第42話  メロンソーダ

文字数 8,315文字



まずは純度97%メロンソーダを「

」とばかりにいきなはれー!
そしてこれまでのMeーの戯言、そのすべてをお思ひ起こして比較対象を行うのでおじゃる。
しかして本当にこれを飲みたくなったなら〜サイゼリヤへと行きなはれーwww。



Re: 第一ラウンド

題:悪魔のミカタ、ダンテ

今考えるとフシギでしょうがないのだが、ぼくの家には『神曲』があった。
いつ誰が何を思って誰のために買ってきたのか分からないが、
子供向けの「神曲」が置いてあったのだ。

ぼくは、自分で言うのもナンだが、幼い頃から内気で、おとなしい子だった。
家の中で何時間も本を見て、空想の世界に入り込むのが好きだった。
鬼や竜、ゴジラといった想像上の怪物が遊び相手だったのだ。

そんなぼくだから、たちまち『神曲』の世界に没頭した。
まだ小さいぼくには難しすぎるところもあったが、ダンテが恋人ベアトリーチェの霊に
連れられて見てまわる「地獄編」は強烈な印象をぼくにもたらした。
氷の中に閉じ込めらえている悪魔。
それは今でも当時の記憶と一緒に甦るほどのインパクトがあった。

漫画家になったぼくは「ハレンチ学園」で世間から叩かれ、
そこそこ有名になり、「鬼」「ススムちゃん大ショック」といった
SF者も描きはじめていた。
ようやく売れっ子漫画家の仲間入りができるようになった頃だったろうか。
そんなぼくのところへ講談社で作る新しい雑誌の話が持ち込まれた。
売れっ子の強みで、ぼくへの依頼は「好きなものを描いてもよい」という話になった。

ぼくは、幼い頃に読んだダンテの『神曲』を思い出すのに時間はかからなかった。
(だが)同じことをやったのでは意味がない。
ダンテと、見方を百八十度転換し、SFの調味料をふかけてみようと思った。
つまり、『神曲』の世界を、悪魔の側から描いたらおもしろいのではないだろうか。
しかもその悪魔をウーンと怪物にして、いわばゴジラの目から見た人間を描ければ
新しいものができる!と考えた。そうしてできたのが本書『魔王ダンテ』である。

この漫画を見た投影動画のプロデューサーがアニメ化の話を持ってきた。
『魔王ダンテ』の原型ではあまりにも怪物すぎるので、コンセプトだけそのままで
子供向けに作り直したのだが、どのように作り直しても悪役に見えてしまって困った。
そうして、何度も会議を重ねてようやくできたのが悪魔のヒーロー『デビルマン』である。

「ハレンチ学園」が社会問題になり、不買運動や悪書追放のスケープゴートにされて
いたことが、深層意識の底ではトラウマになったいたのだろう。当初、怪物漫画として
描き始めたこの作品が次第に別のテーマを全面に押し出そうとしているのに気がついた。
悪魔=神という対立構造である。

伝説の悪魔とは何か?。
そして神とは?。

宗教とは全く関係のないところで、ぼくは形而上学的な問題にまで発展していく作品を
作りかけていたのだ。あいにく雑誌の廃刊が決定し、話が終末まで進まないうちに
(ダンテは)最終回を迎えることになった。

ぼくに描けたのは壮大な物語の「序曲」でしかない。

したがって、神=人間=悪魔という三角関係は、
次回作「デビルマン」に持ち越されることとなった。

(ダンテの)終末は、やはり人類にとってはハッピーエンドたりえなかった。
魔王ダンテという怪物が敵対する人間んを全滅させようとするのは、
ぼくが人間社会に対して不信感を持っていたからかもしれない。

By ●○豪








 しかして、それは、当然な話しとして、
 クリームメロンソーダへと
 格上げをされてしまうのでありましたー!。

でも…その公開はすこ〜しばかり、引っ張りましょうや…。先ずは皆様ご自身による
突込んだ穿ったところでの臆見/偏見/邪見/達見を行いてみて下されやー。ポイントは、
作者たる彼が、創作内容においてどれだけ意識的であったのか?
皆様は、全景の背後に、果たしてそんな強大にして凶悪なる存在が真実ありあえたのか?
その実際を察せれねばならない。そしてアマムーのその馬鹿さ加減を確信せねばな…。

