第二十部「深淵の海」第3話(第二十部最終話)

文字数 8,935文字

 銃声が近付く。
 ザワつきが波のように押し寄せた。
 二人の周りの人々がバラバラに動き始める。
 その場の誰もと同じように、ユイの中にも戦時中の恐怖が蘇った。
 久しぶりに聞く銃声は、遠くからでも感覚が覚えていた。
 やがて悲鳴と共に人々の波が広がると、すでに周囲を警備していた自衛隊員でも収集がつかなくなり、辺りはパニックへ。
 ユイと香世(かよ)も波に飲まれ始めた。
 それに合わせたかのように一気に近付く銃声に、パニックを収める可能性は消える。
 機銃を備えた軍用車両が数台、背後に銃声を響かせながら近付いてくるが、乗っている数名は明らかに軍服ではなかった。

 ──…………〝蛇の会〟………………

 ユイがそう思った時、さらに後ろから自衛隊員の乗った機銃車両。お互いが発砲を繰り返す中、流れ弾は容赦無く市民の群れへ。

 ──……みんな伏せて────!

 その時、誰かがユイの体を地面に押し付ける。
 香世(かよ)だった。
 顔を上げたユイの目の前で、次々と人々が倒れていく。
 飛び散る血が風を切った。
「いくよ!」
 その香世(かよ)の声と共に、ユイの体が浮く。香世(かよ)がユイを抱えるように走り出していた。反射的にユイはコンクリートを蹴り付ける。
 遠くからも銃声は続いていた。広範囲の戦闘になっていることはすぐに理解出来た。
 忙しなく、周囲に弾丸が飛び交う。
 どこに逃げればいいか感じるより体が動いた。

 気が付いた時────。
 すでにあれから数時間。
 周囲は静かだった。
 すでに月明かりだけ。
 遠い銃声が地面を小さく揺らす。
 ビル街の細い路地。
 暮らす人がほとんどいないエリア。戦時中に僅かながら戦火の影響を受けていたエリアでもある。空爆の影響で崩壊した建物が乱立する場所。

 ──…………香世(かよ)は…………?

 いつの間にか(はぐ)れてしまった香世を探そうと周囲を見渡すが、どこにも人影すら見付からない。

 ──……よくない………………

 細い路地とは言っても左右のビルの外壁は至る所が崩れ、中は丸見え状態。自然と目を配るが、やはり香世(かよ)の姿はどこにもない。
 不安と心細さだけが全身を包む。

 ──……誰か来る…………!

 そう思った直後、目の前に現れた男はまだ若い。
 軍服ではなかった。下はカーゴパンツのような物に上はTシャツだけ。肩からは大きなボストンバッグ。
 そして、両手で小ぶりな自動小銃を握っていた。
 しかも、その体は震えたまま。
 男はユイに銃口を向ける。
 ユイの体は恐怖を感じる間もなく固まる。
 が、男はすぐに銃口を降ろすと突然ユイの手首を掴む。恐れ(おのの)いたようなユイの目を見ながらも、崩れた壁からビルの中へ、強引にユイは引っ張られていた。
 男はすぐに自分の来た方向へと手榴弾を投げると、ユイの体を強引に地面に押し付け、その上に覆い被さった。
 直後、大きな金属音のような爆音が辺りを包む。
 耳に何かを刺されたかのような嫌な痛み。
 二人は、共に体を震わせていた。

 ──……もうやめて…………

 やがて男が体を起こし、周囲を伺うように目を配り始めた。
 月明かりが煙を照らす。
 そして、男は溜め息と同時に口を開いた。
「……巻き込んですまない…………こんな計画じゃなかったのに…………」
 そう言いながら、男は肩で息をしていた。
 どう見ても自衛隊員ではない。誰が見ても状況から〝蛇の会〟のメンバーであることは想像がつく。
 敵ではないことを強調したいのか、黙って座り込んで顔を下げ続けるユイに言葉を続けた。
「分かってくれ……事故なんだ。俺たちは〝清国会(しんこくかい)〟を潰したいだけなんだ」

 ──………………〝しんこくかい〟………………?

