第8話 チェイス②

文字数 5,752文字

 ニューヨーク市警本部取調室。対象者に圧力をかけるために設けられた、敢えて暗くて窮屈な閉鎖された印象を与える空間の中心には、床に固定されたスチール製のテーブルが一脚あり、そのテーブルから伸びた鎖に手錠を繋がれたターナーが椅子に座らされていた。ターナーの前には対面するように座るワイドマンが率いるチームのFBI捜査官。その様子をワイドマンとチームの数人、同席したミカ、JJ、エリオットが隣室からマジックミラー越しに眺めていた。
 捜査官は手元のターナーの資料に目を通しながら、尋問を始めた。
「名前は?」
「ブラック・ジーザス」
 ターナーは終始顔に笑みを浮かべたまま、捜査官をからかうように答える。
「年齢は?」
「二千歳」
 ターナーの答えに捜査官は舌打ちした。ターナーはその様子を見逃さず、笑みを大きくした。
「なぜ、逃げた?」
「ジョギングしてただけさ」
 ターナーは愛嬌のある大きな動作で、戯けるように振る舞う。
「市警の刑事が来て、突然ジョギングか」
「急に思い立ったんだよ。こういうのはタイミングが大事だって言うだろ?」
「ふざけるな!」
 捜査官がたまらず机を力一杯叩いた。閉鎖空間を音は跳ね回るように空気を震わせる。
「おお、怖い怖い」
 ターナーは大袈裟に身体を震わせると、苛立つ捜査官を見ながら得意そうに笑みを浮かべる。捜査官はターナーのペースに飲まれないようにとひとつ大きく息をついた。
「警部補」
 取調室の隣室でターナーへの尋問を皆が固唾を飲んで見守る中、いつの間にか部屋の中にいたパトリックはミカの背後に立つと、耳元に顔を近づけて小声で何かを伝える。
 ミカは逮捕したターナーをFBIへ譲るかわりに、ミカのチームは別室でティースの尋問させるように食い下がり、ワイドマンは渋々合意した。ミカはその取調べをパトリックに任せ、パトリックはかなりのプレッシャーでティースに尋問に臨んだはずだが、わかったことといえば、なんらかの裏稼業に手を染めているだろうが、それがなにかはわからない。電器店の二階を月八百ドル、書面なしで間借りしているということだけだった。
「そう、お疲れ」ミカがそう言うと、パトリックはまた静かに部屋をあとにした。
 こいつは本物の悪党だとミカは思った。この度胸に、これほどの自信、手掛かりになるような証拠は残していないだろう。しかし、確実にこの男はボマーに爆弾を売っている。この男が売った爆弾が多くの人を殺した。ヴェロニカ、あの赤毛の女の子を。女の子の母親の心を。もう容赦しない。ミカはターナーをひと睨みすると、部屋の隅にいるJJを見た。JJはミカがそうするとわかっていたかのように、すでにミカの方を向いている。
 ミカがJJをじっと見つめると、JJはひとつ大きく頷いた。
「セムテックスを売ったな?」
 フランクの口から聞いたセムテックスという単語に、ミカはわずかに反応した。
「セ、セム? なんだって?」
 ターナーは明らかに惚けた様子で返す。
爆弾(ボム)だ! 誰に売ったか答えろ!」
 捜査官の剣幕にも動じず、ターナーはゆっくりと捜査官の方へ身を乗りだした。
爆弾(ボム)? 写真器(カム)ならいくらでも用意はあるけどねえ」
 ターナーは苛立つ捜査官の顔を写真に納めるかのように、シャッターを切る真似をする。その仕草に捜査官の我慢は限界に達し、見る見る顔を紅潮させた。
「いい加減にしろ! このっ……!」
 捜査官は衝動的にターナーの胸倉を掴んで立ち上がらせた。
「この? なんだ? クロって言いたいのか?」
 ターナーは捜査官を見据えて笑みを消した。
「何もしてない善良な市民を前科があるってだけで怒鳴りつけるのか? それとも俺がクロだからか? ああっ?」
 ターナーの迫力にさすがの捜査官もたじろぎ、ターナーから手を離した。
「まずは、弁護士を呼びな。話はそれからだ」
 ターナーの言葉にミカはふっと吹き出した。その横顔をワイドマンは怪訝そうに眺める。
「弁護士なんて来ないのに」ミカは胸の中で呟いた。
 逮捕された容疑者はお抱えの弁護士か国選弁護士を取り調べに同席させる権利があった。しかし、ミカはそれをわざと遅らせていた。弁護士が同席すれば、人権侵害だなんだと容疑者の勾留を解いてしまうからだ。
 カーター市長の「何をしても構わない」と取れる通達をミカなりに解釈したひとつの方法であった。
 ミカはおもむろに立ち上がると無言で部屋を出て、そのまま取調室のドアを開けた。
 マジックミラーの向こうでは、ワイドマンがミカの勝手な行動に声を上げ、JJがそれをなだめていた。
「あら? お邪魔だったかな?」
 机を挟んで立ったまま睨み合っているターナーと捜査官に、ミカは部屋を間違えたかのような口振りで言った。
「このアマ!」
 ターナーはミカを見るや、襲いかかろうとするが、机と手錠に繋がれた鎖のせいで自由が利かない。
「冤罪だ! 訴えてやるからな!」
 吠え続けるターナーを他所に、ミカはターナーの対面に脚を進める。「ちょっと……」と捜査官はミカを制しようとするが、「さあ、もう行った行った」とあしらうように言いながら強引に席へ着いた。捜査官はマジックミラーの向こう側にいるだろうワイドマンに視線を送るが、特別な指示がないことに、仕方なく取調室を後にした。
「まあ、そんなに怒らないで。喉乾いたでしょ、まずはコーヒーでも飲みなよ」
「誰が……!」
 ミカはターナーに構わず振り返りマジックミラー越しにJJに合図を送った。
「エリー」隣室では、ミカとターナーのやり取りを見つめるエリオットをJJが呼ぶ。
 その声に振り返ると、JJは手に持ったコーヒーの入った紙コップをエリオットに差しだしていた。
「また、アレが始まる」エリオットはコップを見つめながら、緊張に喉を鳴らした。
 ミカがどういう取り調べを行なって成果を上げているかはわからなかったが、このあと起こることはエリオットも知っていた。エリオットは「はい」と短く返事をすると、そのコップを受け取った。
 無音の取調室で、ミカは何も喋らずターナーをじっと見つめた。口元には笑みが浮かんでいたが、眼は穏やかではなかった。
「なんだ、何を見てやがる!」
 ターナーは不気味なミカの圧力に、口を開かずにはいられなかった。それでもミカは黙ったままターナーを見つめ続ける。
「おい! いい加減にしねえか!」
 そこに、エリオットが手にコップを持って取調室へと入ってくる。
「お待たせ致しました」
 エリオットは顔に余裕の笑みを作り、コップをターナーへと差しだす。
「グアテマラ産だろうな」
 ターナーは口の端を上げながら、手錠で繋がれた両手を伸ばす。すると、エリオットはすんでのところでコップを引っ込める。
「残念ながら、ニューヨーク市警名物、猫のションベンみたいなコーヒーしか用意がないんだ。嫌なら飲まなくたっていいんだぜ」
 エリオットは意地悪く笑った。
「いいから、早くよこせ」
 ターナーが不機嫌に言うと、エリオットはふたたびコップを差しだし、ターナーはエリオットから奪いとるようにコップを掴んだ。
 実のところ、ターナーは喉が渇いて仕方がなかった。ミカたちから逃げ回ったあと、捕えられたワイドマンに水を一杯飲ませてほしいと頼んだが断られていた。
 コップを顔へ近づけて湯気の香りを嗅ぐ。心が安らぐ香り。なんの変哲もないコーヒーメーカーのコーヒーが堪らなく魅力的に思えた。
 ミカはその様子を変わらず見つめていたが、取調室に留まったエリオットは、ついターナーの手にあるコップに見入ってしまう。
 ターナーはコップを口に近づけると、口一杯にコーヒーを含み、それを一気に吞み下す。ターナーは「ううん」と唸りがら、身体が潤っていく至福の感覚を眼を閉じて味わった。

