第18話 あの日①
文字数 5,799文字
そこは見覚えのある公園だった。それどころか、少女時代に何度も足繁く通った近所の公園。ブランコの色も、回転遊具の傷も鮮明に思い出せる。ミカはその公園を囲む金網のフェンスの外にいた。その光景にミカの胸は激しく動悸した。
ミカの友達はもうすでに集まっている。女の子たちは無造作に自転車を乗り捨て、ベンチの傍で楽しそうにお喋りをしていた。その子たちの服装まで覚えている。
すると、膨れっ面で自転車を押す女の子と、そのうしろを笑顔でついてくる、その女の子のいくらか年下の男の子が現れた。その二人を見て、ミカは震えた。
十歳のミカとよっつ年下の弟、マイケルだった。
日曜日の朝、ミカとマイケルは父親の運転する車の後部座席で並んで座り、いつものように教会に向かっていた。
両親は敬虔なクリスチャンだった。日曜日には教会に行き、夕飯はお祈りを済ませてから手をつける。しかし、両親は二人の子供に信仰心を強要したりはしなかった。
「パパはジーザスのファンなんだ」
口癖のように父親は言った。それが彼なりの教育だった。ミカとマイケルの名前の由来も天界からサタンを追い払った天使ミカエルからあやかったものだ。欧米にはミカエルを元にした名前が存在し、アメリカでは男性ならマイケル、女性ならミシェルとするのがポピュラーだったが、ヨーロッパに出張した際、「ミカ」という人物名が存在することを知った父親は、その響きをとても気に入り、生まれてくる娘にそう名づけた。
両親は子供たちのため懸命に働いた。堅実に蓄え、背伸びをして郊外の一軒家を選んだ。多少不便でも危険な都市部ではなく、近所を自由に走り回れる郊外の方が子供の教育環境にいいと思えたからだ。自分の子供たちには安全で平穏な人生を送ってもらいたい。それだけが両親の願いだった。
助手席では母親が近所で起きた取り留めないことを楽しそうに父親に話している。父親はハンドルを握りながら、それを笑顔で聞いていた。父親にとって、会話の内容はなんでもよかった。こうして家族揃って日曜日を迎えられる。それだけで幸せだった。
ミカの隣でマイケルも楽しそうに笑っている。車内でミカ一人だけが不服そうに難しい顔をしながらポータブルゲームに熱中していた。
ミカはゲームが大好きだった。ゲームだけではない、男の子たちに混じって野球やバスケットボールをするのが好きだった。おままごとやお人形遊びのように女の子たちが好む遊びよりも、その方がミカにとって、よほど魅力的だった。
しかし、それは両親の悩みの種でもあった。ミカは年頃の女の子が好むようなものには興味を示さず、まるで男の子のようであった。よく怪我をしたし、男の子相手に喧嘩をしたこともあった。それは友達の女の子が泣かされたからという理由ではあったのだが。
マイケルは母親に似て女の子のような顔立ちをしていたが、ミカは父親に似ていて、女の子にしては精悍な顔つきであった。そのせいなのかと父親は人知れず悩んだこともあった。
ゲームは教育上あまり賛成できなかったが、無理に遠ざけるのもかえって良くないのではとも思い買い与えた。それでもゲームソフトを無闇に買い与えたりはしなかった。ミカもそのことはわかっていたから、何度でも遊べるソフトを吟味してから誕生日のプレゼントにねだった。
ミカがやっているゲームも何度となくクリアした物だ。いい加減飽きが来ていたが、それでもミカは次の誕生日がくるまでこのゲームをやるしかなかった。
それに比べて、マイケルはミカと違い両親が好む物を好んだ。トランプやスクラブル。そのたびにミカは付き合わされた。数年前まではミカも同じように楽しんで参加していたが、この頃はもう違った。スクラブルをやればマイケルはスペルミスをし、両親はそれを愛おしそうに笑った。すべてがマイケル中心に進み、ミカは面白くなかった。本当は一人でゲームがしたいのに、そんな風に思っていた。