「だから、一般市民に犠牲を出したことはすまないと思ってる」

 ──…………〝清国会(しんこくかい)〟………………?

 記憶のどこかに触れられたようだった。

 ──………………どういうことなの…………お母さん……………………

 ユイの中で何かが溢れ出していた。
 忘れかけていた過去。
 あやふやだった過去が全身から染み出すように暴れ出す。
 身体中を何かが這いずるように、そして気持ちがザワついた。
 それはやがて、自分の意思とは関係なく言葉となって溢れていた。
「……あんたたちが……拳銃なんか持ってそんなことしてるから…………だからさっき…………あんなに死んだんでしょ………………」
 ユイの想定外の言葉に男は怯んだ。その声が凄みを感じさせるほどの低い声だったというだけではない。その圧力のようなものは男を黙らせる。
 なおもユイの言葉が続く。
「…………何のために戦ってるの……? 偽物の〝蛇の会〟(ごと)きが偉そうに────‼︎」
「だったら────!」
 その男の叫びが続く。
「だったら〝清国会(しんこくかい)御陵院西沙(ごりょういんせいさ)〟に(ひざまず)けと言うのか────⁉︎」

 ──…………〝西沙(せいさ)〟………………?

「あいつは悪魔だ! 人間じゃない!」

 ──……西沙(せいさ)…………西沙(せいさ)…………御陵院西沙(ごりょういんせいさ)……………………

「────だまれっ‼︎」

 意識して発した言葉ではない。
 ただ、そんな叫びが口から飛び出す。
 そのユイの叫びに呼応するように、空気が振動した。
 空間が歪む────。
 そして、男の(そば)の壁が大きく崩れた。
 驚愕の表情を浮かべた男がユイに顔を向けると、その目は鋭い。圧倒されたまま、目を離せなくなっていた。
 そして震えた声を絞り出す。
「…………あんた…………普通の人間じゃないのか…………」
 しかし、ユイの目は微動だにしないまま。
 そのままユイは立ち上がる。
 続けるのは男。
「……子供の頃に見たことがある…………今のあんたみたいに鋭い目で……指に水晶のネックレスを絡めて…………普通じゃなかった…………」
「……私の名前は…………」
 そう言って続けるユイの言葉は、もはやいつものユイのものではなかった。

「…………〝御陵院(ごりょういん)ユイ〟…………」

 男が震える銃口を向けた。
 構わずユイが続ける。
「────西沙(せいさ)は私を人間扱いしてくれた…………」
 男が引き金を引き掛けた時、ユイの右手の一振りで自動小銃が弾き飛ばされる。
 ユイが一歩ずつ、ゆっくりと男に近付いていく。
 男は体を仰け反らせながらも腰のホルスターから拳銃を取り出すが、ユイがまるでハエを払うように右手を動かすと、男の手から拳銃が弾け飛んだ。
「────西沙(せいさ)を馬鹿にするヤツは私が許さない────」
 近付くユイの形相に、男は動けなかった。
 やがて、震える手で腰のナイフを抜いた直後────その体が弾け飛び、倒れた。
 同時に聞こえた銃声にユイが首を横に振ると、そこにはさっき男が手にしていた拳銃を持った香世(かよ)の姿。
 その香世(かよ)はまっすぐ伸ばした腕で、なおも男に銃口を向け続けている。
 一歩ずつ近付きながら口を開いた。
「……心配しないで…………初めてじゃないから…………」
 聞いたことのない(かげ)りのある口調でそう言いながら、香世(かよ)は倒れる男に数回引き金を引く。
 火薬の香りと、地面に薬莢(やっきょう)が落ちる音。
 香世(かよ)は銃口を降ろすと、静かに口を開く。
 そしてその声は、少しだけいつもの香世(かよ)の声に戻っていた。
「……あなたには、やらせたくなかったからさ…………みんなも反対するだろうし、私なら問題ないよ…………」
 香世(かよ)はユイに顔を向けると続ける。
「銃声聞かれただろうから、ここは危ないね」
 そして拳銃を地面に落とすと、もう片方の手でユイの手を掴んで走り出した。

