第1話 女①

文字数 3,779文字

 女が車を飛ばしている。七一年型黒のフォード・マスタング。車体は鏡のように磨きあげられ、流れる景色をその身に取り込んでいく。
 あたりは、わずかばかりの緑が点在した砂漠が広がり、それを切り裂くように伸びるフリーウェイの上を車はひた走る。
 遠くには隆々と山脈がそびえ立ち、その無機質な岩肌は寒々しく、空を覆う濁った灰色の雲が世界をモノクロームに染めている。遠い雲の切れ間に雷鳴が(どよ)めいた。
 車はフリーウェイから舗装されていない脇道へと逸れ、陽が陰って不安定な足元をヘッドライトは照らし、タイヤは砂利を踏みしめる音を響かせながら進む。目的地に着くと、車はゆっくりと速度を落として止まった。
 女はドアを開けると、すらりと引き締まった足を外へ覗かせた。かかとの高い真っ赤なピンヒールで地面を踏みつけ、女は車から降りた。
 女の目の前には一軒のバー。バイカーたちから愛されそうな無骨で汚い外観。ネオン管で「DOOL HOUSE」と店名を示す電飾は、所々、チカチカと不規則に点滅していた。
 女はピンヒールと同様の赤いパーティドレスに身を包み、明らかに場違いな靴音を立てながら店の中へと進む。
「いらっしゃい」
 女が木製のスイングドアを開くと、その音に気づいた、恰幅がよく長髪に髭を蓄えた店主がバーカウンターから反射的に声をかける。聞き慣れない靴音に違和感を覚えた店主は、グラスを拭く手を止めて顔を上げた。
 目が覚めるような赤のドレスを身にまとった女が自分の方へと歩いてくる。女にしては若干背が高く、肌は上品な小麦色に焼けている。栗色の髪は綺麗にオールバックでまとめられ、整った目鼻立ちは化粧によってさらに際立ち、髪と同じ色をした瞳は怪しく輝いていた。店主は驚き、手に持ったグラスを落としそうになる。
 店主の反応に女はわずかに口元を緩めると、そのまま背の高いカウンター席に危なげなく腰を下ろした。
「何にする?」
 店主は気を取り直し、女に訊いた。
「ううん、そうね。シャンパン貰えるかしら?」
 女は気取った口調で注文すると、カウンターの下で優雅に足を組んだ。
「シャンパン?」
 店主は皮肉を込めて一笑する。この店を選んでおきながら、シャンパンなんてお角違いな注文をするなんてと。
「あるでしょ? シャンパン」
 女は悪戯な笑みを浮かべながら、指先で軽くテーブルを叩いた。店主は女が指した先にあるカウンター下の冷蔵庫を開き、中から冷えたシャンパンを訝しげに取り出す。店主は女の前にシャンパングラスを差し出した。
「あっ、あっ。もうひとつ」
 女は長い人差し指を立て、大袈裟に振ってみせる。店主は仕方なくもうひとつのシャンパングラスを用意すると、手の中で丁寧にコルクを抜き、女のグラスにシャンパンを注いだ。白い泡から金色の液体が現れる。店主はそのあいだも女の顔を見つめていた。どこかで見たことのある顔。
「呑みましょう。今日はお祝いよ」
 女は金色に光るシャンパングラスを軽く持ち上げて微笑む。店主は女の言葉が理解できず、わずかに戸惑った。
「一体、何を祝うっていうんだ?」
 店主が慣れないシャンパングラスを掴み、女のグラスに近づける。女はカウンターに身を乗り出し、店主に顔を近づけた。
「決まってるでしょう。アーティスト同士の邂逅によ」
 女は大きく目を見開いて言うと、店主の掴んだグラスに自分のグラスを合わせ、小気味良い高音が店内に響かせた。女は店主を見つめたままゆっくりと離れる。
 女を見ながら、こんな気取った鼻持ちならない女が知り合いにいるはずもないと、店主は思い直していた。
「あんた、何物だ」
 店主は一気にシャンパンを煽ってから女に訊ねる。すると、カウンターに三枚のポラロイド写真が無造作に放られる。店主はその写真を手に取りまじまじと見つめ、「おお」と感嘆の声を漏らした。
「それがわたしの作品」
 写真の中に肌色のオブジェのような物が写っている。質感は人の肌のそれだとわかるのに、塊はそう思わせ難い形をしていた。バレリーナのような躍動感のあるポーズで、何かを天に向かって伸ばしているが、到底、人に見える形をしていなかった。
「これ、どうなってるんだ。繋ぎ合わせているのか」
 見る者の多くに嫌悪感を抱かせるはずの写真を、店主は興奮に息を荒げながら三枚交互に見比べた。
「わたしは彫刻家。わたしの指先が触れるものはすべてアートに変わる。この世に存在するすべては、わたしの芸術の素材に過ぎないわけ」
 女は悦に浸る様子で語ると、言葉を締めくくるようにシャンパンを吞み干す。女の言葉が耳に届かないくらいに、店主は写真の中の何かに心を奪われていた。
「こいつはすげえ。気に入った! 今夜はゆっくりしていってくれ。シャンパンなら開けたばかりだ」
