第二三部「消える命」第1話
文字数 8,392文字
水は下に落ちるもの
広がるもの
火は上に登るもの
広がるもの
歴史の中で
その刹那 は至高 なり
☆
応仁 元年。
西暦にして一四六七年。
五月。
幕政の中心的存在でもあった守護大名 ────山名宗全 が五辻通大宮東 に本陣を置く。
その山名 勢を「西軍」。
対する同じく守護大名 の細川勝元 を「東軍」。
幕府を東西に分けた争いが始まる。
その戦火はやがて周辺諸国にも飛び火し、長きに渡る大乱となった。
後の戦国時代への布石 とも言われる〝応仁 の乱 〟。
戦火の中心となったのは京都。
戦 が始まってからの京 の都 は、血生臭いと噂されたという。
暗い時代の始まり。
通りには死体がいくつも並び、火災も日常となっていた。
そんな京 の都 にやってきたのは、一人の宮司。
滝川青洲 ────齢 は二五。
京 の都 からは遠く、地方の小さな神社────雄滝 神社から訪れていた。
雄滝 湖の湖畔で、まるで雄滝 湖を守るようにひっそりと建っていたその神社は、地元の人間でも知らぬ者のほうが多かった。
いわゆる参拝客が訪れるような場所ではない。
雄滝 湖は遥か昔から地元の貴重な水源となっていた所。かつて、そこに鬼が現れたという。その鬼が湖の水を堰 き止めて困っていた所、一人の宮司が現れて鬼を退治した。そして二度と鬼が現れないように、湖を守る為に雄滝 神社を作った。それ以来、神社は祓 い事 専門の神社としてそこにあった。
現在の当主は滝川東州 。青洲 より七つ年上の兄。
兄弟は混沌とした世の中を憂 い、帝 を奉 って幕府を正しい道に導く為に新しい勢力が必要だと考えた。
古くから日 の本 に根付いてきた〝神道 〟をまとめ上げ、強いては日 の本 がまとまる為の道筋を作りたかった。
清国会 ────その組織の賛同者を集め、同時に京 の都 の現状を見てくる事。それが青洲 に課せられた使命。
すでに青洲 はいくつもの神社を周り、神職に携わる者達が今の現状を危惧し、憂 いていることを知った。そしてどの神社からも悪い反応は聞かれない。しかし手応えを感じながらも、やはり雄滝 神社の知名度の低さが最後の一歩を踏み止まらせているように感じた。
もう一歩に繋がらないもどかしさ。
──……神の名の下でも……必要なのは権力だというのか…………
そんな青洲 は都 郊外の小さな神社を訪れた帰り、一人の少女と出会う。
死体の腐臭が漂う通りの傍 、細い路地の中、二人の男達がその少女を広い通りへと引きずる姿に、青洲 は足を止めた。周囲の人々は足を止めかける程度。関わり合いになりたくないとでもいうように離れていく。
十歳程だろうか。少女はあちこちが擦り切れた使い古した一重 だけの着物。浴衣の様に見えるが泥に塗れて柄 も分からない。肩ぐらいまでの髪の毛はもちろん切り揃えられてなどいない。幾重 にも絡まって見えるその髪を引っ張っている男の一人が声を荒げる。
「手間を掛けさせるな! 行く所など無い身の上が!」
少女は裸足のまま踏ん張るが、当然のように大人の男の力には敵わない。
しかし、少女の髪を掴む男の手が一瞬だけ緩んだ────ように青洲 には見えた。
男が僅かに怯 んだ直後、青洲 は無意識に口を開く。
「もし」
男達が振り返ると、そこには狩衣姿 の神職と思しき男の姿。その姿に、男達も無下に声を荒げづらいのか、鋭い目だけを向けた。
そして青洲 が続ける。
「まだ幼い子供ではないか」
「あんたみたいな御人 には関係の無いことだ」
男の一人は吐き捨てるようにそう言う。生きる世界が違うとでも言いたげな表情を向け、再び少女の髪を乱暴に掴んだ。
「行くぞ」
「その子が何をしたと言うのだ」
青洲 のその問いに、男は溜息を吐 いて応える。
「あんたみたいな人だって遊郭 ってものくらいは知ってるだろ? こいつは店から脱走したのさ」
とは言え少女はまだ幼い。売られた子だろうかと青洲 は考えた。そういったことに詳しい程、青洲 も世の中を知らない。
