第49話  インターミッション2

文字数 8,908文字

ちょっと間があいたので〜再起動のタメにも〜その意味にても〜、この作品を取り上げとく。



この作品が描かれたのはちょうど魔王ダンテの前、1970年のこと。作者永井豪が35歳のとき。彼が、自身の創作においてのその方向性を、その

、確立したものなんであろうと思う。自分は読んだ記憶がまったくないんだ。でも断片を見るだけでおおよそのことは分かってしまう……。



基本キャラクターは三人。自分としての分身である早乙女門土と〜、更に、その分身の分身であるところの身堂竜馬。そして、出演避け難くしての登場となるヒロイン役としての錦織つばさ。デビルマンでいうところの美樹ちゃん……この三名。

舞台は一応はガクエンになってる。1960年代としての十年が、学生運動が異常なるまでの高まりを見せていた時代だった。これに大いに触発されての、歩調を合わせての、同調をしての作品になってる。ことのクライマックスが60年末期の大学を舞台とした学園紛争。そして、そのことの最終結果、最終結末、終わりとしての節目が、極左テロリスト集団たる連合赤軍によるあさま山荘事件だったってことになる。1972年の2月の十日間。

ちょっと脱線させてもらう。あさま山荘に関してのテレビ放送に関しては記憶がある。当時は十歳だったので。また東大を封鎖して自衛隊の出動とまでなった事件に関しては、かなり後で知った……。



問題は

社会情勢の変化だったのだ。日本という国が至極その身に合わないものへと向かってゆく、合わせて行ってることに、ときの若者たちは危機感を覚えてあったのだ。それがなんであるのかはチャントは分かってはいなかったが…。だから、ことは無意識においての反発抵抗否定であったのが本当だと思う。ことは海外主導の、経済原理至上主義、それによる徹底支配、それの、そのモメンタムの起動、推進、そのムードの浸透に対しての抵抗だったんではないだろうか?。一種の、近代としての制度化。ことの結果は海外から観てエコノミックアニマルとしてのその様態へと結実してゆく。戦勝国であるところの先進国であるアメリカ・ヨーロッパの国々に追いつけ、追い越せこそがスローガンになっていってた。敗戦後は。そしてこれはどうしたものなのか物質的な意味においての成功を極端な形で国内において獲得することになってた。外貨を稼ぐにおいて途轍もない成果を上げてたってことなんだ。メイドインジャパンとしての製品は、その評価を、世界中において上げてたってことなんだが……。

真の指導者たるものらをすべて失い、すべてが焼け野原になってのスタートとなってたことにも原因はある。ことのドライブが貧窮から脱することにのみ傾けられてあったってことにも…。その民族としての勤勉性、創意工夫をするにおいての根気努力、先行するもの技術への理解力と更なる改良洗練。ある意味においては、国を復興するにおいては、そのあり姿を一新するにおいては過剰なる成功が収められていたのだろう……。

だがだ、なにかが失われてしまう。とても民族として大切にしていたなにかが。それこそが民族として長きに渡って使われてきた、これた、奇跡の如くしての美徳、それにおいての世界観たるものが。つまりは情緒的価値ってやつだ。別の表現、それもあからさまなるでゆくならば、仲間との相互的つながりにおける、(これには、ちんと実体としての体がある)、また道徳的なるべきことを指標指針とする、ある〜、信頼関係ベースってやつにてすべては回ってたのだ……。これこそが無自覚としてのものではあろ〜が、単一民族においてのその強み、また悪しくしての柵の源泉になる。

経済原理主義は七十年代の隆盛をカタパルトにし、バブルとしての時代(1985年〜1991年)全国民総狂乱としての事態へと発進、突撃、突入してゆく!。これをもって、このときの情勢をもってして、贅沢としての嗜好が、虚栄/虚飾/マウンティングとしての習慣習性、それとしてのあり方が、がーっ!全国津々浦々、すべての国民の意識にて、植え付けられることとと、なってしまう…。