そして最終的に、万が一にも、もし正しく

であったならば、
どこまで、どれほどまでに、その存在によるお膳立てたるものが、
この現実において進行中なのか、既に成し遂げられてしまっているのか、
このことの全容を悟らねばならない!。


Re: 第二ラウンド

題:悪魔のミカタ、ダンテ

今考えるとフシギでしょうがないのだが、
ぼくの家には『神曲』があった。
いつ誰が何を思って誰のために買ってきたのか分からないが、
子供向けの「神曲」が置いてあったのだ。
 
  確かに不思議なんだけど、こういったところに必然性たるものの避けがたきは
  観るしかない。既に、””は、蒔かれてあったのだ。
  子供向けであったところがミソ。通常版の岩波であれば高校生でも読むのは難しい。
  文章が苦渋に過ぎる。

  ダンテの神曲は、ルネッサンス期のあの波動に影響されて著されたものだ。
  聖書において語られる、そのメッセージからすれば逸脱も逸脱、脱線もいいとこ。
  聖性が欠落したところでの空想妄想三昧。多分聖書の一部として加えられるものを、
  補完すべきのものを自作したかった。そんで自分の名を世に残したかった。
  「チライです。」こういった精神は…。

  まあともかくにも、黙示録ではなく、ダンテの神曲が、魔王ダンテ創作におけるベース
  だったのだ。大変重要な強調しとくポイントとしては、彼は聖書はそんなに深く理解は
  されていない。あくまでアイデアを取る為の、辻褄合わせをするための参照テキスト。
  種本としてしか思ってはいなかっただろう。

  本は、おそらく子供向けなので、何らかの挿絵がそこにはあったはずだ。
  氷漬けにされた巨大なサタンの絵が…。

ぼくは、自分で言うのもナンだが、幼い頃から内気で、おとなしい子だった。
家の中で何時間も本を見て、空想の世界に入り込むのが好きだった。
鬼や竜、ゴジラといった想像上の怪物が遊び相手だったのだ。

  内向的で、自らの想像の世界において遊ぶ。その想像力は豊かなものだったのだろう。
  推測としては家は裕福な家庭。個室空間を持ててる。本が沢山もともとからあった。
  若い頃の写真の印象からはすれば、品よく、ぽっちゃり色白であること、
  やや女性的な感じの臭いのする、いい所の坊ちゃんとして自分には映る。

  特に好んだのが鬼、竜、そしてゴジラ。
  奇怪なるもの。奇妙なるもの。恐怖心を掻き立てる怪しの架空の存在としてのイメージ。
  それも、巨大にして圧倒的に脅威たるもの。破壊の権化たるもの。

  たったの三項だけってところに逆に着目してしまう。
  妖精や妖怪。おばけ、怪物、怪人、等が何故あがらない?。
  ここに鋭角なる嗜好対象があることに気づく。
  ダンテにおいての影響を念頭に、絞られてしまっているだけなのかもしれない…。

  全体的な作品群を見渡してみて、やはり、かなり、限定的な嗜好性を彼が持つことを
  ボクは感じるのだが…。

  残酷残虐にして非道なる暴力行為に対しての

。これへの固着。

  根が超センシティブにして臆病なモンだから返って強烈に記憶されてしまっている。

  このイメージ、これに関する記憶のフラッシュバック、想像の暴走からの脱出、
  そこへと至る物語の連続性を突如反転させるべくしてのギャグ、おちゃらけ、等が、
  また、片や、安全装置/安全弁として選択されている。

  一転変じて、極楽的にして破天荒に明るい性格も持ち合わせており、
  際どい笑いやナンセンスを殊更に好む。
  一切を笑い飛ばして快晴へと至る、性格の強さも持ち合わせている。脳天気なだけ?。

  そして

。弱く優しく儚いものに向けの、
  博愛的なる深き憐憫の情も…。子供としての天使が、確かに中にいる…。
 
  あまり意味的なるものへのこだわり、嗜好性はないな。あくまで直線直動直感的。
  理論的なるものは面倒臭く、また胡散臭いものでしかないのであろう。
  結果、いい加減。はめ絵的。インスピレーション命の、それに強力に支配されたる作家。

