第二三部「消える命」第1話

文字数 8,392文字

    水は下に落ちるもの
          広がるもの
     火は上に登るもの
            広がるもの
        歴史の中で
           その刹那(せつな)至高(しこう)なり





 応仁(おうにん)元年。
 西暦にして一四六七年。
 五月。
 幕政の中心的存在でもあった守護大名(しゅごだいみょう)────山名宗全(やまなそうぜん)五辻通大宮東(いつつじとおりおおみやひがし)に本陣を置く。
 その山名(やまな)勢を「西軍」。
 対する同じく守護大名(しゅごだいみょう)細川勝元(ほそかわかつもと)を「東軍」。
 幕府を東西に分けた争いが始まる。
 その戦火はやがて周辺諸国にも飛び火し、長きに渡る大乱となった。
 後の戦国時代への布石(ふせき)とも言われる〝応仁(おうにん)(らん)〟。
 戦火の中心となったのは京都。
 (いくさ)が始まってからの(きょう)(みやこ)は、血生臭いと噂されたという。
 暗い時代の始まり。
 通りには死体がいくつも並び、火災も日常となっていた。
 そんな(きょう)(みやこ)にやってきたのは、一人の宮司。
 滝川青洲(たきがわせいしゅう)────(よわい)は二五。
 (きょう)(みやこ)からは遠く、地方の小さな神社────雄滝(おだき)神社から訪れていた。
 雄滝(おだき)湖の湖畔で、まるで雄滝(おだき)湖を守るようにひっそりと建っていたその神社は、地元の人間でも知らぬ者のほうが多かった。
 いわゆる参拝客が訪れるような場所ではない。
 雄滝(おだき)湖は遥か昔から地元の貴重な水源となっていた所。かつて、そこに鬼が現れたという。その鬼が湖の水を()き止めて困っていた所、一人の宮司が現れて鬼を退治した。そして二度と鬼が現れないように、湖を守る為に雄滝(おだき)神社を作った。それ以来、神社は(はら)(ごと)専門の神社としてそこにあった。
 現在の当主は滝川東州(たきがわとうしゅう)青洲(せいしゅう)より七つ年上の兄。
 兄弟は混沌とした世の中を(うれ)い、(みかど)(たてまつ)って幕府を正しい道に導く為に新しい勢力が必要だと考えた。
 古くから()(もと)に根付いてきた〝神道(しんとう)〟をまとめ上げ、強いては()(もと)がまとまる為の道筋を作りたかった。
 清国会(しんこくかい)────その組織の賛同者を集め、同時に(きょう)(みやこ)の現状を見てくる事。それが青洲(せいしゅう)に課せられた使命。
 すでに青洲(せいしゅう)はいくつもの神社を周り、神職に携わる者達が今の現状を危惧し、(うれ)いていることを知った。そしてどの神社からも悪い反応は聞かれない。しかし手応えを感じながらも、やはり雄滝(おだき)神社の知名度の低さが最後の一歩を踏み止まらせているように感じた。
 もう一歩に繋がらないもどかしさ。

