第8話 チェイス①

文字数 5,300文字

 正午前、ミカはクイーンズの街に停車する車の後部座席にいた。隣にはひとつ間隔を空けてJJが座っている。クイーンズに来た目的はタイロン・ターナーの身柄を確保すること。
 ターナーには住居の賃貸契約書や不動産の購入履歴などはなかったが、ルシファーの観測によると、地元であるクイーンズの電器店に多く足を運んでいるとわかったからだ。
「にしても、日本車かあ。テンション上がらないなあ」
 助手席にはチーム最年少、二七歳のエリオットが座っていた。
 刑事になることを幼い頃から夢にしており、彼のヒーローはコミックではなく、映画の中にいた。フィリップは刑事としてはまだ未熟だったが、目端が利き要領も良く、さらにはチームの誰もが認める熱意と根性があった。
 エリオットは人並みに車が好きだったのだが、捜査に貸し出された車が潜入捜査用のホンダ・アコードインスパイアであることへの不満を漏らしていた。
「おい、エリー。知らないのか? ホンダのエンジンが一番クレイジーなんだぜ」
 運転席に座るパトリックがハンドルを優しく撫でた。
 ミカのふたつ年上の三五歳。彼は米国海兵隊あがりの強者で中東への派遣経験もある。戦闘技術、運転技術共にチーム随一で、現場一番乗りを誉れにするような男でありながら、家庭では二人の子供の良き父親だった。
本当(マジ)ですか?」
 エリオットはとても信じられないとでも言うような面持ちで、目の前のダッシュボードを眺めていた。
 四人はフランクが口にしていたタイロン・ターナーという男に任意同行を求めるべく、彼が根城とするクイーンズへと赴いていた。
「そろそろ行こうか」
 ミカが言った。あくまで事情を聴くだけだったが、相手が収監された経験もあり、現在も裏稼業に手を染める悪党ならば、簡単に応じるとも思えなかった。目標である電器店の二ブロック手前に停車した車から、運転席のパトリックを残し、三人は車から降りる。
 ミカとJJは並んで歩き直線的に電器店へと向かう。二人とも片耳には黒いイヤホン型の無線機を挿している。エリオットは二人からはずれ、作戦通りに迂回して店の裏手を目指した。
 ほかの三人のスーツに対し、ミカは変わらず私服で、少しでも顔を隠せるようにニューヨークヤンキースのキャップを頭に被っていた。
「わざわざお前が出張る必要もないのに」
 歩きながらJJが言った。
「こうしてないと落ち着かなくてね」
 刑事として常に現場に立ちたいという気持ちはあったが、それよりも漠然とした不安がミカにはあった。市警の中に裏切り者がいるのではと。それが誰かわからない以上、共に死線を越えたチームの仲間とはいえ手放しで信頼するわけにはいかない。可能な限り捜査に参加し、自らの眼で現場を見なければ気が済まなくなっていた。
「デスクで大人しく待ってりゃいいのによ」
「何よ、女がいたら迷惑だっての?」
 ミカはいかにも男女差別というニュアンスでJJに難癖をつける。
「アホか、お前を女だと思ったことなんて一度もねえよ」
「あっ! ひっどーい!」
 ミカはすかさずJJの肩口をパンチする。JJは「こういうところがだよ」と殴られた肩を摩りながら大袈裟に痛がってみせた。電器店の入口が確認できる距離に近づいていた。

「なんだって?」
 ターナーが驚きに声を上げた。電器店の中では、アフリカ系の少年の報告に色めき立っていた。傍らには店主が少年の肩に手を置いている。
 少年が路上で遊んでいると、街に似つかわしくない車を見かけたので、それをターナーへ報告にしに来ていた。
「やべえよ。ポリ公じゃねえのか」
 店主が動揺しながらターナーに訊くが、ターナーはそれに応えず少年に歩み寄った。
「ご苦労だったな」そう言うとポケットから百ドル札を取り出し、少年の手に握らせた。少年は手の中の紙幣に顔を綻ばせると、すぐに店をあとにしようとした。
「よお、T!」
 店主が、店名や電話番号などが貼り付けられて目隠しになっているガラスのドアから外を覗いていた。
「ガタイのいいスーツのクロと女がこっちへ向かって来るぞ!」
 その言葉にターナーと少年は動きを止めた。
「女? どんな風体だ」
 店主は近づいてくるミカとJJに眼を凝らした。
「女にしてはちょっとでかいな。ヤンキースのキャップを被ってて、汚い身なりしてやがる。髪は、栗毛(ブルネット)
「あいつか……」
