第18話 あの日②

文字数 2,626文字

 マイケルはベンチに座り、時折足を揺らしながら、ミカの出した問題に向かっている。フェンス越しにそれを見つめるミカはマイケルの姿を見ながら泣いてしまいたくなった。
 なぜなら、そのスケッチブックに描かれた問題に答えなどないことを知っていたから。
 ミカはわがままで鬱陶しいマイケルの注意を逸らしたい一心で、答えのない問題をマイケルに出した。すぐに戻るのだから、そのあいだだけ。十歳のミカはそんな風に思っていた。
 マイケルの足がぴたりと止まり、スケッチブックの問題を凝視する。すると、鼻を鳴らし、目を乱暴に腕で拭う。
「こんなの、酷すぎる」
 ミカはマイケルを見て、幼い頃の自分が悪気もなくした弟への仕打ちを目の当たりにされて、胸が締めつけられた。
 マイケルは気づきはじめていた。この問題はどうやっても解けない。ヒントがなんの役割も果たしていないからだ。答えのない問題を出して、姉が自分を置いてけぼりにした。それを信じたくなくて、マイケルは問題の答えを探し続けた。
 マイケルがふと、空を見上げた。ポツポツと雨が降ってくる。先ほどまでの快晴が嘘の様に、空は濃い雲覆われていた。やがて雨は強くなり、容赦なくマイケルに降り注いだ。
「うう……、うわあああ」
 降りしきる雨に、それまで堪えていたマイケルもとうとう声を上げて泣きだしてしまった。フェンスの外で同じように雨に濡れながら、ミカはそれを眺めるしかできなかった。

 その頃、十歳のミカはというと、少年の家で憧れのゲーム機を満喫していた。
「ミカー、マイキーいいの?」
 夢中でプレーするミカに女友達の一人が声をかける。
「これクリアしたら!」
 ミカはコントローラーを激しく指で叩き、テレビの画面から目を離さないでいる。
「でも、雨降ってきたよー」
 その一言にミカは驚き、「嘘っ!」と慌てて窓の外を見た。つい先ほどまであれほど晴れていたのに。そして、部屋の壁掛け時計を見てみると三十分をゆうに越している。一回憧れのゲーム機に触れることができたなら。十分もしないうちにマイケルを迎えに行くつもりだったのに、つい夢中になって時間を忘れてしまっていた。

「マイケル……」
 目の前で弟が、姉である自分に裏切られて悲しみに暮れているというのに、眺めることしかできない。どうしてかはわからないが、このフェンスを飛び越えて、泣きじゃくるマイケルを抱きしめてあげることができないのだ。
 その時、ミカはマイケルに近づく人影に気づき目を見開いた。
 黒いレインコートを着た大人の男。フードを被っていて、その男の顔が確認できない。男は明らかにベンチに座るマイケルを目指して歩いている。
「やめて……」
 男がマイケルの正面に立つと、マイケルは驚いて泣くのを忘れる。男は少し腰をかがめてマイケルに話しかける。
「大丈夫かい?」
 男は優しく声をかけるがマイケルは応えない。知らない人とお話ししてはいけないと母親にいつも言われていたから。
「迎えに来たよ」
「でも、お姉ちゃんが来るから」
 なおも話しかけてくる男に、マイケルはスケッチブックを見せて応えた。
「そのお姉ちゃんに、君を迎えに行くように頼まれたんだ」
 男はマイケルの手の中のスケッチブックを指差した。マイケルは男の顔を見上げた。
「本当に?」
「ダメー!」
 ミカは大声で叫ぶと握ったフェンスを激しく揺すった。絶対に届くはずの距離にいるというのに、マイケルにはミカの声もフェンスを揺らす雑音もまるで聴こえていない。その音に男とマイケルの会話が聴こえなくなる。マイケルは男の説明に納得したようにベンチから立ち上がる。
「マイケル! 駄目よ! 行っちゃ駄目!」
 なおもミカは叫び、両手の拳でフェンス叩き続ける。
 すると、声が届いたのか、マイケルがふと、ミカの方へ顔を向けた。マイケルと視線が合い、ミカは息を飲んだ。
 マイケルはそのまま男の顔を見上げ、男の差し出した手を握った。
「やめて! 連れていかないで! お願い!」
 男と手を繋いだマイケルの背中がどんどん遠ざかっていく。
「ああ、そんなあ……、マイケル……」
 ミカは涙を流しながら、膝から崩れ落ちた。雨で濡れた地面に手を着き泣き続けた。
 公園の入口には十歳のミカが少年に借りた傘を挿しながら慌てて自転車でマイケルを迎えに来ていた。マイケルが座っていたベンチに誰もいないのを確認すると、自転車で公園を一周する。それでもマイケルの姿を見つけられないと、きっと怒って家に帰ってしまったのだと思った。
 すぐに帰って謝ろう。急いで公園を出て家路を目指す。しかし、家に帰ってもマイケルは帰っていなかった。もうマイケルが家に戻ることはなかった。この日、ミカの人生は大きく形を変えてしまった。まるで自分の身体の一部を大きく失ったような。
「うわあああ」
 びしょ濡れになりながら声を上げて泣き続けるミカの傍らには、これ以上ミカを悲しみの雨に濡らさないようにと、黒い傘を挿したフォーチュンが立っていた。

「ドク! どうなってるんだ!」
 乱れ続けるミカの脳波を見て、JJが叫んだ。
「恐らく、なんらかの攻撃を受けている。こちらから強制終了しているのに、戻ってこない!」
 ドクとスタッフも慌ただしく動き続けている。JJはモニターを見つめて歯を食いしばった。
「俺が行く」
 JJの言葉に、ドクが驚いて手を止めた。訊き返すようにJJの顔を見つめた。
「俺がミカを助けに行く!」
 ドクの顔をJJは見据えた。
「そんな無茶な……!」ドクが言いかけたところでJJが遮る。
「三人潜れないってことはないんだろう?」
「理論上では可能だが、それがどのような影響を及ぼすかはわからない。そんなこと今までしたことがなかったから。ましてや君はドリームダイバーの経験がないじゃないか!」
「それでも、今まで間近でミカを見てきた。それに、できるとしたら俺しかいない」
「確かにそうかもしれないが、一気にノンレム近くまで潜るんだぞ。何が起こるか……」
 JJは両手でドクの肩を掴んだ。
「頼む! 急いでくれないか」
 JJは切羽詰まった顔でドクに懇願した。ドクは肩の痛みに耐えながら頷く。ドクももうそれしかないと理解していた。

 JJは上半身裸で新たに用意された処置台に横たわる。スタッフが素早い動きでその鍛えられた身体に電極を貼り付けた。
「ミカ、今、助けに行くからな」
 JJは心の中でミカに言うと、目を閉じた。ドクの合図で一気に意識が遠のいていく。
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