ミカはエリアをクリアした合間にマイケルを横目で見た。すると、マイケルも得意気に笑みを浮かべてミカを見ていた。この顔がミカを苛立たせた。
前の晩、ミカは布団に隠れてゲームをしていた。ゲームは夕飯までと何度も両親に言われていたが、誘惑に勝てなかった。もうひとつエリアをクリアしたらやめよう、緊張しながらミカはゲームに集中していた。すると、布団の隙間からマイケルがその様子を覗き見ていた。
「あー!」
マイケルは嬉しそうに声を上げるとミカの部屋から走り去った。前に母親に見つかった時、「今度見つけたら、ゲームを捨てる」と脅かされていたから、ミカは絶望した。マイケルがすぐにこのことを母親に言いつけるに違いない。ゲームを取り上げられるのが嫌で、ミカはその夜、なかなか眠れなかった。
しかし、朝を迎えても両親はミカを叱責することはなかった。代わりにマイケルのこの笑みだ。マイケルにしてみれば姉と戯れているつもりなのかもしれないが、ミカにとっては弟に弱みを握られていることが堪らなく不快で悔しかった。
「ミカ、ゲームばっかりやらないの」
母親がルームミラー越しにミカに言ってくる。
「もうちょっとだけ」
ミカは慌てて言い返した。
「そうだよ、ゲームばっかりやってちゃダメでしょ」
隣に座るマイケルがにやけながら、それに加勢する。まるで母親を真似たような口振りだ。
いい子ぶって、頭にくる。ミカはマイケルを睨みつけた。マイケルはミカの鋭い目を恐がって笑みを収めた。
「何? 僕はお姉ちゃんの秘密、知ってるんだよ」
マイケルも負けじとミカの痛いところを突く。
「え? 秘密って?」
父親が興味深そうに笑いながらルームミラー越しに訊いてくる。
「うるさい、バカ!」
ミカは怒りに任せてマイケルの肩を拳で殴った。
「痛い!」マイケルは大きな声を上げて、殴られた肩を抑えた。
「ミカ!」それと同時に両親が叱るように声を上げた。
「何するんだよ! ベッドでゲームやってたくせに!」
マイケルが苦し紛れにミカの秘密を暴露した。とうとう両親に知られてしまった。ミカは恐る恐るルームミラーを覗いた。すると、父親が滅多に見せない鋭い目つきでミカを見ていた。ミカはその視線に萎縮した。
「本当なの? 今度、夕飯のあとにゲームしてたら捨てるって言ったわよね」
母親が振り返り、ミカに尋ねた。
「やってないよ」
ミカは咄嗟にそう言ってしまう。そのすぐあとに、「嘘だ!」とマイケルが叫んだ。
すると、車はゆっくり路肩に寄り、ハザードを出して停車した。父親はサイドブレーキを引くと母親と同じように振り返った。
「ということは、どちらかが嘘をついているということになるぞ。これはゲームをやってたことよりも問題だ」
父親は二人の顔を交互に見ながら、諭すように言った。
「どうなの? ミカ」
母親がミカに尋ねるが、ミカはうつむいたまま答えない。これは肯定したのも同じだった。
「ゲームを渡しなさい」
母親がミカに手を差し出す。ミカは咄嗟に拒否するようにゲームを抱きしめるが、母親は手を差し出したままミカを見据えた。
ミカは観念して母親にゲームを渡す。すると、父親がゆっくりと車を発進させた。
ミカはずっとうつむいたままだった。いつもこうだ、マイケルはいい子で、自分は悪い子。ミカは目を悔し涙で滲ませた。泣いてしまうとマイケルに負けるような気がして、その涙が溢れないように懸命に堪えた。
ミカは教会から帰って昼食を済ませると、友達の家に電話して、公園で遊ぶ約束をした。なんだか家にいたくない気分だった。
ミカが二階にある自分の部屋から階段を降りて玄関へと向かう。
「どこに行くの」
振り返るとリビングからマイケルがこちらを見ていた。手にはお気に入りのスケッチブックと色鉛筆を持っている。
「関係ないでしょ」
ミカは冷たく言い捨てるとジャンパーに袖を通した。
「遊びに行くんでしょ。僕も連れてって」
悪びれた様子もなく言うマイケルに、ミカは怒りを覚えた。なんて図々しい子なの、あんたのせいで私はゲームを取り上げられたばっかりなのにと。