ここまでが実は日本民族解体化計画における肝要となる部分。西洋に習っての個人意識を持たせて高めること。主観的自我を強固なるもの、明確なるものとして育て上げ、それにおいてを、社会ユニット、経済的ユニットとして独立、確立させる。エゴへの固着は、エゴとしての自我意識は社会的、経済的成功こそを唯一の生存においての目的と、してしまう。裏返せば、贅沢としてのその生き方を保証してくれるもの、それとしての暗示、幻想、思い込みの刷り込み!。いい大学にとにかく入りなさい。入ったなら後は遊べるから…。そして、卒業としてのその実績は、その事実が、あなたの人生を手堅いものとして、社会こそが守ってくれる……。

もう一度繰り返しておく。ことは仕組まれたもの、仕組まれたことでしかない。日本という国を根底から破壊する。それを劣化させることこそが本当の、根本の目的としてのものだったのだ。島国という特別な環境下にて成り立つ民族であるからこそ、そのやり方は簡単だ。民族としてのその集団力をまずは時をかけて無効化してゆく。個人としての独立たるその意識を、際立たせて、煽って、持たせてやる。近代的自我たるものをすべての人民において確立する。ならば、そのときたるのは敗戦後のリセット、そのタイミンがベストになる。誰も彼もみなが、貧窮困窮してあえいでいるいるその左中において。権威のすべてが瓦解しているその状況下においてが!。為政者らのすべては我らが支配下、配下にある。彼らは最も早くにしての我らが理想としての日本人となるであろう。我らの庇護において、その立場を権威を、金を、保証されてある存在であるのだから。ゆくゆくにおいては、国民のそのすべてが、彼らの有り様に如く染まることになるであろう。その生き方に倣うこととなるのは必須にして必然だ……。

そんでバブルが総仕上げとなって、梯子は外されましたっと。そんで、次に待ってたのは人工的にしてなる超円高でしたっと。すんごく長い期間だったのだ。この期間において進展、促進されたのは、品性たるものの毀損、劣化。金の為ならなんだってやるだ。自分が知り得た技術ノウハウを海外のライバル会社に売る、渡す〜だ。これも良くしたもので、作戦の一環だっただろなと思う。コーディネートがやけに行き届いていたので。世界的に希有な民族としてのその道徳心ってやつも確実絶対に毀損すべきものとしての対象になってんだと思う。ちゃんと意識されてた。基本、アジアとしての傾向は、品性下劣なることが優勢ではある。だから、日本は世界的に観ても例外的ではある。ならばこれをどうするのかと云うと、品性下劣なるものらと混ぜればいい。相互においての感情的反応を、その起伏を、それにおいての相克を、煽ってやればいいだけの話しなのだ。否定的なる相克関係、それにおいての応酬がベスト……。もういいや、この辺にしておく。だけど最後に、このオペレーションは終わってなどいないのだ。まだまだつづく、続いてゆく。どこを終わりにするのか、なにをもって終了とするのかはわかったもんじゃない。徹底的なる相対化をもってその民族性を蕩尽しつく、泡沫化し尽くすことこそが課題であるはずだから。人間としての下の下としての大陸系に蹂躙支配させることももしかしたらシナリオにおいては織り込まれているのかもしれない……。

さて、話しは戻して、ことの社会的にして大きな変化、その変遷において、みんごとバカどもが生まれてきてしまう。そのことにおいての不安、恐怖、忌避としての思いは、情動的高まりが、訳のわからん理屈においての飲み込まれてゆく、染められてしまうこととなったのだから……。

ことは、マルキシズムなんかでは解決できない問題を孕んでる。いや、これをもってして当たるのことは、余りにも!、間違い極まりないその方法選択になる。民衆の蜂起をもって現政権を転覆する、させる、そんでもって、自分たちが求める政権を樹立する。つまりは革命、つまりは内乱内戦。どうやって?、武力をもってによってでにしか結実はしない。それとしてのものとでしかあり得ない。これダメ…。だいたいがだ、素人としての集団が、組織化された暴力装置の前になにができるのか?だ。絶対にプロに対しては勝てるわけがない。強引に他人を変えようとすれば、より強引なる作法、方法にて、鎮圧されてしまうまで。場合によっては殺されてしまうよ……。