 ──……神の名の下でも……必要なのは権力だというのか…………

 そんな青洲(せいしゅう)(みやこ)郊外の小さな神社を訪れた帰り、一人の少女と出会う。
 死体の腐臭が漂う通りの(かたわら)、細い路地の中、二人の男達がその少女を広い通りへと引きずる姿に、青洲(せいしゅう)は足を止めた。周囲の人々は足を止めかける程度。関わり合いになりたくないとでもいうように離れていく。
 十歳程だろうか。少女はあちこちが擦り切れた使い古した一重(ひとえ)だけの着物。浴衣の様に見えるが泥に塗れて(がら)も分からない。肩ぐらいまでの髪の毛はもちろん切り揃えられてなどいない。幾重(いくえ)にも絡まって見えるその髪を引っ張っている男の一人が声を荒げる。
「手間を掛けさせるな! 行く所など無い身の上が!」
 少女は裸足のまま踏ん張るが、当然のように大人の男の力には敵わない。
 しかし、少女の髪を掴む男の手が一瞬だけ緩んだ────ように青洲(せいしゅう)には見えた。
 男が僅かに(ひる)んだ直後、青洲(せいしゅう)は無意識に口を開く。
「もし」
 男達が振り返ると、そこには狩衣姿(かりぎぬすがた)の神職と思しき男の姿。その姿に、男達も無下に声を荒げづらいのか、鋭い目だけを向けた。
 そして青洲(せいしゅう)が続ける。
「まだ幼い子供ではないか」
「あんたみたいな御人(ごじん)には関係の無いことだ」
 男の一人は吐き捨てるようにそう言う。生きる世界が違うとでも言いたげな表情を向け、再び少女の髪を乱暴に掴んだ。
「行くぞ」
「その子が何をしたと言うのだ」
 青洲(せいしゅう)のその問いに、男は溜息を()いて応える。
「あんたみたいな人だって遊郭(ゆうかく)ってものくらいは知ってるだろ? こいつは店から脱走したのさ」
 とは言え少女はまだ幼い。売られた子だろうかと青洲(せいしゅう)は考えた。そういったことに詳しい程、青洲(せいしゅう)も世の中を知らない。
「そうであったか……母親はおらぬのか」
 こんな言葉しか出てこなかった。青洲(せいしゅう)は自分の(あさ)はかさを恨んだ。
「母親? 何年も前に身受けしてこいつを捨てたのさ。それからこいつは店の物だ。それともあんた、(のみ)だらけのこの娘を身受けでもしてくれるのかい?」
 男はそう返すと、嫌な笑みを浮かべて続けた。
「もういいだろ? 俺達も仕事なんだ」
「良い。(いく)らだ」
 青洲(せいしゅう)のまさかの一言に、男達は目を見開く。
 近付く青洲(せいしゅう)に一歩下がっていた。
「おい……冗談だろあんた」
 青洲(せいしゅう)(ふところ)から紫の巾着袋(きんちゃくぶくろ)を取り出すと、男の目の前に差し出して返す。
「旅金の総てだ。受け取れ」
 男が呆然とそれを手に取ると、ずっしりと重い。すぐに中を覗き込む。
 青洲(せいしゅう)が続けた。
「娘は死んでいたことにすれば良い。その金は貴様達が山分けにすれば損はあるまい」
 男達は途端に表情を変えた。作り笑顔で頭を下げながら小走りに去っていく。

 ──……金さえ貰えたら関わる気は無いか…………

 そう思った青洲(せいしゅう)を、半ば呆然と少女が見上げていた。
 その泥だらけの顔に視線を落とすと、青洲(せいしゅう)は表情を和らげる。
(あん)ずるな。旅金はまだある」
 差し出した手を、少女が強く握った。

 陽が傾いていた。
 郊外の宿屋が並ぶ通りに、点々と明かりが灯り始める。
 青洲(せいしゅう)は数日前に利用した宿屋に向かっていた。それなりの規模の宿屋だった。血生臭く、閉まった店の多い中で生き残っていた財力のある所でもあるのだろう。暗くなってからも人の出入りと活気があった。世の中が騒乱で疲弊しているとはいっても、回る場所では金は回る。
 青洲(せいしゅう)はその店の暖簾(のれん)(くぐ)った。
「すまぬが、今宵(こよい)も世話になりたい」
 すると、満面の笑みで出迎えた女中(じょちゅう)が小さく悲鳴を上げる。身なりの整った神職姿の青洲(せいしゅう)の隣に見窄(みすぼ)らしい子供がいては無理もないことだろう。どう見ても町外れに倒れ込んでいる宿無し人にしか見えない姿。
「申し訳無いことだが、この娘を風呂に入れてやってはくれまいか。手頃な着物も頼みたい。宿代は倍出そう」
 それを聞いていた店の主人が奥から飛び出してきた。そこそこの年齢に見えるが、生きることに疲れているほど老けてはいない。主人は青洲(せいしゅう)に満面の笑みを浮かべる。
「これはこれは宮司様。かしこまりました。すぐに…………おい、お前達!」
 振り返って女中(じょちゅう)に声を張り上げる。
「早くしないか! お風呂とお部屋と……御食事の御用意だ!」
 こういう時の商人(あきんど)の動きは早い。

 ──……さすがは(きょう)(みやこ)だな…………

 部屋に夕食の御膳(おぜん)が運ばれてきても、青洲(せいしゅう)は少女が来るのを待った。
 なぜ少女を救ったのか、静かな部屋の中で青洲(せいしゅう)は考えていた。同じように辛い目に会っている人々は大勢いるだろうということは青洲(せいしゅう)にも想像がつく事。その一人一人を救っていては切りが無いことも分かっていた。もっと広い観点で見なくてはならなかった。
 総ての目的は(みかど)を中心に平穏な世の中を作り出す事。