「そうであったか……母親はおらぬのか」
こんな言葉しか出てこなかった。青洲 は自分の浅 はかさを恨んだ。
「母親? 何年も前に身受けしてこいつを捨てたのさ。それからこいつは店の物だ。それともあんた、蚤 だらけのこの娘を身受けでもしてくれるのかい?」
男はそう返すと、嫌な笑みを浮かべて続けた。
「もういいだろ? 俺達も仕事なんだ」
「良い。幾 らだ」
青洲 のまさかの一言に、男達は目を見開く。
近付く青洲 に一歩下がっていた。
「おい……冗談だろあんた」
青洲 は懐 から紫の巾着袋 を取り出すと、男の目の前に差し出して返す。
「旅金の総てだ。受け取れ」
男が呆然とそれを手に取ると、ずっしりと重い。すぐに中を覗き込む。
青洲 が続けた。
「娘は死んでいたことにすれば良い。その金は貴様達が山分けにすれば損はあるまい」
男達は途端に表情を変えた。作り笑顔で頭を下げながら小走りに去っていく。
──……金さえ貰えたら関わる気は無いか…………
そう思った青洲 を、半ば呆然と少女が見上げていた。
その泥だらけの顔に視線を落とすと、青洲 は表情を和らげる。
「案 ずるな。旅金はまだある」
差し出した手を、少女が強く握った。
陽が傾いていた。
郊外の宿屋が並ぶ通りに、点々と明かりが灯り始める。
青洲 は数日前に利用した宿屋に向かっていた。それなりの規模の宿屋だった。血生臭く、閉まった店の多い中で生き残っていた財力のある所でもあるのだろう。暗くなってからも人の出入りと活気があった。世の中が騒乱で疲弊しているとはいっても、回る場所では金は回る。
青洲 はその店の暖簾 を潜 った。
「すまぬが、今宵 も世話になりたい」
すると、満面の笑みで出迎えた女中 が小さく悲鳴を上げる。身なりの整った神職姿の青洲 の隣に見窄 らしい子供がいては無理もないことだろう。どう見ても町外れに倒れ込んでいる宿無し人にしか見えない姿。
「申し訳無いことだが、この娘を風呂に入れてやってはくれまいか。手頃な着物も頼みたい。宿代は倍出そう」
それを聞いていた店の主人が奥から飛び出してきた。そこそこの年齢に見えるが、生きることに疲れているほど老けてはいない。主人は青洲 に満面の笑みを浮かべる。
「これはこれは宮司様。かしこまりました。すぐに…………おい、お前達!」
振り返って女中 に声を張り上げる。
「早くしないか! お風呂とお部屋と……御食事の御用意だ!」
こういう時の商人 の動きは早い。
──……さすがは京 の都 だな…………
部屋に夕食の御膳 が運ばれてきても、青洲 は少女が来るのを待った。
なぜ少女を救ったのか、静かな部屋の中で青洲 は考えていた。同じように辛い目に会っている人々は大勢いるだろうということは青洲 にも想像がつく事。その一人一人を救っていては切りが無いことも分かっていた。もっと広い観点で見なくてはならなかった。
総ての目的は帝 を中心に平穏な世の中を作り出す事。
──……私も……疲れていたのだろうか…………
青洲 は自らの不甲斐 なさを悔いた。
同時にこうも思う。
──……目の前の一人を救えずに…………何を救えると言うのか…………
青洲 は神職に携わる人間として、自らの感性に賭けた。
程なくして、襖 が開く。
麻 の葉の柄 の浴衣 。三角形を集めた六角形が麻 の葉を模したもの。三角形には魔除けの意味があるという。その三角形を集めて形作られた六角形はより強力なものとされた。よく目にする柄 とはいえ、その多くには意味が込められている。
青洲 は立ち上がると、襖 を閉めようとした二人の女中 に腰を落としてお金を渡した。
「御苦労を御掛けいたしました。これで新しい着物でも都合してくだされ」
少女がよほど暴れたのか、女中 達の着物が酷く濡れていたからだった。
女中 が笑顔で襖 を閉めると、青洲 も席に戻って少女に声を掛ける。
「座ってくれ」
大人しく御膳 の前に正座をする少女の目は、その料理の数々に目を奪われていた。
