第6話 日常②

文字数 3,177文字

 朝の通勤に急ぐ人たちを乗せた車が隙間なくマンハッタン道路を埋め尽くす中、一台のファミリーカーが道路脇に停まってハザードを出していた。
「ヴェロ、ママはコーヒー買ってくるから、ちょっと待ってて」
 三十代前半の赤毛の女性がルームミラー越しに、後部座席に座って慣れた手つきでタブレットをいじる少女に言った。女性は少女の母親で、少女の赤毛は母親譲りだった。
 母親は少女を学校に送ってから、勤務先へ向かう途中、コーヒーショップへ立ち寄ろうと停車させていた。母親は時折咳き込みながら、バッグに入った財布を取り出す。
「ママ、わたしが買ってきてあげるよ」
 少女が後部座席から顔を出した。
「車も走ってるし、すぐ戻ってくるから」
 そう言うとまた咳き込む。母親は二、三日前から風邪を患っていた。今朝、処方された薬を飲み忘れ、それを飲むためにコーヒーを買いに行こうとしていた。
「大丈夫だよ」
 母親は気づいていた。少女が風邪の自分を気遣かいながらも、実は一人で買い物がしたいのだと。心配ではあるが、自分のためのコーヒーを買いに行ってくれるという娘の申し出がなんとも嬉しかった。近頃は大人のすることをなんでも真似たがる。母親はいくらか時間に余裕があることと信号のある横断歩道を確認して、やらせてみるかと思い立った。
「本当に? 注文難しいわよ。カフェラテの……」
「ラージサイズ、ガムシロップひとつ」
 少女は母親に声を揃える。母親のそばでいつも注文を聞いていたので、少女は母親の好みを自然と覚えてしまっていた。ふたりは言い終わると笑った。少女は楽しそうにケタケタと笑い、その笑顔は前歯が一本欠けていた。母親はその笑顔がたまらなく愛しくなり、少女の顔を両手で覆って頰にキスをする。少女は「ううん」と嫌がるような声を上げた。まるで、子供扱いしないでとでも言いたそうだ。
 母親は少女にクレジットカードを渡すと、少女は一人で車を降りてドアを閉めた。
「ここで見てるからね!」
 車の窓から母親は声をかけた。少女は大袈裟に心配する母親を笑った。
 母親は遠ざかる少女の背中を見送りながら、こうやって子供は大きくなっていくのだなと実感していた。こんな風に無邪気に笑いかけてくれるのもいつまでなのだろうと、母親は目の前の幸せを噛み締めた。