 ──……私も……疲れていたのだろうか…………

 青洲(せいしゅう)は自らの不甲斐(ふがい)なさを悔いた。
 同時にこうも思う。

 ──……目の前の一人を救えずに…………何を救えると言うのか…………

 青洲(せいしゅう)は神職に携わる人間として、自らの感性に賭けた。
 程なくして、(ふすま)が開く。
 (あさ)の葉の(がら)浴衣(ゆかた)。三角形を集めた六角形が(あさ)の葉を模したもの。三角形には魔除けの意味があるという。その三角形を集めて形作られた六角形はより強力なものとされた。よく目にする(がら)とはいえ、その多くには意味が込められている。
 青洲(せいしゅう)は立ち上がると、(ふすま)を閉めようとした二人の女中(じょちゅう)に腰を落としてお金を渡した。
「御苦労を御掛けいたしました。これで新しい着物でも都合してくだされ」
 少女がよほど暴れたのか、女中(じょちゅう)達の着物が酷く濡れていたからだった。
 女中(じょちゅう)が笑顔で(ふすま)を閉めると、青洲(せいしゅう)も席に戻って少女に声を掛ける。
「座ってくれ」
 大人しく御膳(おぜん)の前に正座をする少女の目は、その料理の数々に目を奪われていた。
「肌を見れば分かる。しばらく食べていないのであろう。好きなだけ食べるが良い」
 少女は(はし)も取らずに手掴みで食べ始めた。
 作法(さほう)というものに触れたことがないままに育てられたのだろう。

 ──……この子は何も悪くない……教える者がいなかっただけだ…………

 一通り食べ終わった頃、青洲(せいしゅう)が口を開いた。
御主(おぬし)……名前はあるのか?」
 すると、少女は湯呑み茶碗の冷めた白湯(さゆ)を飲みながら応える。
「…………スズ……」
「スズか……付けてくれたのは…………」
「知らん……そう呼ばれていた」
「そうか…………しかしその名が付いた事には意味があるもの…………どんな事にも意味があるのだ」
 少女を捨てたという母親かもしれないと思ったが、青洲(せいしゅう)は母親の話には触れなかった。
 捨てたのか、捨てさせられたのか、それは青洲(せいしゅう)には推測の域を出ない事でしかない。
 すると、スズと名乗った少女が口を開いた。
「貴様も私が欲しいのか?」
 その大人びた口ぶりに、青洲(せいしゅう)は無意識に身構える。
 スズが続けた。
「私のような子供の体で欲を満たしたいのであろう? 好きにすればよい。(ぜに)さえくれれば不満は無い。店を逃げてからはそうやって生きてきた……男は皆、同じだ…………」
 スズは手で畳を(さす)ってさらに言葉を繋げる。
「畳の上ならば体も痛くはあるまい」

 ──……何ということだ…………

 青洲(せいしゅう)の体が僅かに震えていた。

 ──…………こんな世に…………誰がしたのだ…………

 それは怒り以外の何物でもなかった。
 震える唇を噛み締める。

 ──……早く(みかど)(たてまつ)って平穏な世にしなければ…………清国会(しんこくかい)で…………





 早朝。
 湿度が低いからか、冷え切った空気。
 蛭子(ひるこ)神社の空には、細かな雪が舞い続けていた。
 その数が少しずつ増え、なおもゆっくりと落ちていく。
 風は無い。
 まるで、空が雪の姿を借りて落ちてくるような光景だった。
 本殿の階段に右足をかけた萌江(もえ)と、それを見下ろすような(さき)の間に挟まるのは、その雪だけ。
 そして、萌江(もえ)の目の前の空間だけが(ゆが)んでいた。
 薄らとしたその(ゆが)みは、しだいに膨らんでいく。
 萌江(もえ)の低い声が雪を溶かす。
「……咲恵(さきえ)を返せ…………」
 その場の雰囲気はあっという間に萌江(もえ)掌握(しょうあく)され、(さき)は明らかに気持ちを掻き乱されていた。
 気持ちで負けるということがどんな意味を持つのかは(さき)にも分かっていること。しかし目の前の萌江(もえ)の姿は、今まで知っているはずの萌江(もえ)のものとは明確に違った。
 夜通し呪禁(じゅごん)を唱え続けた疲労もあっただろう。しかも体力的なものだけではない。集中させた精神も明らかに疲弊(ひへい)していた。しかし今の萌江(もえ)から感じるものはそれを超えていた。
 気持ちで感じる違い。
 脅威(きょうい)異形(いぎょう)、そして神々(こうごう)しさ。