自分自身の変革へその方向を各自定めてあるまでなのだ。各自が超人化、進化の道を、それぞれ歩んでゆくまで。そのためのガイドは、民族的文化の中にこそある。既にその為の方策は伝えられ、実践がなされて、その成果たるものも蓄積されてある。このことに気づければいいんだけど…。その多くは宗教的なる教えのことになる。


さて、閑話休題、本題に、今回の題材たる「ガクエン退屈男」なる作品に戻ろう……。

これにて、作者たる永井豪たる人間の

描かれてしまってる。

もう頭の悪い子供も悪ふざけで片付けることのできない領域にまで踏み込んでしまってる。

漫画家として、作品の創造によってでおいてで、稼ぎたるものを得る、社会的立場を確立する
こと、その方針、その方法論が、その姿勢が、この作品においてで、確立されてしまってる。




                チョッと、寄り道しよう…









早乙女門土と〜身堂竜馬は〜、共に、若き日における、作者の分身だ。構図として保たないのと、一人だけでは寂しいので、またダイアローグにて心情を吐露させたいのでどうしても二人体制となってしまう。美形の男性となっているのは、あくまでも便宜上の話でしかない。彼自身においてのアニマ、その存在でしかない。繰り返しておく。この二人は、同一存在としての別側面でしかない。なので、分かたれ難く、離れ難くしての、決して裏切らない、裏切れない関係となる。


これがクリティカルな発言になってる。生きるにおいて、特段やりがいのある、心底打ち込める仕事がなかった。それが見当たらない。見つけられなかった…。なので、こうやって妄想を絵にして遊ぶ、それを紡ぐことを職業にしてるんだよっと。ならば、どんな願望においての夢を、その妄想を見てる、好むのか?。自分ではない他の誰かと戦ってそいつを殺すことが一番こころが躍ることなんだって!。この思い動機、衝動としてのものの正体はなにか?。ヒステリーに起因する狂気なのだ……。彼はある意味、痴呆的なるまでに純真で無垢、バカ正直であったが為に、その思いのそのまんまに創作活動を、余りにもあからさまなるまでに行っていたまでなのだ。この彼に理屈なんかはいらない。世にて自分が観て感じるままに理屈理性などの関与など知らぬ一切許さぬままに、ただある種の衝動において遊んでたまで。



ぐるぐるの数重丸の目としての表現が、このとき既に生まれてる。これは催眠状態にある、なにかに取り憑かれてる、乗っ取られて、既にこれとしての存在は、あちらっ側としての存在としてのものでしかないのだ。「バカだ、白痴だ、低能だ!」それも、恐るべくしてのたちの悪いものとしての。これとしてのものが広く世間に向けての発信を行うこととなった、なっていたのだ。次鋒は魔王ダンテ。そしてそれはデビルマンとしての作品へと発展していってしまうことになる。それもとんでもないモメンタム、それによっての影響力を引き連れて、それも超広範囲にて、つまりはワールドワイドになるをもって振りまき撒き散らすことになるーー!。




自分としてこの作品に対しての語りは残り少ない。ことの極点としてのその内容は、絶対にやってはならないことを、この彼はやってしまってたってことについてだ。それも全人類に対して、呪となるべくしの魔術、呪詛、洗脳、刷り込み、伝搬伝染、それになる、それをもってして。




そのことは彼は彼なりになんとなく分かってはしまってた。だから、自身を断罪するべくバイオレンスジャックを描いたのだ。だがだ、ことにおいての了解は、足らずの、浅きを脱することはできなかった。自己に対しての理解が、その基礎が、なさすぎるからだ。そのことは早乙女門土をつまらな下卑た人間としてでしか造形できなかったことに端的に表れている。最初の登場のころと、あくまでも黄金に目がくらんで、卑怯な手段であったも頓着しないそんなレベルの低い人間と、いつの間にかなってしまってる。作者には、そこんところにおける掘り下げができなかったんだろう。あくまでもジャックによっての断罪こそが主眼であり、それに向けてことを急ぎすぎてたんだろう……。だから、このエルドラド編は不完全にして未完成としてのものでしかない。美樹ちゃんを殺したことにおいての贖罪の思いから、自らを投影してある門土を、殺させたんだろうが、事ならずだ。結果、あの作者は憐れな憐れな存在としてのものでしかない。未だ、かって自分を背景にて操っていたものらへの焦がれ、執着が強い。叶うことなれば今再び、我に憑依したまえとの思いであることは確か。だがだ、すでのアレラは去ってしまってる。再び彼に憑くことは絶対にない。