 店主がボトルを持ち上げると、シャンパンはすでに空になっている。
「いけねえ。もう呑んじまったのか。今、新しいのを開ける。これは店のおごりだ」
 店主が上機嫌で次のボトルを用意するのと同時に、ジュークボックスから流れる軽快なロカビリーが店内を彩る。
「ほら、もうみんなも楽しんでいる」
 店主がジュークボックスの方を指差すと、そのまわりに人集りができている。ブルーカラーの屈強な男たち。その中に華奢な女性のものと思われる手がジュークボックスに触れているのが見える。女はカウンター席から降りると、ゆっくりと人集りに近づく。
 そこから少し距離を置いた隅のテーブルで、店主によく似た二十歳くらいの男が小刻みに身体を動かしている。どうやらテーブルの下でマスターベーションをしているらしい。女はその男に一瞥をくれるとさらに人集りへと足を進めた。
 人の隙間から赤いネルシャツを着た男の白い臀部が現れる。ジュークボックスに手を着いた少女をうしろから規則的な動きで乱暴に攻め立てていた。男の荒れた息遣いと、時折聞こえる少女の吐息。
 すると、少女が素早く女に顔を向けた。少女には生気のない笑顔が張り付いていて、身体はぬいぐるみのような素材をしている。少女の身体は使い古されたように薄汚れていた。
「ヘルプミー! ヘルプミー!」
 少女は変わらぬ笑顔で口を閉じたまま、胸のあたりから録音されたような音質の悪い声を繰り返し発している。
 女がその光景に息を飲む。すると、下半身を露わにした男はいつの間にか動くのをやめて、まとわりつくような暗い目で女をじっと見つめていた。男とぬいぐるみような少女を取り囲む男たちも同様に視線を女へ向けている。
 いつの間にかジュークボックスの曲は止まっている。電力が弱まったかのように店内の照明が仄暗くなっていく。地震のように床が小刻みに揺れ、それに合わせてカウンターのグラスが音を鳴らし震えた。
 揺れが収まると、女は店主のいるはずのカウンターに目を向ける。すると、店主は女のもう目の前というところに立ち、男たちと同じ暗い目で女見つめていた。
「どうかしたか?」
 店主はそれまでの男らしいイメージとうって変わり、粘着質な声で女に問いかける。女は返答に詰まった。
「フフフ……」
 静寂の中、どこからか笑い声が響いた。男とも女とも取れない声色。暗がりから声の主と思われる、まだあどけなさが残る十代後半くらいの黒髪の少年が姿を現わし、おもむろに女へと近づく。
 少年は黒いワイシャツに黒いコート、黒いズボン、黒いブーツという黒づくめの姿で女の横を通り過ぎると、そのまま背後に回り、ふざけるように優しく女の肩を叩く。女はうんざりするように溜め息を漏らした。
「そいつは誰だ」
 店主が困惑しながら女に訊いた。そのあいだも少年は女の回りを楽しそうにうろうろと歩き回る。
「さあ。わたしが聞きたいわ」
 店主が歩きまわる少年を目で追う。
「そんなことより」語気を増した女の声に、店主の視線は女へと戻される。いつの間にか、女のまわりから少年の姿は消えていた。
「こんな下品なものがあなたの作品。がっかりしたわ。あなたはアーティストとはほど遠いようね」
 女は期待を裏切られた怒りを大袈裟な身振りで表した。
「それじゃあ、失礼するわね。シャンパンご馳走さま」
 女は店主の顔も見ずに、払うように片手を軽く挙げると、踵を返して出口へと進む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 店主は慌てて女を引き止めようと声をかけた。
「あなたからはインスピレーションを感じないの」
 女は構わずに足を進める。
「待ってくれ! あんたは特別だ! 俺の工房を見ていってくれないか」
 店主の言葉に女は足を止めた。女は背中で店主の次の言葉を待った。
「絶対、がっかりはさせねえ」
 女は振り返り、笑顔を浮かべた。店主もそれに安堵し笑顔に顔を引きつらせる。すると店内の照明が戻り、ジュークボックスもふたたび音楽を奏でだした。
「こっちだ」
 店主は店の奥へと女を案内した。
 女が店主についていくと、そのまま男子トイレのドアを開き中へと進む。清潔とは言い難いトイレの中で一番奥の個室の扉だけ、不自然にいくつもの錠が備えつけられていた。
 店主は陽気に口笛を吹きながら鍵の束を取りだすと、慣れた手つきですべての錠を開け、ドアを開いた。そこにあるはず便器はなく、地下へと続く階段がぽっかりと口を開けていた。店主は軽快な足取りで地下へと降りていく。口笛が不気味にこだました。
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