 ──……金櫻(かなざくら)家……最後の末裔(まつえい)…………

 そんな言葉が(さき)の頭に浮かぶ。
 分かっていること。しかし、(さき)は初めてその意味に恐怖した。
 (さき)金櫻(かなざくら)家の頂点を京子(きょうこ)であると判断していた。それは京子(きょうこ)が総ての中心にいると判断したからに他ならない。そしてその判断は御陵院(ごりょういん)家だけでなく雄滝(おだき)神社の判断でもある。つまりは清国会(しんこくかい)の意向。
 そして(さき)京子(きょうこ)を求めた。京子(きょうこ)依代(よりしろ)とする咲恵(さきえ)を求めた。
 以前、一度だけその真意を確かめようとしたことがあったが、その時も京子(きょうこ)は姿を現さなかった。結局何も分からないまま。
 最終的に、御世(みよ)(はば)まれた。
 京子(きょうこ)が一番の力を持っていると考えていた。同時に一番恐れるべきもまた京子(きょうこ)だったはず。
 萌江(もえ)はあくまで京子(きょうこ)清国会(しんこくかい)からの目をごまかすための存在でしかないと考えた。そうでなければ、子供を産めない体であったはずの京子(きょうこ)萌江(もえ)を産めるはずがない。
 いわば〝(まぼろし)〟。
 同時にそれは京子(きょうこ)の恐ろしいまでの能力を表してもいること。
 京子(きょうこ)は肉体を失っただけ。今も依代(よりしろ)である咲恵(さきえ)の中で生きている。そして総ての中心にいる。清国会(しんこくかい)はそう考えた。
 しかし、その京子(きょうこ)は未だ姿を現さないまま。
 さらに、(さき)の目の前の萌江(もえ)の姿は、明らかに京子(きょうこ)を超越したもの。
 (さき)恵麻(えま)の考えが間違っていたのか、それとも(さき)を迷わせるために見せている幻か。
 (さき)は目の前の萌江(もえ)に、明らかに恐怖を感じていた。
 恐れは迷いを生む。迷いは(けが)れを生む。そして(さき)の中の(けが)れは、すでに萌江(もえ)見透(みす)かされていた。
 その萌江(もえ)がゆっくりと口を開く。
「……私には総ての力がある……時を越えることも……貴様の意識を惑わすことも…………」

 ──…………? まさか…………

「…………御世(みよ)か……」
 (さき)は自分のその声に、心臓の鼓動が落ち着いてくるのを感じながら続けた。
「貴様…………小賢(こざか)しい娘よ……姿を見せい! 貴様が総ての元凶であろうが!」
 (さき)は気が付く。
 萌江(もえ)の姿の前にある(ゆが)み────その〝結界〟は、前日に御世(みよ)が作り出して見せたものと同じだった。
 表情を変えない萌江(もえ)の口が開く。
 しかしそこから聞こえるのは萌江(もえ)の声ではない。
「時は常に一緒だ……過去も未来もない……貴様は未来を見ようとして過去に囚われすぎている。総てはいつも同じ所にあるのに…………」
 それは御世(みよ)の声。
 そしてその萌江(もえ)の姿が階段をゆっくりと登る。
 (さき)がさらに言葉を荒げた。
「────貴様の目的は何だ!」
 目の前の萌江(もえ)は、萌江(もえ)ではない。(さき)は自らの気持ちを鼓舞(こぶ)するかのように続けた。
「敵か! 味方か! 何を隠している⁉︎」
金櫻(かなざくら)家の真実は苑清(えんせい)殿でも知らぬことがある……我の願いは……滝川(たきがわ)家と御陵院(ごりょういん)家の終焉(しゅうえん)……金櫻(かなざくら)家を終わらせたいだけ…………」