「嫌よ」
「連れてってよ!」
突き放すミカにマイケルは大きな声を上げた。その声にキッチンにいた母親がリビングへとやってくる。
「どうしたの?」
母親は怪訝そうな顔をしてミカに尋ねた。
「女の子たちと遊ぶのに、マイキーがついてくるって言うから……」
ミカは母親の登場に慌てて説明する。
「いいじゃないの、連れて行ってあげれば」
「でも……」
ミカは拗ねるように口を尖らせた。それでも母親は譲ろうとしない。母親もちょうど夕飯の下ごしらえをしてマイケルの相手ができなかったらから、ミカにそうしてもらえれば助かったし、マイケルに対して冷たく当たるミカが気がかりでもあった。数年前まで自分から進んでマイケルの世話をしてくれる面倒見の良い子だったはずなのに。
その母親の表情を見て、ミカは仕方なくマイケルに頷く。マイケルの顔がぱあっと明るくなった。
自転車を押しながら、ミカは苛立っていた。まだミカのようにうまく自転車に乗れないマイケルのために、こうして自転車を押して行かなければならない。これでは友達を待たせてしまう。それなのに女の子たちは揃ってマイケルを「お人形さんみたい」と可愛がるに違いない。
「なんで私ばっかり」
そう思いながらマイケルを睨むと、人の気も知らず、胸にスケッチブックを抱えてニコニコと楽しそう笑っている。
「まったく」
自転車のハンドルを握る手に力が篭った。
「あっ! マイキーだ!」
公園に着くと案の定、女友達たちがマイケルを囲んで可愛いとちやほやしだす。
その様子をフェンスの外にいるミカは不安に駆られながら見つめていた。無意識にフェンスを手で掴んでしまう。
十歳のミカは女友達がマイケルと戯れている様子をつまらなさそうに眺めていた。
フェンスを掴みながら、ミカは公園の入り口を見た。このあと男の子たちが来る。そう思ったのとほぼ同時に、自転車に乗った三人の少年たちがやってくる。同級生の男の子たちだ。
「やあ!」
その中の一人、もう名前も思い出せないが、野球やバスケットボールを一緒にやっていて当時親しかった少年が十歳のミカに声をかけてくる。ミカも「やあ」と返した。
「お前ら、何やってんの」
少年がつまらなさそうにしているミカに訊いた。
「別に何も」
ミカが現状にうんざりするように返す。
「だったらウチに来ない? これからみんなで新しいニンテンドーをやるんだ」
それを聞いてミカは驚きに大きく目を見開いた。
「買ったの?」
「兄貴がバイトして買ったんだ。兄貴は今夜パーティーで遅いから、その隙に」
ミカにとっては夢のような誘いだった。テレビゲームなど両親はとても許してくれない。前々からコマーシャルで見ていた憧れのハードで遊ぶことができる。
「うん! 行きたい!」
ミカは喜びに声を上げた。その反応を見て、女友達の一人がミカの元に駆け寄ってくる。
「ねえ、どうしたの?」
その女友達がミカに尋ねた。
「ニンテンドーだって!」
ミカは興奮気味でその子に話した。
「ええ! 買ったの?」
あまりゲームに興味のない友達でさえ興奮を隠せない。少年は得意気にミカに話したことを同じようにその女友達に話した。
「行こうよ!」
ミカが他の女友達に手招きをする。すると、マイケルの姿が目に入った。マイケルは何事かと周囲の様子を伺っている。
女友達はミカの元に駆け寄り、少年の提案に目を輝かせている。マイケルも急いでミカの元にやってきた。
「僕も行きたい!」
マイケルがミカに言う。
「あんたはダメ! 家に帰りな!」
ミカは叱るように言った。それを聞いて女友達たちも困惑していた。
マイケルを連れて行ったら少年の家に迷惑がかかるに違いない。僕も僕もとわがままを言って、それが叶わなければ癇癪を起こし、万が一、少年の兄のゲームを壊してしまいでもしたら、そう考えるととても連れて行くわけにはいかなかった。
「嫌だよ! 僕も……」マイケルがそう言いかけたところで、ミカはあることを閃いた。それを眺めていたフェンスの外のミカは、フェンスを掴む手に力が入る。