「肌を見れば分かる。しばらく食べていないのであろう。好きなだけ食べるが良い」
少女は箸 も取らずに手掴みで食べ始めた。
作法 というものに触れたことがないままに育てられたのだろう。
──……この子は何も悪くない……教える者がいなかっただけだ…………
一通り食べ終わった頃、青洲 が口を開いた。
「御主 ……名前はあるのか?」
すると、少女は湯呑み茶碗の冷めた白湯 を飲みながら応える。
「…………スズ……」
「スズか……付けてくれたのは…………」
「知らん……そう呼ばれていた」
「そうか…………しかしその名が付いた事には意味があるもの…………どんな事にも意味があるのだ」
少女を捨てたという母親かもしれないと思ったが、青洲 は母親の話には触れなかった。
捨てたのか、捨てさせられたのか、それは青洲 には推測の域を出ない事でしかない。
すると、スズと名乗った少女が口を開いた。
「貴様も私が欲しいのか?」
その大人びた口ぶりに、青洲 は無意識に身構える。
スズが続けた。
「私のような子供の体で欲を満たしたいのであろう? 好きにすればよい。銭 さえくれれば不満は無い。店を逃げてからはそうやって生きてきた……男は皆、同じだ…………」
スズは手で畳を摩 ってさらに言葉を繋げる。
「畳の上ならば体も痛くはあるまい」
──……何ということだ…………
青洲 の体が僅かに震えていた。
──…………こんな世に…………誰がしたのだ…………
それは怒り以外の何物でもなかった。
震える唇を噛み締める。
──……早く帝 を奉 って平穏な世にしなければ…………清国会 で…………
☆
早朝。
湿度が低いからか、冷え切った空気。
蛭子 神社の空には、細かな雪が舞い続けていた。
その数が少しずつ増え、なおもゆっくりと落ちていく。
風は無い。
まるで、空が雪の姿を借りて落ちてくるような光景だった。
本殿の階段に右足をかけた萌江 と、それを見下ろすような咲 の間に挟まるのは、その雪だけ。
そして、萌江 の目の前の空間だけが歪 んでいた。
薄らとしたその歪 みは、しだいに膨らんでいく。
萌江 の低い声が雪を溶かす。
「……咲恵 を返せ…………」
その場の雰囲気はあっという間に萌江 に掌握 され、咲 は明らかに気持ちを掻き乱されていた。
気持ちで負けるということがどんな意味を持つのかは咲 にも分かっていること。しかし目の前の萌江 の姿は、今まで知っているはずの萌江 のものとは明確に違った。
夜通し呪禁 を唱え続けた疲労もあっただろう。しかも体力的なものだけではない。集中させた精神も明らかに疲弊 していた。しかし今の萌江 から感じるものはそれを超えていた。
気持ちで感じる違い。
脅威 、異形 、そして神々 しさ。
──……金櫻 家……最後の末裔 …………
そんな言葉が咲 の頭に浮かぶ。
分かっていること。しかし、咲 は初めてその意味に恐怖した。
咲 は金櫻 家の頂点を京子 であると判断していた。それは京子 が総ての中心にいると判断したからに他ならない。そしてその判断は御陵院 家だけでなく雄滝 神社の判断でもある。つまりは清国会 の意向。
そして咲 は京子 を求めた。京子 が依代 とする咲恵 を求めた。
以前、一度だけその真意を確かめようとしたことがあったが、その時も京子 は姿を現さなかった。結局何も分からないまま。
最終的に、御世 に阻 まれた。
京子 が一番の力を持っていると考えていた。同時に一番恐れるべきもまた京子 だったはず。
萌江 はあくまで京子 が清国会 からの目をごまかすための存在でしかないと考えた。そうでなければ、子供を産めない体であったはずの京子 が萌江 を産めるはずがない。
いわば〝幻 〟。
同時にそれは京子 の恐ろしいまでの能力を表してもいること。
京子 は肉体を失っただけ。今も依代 である咲恵 の中で生きている。そして総ての中心にいる。清国会 はそう考えた。
しかし、その京子 は未だ姿を現さないまま。
さらに、咲 の目の前の萌江 の姿は、明らかに京子 を超越したもの。
