背中に響く、恵麻(えま)の低い声。
 それが再び響く。
「しばらくはお前も留まれ…………結果を楽しみにしているぞ」





 そこに辿り着いたのは早朝。
 微かに空が明るくなっていた。
 途中のサービスエリアの駐車場で僅かに仮眠を取ってはいたが、誰も満足に熟睡など出来ないまま。
杏奈(あんな)ちゃん、もう少し行くと左側に山道の入り口みたいなスペースがあるから、そこで」
 咲恵(さきえ)は車の後部座席から、運転席の杏奈(あんな)にそう声をかけた。
 杏奈(あんな)は道路の左側に意識を向けながら応える。
「とすると、ガードレールの切れてる所が…………」
 三人が目指す弁財天(べんざいてん)神社は、地図に載ってはいるが、そこまでの道が無い。少なくとも地図上には記されていなかった。
 ヒントになるものはネットの情報だけ。僅かだが、(うし)刻参(こくまい)りの情報の中に〝しばらく道の無い山の中を歩かなければならない〟との情報があるだけ。公然とルートの入り口が書かれているものは見付けられなかった。
 頼りになるのは西沙(せいさ)の痕跡だけ。
 幸い、萌江(もえ)咲恵(さきえ)には難しいことではなかった。そして二人とも、今は明確に西沙(せいさ)を感じる。はっきりとした言葉などではない。それでも二人には西沙(せいさ)が見えた。〝感じる〟としか表現のしようのないものだ。
 その痕跡が、西沙(せいさ)がわざと残したものだと信じたかった。
「ここですか?」
 杏奈(あんな)が車を停めたのは、舗装されたような場所ではない。車が二〜三台停められるだけの森の入り口。僅かに獣道(けものみち)とも言えるような所が森の奥に続いているだけ。看板があるわけでもなく、知らなければ通り過ぎてしまうような所だった。
「……うん…………西沙(せいさ)ちゃんに呼ばれてるよね…………やっぱり……」
 咲恵(さきえ)がそう呟くように口を開くと、隣の萌江(もえ)が返した。
「…………呼ばれなくても行くけどね。西沙(せいさ)だけに背負わせる気はないよ」
 萌江(もえ)はドアを開けて外に出ると、続けた。
「みんな……〝私〟に会いたいんでしょ…………出向いてやるよ」
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)が〝見えて〟いたことで、今回は全員がアウトドア用のブーツだった。しかも全員がジーンズに、上には短めの厚手のジャケット。まだ朝。しかも山の中。いずれは訪れる予定だった場所だ。事前に用意していたことが功を奏した。それでも鞄を持っているのは杏奈(あんな)だけ。いつもの鞄のストラップをリュックタイプに切り替えていた。萌江(もえ)咲恵(さきえ)が持っているのは財布とスマートフォン、水のペットボトルだけ。
 すぐに道そのものが無くなることも分かっていた。しかし迷うことはない。目に見えない西沙(せいさ)の痕跡を辿ればいい。
 一番後ろを歩く杏奈(あんな)にも不安は無い。萌江(もえ)咲恵(さきえ)に着いていけば問題は無いと思えた。不安なのは自分の体力だけ。

 ──……西沙(せいさ)さんが待ってる…………

 杏奈(あんな)はそれだけを考えた。

 そして森の中を登り続けること二時間。
 やっと三人の前に、石の階段が姿を表す。
 幅は狭い。人一人がやっと。その左右を深い森が遥か上まで続いている。
 すでに明るくていいはずの時間にも関わらず、暗い。
 森の木々の高さが時間を隠す。
 三人は息を切らしながら階段を見上げていた。
 それぞれペットボトルの水を飲み込み、気持ちを休ませる。誰もが水の残りは少ない。それでも真夏でないことが唯一の救いだった。
 すでにジーンズの膝から下とブーツは草木の朝露(あさつゆ)で濡れていた。結果的に足は重くなる。
「……西沙(せいさ)を利用してっていうよりさあ…………」
 そう静かに口を開いた萌江(もえ)が続ける。
西沙(せいさ)自身が私たちに何かを見せようとしてるみたいだね…………西沙(せいさ)が、なのか…………西沙(せいさ)の中の誰かなのか…………」
 返すのは咲恵(さきえ)
「そう考えたほうが自然かもしれない。しっくりくる」
咲恵(さきえ)はどう? …………まだ咲恵(さきえ)だよね」
「今はね…………でも安心して。例え誰が出てきたって、〝私たち〟はあなたを全力で守る…………」
 しかし、そんな咲恵(さきえ)の言葉も、萌江(もえ)には不安材料だった。

 ──…………咲恵(さきえ)を犠牲になんかしない……………………

 萌江(もえ)がそう思った時、咲恵(さきえ)の声が続いた。
京子(きょうこ)さんだって…………自分の命を賭けて萌江(もえ)を救った…………だから────」
「────だから────」
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)の言葉を遮った。
 そして続ける。
「……だから…………私も…………咲恵(さきえ)を守る…………全力で…………」
 すると、咲恵(さきえ)が動いた。
 萌江(もえ)に近付く。
「…………うん…………」
 咲恵(さきえ)の小さい声が、萌江(もえ)の耳に響いた。
 咲恵(さきえ)の唇は柔らかい。
 萌江(もえ)は、その唇を離したくなかった。
 一度咲恵(さきえ)から離した唇は、再び萌江(もえ)へ。
 すると、背後から萌江(もえ)に抱きついたのは杏奈(あんな)だった。
 その杏奈(あんな)の声が、二人の神経をくすぐる。
「……大丈夫ですよ…………私たちなら…………大丈夫です…………」
 張り詰めた何かが緩んでいく。
 それに合わせたかのように、緩やかな風が吹き始めていた。




            「かなざくらの古屋敷」
    〜 第十六部「丑の刻の森」第3話(第十六部最終話)へつづく 〜
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