            ほんと、中途半端にして無様な死に様だ……。
    この後に残された竜馬に、なにができる、なにを託せるというのであろうか?
     門土が死して退場したならば、彼もまた同じくしてあげなければならない……。

                    追記:
門土は金塊の山を賭けてジャックと戦うんだ。一対一の両者バズーカー砲をもっての決闘を挑む。勝算としてはジャック側のバズーカーには細工がしてあり実際は作動しない。ところがだ、実際においては味方の妬み嫉みを原因としての裏切りに会い、門土のバズーカーは使用の際して暴発してしまう。そんで彼は、五体ばらばらになってお陀仏ってなわけ。上図がそのシーン。

本来の、有り得べきは、あるべきであったのは、やはり門土はジャックのあの巨大なナイフによって徹底的に、残酷なまで切り刻まれる、それとしての展開。そんで、必然的には、竜馬が激情にかられての復讐戦へと切れ間なく即座に移行してゆく。ジャックはそんな竜馬の首を一閃をもって薙ぎ払うまで。首がすっ飛んでゆく。徹底的な断罪こそが、作者としても必要であったはずなんだ。ならばだ、いかに自分としての人間が未成熟で小児的なることかをもっと掘り下げて、門土の造形においても図るべきであったはずなんだ。卑怯臆病で、そのこころがいかに小心であることかを…泥に(まみ)れることを厭う嫌うカッコマン、その精神において、脆弱至極なる人間でしかなかったことを……。いっときのその峻烈性、運動能力、その才気の迸りは、あくまでも努力なくして手に入れてある天来のもの、若さこそが保証してある才でしかなかったのだ…。真の、本来の門土なれば、黄金の山を前にしてもその心を動かされる魅せられることは先ずない。頽落、堕天がありえるならば、それは悪しき霊性に感応してのシンクロしてのその事態にしかない。彼においての本質が、あまりに天使的であるがあまりの、その堕天としてのドラマがなければならない。理想において現実と

戦ったが為に、

、その現実に染まることになったが/なるが、クリティカル・マターでなけらばならない……。この辺の構想がダイナミズムが作者には理解できなかった、それをするにおいての素養が教養が、余りにもなさすぎたのだ。っで、結局は、不完全燃焼になることが避けらんない、つまらない、低俗にしてステレオタイプなる、それとしての悪漢ストーリーに向けてのレベルダウン、子供だましのストーリーとしてのものとでしか構想できなかったのだ…。




    おまけ、このツバサちゃん、そして菊ちゃんの中には、美樹ちゃんが既にいる。
              未だ、健在、健全なるがままにて





分かる方ならばお分かりであろうが、ある時期を境に、ピタリと、彼は

これらの、

、かわいい女の子たちが、描けなくなってしまっている。それ、あれ以降は、過去の創作のその再現でしかない。習慣において描かれた絵の、その調整加工でしかなくなってる……。


                 もう一件、おまけ……


           精神破壊銃の光線を浴びせられてがことの発端

あばしり一家の単行本第四巻に「菊の助の幻想編」がある。これが雑誌に掲載されてあったのが昭和46年(1971年)のこと。

になる。悪夢としての世界現実が置き換わってしまう、この発想が表現において描かれた初めての作品なのだから。この悪夢としての世界は、

としてのものだ。読めば分かるのだが妙にリアルな感触を、その印象を、読者はアクセスにおいて抱くことになる。得体のしれないバイブレーションが、その味わいがあそこには確実にある。あの章の作品内は本当の異界としての世界になってしまってる。作者自身がどっぷりとハマってしまってたことに起因してる。構造はあの「エルム街の悪夢」(1984年)と、まったくの