咲 や恵麻 の考えが間違っていたのか、それとも咲 を迷わせるために見せている幻か。
咲 は目の前の萌江 に、明らかに恐怖を感じていた。
恐れは迷いを生む。迷いは穢 れを生む。そして咲 の中の穢 れは、すでに萌江 に見透 かされていた。
その萌江 がゆっくりと口を開く。
「……私には総ての力がある……時を越えることも……貴様の意識を惑わすことも…………」
──…………? まさか…………
「…………御世 か……」
咲 は自分のその声に、心臓の鼓動が落ち着いてくるのを感じながら続けた。
「貴様…………小賢 しい娘よ……姿を見せい! 貴様が総ての元凶であろうが!」
咲 は気が付く。
萌江 の姿の前にある歪 み────その〝結界〟は、前日に御世 が作り出して見せたものと同じだった。
表情を変えない萌江 の口が開く。
しかしそこから聞こえるのは萌江 の声ではない。
「時は常に一緒だ……過去も未来もない……貴様は未来を見ようとして過去に囚われすぎている。総てはいつも同じ所にあるのに…………」
それは御世 の声。
そしてその萌江 の姿が階段をゆっくりと登る。
咲 がさらに言葉を荒げた。
「────貴様の目的は何だ!」
目の前の萌江 は、萌江 ではない。咲 は自らの気持ちを鼓舞 するかのように続けた。
「敵か! 味方か! 何を隠している⁉︎」
「金櫻 家の真実は苑清 殿でも知らぬことがある……我の願いは……滝川 家と御陵院 家の終焉 ……金櫻 家を終わらせたいだけ…………」
──……どういうことだ…………
「……金櫻 の血を…………?」
咲 に再び生まれる〝迷い〟。
萌江 の口が再び動く。
「……天照大神 の末裔 だと? どこにもそんなものは存在せぬわ」
すると、萌江 の姿が────〝ズレ〟た。
そこから浮き出るように階段を登ってくるのは、巫女 服の御世 の姿。
階段で足を止めた萌江 の背後で従者 のザワつきが聞こえた。萌江 は素早く上半身を捻 ったかと思うと右の掌 を従者 たちに向け、その動きを止める。
その光景に、咲 は背中に冷たいものを感じていた。
──……何を見せられている…………
もはや御世 と西沙 の〝幻惑 〟の力だけとも思えない。
──…………?西沙 はどこだ…………
「────馬鹿な!」
その叫び声は咲 の背後から。
声を震わせた苑清 のもの。その声が続く。
「どうしてそれを貴様如 きが────!」
すると御世 は咲 の顔を見たままで苑清 に応えた。
「……総て、見てきたからだ…………」
そして階段を登り切った御世 は、ゆっくりと足を進めながら言葉を繋げる。
「神話など……人間が作り出したもの…………ただの作り話……」
──……本当に御世 なのか…………
「我は……金櫻 家の始まりを知っている…………」
その御世 の言葉の直後、咲 の喉に冷たい物が当たる。
その何かに、光が反射しているのが分かった。
咲 は背中に感じる誰かの存在にやっと気が付く。
──…………まさか………………
総てが咲 の予想に反していた。
今、自分の周りで何が起きているのか、先が見えない。
やがて、背後からの小さな吐息が、咲 の耳元で声に変わる。
「……そう…………総て……見てきた…………」
──………………綾芽 ……
聞き間違うはずがない。
それは間違いなく、綾芽 の声。
そしてその綾芽 が自分の喉に刃物を這 わせている。
信じたくなどない。
信じられるわけがない。
そこに御世 の声が響く。
「終わりにしよう、咲 …………我の〝幻惑 〟を見抜けなかった御主 には……用が無い……」
思考の追いつかない咲 の耳に、御世 の言葉が続いた。
「今まで私を育ててくれて感謝するよ……綾芽 は…………私そのものだ……」
咲 は無意識に両眼を見開いていた。
──……最初から事 の中心にいたのは…………
その咲 の耳元で、再び綾芽 の声が囁 く。
「……これは…………スズの復讐なんですよ…………母上……」
──…………スズ……?