 ターナーは青冷めると、後退りしながら店の奥へと向かった。店主はそれを確認するとカウンターの中へと急いだ。向かってくる二人に備えて強張った顔を両手でほぐす。小気味良いドアのベルが店内に響いた。
「いらっしゃい」店主は満面の笑顔でミカとJJを迎える。店主は白く整った歯並びを見せつけるように笑顔で顔を固めた。「よお、兄弟」JJも負けじと陽気に店主の声に応える。
「何をお求めで?」
「ちょっと聞きたいことがあってね。兄弟、それにしても見事な笑顔だな。名前は?」
「ティース」
「おお、(ティース)! ティース、ティース」
 JJはこの上なく特徴を捉えた呼び名を可笑しそうに笑っている。
「その白い歯がいつまで拝めるか、見ものだな!」
 JJは笑いながらも眼光鋭くティースに詰め寄った。その威圧感にティースの笑顔はすぐに引きつる。その様子を見て、JJはすかさずスーツの内ポケットからバッジを取り出した。
「ニューヨーク市警のジョーンズ。タイロン・ターナーはどこだ」
 本来ならば「知っているか」と訊く場面ではあったが、調べはついていると仄めかすことでティースを揺さぶり、いち早くターナーの所在を聞きだそうとしていた。ティースはJJの威圧感に気圧されて店の奥に眼を向けてしまいそうになるのを、まばたきすることでなんとか堪えた。
「タイロン? ああ、タイロンなら今日は来てないな。あいつは気ままだから……」
 JJがティースから事情を聞くあいだ、ミカは広くはない店内を見回す。すぐにそばで立ち尽くしている少年の姿を確認した。ミカが近づくと、少年は緊張に顔を強張らせていた。
「どうしたの?」
 ミカが声をかけると、少年は今にも泣きだしてしまいそうな顔で瞳を潤ませていた。
「小さな、妹がいるんだ」
 ミカは言葉の意図がわからずに眉をしかめた。すると硬く握られた拳に眼がいき、しゃがんでその拳を広げる。すると、小さな掌から緊張の汗で湿った紙幣が眼に飛び込んできた。
「僕を逮捕しないで」
 少年は声を震わせた。気づかれた。ミカがそう察知した次の瞬間、店の奥から物音がした。
「JJ! 追って!」
 ミカの声と同時にJJは裏口へと駆けだしていた。
「あんたは早く家に帰りなさい」
 ミカは少年に告げると立ち上がる。
「あんたはそこを動かないで!」
 ティースを指差しながら、ミカは入ってきたドアから表へ飛び出た。
「警部補! 男を確認! 追ってます!」
 耳元に息を弾ませたエリオットの声が聞こえてくる。どうやら一足違いで店の裏手からターナー逃げられてしまった。ミカは大通り沿いを駆けだした。
「パット!」
 ミカからの無線に、パトリックはすぐさま車のエンジンをかけた。電源の入ったラジオからスペンサー・デイヴィス・グループの「Gimme Some Lovin'」が流れた。
「店に一人仲間がいる! 捕まえて!」
 すぐにパトリックは店に向かってアコードを発進した。すると、騒ぎに乗じて店から逃げだすティースが背後を気にしながらパトリックの方へと走ってくる。パトリックはその姿にミカの言った人物だと確信すると、目一杯アクセルを踏んだ。自分に向かって一直線に向かってくる車を見て、ティースは目を丸くした。
「マザー、ファッ……!」
 言い終える前に車はティースをボンネットにすくい上げると、今度は急ブレーキをかけてアスファルトへと放り出す。パトリックは素早く降りてティースへ駆け寄った。
「おやおや、これは大変だ。署までお送りしましょうね!」
 優しい言葉遣いとはうってかわり、パトリックは衝撃に朦朧としているティースを無理矢理立たせて後部座席へ放り込むと、すぐに運転席へと戻った。
 裏路地ではエリオットとJJがターナーを追っていた。角を曲がると突き当たりがT字路になっている。突き当たりに着いてもターナーの姿は見当たらない。「エリー! 右へ行け!」二人は別れ、それぞれ大通りに出てターナーを追った。
 ミカはそのまま大通り沿いを走っていた。
「確認! ターナーは一四八番ストリートを南へ逃走中!」
 JJがターナーを発見した。その無線を聴きながら、ミカは建物沿いに角を曲がった。
 パトリックの乗るアコードが猛スピードでJJを追い抜くと、ターナーの前でヒステリックなブレーキ音を立てて急停止する。パトリックは拳銃を抜きながら車を飛び降りた。
「ターナー!」