そんなぼくだから、たちまち『神曲』の世界に没頭した。まだ小さいぼくには難しすぎるところもあったが、ダンテが恋人ベアトリーチェの霊に連れられて見てまわる「地獄編」は強烈な印象をぼくにもたらした。氷の中に閉じ込めらえている悪魔。それは今でも当時の記憶と一緒に甦るほどのインパクトがあった。

 このインパクトの正体が気になる。そこに「何を見て「何を感じて「どう感じた」のかが。
 おそらくは彼に魅せられてしまったのだ。それがアプローチをかけた瞬間だったのだろう。
 そこにあった挿絵は、ほぼそのままに、再現されたはずだ…。


漫画家になったぼくは「ハレンチ学園」で世間から叩かれ、
そこそこ有名になり、「鬼」「ススムちゃん大ショック」といった
SF者も描きはじめていた。

 ある意味、その才能の、衝動の趣くままに、好き放題、やりたい放題がなされていた。
 それも○の悪い○が、その思いの、その妄念の迸りのそのままに、したい放題、やりたい
 放題を振るまうが如くして。あの時代、(つまりはボクがその創作物の全てに目を未開か
 されてしまっていた60年代〜70年代)、漫画の世界ってのは、極端に、純粋なままにして、
 非合法空間たり得てしまっていたのだ。それらはゼロベースでの発露であり、完全に
 オリジナルな世界だった。

 作品内に投影されていたものは何だったのか?。作家表現者らの背後にてその創作行為へと
 走らせてていた、urgeしていた、その精神状態とはいかなものだったのか?。

 それらは全てデフォルメされたところの現実に関してだった。本人たちに自覚はなかった
 だろうけどね。狂気、混沌/混乱、レールなきところでの暴走、行き場のない怒り/憎しみ、
 そして、あくまで本能的な領域への退行を脱出口とする、それへの強粘着/嗜好/志向。
 つまりはエロへの愛好だ。救われんとして誰かと何かとの一体感への希求が、その復帰の
 方法/手段が、それしかないんだ。思いつかないんだ。独りよがり。つまりは小児的。
 強姦としてしかあり得ない。なり得ない。「かわいそ、かわいそ、かわいそなのです…」。

 興味深いのは、いや、深く同情し、かつかわいそうに思うのは、突如、「鬼」やら「スス
 ムちゃん大ショック」やら「真夜中の戦士」を発表した事態にそのものにだ。「人間と
 しての生存が、残虐な残酷な展開において何者かによって突然に奪われてしまう」といった
 妄想。そのことにおける本能的恐怖。それへの固着が創作の基盤となって突如表出の衝動が
 ムクムクと起き上がってきてしまう。その事実は無自覚で全くぬぐい切れないままだ。
 *(ペイン・ボディーに関しての話し、時を置いて再発現するをここでは想起すべき。)

 先に「真夜中の戦士」に関しての考えを是非にここで述べておく。
 現実たるものを再構成して、その本質たるものを描くことには全く問題はない。
 むしろ、ある局面/事実を強調することにおいては成功している。
 だが、”落ち”に関しては…、現実に関しての、世界創造とその運営に関しての
 不理解、認識の未熟、不徹底も、いい加減にしろよー!と罵声を浴びせたくなる。
 *(最後に登場すべきは神しかないのだ。もしくはプラクリィティーとしての自然!。)

 ある意味読まされた読者たちが悲惨だ。悪い影響しか残らない。悪い刻印しか残せない。
 ショックを伴ってある間違った見識を刻印するがなされたまで。絶望の嫌な後味だけ。
 ある種の現実が、真実が、その設定にはあるのだから始末におえない…。

 「鬼」やら「ススムちゃん大ショック」においてになれば、もう言うまでもあるまい…。
  何が、創作すること、読むことにおいて、それらに得るものがあるだろうか?!。
  そういったお話しを公開することに、どんな意義があるのだ?!。
  作者においては、Urged! 、正体不明の衝動に突き動かされて、
  やむなく、作品を発表/排泄せざるえなかったのかもしれない。
  多くの人の注目を集めて、人漫画家となり、名を上げたのだからいいではないかと…。

