第5話 医者②

文字数 4,135文字

 いくらか広いその部屋では、レコードの音楽が優雅に流れていた。曲はサティの『ジムノペディ第一番』。目に鮮やかな観葉植物の鉢植え。一角には重厚なデスクがあり、そのうしろには棚があった。中には医学書とファイルが神経質に背の高さ順に並べられている。足元にはペルシャ絨毯。脇には小さなコーヒーテーブルにふたり分のカップ。ひとつは空だった。
 リクライニングされた一人がけのソファに女が座っている。ギャレットはややはすに配置された椅子に深く腰かけている。カップを手に取り、口を潤すとカップをテーブルに置いた。
「お名前は?」
「ミカ……」
 女、ミカは目を閉じたままつぶやいた。
「ミカ・ミラーです」
「ミカ、と呼んでもいいかな?」
「はい」
 ミカは催眠術でもかけられたかのように、なすがまま質問に答える。
「ミカ、一体何がきみを苦しめているの?」
「家族が……、わたしのことを見てくれないのです」
「それはなぜ?」
 ギャレットの質問に、ミカはわずかに間を空けてから答えた。
「きっと弟の方が、わたしよりも可愛いから」
「きみよりも弟さんの方が可愛い? それはなぜ?」
 それに対してギャレットは、優しい口調ではあるものの、矢継ぎ早に質問を重ねる。
「弟は女の子みたいに可愛くて、元気で、誰からも愛されています」
「きみはその弟さんが羨ましいと思う?」
「思います。両親を独り占めしている弟が羨ましい」
「憎い?」
「憎いです」
「殺したいほどに?」
 ミカは苦しそうに眉をひそめたまま答えない。それを見てギャレットは微笑む。
「その紅茶、美味しかったでしょう?」
「はい」
 ギャレットはテーブルの上のカップが空になっていることを確認する。麻酔効果のある薬の入った紅茶。
「今、きみは宙に浮いたような心地がしてるね? これからきみは、ゆうっくりと、ぼくの手によって、身も心も自由になるからね」
「ありがとうございます」
 ギャレットはミカの髪を撫でながら、慈しむように微笑むと、コーヒーテーブルに皮製の収納袋を広げた。中には様々な形状の手術道具が整頓して収められ、ギャレットは指紋一つない磨き上げられたメスを取りだした。ギャレットの手の中で、メスは銀色に怪しく輝きを放つ。
 ミカの手を取り、人差し指にメスをそっと当てる。刃の形に真っ赤な鮮血が浮かんだ。ギャレットは傷口に口を近づけ、それを口に含むと、「んっ」とミカの口からわずかに吐息が漏れる。
 血の味にギャレットは鼻息を荒げると、意を決したようにミカの手にメスを入れる。慣れた手つきですぐに人差し指だけをミカの手から切り離した。それを眺めて「美しい」とつぶやき、それを口に含み、舐め、ねぶった。
 指をテーブルに置くと、次は中指の根元にメスを入れる。それに合わせて「やめて」とミカが声を漏らす。その様子に、ふふふとギャレットが笑う。
「お願い、やめて」
 朦朧として目を閉じたまま、身体の自由が利かないミカはわずかにかぶりを振り抵抗する。その姿を見て、ギャレットは違和感を感じ手を止めた。何かが欠けていた、決定的な何かが。
 自分の命があと少しで終わらされてしまう、それを知った時の相手の反応がたまらなくギャレットを興奮させた。しかし、目の前のミカからは、まったくそれが感じられない。反応が自分の想像を超えていない。ふと、コーヒーテーブルのカップに目をやると、ミカが飲み干したはずの紅茶がカップに満たされている。それを確認した途端、ソファに座っていたミカの姿が忽然と消えていた。
 気配を感じてその方を向くと、今し方、目の前にいたはずのミカが、ギャレットのデスクでファイルに綴じられたカルテを漁っている。ミカも見られていることに気づいて目を上げると二人の視線は合わさった。
「貴様! 何してる!」
 ギャレットが叫ぶと、ミカは慌ててカルテを持って走りだす。ギャレットもメスを片手にミカを追った。
 部屋を飛び出すと、廊下はまぶしいほどに白く、等間隔に並べられた覗き窓のついたドアは、そこに部屋があることを示している。まるで刑務所か精神病棟のようだ。
 ミカは動揺した。ミカが潜入のために用意したフィールドは診察室のみだったからだ。夢と自覚しているか定かではなかったが、自分のエリアに侵入されたと察知したギャレットの夢は、その形を大きく変えていった。
 ドアから漏れてくる叫び声を振り切り、ミカは白い廊下の先にあるエレベーター目掛けて一心不乱に走った。エレベーターに着き、ボタンを乱暴に何度も押す。しかし、エレベーターはやってくる気配がない。
 廊下をギャレットが狂気に顔を歪めて追いかけてくる。ミカは仕方なく非常階段と表示されたドアへ飛び込んだ。そこには螺旋階段があり、ミカは上へと駆け上がる。螺旋階段はどこまでも続いており、一向に終わりが見えない。
 ミカは階段を駆け上がりながら、ギャレットの部屋にあったカルテを投げ捨てていった。カルテにはギャレットの手にかかった人たちの名前、年齢、どれほど残虐な行為に及んだかが克明に記されていた。ミカは被害者の名前と遺棄された場所が記された箇所だけを手に取り、あとは少しでもギャレットの足止になるようにと、カルテを乱暴にばら撒きながら走る。それを見たギャレットは激昂した。