「じゃあ、私の暗号に答えられたら、仲間に入れてあげる」
ミカは笑顔でマイケルに言った。すると、マイケルの顔も明るくなり「本当?」と訊き返す。
「それ貸して」
ミカがマイケルの持つスケッチブックを指差すと、マイケルも喜んでそれを差し出す。それを受け取るとミカは真っ白のスケッチブックにマイケルの色鉛筆を素早く動かした。
ミカがゲーム機に興味を持つ前、ミカとマイケルは二人だけでなぞなぞや、暗号遊びをしていた。アルファベットを並べて、ヒントに従い、規則性に沿うと新たに単語が見つかる、というような遊びだった。学校で聞いた問題をマイケルに教えると「凄い!」と言って喜んでくれた。それが嬉しくてミカは、学校で新しく問題を聞くと、「マイケルに教えてあげなくちゃ」と思ったほどだった。
久しぶりに出されるミカの暗号にマイケルは興奮していた。手を動かすミカを、早く描き終わらないかとそわそわしながら見ている。
「はい、できた」
ミカがスケッチブックをマイケルに差し出す。マイケルは受け取るとそこに描かれた問題に目を輝かせていた。
「難しいよ、解けるかな」
簡略的な太陽の絵とその下に「SUN」、そこから右へ矢印が傘の絵と同じように「RAIN」と描かれたものを指している。そして、その太陽と傘の下に、「ADKNRZ」とアルファベットが羅列されている。
「あそこに座って、やりなさい」
ミカが公園内のベンチを指差すと、マイケルは頷いて素直に従った。
「ミカ、いいの?」
女友達の一人が心配そうにミカに声をかける。
「大丈夫だって、すぐに戻るから」
そう言うミカの横で、マイケルはすでに問題を解こうと真剣な顔でスケッチブックを睨んでいる。
「いい? すぐに答え合わせしに戻るからね。それまでに解いてるんだよ」
「うん」マイケルはスケッチブックを睨んだままベンチに向かって歩きだすと、そこに座った。
「行こう!」
それを見届けると、ミカは友人たちと自転車に乗り公園をあとにした。
「待って……!」
フェンスの外のミカはその姿を見送りながら、祈るように呟いた。
ミカの友達はもうすでに集まっている。女の子たちは無造作に自転車を乗り捨て、ベンチの傍で楽しそうにお喋りをしていた。その子たちの服装まで覚えている。
すると、膨れっ面で自転車を押す女の子と、そのうしろを笑顔でついてくる、その女の子のいくらか年下の男の子が現れた。その二人を見て、ミカは震えた。
十歳のミカとよっつ年下の弟、マイケルだった。
日曜日の朝、ミカとマイケルは父親の運転する車の後部座席で並んで座り、いつものように教会に向かっていた。
両親は敬虔なクリスチャンだった。日曜日には教会に行き、夕飯はお祈りを済ませてから手をつける。しかし、両親は二人の子供に信仰心を強要したりはしなかった。
「パパはジーザスのファンなんだ」
口癖のように父親は言った。それが彼なりの教育だった。ミカとマイケルの名前の由来も天界からサタンを追い払った天使ミカエルからあやかったものだ。欧米にはミカエルを元にした名前が存在し、アメリカでは男性ならマイケル、女性ならミシェルとするのがポピュラーだったが、ヨーロッパに出張した際、「ミカ」という人物名が存在することを知った父親は、その響きをとても気に入り、生まれてくる娘にそう名づけた。
両親は子供たちのため懸命に働いた。堅実に蓄え、背伸びをして郊外の一軒家を選んだ。多少不便でも危険な都市部ではなく、近所を自由に走り回れる郊外の方が子供の教育環境にいいと思えたからだ。自分の子供たちには安全で平穏な人生を送ってもらいたい。それだけが両親の願いだった。
助手席では母親が近所で起きた取り留めないことを楽しそうに父親に話している。父親はハンドルを握りながら、それを笑顔で聞いていた。父親にとって、会話の内容はなんでもよかった。こうして家族揃って日曜日を迎えられる。それだけで幸せだった。