  そうだ。ここでも、もう最初から、ヒトの手を離れたところで、ことは起こっていた、
  起こってしまってたのだとすべきなのだ…。
 
ようやく売れっ子漫画家の仲間入りができるようになった頃だったろうか。
そんなぼくのところへ講談社で作る新しい雑誌(週刊ぼくらマガジン)の話が持ち込まれた。
売れっ子の強みでぼくへの依頼は「好きなものを描いてもよい」という話になった。

  こんなところに、鎮護守護庇護の見えざる力の干渉は止んでしまっていることの事態を
  確認することができる。できすぎた展開だ。道は整えられ、掃き清められして、その進軍
  の到着を今や待つばかりかな…。

ぼくは、幼い頃に読んだダンテの『神曲』を思い出すのに時間はかからなかった。
同じことをやったのでは意味がない。ダンテと、見方を百八十度転換し、SFの調味料を
ふかけてみようと思った。つまり、『神曲』の世界を、悪魔の側から描いたらおもしろい
のではないだろうか。しかもその悪魔をウーンと怪物にして、いわばゴジラの目から見た
人間を描ければ新しいものができる!と考えた。そうしてできたのが本書『魔王ダンテ』で
ある。

  自分がやっていることが本当に自分によるものなのかは怪しい限りである。
  彼方の戦略は既に言ったことだが、至極単純にしてつまらない発想のものとしてしか
  あり得ない。真に価値あるものを否定して、反対のものを価値あるものとして魅せれば
  いいだけのことなのだから。二律をただ逆転する。倒錯させる。百八十度転換して、
  その世界を有効絶対なるものとして構築すればいいだけの話し。

この漫画を見た投影動画のプロデューサーがアニメ化の話を持ってきた。

  興味深いのは魔王ダンテの漫画を読んでの提案だったのだ。
  それの、やけに存在感があるのを感じて惚れ込んでしまっていたのだろう。
  アニメ版のゴジラみたいなものを作れば「これは当たる」と思ったのだろう。

『魔王ダンテ』の原型ではあまりにも怪物すぎるので、コンセプトだけそのままで
子供向けに作り直したのだが、どのように作り直しても悪役に見えてしまって困った。
そうして、何度も会議を重ねてようやくできたのが悪魔のヒーロー『デビルマン』である。

  しかるべく筋道は整えられてゆく…。

  アニメ版のデビルマンは、派生的なものであって、まだかなりの健全性を留めている。
  よって、その設定を然るべく整えることによって活かすことができる。
  真実の世界に、引き戻してくることができる。
  その目的において、あの新春特別割込企画 は差し込まれた。
  主に感謝。


「ハレンチ学園」が社会問題になり、不買運動や悪書追放のスケープゴートにされていたことが、深層意識の底ではトラウマになったいたのだろう。

  ○の悪い○が何やら愚痴を言ってる。
  世間が批判していたのは、本当はその言論の対象とされていたディテール、細々とした
  内容(スカートめくり)なんかではなかった。その創作の実態としての、幼児じみた、
  ひとりよがりの、小児的な妄想三昧としての内容そのものの表出こそが問題だったのだ。
  ましてや、それが子ども向けの週刊雑誌にて大量に出回っている。何の検閲も校正も
  ないままに、野放図に放置された状態で。子供らに閲覧されまくっているではないか!。
  この事態に、良識としての大人が拒否拒絶の反応を突きつけてきていたまで。
  母親達がいち早く気づいて、沸き立つその正体不明の不安の思いをもって警鐘を
  ヒステリックに鳴らしていたまで。直感ベースで、それは悪影響を子供達に与えるは
  正しい判断だった。でも結局、その事態を封じ込めることはできなかった。
  世の争点論点そのものがズレズレだったもんだから…。
  現実的には無意識的な拒絶として、一過性の抵抗の噴出に過ぎなくして終わった。
  何が真実に危険であるかを意識化することは当時の世論ではできなかった…。 

