第6話 日常①

文字数 2,777文字

 ミカはベッドのサイドテーブルに置いてある目覚まし時計のアラームを止めた。隣ではまだアダムが寝息を立てている。ミカはアダムを起こさないようにそっとベッドから抜けだした。
 キッチンへ行くと冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスへ注ぎ、それをゆっくりと飲み干した。アルコールで澱んだ身体が綺麗な水で浄化されていくような感覚がした。

 ギャレットの夢から戻ったあと、ミカは懸命に被害者の情報を思い出そうとしたが、行方不明の二三人の被害者のうち、十三人の情報に留まった。あとの十人はとうとう思い出すことができなかった。
 はじめての実戦の疲労とギャレットの精神世界に触れたストレスから、直後にミカは倒れてしまい、そのまま検査入院となった。腹には大きな痣が残り、それが消えるまでしばらくかかった。夢の中で受けた傷は、脳が実際に受けたダメージとして認識してしまうようだった。つまり、夢の中で致命傷を受ければ、死につながるということを意味していた。
 ギャレットはというと、一命は取り留めたが、抜け殻のように惚けた状態になってしまい、ドリームダイバーでのアクセスはできなくなってしまっていた。ギャレットは今もあのビルから落下し続けているのかもしれないとミカは思った。無限に続くその恐怖に耐えかねて、精神が崩壊してしまったのだと。

 入院して二日目、病室にカーター市長が物々しい警備を従えて見舞いに来た。
 ミカは任務を完遂できなかったことに悔し涙を流し、市長は泣いているミカを抱きしめた。
「いいのよ。あなたはよく頑張ったわ。あなたのおかげで十三人もの人が家に帰れるんだから」
 ミカはカーター市長の胸で泣いた。しかし、それも束の間、市長はミカを引き離すと笑顔で言った。
「みんなが待ってるわ。さあ、行きましょう」

 用意されたスーツに着替えたミカは腹の痛みに堪えながら市長と共にロビーへと続く大階段を下りる。そこには多くのマスコミと記者会見用に用意されたが演壇とマイクが二人の登場を待ち、階段を下りてくるミカと市長をカメラは待ちきれずにシャッターを切る。
 ミカはマイクに向かうカーター市長の隣で、一体何が始まるのかと困惑した。聴衆を確認するように市長はわずかに間を置き、口を開いた。
「ニューヨークの、いや、世界の仇敵、ギルバート・ギャレット。彼はニューヨーク市警のリック・ローガン巡査のほか、多くの市民を手にかけていました。とても許しがたい殺人鬼です」
 市長はうっすらと目に涙を浮かべ声を震わせた。数秒目を伏せてから前を向き、続けた。
「しかし、この度、ここにいるニューヨークが誇る優秀な刑事、ミカ・マイヤーズ巡査部長は苛烈を極める捜査の末、遂に、その被害者十三人を救いだすことに成功したのです!」
 市長の言葉に呼応するように激しく瞬くフラッシュの中、咄嗟にミカが犠牲者の人数を訂正しようと脚を踏みだす。すると、市長は人差し指を天に突き立てた。それはスピーチのために行われたジェスチャーのようであったが、ミカを制止するかのようなタイミングにミカの脚は止まり、その場から動けなくなった。
「ニューヨークは戦う準備ができています。九一一も乗り越え、これからも戦い続けます! 覚悟なさい、もうあなたたちの好きにはさせないわ」
 市長はどのカメラを見るでもなく、真正面を見据え、どこかに潜むシリアルキラーに対して言うように力強く語った。
 すると、笑顔でミカの肩に手を伸ばし、前に進むようにと促す。ミカが脚を進めると、一斉にカメラのフラッシュが切られた。景色がストロボの中でコマ送りなるような、今まで見たこともない光景に呆然としていると、市長が寄り添うようにミカの肩を抱いた。
 ミカは市長の顔を見ることができなかった。なぜなら、ミカに向けられた笑顔は口角こそ上がっているものの、瞳はまったく笑っていなかった。ギラギラと怪しく輝いており、その輝きに巨大な力を感じていた。まるで、歴史の荒波を操っている人間を超越した何かのような。
 ミカは畏敬していた。リーダーとして、女性として、人間として。カーター市長の力、存在感。
 こうして、ミカは最終試験を終え、警部補昇進ととともに、ドリームダイバーの潜入捜査官に任命された。任務は極秘のため、それは正式なものではなく、あくまで口頭でのことだった。

 この記者会見でミカは一躍時の人となった。そして、アダムと出会うことになり、その時に女の子がくれた封筒の中身はミカに宛てられたもので、それは額縁に入れてリビングに飾られていた。アダムに踏まれて少しシワのついた手紙。ミカはそれをキッチンから眺める。

「わたしは全員を助けてあげられなかった」
 付き合い始めて間もない、あるデートの夜、レストランの席でミカは突然泣きだし、アダムに懺悔した。
 本当は口にしてはいけないはずだった。特に記者であるアダムには。アダムがそれを知ってしまえば記事にしなければならなくなってしまう。世間に晒され、カーター市長に致命傷を負わせることになるかもしれないからだ。
 しかし、アダムの優しさに触れるうちに我慢できなくなってしまった。ヒーローと世間がミカを称賛するたびに、ミカは探しだすことができずに今も人知れず朽ちていく十人もの被害者への罪悪感に押し潰されそうになっていた。
 アダムは何も聞かず、ただミカのそばに寄り添った。
「僕たちを結びつけてくれたキューピッドからの手紙だから飾っておかなきゃ」
 翌日、アダムはリビングに少女から渡された手紙を飾った。

「マイヤーズ刑事、ありがとうございました。マイヤーズ刑事のおかげで、お母さんが家に帰ってこれました。お父さんもよろこんでいます。これからも悪ものをたくさんタイホしてください。マイヤーズ刑事はわたしのヒーローです」
 許された気がした。全員は助けられなかったが、彼女と彼女の父親の心は確実に救われたのだと。
 手紙を眺めていると視界の端にある電話に眼がいく。
 ケヴィン。そんなに時間は経っていないはずなのに随分と懐かしく感じた。
 ケヴィンは優秀だった。それでいてユーモアのあるムードメーカー。候補生たちは心の拠り所がない時も彼の冗談に何度も救われた。しかし、彼は実験がもとで精神を患い、現場からはずされた。デスク勤務に回され、恐らくもう二度と刑事として現場に戻ることはない。ミカは優秀であったケヴィンのキャリアを潰してしまったと自分を責めていた。
 だから止まれない。でなければケヴィンを犠牲にした意味がなくなってしまう。そして、あの女の子のような思いをする人を一人でも減らす。ミカはそう心に誓っていた。自分が権力を手にすることで必ず正義が行える、強い信念がミカの胸に宿っていた。すべての願いを叶えるために、ミカは上を目指し続けるしかなかった。
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