ミカの隣でマイケルも楽しそうに笑っている。車内でミカ一人だけが不服そうに難しい顔をしながらポータブルゲームに熱中していた。
ミカはゲームが大好きだった。ゲームだけではない、男の子たちに混じって野球やバスケットボールをするのが好きだった。おままごとやお人形遊びのように女の子たちが好む遊びよりも、その方がミカにとって、よほど魅力的だった。
しかし、それは両親の悩みの種でもあった。ミカは年頃の女の子が好むようなものには興味を示さず、まるで男の子のようであった。よく怪我をしたし、男の子相手に喧嘩をしたこともあった。それは友達の女の子が泣かされたからという理由ではあったのだが。
マイケルは母親に似て女の子のような顔立ちをしていたが、ミカは父親に似ていて、女の子にしては精悍な顔つきであった。そのせいなのかと父親は人知れず悩んだこともあった。
ゲームは教育上あまり賛成できなかったが、無理に遠ざけるのもかえって良くないのではとも思い買い与えた。それでもゲームソフトを無闇に買い与えたりはしなかった。ミカもそのことはわかっていたから、何度でも遊べるソフトを吟味してから誕生日のプレゼントにねだった。
ミカがやっているゲームも何度となくクリアした物だ。いい加減飽きが来ていたが、それでもミカは次の誕生日がくるまでこのゲームをやるしかなかった。
それに比べて、マイケルはミカと違い両親が好む物を好んだ。トランプやスクラブル。そのたびにミカは付き合わされた。数年前まではミカも同じように楽しんで参加していたが、この頃はもう違った。スクラブルをやればマイケルはスペルミスをし、両親はそれを愛おしそうに笑った。すべてがマイケル中心に進み、ミカは面白くなかった。本当は一人でゲームがしたいのに、そんな風に思っていた。
ミカはエリアをクリアした合間にマイケルを横目で見た。すると、マイケルも得意気に笑みを浮かべてミカを見ていた。この顔がミカを苛立たせた。
前の晩、ミカは布団に隠れてゲームをしていた。ゲームは夕飯までと何度も両親に言われていたが、誘惑に勝てなかった。もうひとつエリアをクリアしたらやめよう、緊張しながらミカはゲームに集中していた。すると、布団の隙間からマイケルがその様子を覗き見ていた。
「あー!」
マイケルは嬉しそうに声を上げるとミカの部屋から走り去った。前に母親に見つかった時、「今度見つけたら、ゲームを捨てる」と脅かされていたから、ミカは絶望した。マイケルがすぐにこのことを母親に言いつけるに違いない。ゲームを取り上げられるのが嫌で、ミカはその夜、なかなか眠れなかった。
しかし、朝を迎えても両親はミカを叱責することはなかった。代わりにマイケルのこの笑みだ。マイケルにしてみれば姉と戯れているつもりなのかもしれないが、ミカにとっては弟に弱みを握られていることが堪らなく不快で悔しかった。
「ミカ、ゲームばっかりやらないの」
母親がルームミラー越しにミカに言ってくる。
「もうちょっとだけ」
ミカは慌てて言い返した。
「そうだよ、ゲームばっかりやってちゃダメでしょ」
隣に座るマイケルがにやけながら、それに加勢する。まるで母親を真似たような口振りだ。
いい子ぶって、頭にくる。ミカはマイケルを睨みつけた。マイケルはミカの鋭い目を恐がって笑みを収めた。
「何? 僕はお姉ちゃんの秘密、知ってるんだよ」
マイケルも負けじとミカの痛いところを突く。
「え? 秘密って?」
父親が興味深そうに笑いながらルームミラー越しに訊いてくる。
「うるさい、バカ!」
ミカは怒りに任せてマイケルの肩を拳で殴った。
「痛い!」マイケルは大きな声を上げて、殴られた肩を抑えた。
「ミカ!」それと同時に両親が叱るように声を上げた。
「何するんだよ! ベッドでゲームやってたくせに!」
マイケルが苦し紛れにミカの秘密を暴露した。とうとう両親に知られてしまった。ミカは恐る恐るルームミラーを覗いた。すると、父親が滅多に見せない鋭い目つきでミカを見ていた。ミカはその視線に萎縮した。