 ギャレットに薬物入りの紅茶を飲んだと思わせ、幻のミカを弄んでいる隙に、カルテに記された名前と遺棄された場所を確認して脱出するつもりだった。しかし、カルテにはニューヨーク市警の巡査を含めて名前が二四にも渡り、そのすべてを頭に入れる前にギャレットに気づかれてしまった。
 一分、一分だけ欲しいとミカは息を切らしながら隠れる場所を探した。本来なら夢の中で疲れを感じることはないのだが、ギャレットという迫り来る恐怖がミカの呼吸を荒くした。屋上に身を隠し、それらを頭に入れることさえできれば。ようやく螺旋階段の終わりが見えてくる。階段を駆け上がり、屋上へと続く扉を開けた。
 すると、うしろから追っていたはずのギャレットが突如、ミカの眼前に現れた。驚きに声を上げる暇もなく、ミカはギャレットに首を鷲掴みにされてしまう。
 学生時代、バスケットボールで鳴らしたミカは、持ち前の運動神経で警察学校においても格闘訓練で男たちに引けを取らなかった。それでも身体がまったく動かない。目の前のギャレットに恐怖し、身体がすくんでいる。
 ギャレットはミカの顔を見て笑うと、力任せに地面へ押し倒した。ミカの首を左手で締め上げ、もう一方の手には握られたメスが光る。ミカは咄嗟に手に持ったカルテを手放し、腹に振り下ろされるメスを握るギャレットの手を両手で受け止めた。
「お前、さては警官だな? わざわざ殺されにくるとは」
 なおもギャレットはメスを持った手に力を込める。ミカは首を締められて満足に息ができない。メスの切っ先が徐々にミカの右脇腹へと近づき、ついにはそれが腹に刺さった。
「ぎいいいい!」
 ミカは声にならない叫び声を上げる。その声にギャレットはよだれを垂らして興奮していた。
「いいぞ! もっと苦しめ! おれを楽しませてくれ! あの警官みたいに!」
 ギャレットはミカの腹に刺さったメスを躊躇なく左へずらそうと力を込める。このままでは腹を裂かれてしまう。ミカは必死でギャレットの手の動きを止める。
「あいつはよかったぞ。ぴいぴいと豚のように泣いてなあ! 赤ん坊が生まれるんだ! 帰してくれ! 帰してくれえ! ハハハハハ!」
 ギャレットは狂ったように笑いながらメスに力を込める。メスがわずかに動くと腹の肉を切り裂き、バリバリと痛みの信号がミカの脳に走る。
「……ック」
 ミカが何かをつぶやく。ギャレットは命乞いかと、それを聞くためにミカの首を掴んだ左手をわずかに緩めた。
「彼の名前は、リック・ローガンよ!」
 ミカはギャレットの手から右手を離す。メスが数インチ進むのと同時に、右手の三本の指をギャレットの両目めがけて突きだした。
「ぐあああ!」
 ミカの指がギャレットの両目をとらえた。ギャレットはたまらず叫び声を上げ、メスを離して両手で目をおさえる。
 ミカは腹に刺さったメスを引き抜くと、素早く右からギャレットの首へメスを深く突き立てた。ギャレットは痛みとショックに悲鳴を上げながら地面をバタバタと転がる。必死にメスを抜こうともがくが、筋肉が収縮してメスをしっかりと捕まえている。
 ミカは流血する腹をおさえて、咳込みながら、カルテへ手を伸ばす。あと少しというところで、ギャレットがうしろからミカに抱きつくように掴みかかった。
「うわっ!」ミカはそのまま抱き上げられ、ギャレットはビルの淵へと目がけ駆けだす。ミカがギャレットの顔を覗くと、目は真っ赤に充血し、血の涙を流して怒りに顔を歪めている。ビルの淵がどんどんと近づいていた。
 落とされる。ミカは恐怖に支配されそうになりながら、必死にタイミングを図った。もうビルの外まで数フィートというところでミカは両足を伸ばした。足底で腿ほどの高さのビルの淵をとらえると、瞬時に横へ走って、回転するようにして身をひるがえした。ギャレットはその回転する力に外側へと押し出され、バランスを保つように両手を無様に振り回すが、背中から倒れるようにビルの外へと落ちた。
「ひぎやあああ!」
 ミカは駆け寄りそれを確かめる。一体何階層あるのか、地面が見えない。ミカは安堵して、その場にへたり込む。
「豚はお前だろ」
 ……ピピッ。ピピッ。
 どこからかくぐもったアラーム音のような音が聞こえる。
 まずい、このアラーム音は外部からの強制終了を知らせる音だ。ミカはカルテを拾おうと駆けだす。すると、めまいのような感覚を覚えた。世界が歪んでいる。夢の形が曖昧になってきている。その脳波を感じ取ったスタッフたちが、ミカを強制的に呼び戻そうとしている。
 ピピピッ! ピピピッ!
 さっきよりも音が大きく、聞き取りやすくなっている。
「待って!」
 ミカはカルテを拾い、必死にそこに書いてあることを頭に入れる。カルテをめくっては覚え、めくっては覚えるという動作を震える手で必死に繰り返した。
「待って、お願い!」
 ピピピピッ! ピピピピッ!
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