!!!。菊之介はその異界において四肢を切り刻まれてしまってる。そして、そこでの死は現実においても近似なるものとして反映されてしまうことになる……。植物人間さ…。



その世界内おいての菊之介の目もぐるぐるの多重線にて描かれてある。この憑き物がなんであったのか、その正体がいかなるものであったのかが問題なのだ。ことは、既に、単なる創作の域を出て、脱してしまってる。リアルとしてのなにかが、作者においてでは、招聘が、関係性の樹立が、正にこのときにおいて、深々と、同体となるほどまでのシンクロをもって、適ってしまってる〜いたのだ!。

もし、シビラシステムたるものがあったなら、この時点で、彼は強制隔離としてのその扱い、社会的なる抹殺としてのその処分になっていたことだろう。現代社会においての問題点は、自浄作用としての機能が、

ことにある。ことのすべてが野放し状態として、現在はあるんだ。このことが、現在が悪しくしての時代、カリユガとしての時代であることの正しく証明となってしまってる…。


追記:

シビラシステムとしてのものは、実際は、現実には、あるにはある。総称としてプラクリティーって呼ばれいるものが。だがだ、

、これとしての機能が、作動せずとしての構えを見せだしているように、自分には思えるんだ、認め得てしまう。悪しきに対して、まったく動かず、看過してあるかのような態度を見せ始めている。永井に代表されるあれらの作品群の公開が為されてしまっていること、もしくは、無修正ポルノが、なんのブロックもないままに、”ずっ”と、オープン状態になっていることが、まさにそれとしての事態だ。タガが外れてある、吹っ飛んでしまってある。誰もそのこと、あれらのことに、責任を、まったく感じていない。危機感を抱いてない。

かって、河に工業排水として水銀を流した工場がある。
水俣病、イタイイタイ病が、下流にて住まいする人々のあいだにて流行りました〜〜。
結局は、国が、補償を、賠償を、補填を、せざる得なくなりました〜〜〜。

この国ってのは我々自身を指してのことでしかない。」





ことの進展進行においては、表に、実相が表れてくるまでには時間がかかる。敗戦がスタート。GHQによって作戦、内政干渉、その開始があって、それに基づいて国内においてニューワールドが構築される。そんで、昭和天皇の崩御があって、こんときが、日本にとっての古き良き時代が本当に終わってしまう。そんで、すべてが整ったその時点にて、マガジン上にて、御大自らが登場し、ことの実態に関しての声明を発したのが1972年…。既にワールドワイドにてはことは完了しており、日本が最後の聖域だったのだ……。ps.日本の前がチベット。




つぶやき……

自分もそうなんだけど、ある意味、非常に奥手の、感覚面のみに優れた子等がいた場合、そんな彼らを導くべくしての教育体制ってのが今の社会にはないんだ。完璧にないな……。彼らに理屈は基本通じない。一切通じない。通用するわけがないんだ。本質ベースの無垢なる人間なんだから。彼らは、イデア、シニフィエに、それらと、直感において、もってで、反応してるまでなのだから。両極は善と悪。その両極の間で振れているまで。であるならばだ、

、もしくは

を通して、何事も理解させるが最適の方法論になる。例えば、なんらかの仕事において稼ぎを得る、これもまたゲームなんだよと……。しかしだ、遊びったって〜、生き死にを賭けての、真剣な遊びってものになるんだよっと、それとしてのものであるってことだけは重々覚えておく。覚悟しておきなさいって…。やはり、やってて「楽しい、嬉しい、生き甲斐だ」ってのが仕事において感じられているってのが一番大事なこと、必要なること……。

適切なる導き手がいないままに、それが不在のまま、彼らが放置されたならば、彼らの取りうる、図り得る自己救済としての手段は、想像の世界にて遊ぶことにしかなくなる。内面においてのその世界にて充足するしかないんだ。自分が見渡す限りにおいては、シュタイナー教育が、あれのみが、有効性を期待できるんだが、成熟した大人としてのその教師自体が不在であること、余りにも少なすぎるってなことが推測できる。また高額の学費となることも想像できる。そもそも、その学校としての数が余りにも少なすぎるではないか……。

自分の創作の執筆のそのすべては、そんな可哀想な、捨て置かれている人達、そんな子供らを、意識しての、向けてのものでもある。





     おコモちゃんがやっぱりいい!。これ描いてたときの永井豪は好きだな〜〜。



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