 ──……どういうことだ…………

「……金櫻(かなざくら)の血を…………?」
 (さき)に再び生まれる〝迷い〟。
 萌江(もえ)の口が再び動く。
「……天照大神(あまてらすおおみかみ)末裔(まつえい)だと? どこにもそんなものは存在せぬわ」
 すると、萌江(もえ)の姿が────〝ズレ〟た。
 そこから浮き出るように階段を登ってくるのは、巫女(みこ)服の御世(みよ)の姿。
 階段で足を止めた萌江(もえ)の背後で従者(じゅうしゃ)のザワつきが聞こえた。萌江(もえ)は素早く上半身を(ひね)ったかと思うと右の(てのひら)従者(じゅうしゃ)たちに向け、その動きを止める。
 その光景に、(さき)は背中に冷たいものを感じていた。

 ──……何を見せられている…………

 もはや御世(みよ)西沙(せいさ)の〝幻惑(げんわく)〟の力だけとも思えない。

 ──…………? 西沙(せいさ)はどこだ…………

「────馬鹿な!」
 その叫び声は(さき)の背後から。
 声を震わせた苑清(えんせい)のもの。その声が続く。
「どうしてそれを貴様(ごと)きが────!」
 すると御世(みよ)(さき)の顔を見たままで苑清(えんせい)に応えた。
「……総て、見てきたからだ…………」
 そして階段を登り切った御世(みよ)は、ゆっくりと足を進めながら言葉を繋げる。
「神話など……人間が作り出したもの…………ただの作り話……」

 ──……本当に御世(みよ)なのか…………

「我は……金櫻(かなざくら)家の始まりを知っている…………」
 その御世(みよ)の言葉の直後、(さき)の喉に冷たい物が当たる。
 その何かに、光が反射しているのが分かった。
 (さき)は背中に感じる誰かの存在にやっと気が付く。

 ──…………まさか………………

 総てが(さき)の予想に反していた。
 今、自分の周りで何が起きているのか、先が見えない。
 やがて、背後からの小さな吐息が、(さき)の耳元で声に変わる。
「……そう…………総て……見てきた…………」

 ──………………綾芽(あやめ)……

 聞き間違うはずがない。
 それは間違いなく、綾芽(あやめ)の声。
 そしてその綾芽(あやめ)が自分の喉に刃物を()わせている。
 信じたくなどない。
 信じられるわけがない。
 そこに御世(みよ)の声が響く。
「終わりにしよう、(さき)…………我の〝幻惑(げんわく)〟を見抜けなかった御主(おぬし)には……用が無い……」
 思考の追いつかない(さき)の耳に、御世(みよ)の言葉が続いた。
「今まで私を育ててくれて感謝するよ……綾芽(あやめ)は…………私そのものだ……」
 (さき)は無意識に両眼を見開いていた。

 ──……最初から(こと)の中心にいたのは…………

 その(さき)の耳元で、再び綾芽(あやめ)の声が(ささや)く。
「……これは…………スズの復讐なんですよ…………母上……」

 ──…………スズ……?

 続くのは御世(みよ)
「誰も気が付かなかったのか……滑稽(こっけい)ではないか」
 しかしそれに返したのは、意外な所から。
 御世(みよ)の背後にいる萌江(もえ)の声だった。
 その声が空気を震わす。
「そう?」
 それは、その場の張り詰めた空気に似つかわしくない声だった。
 冷静で落ち着いた、萌江(もえ)の声が続く。
「……私は約束したんだ……誰も犠牲にしない…………だから、御世(みよ)の考えは、ちょっと、ね」
 御世(みよ)はすぐに返していた。
萌江(もえ)様、その御考えは生ぬるいものかと…………」
 それに萌江(もえ)は小さく溜息。
「……まだ気付いてないんだ……」
 その萌江(もえ)の言葉に、御世(みよ)は反射的に振り返る。
「? 萌江(もえ)様……?」
 その時、(さき)の意識の中に声が届いた。

  『 ……母上……西沙(せいさ)を信じて………… 』

 ──…………! ……涼沙(りょうさ)…………

 御世(みよ)の目の前で、萌江(もえ)が振り返る。
 その姿は、瞬時に変化した。
 全員の目の前で、それは────西沙(せいさ)の姿へ。
 黒いゴシックロリータの(すそ)が揺れた。
 御世(みよ)は驚いた表情を見せるが、すぐに鋭い目付きへ。そして眉間(みけん)(しわ)を寄せた。
 最初に口を開いたのは西沙(せいさ)だった。
(だま)してごめんね御世(みよ)……あなたが私を依代(よりしろ)になんか使うからだよ。遠ざけるだけにしておけばよかったのに…………でも、お陰でカラクリが総て分かった」
 御世(みよ)は何も応えずに、顔を(さき)に戻す。
 西沙(せいさ)は階段を登り、御世(みよ)のすぐ後ろへ足を進めて続けた。
御世(みよ)の気持ちも分からなくはないよ。確かに清国会(しんこくかい)は道を間違えた……でも……あなたはスズの復讐を果たしたかっただけなんだ…………」
 西沙(せいさ)の鋭い目が、御世(みよ)の背中を見上げる。