続くのは御世 。
「誰も気が付かなかったのか……滑稽 ではないか」
しかしそれに返したのは、意外な所から。
御世 の背後にいる萌江 の声だった。
その声が空気を震わす。
「そう?」
それは、その場の張り詰めた空気に似つかわしくない声だった。
冷静で落ち着いた、萌江 の声が続く。
「……私は約束したんだ……誰も犠牲にしない…………だから、御世 の考えは、ちょっと、ね」
御世 はすぐに返していた。
「萌江 様、その御考えは生ぬるいものかと…………」
それに萌江 は小さく溜息。
「……まだ気付いてないんだ……」
その萌江 の言葉に、御世 は反射的に振り返る。
「?萌江 様……?」
その時、咲 の意識の中に声が届いた。
『 ……母上……西沙 を信じて………… 』
──…………! ……涼沙 …………
御世 の目の前で、萌江 が振り返る。
その姿は、瞬時に変化した。
全員の目の前で、それは────西沙 の姿へ。
黒いゴシックロリータの裾 が揺れた。
御世 は驚いた表情を見せるが、すぐに鋭い目付きへ。そして眉間 に皺 を寄せた。
最初に口を開いたのは西沙 だった。
「騙 してごめんね御世 ……あなたが私を依代 になんか使うからだよ。遠ざけるだけにしておけばよかったのに…………でも、お陰でカラクリが総て分かった」
御世 は何も応えずに、顔を咲 に戻す。
西沙 は階段を登り、御世 のすぐ後ろへ足を進めて続けた。
「御世 の気持ちも分からなくはないよ。確かに清国会 は道を間違えた……でも……あなたはスズの復讐を果たしたかっただけなんだ…………」
西沙 の鋭い目が、御世 の背中を見上げる。
☆
翌朝、青洲 とスズは早目に宿を出た。
清国会 の思想に賛同してくれる繋がりは充分に作った。一度報告も兼ねて雄滝 神社に帰り、スズを神社に住まわせようと考えていた。まだ幼いスズを連れ回すのも得策とは思えない。
京 の都 から雄滝 神社までは歩いて十日以上。しかもスズの歩幅に合わせると倍は掛かると思われた。男達からスズを救う為に旅金の半分は使ってしまっていた。夜は危険を避ける為に籠 を使おうと考えたが、日中は歩かざるを得ない。その為にも出発は早い。
青洲 の服装は狩衣姿 。明らかに神社の宮司。本来なら誰からも尊敬を抱かれる立場。粗末に扱おうという者はほとんどいなかった。
しかし貧しい暮らしの人間たちに取っては高貴の象徴。いわゆる金持ちにしか見えなかった。しかも今の青洲 は側 から見たらスズと親子そのもの。スズの服装も昨日までの貧しい物ではない。短いながらも髪も櫛 が通された物。
貧しい者たちはその日暮らしの者も多い。定職など持てるはずのない者がほとんど。そんな者たちの中には生きることに何の希望も持てないまま、神に対しての信心など持てない者も多い。ともすれば、神職の人間だからどうということはない。金を手に入れたいだけ。まして幼い女も手に入る。二人が狙われないわけがなかった。
青洲 は自分たちに鋭い目を向ける貧しい者たちの間を歩きながらスズに語りかけた。
「これが世の理 だ。人の世に平等などという言葉は無い。長きに渡って変わってはいないのだ。まして今は混乱の世…………私はこの世の中を変えたい」
直後、背後からの足音に気持ちが張り詰める。
隣のスズの体が浮いたかと思うと、途端にその体を抱えた男が走り去る。
同時に青洲 の周りを数人の男達が取り囲む。
「…………貴様ら……」
思わず青洲 は呟いていた。
──……これも世の理 か…………
しかしその止まったような空気を、予想外な男の叫び声が崩す。
慌て始めたのは青洲 の周りの男達。
青洲 が叫び声を目で追うと、そこにはスズが立ち尽くす。
その横に倒れる男の体。
男を見下ろしていたスズが、ゆっくりと青洲 に顔を回す。
そして歩き始めた。
ゆっくりとスズが近付いてくる。
体を震わす男達が、やがて震えた呻 き声を上げ始めた。
腕と足を踊らせながら、呻 き、地面に倒れ込む。
鈍い、体の芯の部分が壊れていく音が地面を伝った。
男達は目を見開いたまま動きを止める。
──…………殺したのか…………
スズは青洲 の目の前で立ち止まると、見上げた。
昨日から続く鋭いスズの目。
その冷徹な目を揺らしながら口を開いた。
「人の世に平等という言葉は無い。然 るに、こんな者達は死んで当然だ。私にとっては無用の存在」
今まで感じた事のない恐怖。
それが今、青洲 の目の前で具体的な形を示している。
命の危険に繋がるような怖さではない。
体の芯が震える。
全身が高揚した。