 香世(かよ)がユイを連れて行った場所はそれほど遠い場所ではなかった。
 荒廃したビルの二階。広い部屋だった。しかし現在の状態から何に使われていた場所なのかを(うかが)い知ることは出来ない。
「ケガはなさそうね」
 香世(かよ)はそう言うと、ユイの服の埃を払い始めた。
 ユイの表情はすでにいつものもの。先程までの鋭い目付きはどこにもない。
 そのユイが辿々しく香世(かよ)に返していく。
「……どういうこと? 香世(かよ)って…………何者なの…………?」
「一人にしてごめんね…………色々と邪魔が入ってさ…………いつも未来は見えてるように動くわけじゃない。今回のことは想定外だった…………」
 香世(かよ)はそう返すと、ユイを両腕で抱きしめていた。
 そしてユイの耳元で(ささや)く。
「無事で良かった…………今夜〝目覚める〟とは思ってなかったけど…………」

 ──…………目覚める………………?

 そう思ったユイの言葉が溢れる。
「……お願い……教えて…………あなたのことを教えて…………私のこと、教えて…………」

 ──…………私は…………だれ………………?

 ユイの目からは無意識に涙が溢れていた。
 自分のことを知りたかった。自分が何者なのか知りたかった。
 あやふやなままの記憶の中で、間違いなく〝もう一人の自分〟がいた。今の自分とは違う。しかしそこにいるのは自分自身でしかない。
 そして、誰かに、守られていた。

「…………ここに来たのは…………偶然じゃないよね…………」

 突然のその声は、香世(かよ)のものではない────懐かしい声。
 そこに香世(かよ)の声が響く。
「まだ早いよ────もう少し整理する時間をあげて…………西沙(せいさ)…………」
 低いヒールの音。
 部屋の向こう壁。
 二人からは距離がある。
 それでも黒いロングスカートを揺らしながら歩く姿は、間違いなく〝西沙(せいさ)〟そのもの。
 部屋に差し込むのは月明かりだけ。
 顔は影に隠れていた。
 しかしユイはその姿に確信を持った。

 ──………………西沙(せいさ)…………………………

 その西沙(せいさ)の声が、部屋に響く。
「相変わらずね…………〝御世(みよ)〟…………私を依代(よりしろ)にしてたくせに、よく言うわよね」

 ──…………〝御世(みよ)〟…………〝西沙(せいさ)〟………………

「時間が無いことは分かってる…………でも西沙(せいさ)……あなたなら…………」
 そう言う香世(かよ)────御世(みよ)の言葉に、西沙(せいさ)がすぐに返した。
「……私はいつまでもここにはいられない…………分かるでしょ……お願い……御世(みよ)…………」
 まるでその西沙(せいさ)の言葉を噛み締めるように、御世(みよ)はゆっくりとユイに顔を戻す。

 ──……香世(かよ)…………あなたは………………

 そして、御世(みよ)が、懐かしい声で(ささや)く。
「ごめんね……みんな、あなたを守ってきたの…………ひっそりとね…………そのために、あなたの記憶の改竄(かいざん)がどうしても必要だった…………あなたという存在をこの世界から消すためにね…………あなたを守るためなんだよ」
「────わかんないよっ‼︎」
 ユイが叫んでいた。
 いつの間にか涙が溢れる。大粒の涙が足元へと落ちていく光景をただ凝視しながら、体の中からは別の自分が鼓動を始めているのが分かった。
 そして、その叫びに返したのは西沙(せいさ)だった。
「……あなたの力は大き過ぎた…………あなたを利用しようとする存在からあなたを守るため、私たちはあなたを隠すしかなかった…………」