 翌朝、青洲(せいしゅう)とスズは早目に宿を出た。
 清国会(しんこくかい)の思想に賛同してくれる繋がりは充分に作った。一度報告も兼ねて雄滝(おだき)神社に帰り、スズを神社に住まわせようと考えていた。まだ幼いスズを連れ回すのも得策とは思えない。
 (きょう)(みやこ)から雄滝(おだき)神社までは歩いて十日以上。しかもスズの歩幅に合わせると倍は掛かると思われた。男達からスズを救う為に旅金の半分は使ってしまっていた。夜は危険を避ける為に(かご)を使おうと考えたが、日中は歩かざるを得ない。その為にも出発は早い。
 青洲(せいしゅう)の服装は狩衣姿(かりぎぬすがた)。明らかに神社の宮司。本来なら誰からも尊敬を抱かれる立場。粗末に扱おうという者はほとんどいなかった。
 しかし貧しい暮らしの人間たちに取っては高貴の象徴。いわゆる金持ちにしか見えなかった。しかも今の青洲(せいしゅう)(はた)から見たらスズと親子そのもの。スズの服装も昨日までの貧しい物ではない。短いながらも髪も(くし)が通された物。
 貧しい者たちはその日暮らしの者も多い。定職など持てるはずのない者がほとんど。そんな者たちの中には生きることに何の希望も持てないまま、神に対しての信心など持てない者も多い。ともすれば、神職の人間だからどうということはない。金を手に入れたいだけ。まして幼い女も手に入る。二人が狙われないわけがなかった。
 青洲(せいしゅう)は自分たちに鋭い目を向ける貧しい者たちの間を歩きながらスズに語りかけた。
「これが世の(こよわり)だ。人の世に平等などという言葉は無い。長きに渡って変わってはいないのだ。まして今は混乱の世…………私はこの世の中を変えたい」
 直後、背後からの足音に気持ちが張り詰める。
 隣のスズの体が浮いたかと思うと、途端にその体を抱えた男が走り去る。
 同時に青洲(せいしゅう)の周りを数人の男達が取り囲む。
「…………貴様ら……」
 思わず青洲(せいしゅう)は呟いていた。

 ──……これも世の(ことわり)か…………

 しかしその止まったような空気を、予想外な男の叫び声が崩す。
 慌て始めたのは青洲(せいしゅう)の周りの男達。
 青洲(せいしゅう)が叫び声を目で追うと、そこにはスズが立ち尽くす。
 その横に倒れる男の体。
 男を見下ろしていたスズが、ゆっくりと青洲(せいしゅう)に顔を回す。
 そして歩き始めた。
 ゆっくりとスズが近付いてくる。
 体を震わす男達が、やがて震えた(うめ)き声を上げ始めた。
 腕と足を踊らせながら、(うめ)き、地面に倒れ込む。
 鈍い、体の芯の部分が壊れていく音が地面を伝った。
 男達は目を見開いたまま動きを止める。

 ──…………殺したのか…………

 スズは青洲(せいしゅう)の目の前で立ち止まると、見上げた。
 昨日から続く鋭いスズの目。
 その冷徹な目を揺らしながら口を開いた。
「人の世に平等という言葉は無い。(しか)るに、こんな者達は死んで当然だ。私にとっては無用の存在」
 今まで感じた事のない恐怖。
 それが今、青洲(せいしゅう)の目の前で具体的な形を示している。
 命の危険に繋がるような怖さではない。
 体の芯が震える。
 全身が高揚した。

 ──…………初めてではないな…………こんな力がこの子に…………

「……行こう……」
 青洲(せいしゅう)はそれだけ言うと、スズの手を取って歩き始めた。




          「かなざくらの古屋敷」
      〜 第二三部「消える命」第2話へつづく 〜
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