──…………初めてではないな…………こんな力がこの子に…………
「……行こう……」
青洲 はそれだけ言うと、スズの手を取って歩き始めた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二三部「消える命」第2話へつづく 〜
広がるもの
火は上に登るもの
広がるもの
歴史の中で
その
☆
西暦にして一四六七年。
五月。
幕政の中心的存在でもあった
その
対する同じく
幕府を東西に分けた争いが始まる。
その戦火はやがて周辺諸国にも飛び火し、長きに渡る大乱となった。
後の戦国時代への
戦火の中心となったのは京都。
暗い時代の始まり。
通りには死体がいくつも並び、火災も日常となっていた。
そんな
いわゆる参拝客が訪れるような場所ではない。
現在の当主は
兄弟は混沌とした世の中を
古くから
すでに
もう一歩に繋がらないもどかしさ。
──……神の名の下でも……必要なのは権力だというのか…………
そんな
死体の腐臭が漂う通りの
十歳程だろうか。少女はあちこちが擦り切れた使い古した
「手間を掛けさせるな! 行く所など無い身の上が!」
少女は裸足のまま踏ん張るが、当然のように大人の男の力には敵わない。
しかし、少女の髪を掴む男の手が一瞬だけ緩んだ────ように
男が僅かに
「もし」
男達が振り返ると、そこには
そして
「まだ幼い子供ではないか」
「あんたみたいな
男の一人は吐き捨てるようにそう言う。生きる世界が違うとでも言いたげな表情を向け、再び少女の髪を乱暴に掴んだ。
「行くぞ」
「その子が何をしたと言うのだ」
「あんたみたいな人だって
とは言え少女はまだ幼い。売られた子だろうかと
「そうであったか……母親はおらぬのか」
こんな言葉しか出てこなかった。
「母親? 何年も前に身受けしてこいつを捨てたのさ。それからこいつは店の物だ。それともあんた、
男はそう返すと、嫌な笑みを浮かべて続けた。
「もういいだろ? 俺達も仕事なんだ」
「良い。
近付く
「おい……冗談だろあんた」
「旅金の総てだ。受け取れ」
男が呆然とそれを手に取ると、ずっしりと重い。すぐに中を覗き込む。
「娘は死んでいたことにすれば良い。その金は貴様達が山分けにすれば損はあるまい」
男達は途端に表情を変えた。作り笑顔で頭を下げながら小走りに去っていく。
──……金さえ貰えたら関わる気は無いか…………
そう思った
その泥だらけの顔に視線を落とすと、
「
差し出した手を、少女が強く握った。
陽が傾いていた。
郊外の宿屋が並ぶ通りに、点々と明かりが灯り始める。
「すまぬが、
すると、満面の笑みで出迎えた
「申し訳無いことだが、この娘を風呂に入れてやってはくれまいか。手頃な着物も頼みたい。宿代は倍出そう」
それを聞いていた店の主人が奥から飛び出してきた。そこそこの年齢に見えるが、生きることに疲れているほど老けてはいない。主人は
「これはこれは宮司様。かしこまりました。すぐに…………おい、お前達!」
振り返って
「早くしないか! お風呂とお部屋と……御食事の御用意だ!」
こういう時の
──……さすがは
部屋に夕食の
なぜ少女を救ったのか、静かな部屋の中で
総ての目的は
──……私も……疲れていたのだろうか…………
同時にこうも思う。
──……目の前の一人を救えずに…………何を救えると言うのか…………
程なくして、
「御苦労を御掛けいたしました。これで新しい着物でも都合してくだされ」
少女がよほど暴れたのか、
「座ってくれ」
大人しく
「肌を見れば分かる。しばらく食べていないのであろう。好きなだけ食べるが良い」
少女は
──……この子は何も悪くない……教える者がいなかっただけだ…………
一通り食べ終わった頃、
「
すると、少女は湯呑み茶碗の冷めた
「…………スズ……」
「スズか……付けてくれたのは…………」
「知らん……そう呼ばれていた」
「そうか…………しかしその名が付いた事には意味があるもの…………どんな事にも意味があるのだ」
少女を捨てたという母親かもしれないと思ったが、
捨てたのか、捨てさせられたのか、それは
すると、スズと名乗った少女が口を開いた。
「貴様も私が欲しいのか?」
その大人びた口ぶりに、
スズが続けた。
「私のような子供の体で欲を満たしたいのであろう? 好きにすればよい。
スズは手で畳を
「畳の上ならば体も痛くはあるまい」
──……何ということだ…………
──…………こんな世に…………誰がしたのだ…………
それは怒り以外の何物でもなかった。
震える唇を噛み締める。
──……早く