 ──…………わたしは………………

 感情の行先が定まらないまま、耳に届く西沙(せいさ)の声。

「……もう思い出した…………? …………〝(かえで)〟………………」

 ──…………〝かえで〟………………

「〝蛇の会〟のトップとして……あなたも納得したことなんだよ…………でも、偽名を付けるときに私の苗字を名乗ってくれたのは嬉しかった…………ユイって名前は毘沙門天(びしゃもんてん)結妃(ゆいひ)さんから…………」
 その西沙(せいさ)の言葉に、ユイ────〝(かえで)〟の中で総てが繋がる。
 もう、あやふやな記憶も、曖昧な感情も存在しない。
 まるで身体に染み込むかのように、それまでの時間が埋まっていく。
 そこに掛かる西沙(せいさ)の言葉は、昔と同じ、柔らかいものだった。
「自分が何者か……思い出さないほうが幸せなんだと思う…………人の注目なんか浴びたくない……私もそうだった…………普通に生きてみたかった…………でも今、この国はあなたを必要としてる…………お願い…………助けて欲しいの…………」
 崩れかけた(かえで)の体を、御世(みよ)が支え、そのまま(かえで)を座らせた。
 すると、意外にも口を開いたのは(かえで)だった。
「……あの……〝蛇の会〟は…………」
 すぐに西沙(せいさ)の声が返ってくる。
「あなたが気付いてる通り偽物…………〝蛇の会〟を名乗っているだけに過ぎない。武力で潰せば早いことは分かってる。でも犠牲を出したくなかった…………だから被害が出てるのも知ってる…………でもあの偽物の組織は必ず解体しなきゃならない…………〝清国会(しんこくかい)のトップ〟として約束する」
清国会(しんこくかい)は────」
「残念だけどそれを説明するには時間が足りないみたい。御世(みよ)、急いで」
 西沙(せいさ)はそう言うと窓の外に顔を向けた。
 すると、その言葉を受けた御世(みよ)が再び(かえで)の耳元で(ささやく)く。
「私たちはあなたのお母さんの意思も引き継いでる…………だから、あなたを命をかけて守る」

 ──…………お母さん………………

「────みんなでね」
 そう続けた御世(みよ)は、胸のポケットから小さな巾着袋を取り出すと、(かえで)の左手を取り、袋の中身を(てのひら)に乗せた。
 それは、ネックレスの繋がった小さな〝水晶〟。
「……〝火の玉〟……これはあなたに託されたもの…………〝水の玉〟の行方は未だに分からないままだけど…………必ずまた現れる…………その時が来たらね……」

 ──…………その時………………?

「……でも、私の役目は一旦終わり…………ずっとあなたを見てきたよ…………この世に産まれる前から…………」
 御世(みよ)の姿が薄れていく。
「────香世(かよ)⁉︎ まっ………………」
 香世(かよ)のことを何も知らなかった。思い返せば、いつも大事な時に現れ、いつも助けてくれた存在。唯一、自分をこの世に繋ぎ止めていてくれた存在。
 もっと香世(かよ)のことを知りたかった。
 その〝香世(かよ)〟の姿が、今〝ユイ〟の目の前で消えていく。
 (きり)が空気に紛れるように。

 ──…………私の…………たった一人の心の拠り所………………

 部屋が静かになると、聞こえるのは遠くの銃声だけ。
 そして西沙(せいさ)の声。
「行って…………近い内に必ず迎えに行く…………」
 (かえで)が立ち上がると、西沙(せいさ)の声が続いた。
「ここは私が抑える…………でも安心して。自衛隊と違って誰も犠牲になんかしないよ。御世(みよ)だけは違ったけど許してあげて…………あなたを守るためにするしかなかった…………あの子は自分を犠牲にしすぎた…………」
 (かえで)が顔を上げる。
 そこにあるのは、多くのことを受け入れた目。
 西沙(せいさ)はその目を確認するかのように見ると、再び口を開く。
「あなたは私たちが必ず守る…………だから安心して……早く行って!」
 (かえで)は小さく頷くと、闇雲に路地を走っていた。
 ビルとビルの狭間。いつ終わるとも知れない長さに感じた。月明かりも届かない暗闇に感じる。月に照らされた先が見えたが、それは遥か遠く。
 ただ、涙が止まらない。
 昨日までとは違った恐怖が全身に纏わりつく。
 しかし、それでも何かを受け入れた。
 受け入れるしかなかったのではない。