「本当なの? 今度、夕飯のあとにゲームしてたら捨てるって言ったわよね」
母親が振り返り、ミカに尋ねた。
「やってないよ」
ミカは咄嗟にそう言ってしまう。そのすぐあとに、「嘘だ!」とマイケルが叫んだ。
すると、車はゆっくり路肩に寄り、ハザードを出して停車した。父親はサイドブレーキを引くと母親と同じように振り返った。
「ということは、どちらかが嘘をついているということになるぞ。これはゲームをやってたことよりも問題だ」
父親は二人の顔を交互に見ながら、諭すように言った。
「どうなの? ミカ」
母親がミカに尋ねるが、ミカはうつむいたまま答えない。これは肯定したのも同じだった。
「ゲームを渡しなさい」
母親がミカに手を差し出す。ミカは咄嗟に拒否するようにゲームを抱きしめるが、母親は手を差し出したままミカを見据えた。
ミカは観念して母親にゲームを渡す。すると、父親がゆっくりと車を発進させた。
ミカはずっとうつむいたままだった。いつもこうだ、マイケルはいい子で、自分は悪い子。ミカは目を悔し涙で滲ませた。泣いてしまうとマイケルに負けるような気がして、その涙が溢れないように懸命に堪えた。
ミカは教会から帰って昼食を済ませると、友達の家に電話して、公園で遊ぶ約束をした。なんだか家にいたくない気分だった。
ミカが二階にある自分の部屋から階段を降りて玄関へと向かう。
「どこに行くの」
振り返るとリビングからマイケルがこちらを見ていた。手にはお気に入りのスケッチブックと色鉛筆を持っている。
「関係ないでしょ」
ミカは冷たく言い捨てるとジャンパーに袖を通した。
「遊びに行くんでしょ。僕も連れてって」
悪びれた様子もなく言うマイケルに、ミカは怒りを覚えた。なんて図々しい子なの、あんたのせいで私はゲームを取り上げられたばっかりなのにと。
「嫌よ」
「連れてってよ!」
突き放すミカにマイケルは大きな声を上げた。その声にキッチンにいた母親がリビングへとやってくる。
「どうしたの?」
母親は怪訝そうな顔をしてミカに尋ねた。
「女の子たちと遊ぶのに、マイキーがついてくるって言うから……」
ミカは母親の登場に慌てて説明する。
「いいじゃないの、連れて行ってあげれば」
「でも……」
ミカは拗ねるように口を尖らせた。それでも母親は譲ろうとしない。母親もちょうど夕飯の下ごしらえをしてマイケルの相手ができなかったらから、ミカにそうしてもらえれば助かったし、マイケルに対して冷たく当たるミカが気がかりでもあった。数年前まで自分から進んでマイケルの世話をしてくれる面倒見の良い子だったはずなのに。
その母親の表情を見て、ミカは仕方なくマイケルに頷く。マイケルの顔がぱあっと明るくなった。
自転車を押しながら、ミカは苛立っていた。まだミカのようにうまく自転車に乗れないマイケルのために、こうして自転車を押して行かなければならない。これでは友達を待たせてしまう。それなのに女の子たちは揃ってマイケルを「お人形さんみたい」と可愛がるに違いない。
「なんで私ばっかり」
そう思いながらマイケルを睨むと、人の気も知らず、胸にスケッチブックを抱えてニコニコと楽しそう笑っている。
「まったく」
自転車のハンドルを握る手に力が篭った。
「あっ! マイキーだ!」
公園に着くと案の定、女友達たちがマイケルを囲んで可愛いとちやほやしだす。
その様子をフェンスの外にいるミカは不安に駆られながら見つめていた。無意識にフェンスを手で掴んでしまう。
十歳のミカは女友達がマイケルと戯れている様子をつまらなさそうに眺めていた。
フェンスを掴みながら、ミカは公園の入り口を見た。このあと男の子たちが来る。そう思ったのとほぼ同時に、自転車に乗った三人の少年たちがやってくる。同級生の男の子たちだ。
「やあ!」
その中の一人、もう名前も思い出せないが、野球やバスケットボールを一緒にやっていて当時親しかった少年が十歳のミカに声をかけてくる。ミカも「やあ」と返した。