☆
早朝。
湿度が低いからか、冷え切った空気。
その数が少しずつ増え、なおもゆっくりと落ちていく。
風は無い。
まるで、空が雪の姿を借りて落ちてくるような光景だった。
本殿の階段に右足をかけた
そして、
薄らとしたその
「……
その場の雰囲気はあっという間に
気持ちで負けるということがどんな意味を持つのかは
夜通し
気持ちで感じる違い。
──……
そんな言葉が
分かっていること。しかし、
そして
以前、一度だけその真意を確かめようとしたことがあったが、その時も
最終的に、
いわば〝
同時にそれは
しかし、その
さらに、
恐れは迷いを生む。迷いは
その
「……私には総ての力がある……時を越えることも……貴様の意識を惑わすことも…………」
──…………? まさか…………
「…………
「貴様…………
表情を変えない
しかしそこから聞こえるのは
「時は常に一緒だ……過去も未来もない……貴様は未来を見ようとして過去に囚われすぎている。総てはいつも同じ所にあるのに…………」
それは
そしてその
「────貴様の目的は何だ!」
目の前の
「敵か! 味方か! 何を隠している⁉︎」
「
──……どういうことだ…………
「……
「……
すると、
そこから浮き出るように階段を登ってくるのは、
階段で足を止めた
その光景に、
──……何を見せられている…………
もはや
──…………?
「────馬鹿な!」
その叫び声は
声を震わせた
「どうしてそれを貴様
すると
「……総て、見てきたからだ…………」
そして階段を登り切った
「神話など……人間が作り出したもの…………ただの作り話……」
──……本当に
「我は……
その
その何かに、光が反射しているのが分かった。
──…………まさか………………
総てが
今、自分の周りで何が起きているのか、先が見えない。
やがて、背後からの小さな吐息が、
「……そう…………総て……見てきた…………」
──………………
聞き間違うはずがない。
それは間違いなく、
そしてその
信じたくなどない。
信じられるわけがない。
そこに
「終わりにしよう、
思考の追いつかない
「今まで私を育ててくれて感謝するよ……
──……最初から
その
「……これは…………スズの復讐なんですよ…………母上……」
──…………スズ……?
続くのは
「誰も気が付かなかったのか……
しかしそれに返したのは、意外な所から。
その声が空気を震わす。
「そう?」
それは、その場の張り詰めた空気に似つかわしくない声だった。
冷静で落ち着いた、
「……私は約束したんだ……誰も犠牲にしない…………だから、
「
それに
「……まだ気付いてないんだ……」
その
「?
その時、
『 ……母上……
──…………! ……
その姿は、瞬時に変化した。
全員の目の前で、それは────
黒いゴシックロリータの
最初に口を開いたのは
「
「
☆
翌朝、
しかし貧しい暮らしの人間たちに取っては高貴の象徴。いわゆる金持ちにしか見えなかった。しかも今の
貧しい者たちはその日暮らしの者も多い。定職など持てるはずのない者がほとんど。そんな者たちの中には生きることに何の希望も持てないまま、神に対しての信心など持てない者も多い。ともすれば、神職の人間だからどうということはない。金を手に入れたいだけ。まして幼い女も手に入る。二人が狙われないわけがなかった。
「これが世の
直後、背後からの足音に気持ちが張り詰める。
隣のスズの体が浮いたかと思うと、途端にその体を抱えた男が走り去る。
同時に
「…………貴様ら……」
思わず
──……これも世の
しかしその止まったような空気を、予想外な男の叫び声が崩す。
慌て始めたのは
その横に倒れる男の体。
男を見下ろしていたスズが、ゆっくりと
そして歩き始めた。
ゆっくりとスズが近付いてくる。
体を震わす男達が、やがて震えた
腕と足を踊らせながら、
鈍い、体の芯の部分が壊れていく音が地面を伝った。
男達は目を見開いたまま動きを止める。
──…………殺したのか…………
スズは
昨日から続く鋭いスズの目。
その冷徹な目を揺らしながら口を開いた。
「人の世に平等という言葉は無い。
今まで感じた事のない恐怖。
それが今、
命の危険に繋がるような怖さではない。
体の芯が震える。
全身が高揚した。
──…………初めてではないな…………こんな力がこの子に…………
「……行こう……」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二三部「消える命」第2話へつづく 〜