 ──……これは…………私が選んだ、未来の形………………

 乾いた音が聞こえた。
 まるで花火でも打ち上げるような音。
 しかしその音は、やがて(かえで)の頭上で爆音に変わる。
 上を見上げて緊張が走った時────突然、誰かが(かえで)の腕を引く。
 倒れ込んだ(かえで)の目の前に、大量のコンクリートの塊が降り注いだ。辺りは一瞬で白い煙と火薬の匂い。
 そしてその瓦礫の上に立つ────人の後ろ姿。
 呆然とする(かえで)の目の前で、その人物の動きは緩やかだった。
 被っていたフードを脱ぎながら振り返る。
「────びっくりした? ごめんね」
 その立ち姿と声を見間違うわけがない。

 ──…………〝萌江(もえ)〟………………

御世(みよ)からしっかりと引き継いだよ。だから安心して…………私たちはあなたを必ず守る」
 その萌江(もえ)の向こうには〝咲恵(さきえ)〟の姿。
「まったく…………カッコつけすぎ」
 そして、二人の姿が(きり)のように消えていく。

 ──……そっか…………そうだった…………みんないるんだ………………

 (かえで)は、背中に温もりを感じた。
 まるで、誰かに後ろから包まれるような暖かさ。
 そして、耳元で懐かしい声が(ささや)く。

『……私たちは……時を超えてきた…………みんながあなたを待ってる…………』

 ──…………お母さん………………

『……(かえで)…………あなたを……信じてるよ………………世界を救って…………』

 ──……私は…………一人じゃなかったんだ………ずっと……………





 大きな橋の真ん中。
 西沙(せいさ)はその縁に座って川の向こう岸に見える海を眺めていた。
 夜の闇に紛れる深く黒い海。
 今は微かに波の音を聞かせるだけ。
 すでに銃声も爆発音も聞こえない。
 その西沙(せいさ)の横、縁に寄りかかっているのは────日本に帰ってきたばかりの杏奈(あんな)だった。
「やっと銃声が聞こえなくなったか…………終わったみたいね」
 その西沙(せいさ)の言葉に杏奈(あんな)が溜め息混じりに返す。
「……銃声は聞き飽きたよ…………ヨーロッパよりは少ないけど…………」
 杏奈(あんな)は戦争の開始と共に、フリーの戦場カメラマンとして世界中を飛び回っていた。戦争が終わっても混乱の中ですぐに帰ることが出来ず、数年経ってやっと帰ってきたばかり。
 死んだ父親と同じ道。
 諦めていた夢。
 周りからは〝他人の死を食い物にしてる〟と揶揄(やゆ)されもした。自分でも確かにそれは感じていた。しかしどうしても気持ちに(あらが)うことの出来ないまま、自らの命の危険さえある戦場に飛び込んだ。
 カメラバッグは今でも父親の形見の物。
「あっちはどうだったの?」
 その西沙(せいさ)の言葉が組織のリーダーとしての言葉に聞こえ、少しだけ杏奈(あんな)は身構えた。

 ──……お互い…………抱えるものが増えたね………………

 そう思いながら杏奈(あんな)が返していく。
「────最悪だね。日本以上に政府が機能してないよ。こんな国でも良く見えるくらいにね。それでもイギリスはまだ堅実かな。引き際が上手かった…………フランスは無くなったエッフェル塔を再建するんだってさ。呆れたよ。国民の生活だって安定してないのに…………」
 杏奈(あんな)はそう言って煙草に火を着けた。
 杏奈(あんな)が大きく吐き出した煙を眺めながら西沙(せいさ)が返していく。
「……シンボルが欲しいんじゃないかな。なんでもいいんだと思うよ。アメリカでもニューヨークの自由の女神に人が集まってるって話を聞いたし……みんな何かに(すが)りたいんだよ。毎日が不安だらけで、明日があるかどうかも分からない…………この国の人間は、今度は何に執着していくのかな…………」
「それが宗教か…………」
 杏奈(あんな)はそう返しながら、煙草を大きく吸い込む。
 吐き出された煙が、緩やかな風に流されていった。
 西沙(せいさ)が会話を繋ぐ。
杏奈(あんな)は私たちに会ってなかったら、やっぱり宗教なんて興味無かった?」
 すると杏奈(あんな)は少し考えるように間を空けてから応えた。
「……うん……多分ね…………でも、だから今、こうしてここにいる…………感謝してるよ。ま、戦場カメラマンにもなれたしさ。婚期は逃したけど」
「そりゃご愁傷さま」
 返しながら小さく笑顔を浮かべた西沙(せいさ)が続ける。
「でもまあ、私は杏奈(あんな)に出会えたことが幸せだよ」
「そんな素直なこと言うなんて珍しいねえ。あの〝西沙(せいさ)さん〟が」
 杏奈(あんな)の顔にも笑顔が浮かぶ。
 すぐに西沙(せいさ)が返した。
「そう? 年齢を重ねて丸くなったって言ってよ…………これからも色々と頼むよ。昔みたいにさ」
「相変わらず忙しそうだなあ」
「……みんなに…………背中向けられないからね…………」
 西沙(せいさ)のその言葉に、杏奈(あんな)の顔から笑顔が消えた。
 そして返す。
「……そうだね…………まだ……私たちがいるよ…………」