「お前ら、何やってんの」
少年がつまらなさそうにしているミカに訊いた。
「別に何も」
ミカが現状にうんざりするように返す。
「だったらウチに来ない? これからみんなで新しいニンテンドーをやるんだ」
それを聞いてミカは驚きに大きく目を見開いた。
「買ったの?」
「兄貴がバイトして買ったんだ。兄貴は今夜パーティーで遅いから、その隙に」
ミカにとっては夢のような誘いだった。テレビゲームなど両親はとても許してくれない。前々からコマーシャルで見ていた憧れのハードで遊ぶことができる。
「うん! 行きたい!」
ミカは喜びに声を上げた。その反応を見て、女友達の一人がミカの元に駆け寄ってくる。
「ねえ、どうしたの?」
その女友達がミカに尋ねた。
「ニンテンドーだって!」
ミカは興奮気味でその子に話した。
「ええ! 買ったの?」
あまりゲームに興味のない友達でさえ興奮を隠せない。少年は得意気にミカに話したことを同じようにその女友達に話した。
「行こうよ!」
ミカが他の女友達に手招きをする。すると、マイケルの姿が目に入った。マイケルは何事かと周囲の様子を伺っている。
女友達はミカの元に駆け寄り、少年の提案に目を輝かせている。マイケルも急いでミカの元にやってきた。
「僕も行きたい!」
マイケルがミカに言う。
「あんたはダメ! 家に帰りな!」
ミカは叱るように言った。それを聞いて女友達たちも困惑していた。
マイケルを連れて行ったら少年の家に迷惑がかかるに違いない。僕も僕もとわがままを言って、それが叶わなければ癇癪を起こし、万が一、少年の兄のゲームを壊してしまいでもしたら、そう考えるととても連れて行くわけにはいかなかった。
「嫌だよ! 僕も……」マイケルがそう言いかけたところで、ミカはあることを閃いた。それを眺めていたフェンスの外のミカは、フェンスを掴む手に力が入る。
「じゃあ、私の暗号に答えられたら、仲間に入れてあげる」
ミカは笑顔でマイケルに言った。すると、マイケルの顔も明るくなり「本当?」と訊き返す。
「それ貸して」
ミカがマイケルの持つスケッチブックを指差すと、マイケルも喜んでそれを差し出す。それを受け取るとミカは真っ白のスケッチブックにマイケルの色鉛筆を素早く動かした。
ミカがゲーム機に興味を持つ前、ミカとマイケルは二人だけでなぞなぞや、暗号遊びをしていた。アルファベットを並べて、ヒントに従い、規則性に沿うと新たに単語が見つかる、というような遊びだった。学校で聞いた問題をマイケルに教えると「凄い!」と言って喜んでくれた。それが嬉しくてミカは、学校で新しく問題を聞くと、「マイケルに教えてあげなくちゃ」と思ったほどだった。
久しぶりに出されるミカの暗号にマイケルは興奮していた。手を動かすミカを、早く描き終わらないかとそわそわしながら見ている。
「はい、できた」
ミカがスケッチブックをマイケルに差し出す。マイケルは受け取るとそこに描かれた問題に目を輝かせていた。
「難しいよ、解けるかな」
簡略的な太陽の絵とその下に「SUN」、そこから右へ矢印が傘の絵と同じように「RAIN」と描かれたものを指している。そして、その太陽と傘の下に、「ADKNRZ」とアルファベットが羅列されている。
「あそこに座って、やりなさい」
ミカが公園内のベンチを指差すと、マイケルは頷いて素直に従った。
「ミカ、いいの?」
女友達の一人が心配そうにミカに声をかける。
「大丈夫だって、すぐに戻るから」
そう言うミカの横で、マイケルはすでに問題を解こうと真剣な顔でスケッチブックを睨んでいる。
「いい? すぐに答え合わせしに戻るからね。それまでに解いてるんだよ」
「うん」マイケルはスケッチブックを睨んだままベンチに向かって歩きだすと、そこに座った。
「行こう!」
それを見届けると、ミカは友人たちと自転車に乗り公園をあとにした。
「待って……!」
フェンスの外のミカはその姿を見送りながら、祈るように呟いた。