 時を同じくして、七一年型黒のマスタングが路肩に停まる。ボディは手入れをしないせいで輝きを失っていて、所々にへこみ傷がある。その傷には錆びが浮いていた。
 ミカは車から降りた。デニムにTシャツ、その上からミリタリーコートを羽織い、足元はスニーカーというラフな恰好をしていた。スーツは必要な時に署のロッカーから出せばいいというのが彼女の言い分だった。
 車のドアを閉め、目の前のピザ屋に入る。パパズ・プレイス、ミカの馴染みの小さな店。
「パァパ、おはよう」
「チャーオ、ミカ」
 店主とミカの恒例となった朝の挨拶。ミカがイタリア系の店主を「ダッド」ではなくイタリア風に「パパ」と呼ぶので、店主もわざとらしく陽気なイタリア人のように振る舞う。
 ミカは通勤前に可能な限りこの店に立ち寄り、カプチーノのラージサイズとミートボールサンドをテイクアウトして出勤する。
 それらを受けとるとミカは決まってカプチーノの蓋を開けて香りを味わい「ううん」とうなってから淹れたてをひと口だけ飲む。パパと呼ばれる店主はその変わらない光景を微笑ましく眺めた。
「またも、ニューヨーク市警のマイヤーズ刑事がお手柄です」
 店内に置かれたテレビから朝のニュースが流れる。ミカはテレビに冷ややかな視線を送りながら、もうひと口だけ飲むことにする。
「パペットマンことロバート・リベラ容疑者が誘拐したとして行方不明となっていたユマ・アンダーウッドさん十九歳を無事救出しました」
 ヘリコプターから人質が監禁された建物を空撮しているシーンから、ミカがマイクの前で事件の概要を語っているシーンに移り、次はミカが移動中、マスコミの近すぎるカメラを手で払い除けるところで一時停止になる。
「しかし、リベラ容疑者は取り調べ中に意識不明となり、その後、死亡が確認されており、正規の手順で取り調べが行われたかが懸念されています。ニューヨーク市警によると、急性の心筋梗塞であったとのことですが、マイヤーズ刑事は以前にも似たようなケースがあり……」
「ふん」
 このあたりでミカはテレビから興味をなくした。相も変わらず悪意のある物言いだなとミカは呆れる。シリアルキラーのもとから少女が助かったことよりも、警察の取り調べに疑惑がある方が気がかりとは。
 ミカはSNS上で、拷問官と呼ばれたり、手を触れずに超能力で人を殺す魔女などと揶揄されたこともあった。近頃ではそんな扱いに慣れっこなミカは、当たらずとも遠からずと自嘲的に笑う。
「インベチーレ! テスタディカッツオ! 英雄に対してなんて言い草だ!」
 パパがカウンターから身を乗りだし、澄ました顔をした女性キャスターに、つばを吐きそうな勢いで罵倒する。パパがイタリア語を使う時は、決まって悪い言葉であると常連客は皆知っていた。
「誰がこの街を守っていると思ってる!」
 熱っぽく語るパパに、常連客のひとりが「引っ込め!」と面白がって野次を飛ばした。
「いいや、黙らないね。ここマンハッタンには神のご加護を受けた守護天使がいるんだ!」
 パパの声に店内からは「イエー!」と呼応する歓声も上がる。ミカのファンも少なくはないようだ。
「ミカのおかげで今日も平和。女子供も安心して街が歩けるんじゃないか!」
 大きな身振りで怒鳴り続けるパパのせいで、客の視線がミカに集まる。ミカは気まずさに苦笑いしながら、さらにもう一口飲む羽目になった。
「あんた!」カウンターからは、客を待たせ続けるパパをたしなめる女房の叫び声が飛ぶ。
「おまえは黙ってろ!」パパはお構いなしに続けた。
「ミカはニューヨークが世界に誇るヒーローなんだ! 彼女の姿を見りゃあ、殺人鬼どもは皆ハダシさ! ミカに比べたら、クラーク・ケントやピーター・パーカーだって真っ青っ……!」
 パパが両手を大きく広げてそう言った瞬間だった。どこからか大きな爆発音が轟く。ピザ屋のガラスも衝撃に音を立てながら震えていた。
 ミカは慌てて表へ飛びだし、そのあとをすぐにパパも追った。
「マンマミーア……」
 パパがコック帽を胸に当て、祈るように呟いた。
 一ブロック先の建物から黒煙がもうもうと吹きだしている。あたりには粉塵が舞い、通行人は慌てて逃げだす。
 ミカは弾けるように駆けだし、逃げ惑う人の流れに逆らって、その煙の元へと急いだ。人気チェーン店のコーヒーショップ。通勤時間帯に多くの人がコーヒーを求めて立ち寄る店。
 数フィートまで近寄ると火炎の熱で身体が焼かれそうだ。熱でそれ以上近づくことができず、ミカは目を凝らして火炎の中を伺うが、店内に動く人影はない。
 赤毛の女性が呆然と燃え盛る建物を見つめながら、とぼとぼとミカの横を通り過ぎる。自身も割れたガラス片を受けたせいで、所々出血していた。
「いやぁー!」
 母親は悲鳴を上げると、さらに建物に近づこうと進む。「危ない!」ミカは彼女を抱きしめて止めた。
「ヴェロー! ヴェロニカー!」
 母親は狂ったように叫びながら、ミカの制止を振り切ろうともがき、ミカは腕に力を込めて必死に彼女を止めた。彼女は諦めるように「ああ……」と力なくその場に泣き崩れた。
 ミカは彼女を抱いたまま、携帯電話で九一一をダイヤルすると、バッジナンバーと身分を告げ、警察の応援と消防車、救急車を要請した。
爆弾魔(ボマー)
 電話を切るとミカは自然とそう口にしていた。ここ数ヵ月のあいだにニューヨークを恐怖におとしいれた連続爆弾魔。この爆発もボマーが関与していることは明白だった。
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