 (かえで)は、本殿の床に横になったまま、深い眠りに落ちたまま。
 毘沙門天(びしゃもんてん)神社の本殿に、緩やかな風が渡っていく。
 萌江(もえ)は左手に絡めていた水晶を首に戻すと、呆然と床を眺めるその場の全員に向かって口を開いた。
「……これは…………一つの未来の形…………本当の未来は私にも分からない…………」
 全員がゆっくりと顔を上げ始めた。
 萌江(もえ)の言葉が続く。
「……でもこれだけは言える…………誰かに責任を背負わせるような、そんな未来になんかしたくない…………誰も犠牲になんかしない…………それなら私が────」
 萌江(もえ)の言葉を遮ったのは、その手に自分の手を重ねた隣の咲恵(さきえ)だった。
 咲恵(さきえ)萌江(もえ)の目が潤んでいることに気が付いていた。
 そして口を開く。
「……私たちは……あなたを守る…………それは決して、重い未来を伴うとは限らない…………忘れないで……あなたがいなければ、今のこの時間も無いの…………あの未来をみんなで共有したことに意味は無いの? 私は変えてみせる…………萌江(もえ)が少し先の未来までしか見れないのはどうして? その先が決まっていないからなんじゃないの?」
 まるでその言葉に応えるように、萌江(もえ)咲恵(さきえ)の手を握り返していた。
 咲恵(さきえ)の言葉が続く。
「過去も現在も、未来も…………常に一緒にあって、いくつもの可能性を含んでる…………今はそれでいい…………でも……萌江(もえ)と出会えない過去なんて、私はいらない…………何度同じ過去を繰り返したって……私は萌江(もえ)に出会ってみせる…………」
 その時、横になっていた(かえで)が体を起こした。
 その僅かな音に全員からの視線を向けられながらも、その目は萌江(もえ)に向けられている。
 そして、(かえで)は優しく微笑んだ。





 御陵院(ごりょういん)神社。
 メインになる祭壇の前には(さき)
 その後ろには綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)が控えていた。
 (さき)は二人に背中を向けたまま口を開いた。
「……近頃…………未来が見えません…………何か違和感を感じるのですが…………あなた達はどうですか?」
 いつになく後ろ向きな(さき)の言葉に、正直、二人は驚いていた。思わず、どちらからでもなく顔を見合わせる。
 そして最初に言葉を返したのは綾芽(あやめ)だった。
「……不確定なことですが、今は……大きな分岐の時かと…………」
「何か────」
 焦りを含んだかのような(さき)の言葉を、すぐに綾芽(あやめ)は遮る。
「いえ────見えているわけでは…………」
 それに(さき)が小さく溜め息を()いた直後、口を開いたのは涼沙(りょうさ)
「……母上…………未来など……我々の手でどうとでも…………」
 しかし、綾芽(あやめ)には一つの未来が見えていた。
 そして、それが正しいかどうかではなく、求めるものなのかどうか、判断に悩んでいた。




        「かなざくらの古屋敷」
      〜 第二十部「深淵の海」終 〜
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