 パトリックの拳銃の照準がターナーを捉える前に、ターナーは狭い裏路地へと飛び込んだ。
「くそっ!」パトリックはすぐに拳銃を収め、ふたたび車へ乗り込む。あとから来たJJがターナーの入った裏路地を追う。
「タコス脇の路地!」
 JJの無線にミカは全速力のまま、目の前の中華レストランへ飛び込んだ。
「どいて! 警察よ!」
 ミカは昼時に賑わう店内の客を掻き分けながら店を突っ切り、そのまま押しドアを押して厨房へと入る。コックたちが何事かと中国語で文句を飛ばすのも聞かずに走り続ける。
 ミカが勢いよく裏口のドアを開けると、突然視界に現れたミカに驚いて眼を見開いたターナーの姿があった。ミカはすかさずターナーに飛びつき、二人はもつれ合うように地面へ倒れ込んだ。
「公務……、執行妨害で、逮捕する」
 ミカは痛みに唸るターナーに乗っかったまま、腰のホルスターから手錠を手に取った。
「あなたには、黙秘権が……、ある。供述は、法廷で……。続き、よろしく」
 ミカはJJに手錠を渡すと、壁を背に座り込み、顔を上げて苦しそうに息をした。
「供述はあなたに不利な証拠として用いられる場合がある。あなたは弁護士の立会いを求める権利がある。もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。以上だ、このクソ野郎!」
 JJはターナーを後ろ手にして手錠をかけると、手間取らせた恨みとばかりにターナーが痛がるように無理矢理立たせ、駆けつけたエリオットとパトリックに渡す。
「それにしても、よく先回りできたな。お前、クイーンズの分署にいたことなんてないだろ」
 JJが振り返ると、ミカはまだしゃがんだまま、辛そうに息を荒げながらJJを睨むように見ていた。
「おい、大丈夫か?」
 JJが心配そうにミカの顔を覗き込む。
「あんたが走らせるからでしょ。まったく、大学アメフトが聞いて呆れるわよ」
 JJが手を差し出すと、ミカもそれを掴んで立ち上がる。
「俺はレシーバーじゃねえ、クォーターバックだってんだよ」
 二人はエリオットとパトリックに両脇を抱えられたターナーの後ろを歩く。
「恰好つけてタイトなスーツなんか着てないで、次からあんたはジャージにしなさい」
「オーケー、プラダにチェックしに行くよ」
 裏路地を出たところで、突如、二台の黒いシボレー・サバーバンがブレーキ音を立てて目の前に停まる。後部座席のドアが開き、中からサングラスを掛けたワイドマンが現れた。
「ご苦労、警部補。報告はこれからかな」
 ワイドマンは満足そうに笑った。それが合図かのように車から降りたFBI捜査官たちがターナーを確保しようと近づく。触るなと言わんばかりにパトリックが捜査官の一人を突き飛ばした。
「パット!」ミカはパトリックを見て、首を横に振った。それを見てパトリックも仕方なく、ターナーの身柄を捜査官たちに委ねた。ターナーは頭を抑えられて車に乗せられる。その後からアイリスがミカに申し訳なさそうに会釈して車に乗り込んだ。
「奴ら、お前がレシーバーだと知っててマークしてやがった」
 そうかもしれないが、いかにも捜査関係者だと言わんばかりの車両に尾行されて気がつかないだろうか。そうなると、ワイドマンはミカのチームがターナーのもとを訪れると事前に知っていたということになる。今回の捜査を知っているのは、ハロルド警部とチームの人間くらいだった。
 まさか警部が? 私たちを自由に動かし、その情報をFBIに売った? なんのために? その仮説はミカの中でハロルド警部という人物が持つ印象と合致しなかった。「警部(キャプテン)ハリー」とあだ名され、今でも隙があれば現場で前線の指揮を取り、邪魔すれば上役でも平気で怒鳴りつける。出世に興味のないような警部がわざわざ点数稼ぎにFBIのご機嫌取りをするとは考えづらかった。可能性はゼロではなかったが、限りなく少ない、ということは。ミカはチームの面々の表情を伺った。皆、FBIが乗った車両を恨めしそうに睨んでいた。
「タッチダウン寸前に潰されちまった!」
 JJが怒りに任せ、脇にあったゴミ収集用のコンテナ蹴飛ばした。
「まあ、いいじゃない、攻守交代で。お手並み拝見といきましょう」
 息を整えたミカは、走り去るサバーバンを見送りながら、口元に不敵な笑みを浮かべた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み