  例え空想の世界であってたとしても、簡単に人を殺したり人が殺されてしまうような
  話があっていいわけがないではないか…。そういったものを黙認したり、容認したり、
  ましてや、そこに笑いを悦楽を快感を見出すような風潮などがあっていいはずがない。
  無意味にしてナンセンスなるもの、残虐残酷非道たるものを許容する、それらさえも
  利潤追求の為の商品材料として取り扱うことが許されるのならば、
  それは、まさしくカリユガであることの証となろう…。


当初、怪物漫画として描き始めたこの作品が次第に別のテーマを全面に押し出そうと
しているのに気がついた。

  魔王ダンテのことね…。

悪魔=神という対立構造である。← 神こそ実は悪魔なのではないか?!。
伝説の悪魔とは何か?。そして神とは?。

  対立項の単なる入れ替え。逆転の発想ってやつ。
  問題は、この思いつきにおいて、際立った閃きってやつが作者に起こってたことだ。
  そして異常な興奮がその身には感じられ覚えられていた…。

宗教とは全く関係のないところでぼくは形而上学的な問題にまで発展していく作品を
作りかけていたのだ。

  あまり根本的な教義たるものに染まってないのが何より良かった。(彼にとってはね)
  なんの躊躇もないく、上辺の、薄っぺらな理解のみにて、好き放題を、勝手放題を、
  描かせることができる。そのトラウマとしての恐怖たるものを梃子に存分にその妄想を
  膨らませて形象化してもらおうではないか…。

あいにく雑誌の廃刊が決定し、話が終末まで進まないうちに最終回を迎えることになった。
ぼくに描けたのは壮大な物語の「序曲」でしかなかった。

  それで十分だったの。十分に足りていた…。
  作品としての魔王ダンテは、復活を遂げることと、
  作者がサタンとしての己が役目を自覚するまでが機能的に、本来の役割だった。
  ある種の儀礼だったのだよ。デビルマンにおいて描かれる世界、
  その伝播の為の準備、揺籃、起動、発射台として。

したがって、神=人間=悪魔という三角関係は次回作「デビルマン」に持ち越されたが、
終末は、やはり人類にとってはハッピーエンドたりえなかった。

  デビルマンにおいての話しをしてるんだろうね…。

魔王ダンテという怪物が敵対する人間んを全滅させようとするのは、
ぼくが人間社会に対して不信感を持っていたからかもしれない…。 〈了〉

  ややこしい構成がそこにはあるんだー!。

  現実に、目の前で進行している日本社会のありさま、これに不信感/敵対心を持つのは
  至極健全にして真っ当な反応だよ。でも、これは敗戦を機に、日本の政治や経済を動か
  してきたのは海外勢力の意向に基づいて話しなのだ。それらを背後で操っているのが
  悪魔サタン。実入りと地位とを引き換えにして、それを梃子とされて、日本の政治家
  たるものの魂は完全に乗っ取られてしまっている。

  目の前に進行する人間社会が、気に入らないから、嫌いだ、間違っているからといって、
  空想上の世界ではあったが、同じくそのサタンに操られて全滅させてしてしまったのが
  貴方、そのものなのです…。


コメント挿入 by 天村崇



無慈悲に、無意味に、無分別なる暴力によって、死たるが、突如、襲う。
このことが、刻印するのが本能的な恐怖のトラウマなのです。
さて、見渡してみて下さい。現在どれほど、これをスパイスとして
色付けされているアニメが多いことかを、氾濫しているかを…。

刻印の連打をもって狂わそうと、そして精神異常者を増やそうと、
そのショックを当たり前のこととして慣れ親しませようとしているのです。

もし貴方が、それらにおいて、「おもしろい」と覚えるならば、
理性、良心が、関わりを持っていないのです。
その配置は”眠り”を表します。



追加情報:

1945年9月6日生まれ。乙女座。酉年。血液型O型。石川県輪島市出身。三人兄弟の次男。
1971年がダンテ連載で26歳
1971年にすすむちゃん大ショック発表
1972年がデビルマン連載で27歳
1972年におもらいくん連載
1974年「真夜中の戦士」発表
1968〜1972年にハレンチ学園連載。
1969〜1973年にあばしり一家連載



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み