 眼を開けると、ターナーは自分が横になっていることに気づいた。身体を起こしてあたりを見回すと、真っ先に鉄格子が目に飛び込んできた。それが自分を取り囲んでいる。ターナーはこの場所に見覚えがあった。留置所。動揺するターナーの元にミカがゆっくりと近づいてくる。
「一体、なんのつもりだ!」
 ターナーは獣のように鉄格子に掴みかかり、そのまま鉄格子の外のミカに手を伸ばした。すると、目の前に一枚の写真が差し出される。二十代後半から三十代前半の長髪の白人男性。それは証明写真のようで正面から撮られている。写真の男は笑っていなかった。その写真を見てターナーの顔は凍りついた。
「ビンゴ!」
 ミカは大きく目を見開き、ターナーを脅かすように言った。ターナーはミカに伸ばした腕を収める。その反応を見て、この写真の男がボマーであるとミカは確信した。
「おい……、俺に、何をした」
 ターナーは恐怖に声が震えていた。
「本当に何も覚えてないの? あんたがコーヒーのお礼にペラペラお喋りしてくれてたんでしょ」
 ミカは顔に笑みを浮かべながら、口の前で鳥のくちばしのようにヒラヒラと手を動かす。それをターナーは理解できずに呆然と眺めた。
 取調室でターナーに差しだされたコーヒーには強力な睡眠薬が混ぜられていた。それを飲んだターナーはほどなく意識を失い、ミカたちは医務室へと運ぶように見せかけてターナーの身柄を攫い、ドリームダイバーによって、ターナーの夢の中でボマーの顔を確認していた。
 倫理的に許されることではなかったが、市長の通達の元、ミカは度々この方法を使った。報告書に「FBIが故意に容疑者へ水分を与えなかったため、急激に水分を摂取したことで起こった代謝異常による失神」と一文を添えることで、苦労して捕まえたターナーを横取りされた恨みを密かに晴らしていた。
 もう用は済んだと言うように、ミカはターナーの前から離れた。
「おっと」
 ミカは思い出したように振り返り、ターナーの前に戻る。
「マッチングサイトの掲示板使ってやり取りして、貸しコンテナで受け渡しするとは、なかなかやるわねえ」
 ミカの口から自分の犯罪の手口を聞かされ、すべて露見していると理解したターナーの顔は見る見る青ざめていく。
「もう外で(ガット)は売れないから、これからは塀の中のお友達に、お尻(バット)でも売るのね」
 ミカはターナーに向かって尻を突き出すと、からかうように二、三度叩く。ミカは冷たく笑うとターナーの前から去った。ターナーは檻を掴んで叫んだ。
「おい、嘘だろ? おい! おいっ!」
 まるでそれが聞こえないかのように、ミカの背中は容赦なく遠ざかっていった。

「ザック・ジンガーノ、通称『ボマー』。ブルックリン在住の二九歳」
 ワイドマンが映写機で映し出された男を指差す。ターナーを検挙した翌日の朝、刑事部では作戦会議が行われていた。
「ジンガーノって名前にしちゃあ、白人だな」
 JJが隣にいるミカに言った。
「IDを買ったんでしょ。こいつらにはよくあることよ」
 中南米出身を思わせる苗字の割に肌は白く、黒髪の長髪で顔は整っていて、ユダヤ系に通じるエキゾチックな印象を受ける。見た目は悪くないとミカは思った。一見、知的な雰囲気のある普通の若者に見え、女の子からの人気もありそうだと感じた。とても爆弾で大勢を殺すような狂人には見えない。ボマーであるという確信はあったが、写真の男とボマーのイメージがいまいち繋がらなかった。自分よりよっつ年下。弟と同じ年。そう思うとミカは胸が悪くなった。
 次に、アパートに入ろうとするボマーの姿をFBIが盗撮した写真が数枚モニターに写しだされ、ミカはその姿を目に焼き付けようと睨みつける。
 ワイドマンが高らかに言った。
「本日、十時◯◯分より作戦開始。近隣の建物に待機。ジンガーノを確認次第、突入、確保する! 以上、解散!」

「クソ、またやられた」
 集合時間までのわずかなあいだ、ミカは腹の足しにスナックを買おうと自販機の前にいた。コインを入れても目当てのチョコバーが出てこず、ミカが手で自販機を叩いていると、そのそばをアイリスが通りかかる。
「あの……」とうしろから声をかけられ、ミカは見られていたことに気づき、途端に恥ずかしくなる。
「ああ、あんた」
 アイリスは手に持った紙袋からストローの挿さったドリンクを差し出す。
「よければ、これ、どうぞ」
 透明のカップになみなみと入った濃い緑の液体。
「うわっ、何それ!」
 ミカはアイリスの持ったカップを見て、声を上げた。
「グリーンスムージーです」
「そんな気味の悪いもの、近づけないで!」
 ミカはそれを拒否するように、顔の前に手を出す。「すみません!」アイリスはカップを慌てて紙袋にしまった。
 そこで会話は途絶え、ミカは気まずさから、意味もなくスナックの自販機に向き合った。
「警部補、ターナーの件ではすみませんでした」
 アイリスが弱々しく口を開いた。
「なんであんたが謝んのよ。あんたは命令に従ってるだけでしょ」
 ミカは両手で自販機を押しながら、足元を一回蹴る。すると見事にチョコバーが受け取り口に落ちてきた。チョコバーを取り出すと、笑顔でそれをアイリスにひけらかす。それを見てぎこちなく頰を緩めるアイリスを見て、ミカは緊張ばかりしている彼女が少し気の毒に思えた。
「それにさ、いちいち謝んない方がいいよ、癖になるから」
「すみません!」
「ほら、また」
 ミカがアイリスを指差す。アイリスはそれに驚いた顔をする。二人は同じタイミングで吹きだし、笑った。
「あと、警部補ってのやめてくれない? あんたに言われるとなんか調子狂う。ミカでいいよ」
「えっ? あっ、はい……」
 アイリスは照れたように顔を赤らめた。
「ちょっと! 勘違いしないでよ。私、ストレートなんだから」
「そんなつもりじゃあ!」
 アイリスは大袈裟に顔の前で手を振った。その様子にミカが笑うと、アイリスも笑った。
「じゃあ、またあとで」
 ミカがチョコバーを軽く挙げると、アイリスも「はい」と応える。
「ミカ!」
 その場をあとにしようとしたミカの背中をアイリスが呼び止めた。ミカは振り返る。
「ボマー、絶対に逮捕しましょうね」
 アイリスは顔の前で拳を握る。
「偉そうに」
「すみまっ……!」
 アイリスはそのあとの言葉を飲み込んだ。ミカはそんなアイリスに笑いかけると、背中を向け、チョコバーをまた軽く挙げた。
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