第24話 悪について。序章。
文字数 2,386文字
2Fはですね〜、ややこしい問題を取り扱う間なんです。
それは扉絵が表すものなんです。
無謀も無謀、愚かな試みのフロアなんです。
婉曲に、ぼかして、遠回りしながら、間接的に、が戦略になります。
相手に気づかれないようにする為です。
結果、何が何だかサッパリ分からないものになるのは100%間違いないでことしょう!。
でも、そうなれば、きっと彼も見逃してくれるはず...
さて、序びらきはこのイエスの言葉になります:[マタイ15:17-20]
口に入ってくるものは、みな腹の中にはいり、
そして、外に出て行く(排泄のこと)。
しかし、口から出て行くものは心の中から出てくるのであって、
それが人を汚すのだ。
悪い「思い/想念」(殺意、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹り等)は、
心の中から出てくるのであって、 これらのものが人を汚すのだ。
設問としては:
言葉、つまりは観念と関係するものなのか?。
どうして、心の中から、人を汚すものが出てくるのか?。
その真の源泉は?。
その仕組み、また目的は?。
かなり面倒くさい話になる....。自分の中にあるイメージを
受け取ってもらうためには、多種多様なる材料の提供が必要だ。
そして、公述を加えるなら、当然に○○学的記述でいかざる得ない。
これ、恥ずいわ...。
閑話休題、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって
[それ]が人を汚すのだ。口が中心となっているので〈言葉〉であろう。
この言葉を紡がせるのが思念/想念/観念、悪感情かな。
簡単な例を一つ:
「おまえっ、なに人の”前”いってくれてんのや〜」
「ブチ殺したろうかー!」
よくある話 w…。
気に障ってしまい、怒りがこみ上げてきたまで。
こんな乱暴な物言いをされれば、相手も黙ってちゃいられない。
次の瞬間には大きく一歩前進。そして相手の胸ぐらを掴んでいる...。
いやんなるぐらいよくある話し。
もう一つ:
猫に怒りを託つ。
みるニャンめーーー!。
要は「引っかかり」が起こってしまってるのだ。サラッと流せれない。
頭の中ではいろんな想念が立ち起こり、それがまた自己の感情を副次的に刺激していく。
そして、とうとう、遂には、言葉が外へと発せられてしまうのだ。
これは機械的な/反射反応的な/生理的なものでしかない。
『ものの〈法理〉』という言葉が禅(仏教)にある。
簡単に言えば、物事は、
ところが愚かなことに人間は、展開(流れ)が自己にとって都合が悪ければ
その事に
例:サランラップが邪魔になってしょうがなーい!
ステンの乾燥棚に物置けば、いっつもバイン〜バイン〜音たてるー!
包装フィルムが破れ〜ん!。これでは食えんではないか。
ちょっと着ただけで洗濯機に入れやがる〜!。いっつも満杯やないかー。 etc.
結果、いらぬ想念を立ち上げてしまう。
ヒステリーを起こしてしまう。
ひっかかり、これが[汚れ]とされているもの。
認知は絶対的に無色透明なフィルターを通してされるべきもの。
汚れなき心と、表現としてはなるのかな?。
(社会に染まっていない赤ちゃんが持つとされる)
引っかかりが
滞ることなく...。
上の例であれば:
「これは失礼しました。では、お先にどうぞ。」(怒ってるようなのでお気に入るよう調整)
「タチの悪いシミにならないよう速攻雑巾を濡らして持ってきてゲボをしっかりと拭き取る」
これだけ…。次の瞬間には平時に戻っていて何も跡を残さない。
猫は相変わらず可愛いまんま。
サイレント・ストリ〜ム。
でも現実は、みんな偏向を通して観念を立ち上げてしまう。
これは、避けられない。
そうなってしまうのは必然なのだから。
この色を添える機構がマインドと呼ばれるもの。ここでは心になる。
これは世間から多くを吸収する。取り込んでしまう。染まっている。
常識、うまく生きるための、だしぬく為の、処世プログラム。
ええとこどりをする為の機転機微実践の為のノウハウ。
動力源がエゴ。これはいろんな表現があるが、キリスト教文化では
ただ〈肉の欲〉とだけ表される。(最終この言葉が最も的確になるよ)
成長においてこのことは避けられない。誰にも...。
大方、成長した後はすっかりこれが支配的になる。
ほとんどの人間は、動物次元の本領たるにすっかり染まってしまう。
〈略〉
このエゴに死んだ後、現れてくるのが自在闊達なる
こいつは、かってエゴが獲得したあらゆるコードを自在に使うことができるんだ。
〈略〉
良心(真の私)は、親愛なる情と呼ぶべき(呼びたい)ものを滋養として育まれる。
それらを味わう事によって魂はここ現世にて安定化して成長できる。
天国への郷愁の味わいに近いものだから(確信犯として書いている)だろう。
一方、人格(頭)と呼ばれる機能の中に〈純粋知性〉、もしくは別称としての
〈理性〉が十分に発達/成長しえたなら、これは「愛する良心の為に」の思いで
行動選択を行うこととなる。これはかなり道徳的価値に近いもののような…。
ここまで。
基本、理想的な形のみに限った。
だが、これの逆を行くように働きかける『干渉力』の存在だってあるんだ…。』
*話者はシェニール織りがなんなのか知らずデザインにてオクで落札しました。
これにおいても語るに涙の話があるのですが、またいずれかの機会に。
追補:
Re: 拈華微笑
みなで花見に出かける。
ただ開示されて在るものに圧倒されるばかり。
お互いを見渡して、頷きあうのみ。
*間違っても「キレイ」などとの言葉は発さない/交わさない。
*これをやったら台無しではないかと...。
それは扉絵が表すものなんです。
無謀も無謀、愚かな試みのフロアなんです。
婉曲に、ぼかして、遠回りしながら、間接的に、が戦略になります。
相手に気づかれないようにする為です。
結果、何が何だかサッパリ分からないものになるのは100%間違いないでことしょう!。
でも、そうなれば、きっと彼も見逃してくれるはず...
さて、序びらきはこのイエスの言葉になります:[マタイ15:17-20]
口に入ってくるものは、みな腹の中にはいり、
そして、外に出て行く(排泄のこと)。
しかし、口から出て行くものは心の中から出てくるのであって、
それが人を汚すのだ。
悪い「思い/想念」(殺意、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹り等)は、
心の中から出てくるのであって、 これらのものが人を汚すのだ。
設問としては:
言葉、つまりは観念と関係するものなのか?。
どうして、心の中から、人を汚すものが出てくるのか?。
その真の源泉は?。
その仕組み、また目的は?。
かなり面倒くさい話になる....。自分の中にあるイメージを
受け取ってもらうためには、多種多様なる材料の提供が必要だ。
そして、公述を加えるなら、当然に○○学的記述でいかざる得ない。
これ、恥ずいわ...。
閑話休題、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって
[それ]が人を汚すのだ。口が中心となっているので〈言葉〉であろう。
この言葉を紡がせるのが思念/想念/観念、悪感情かな。
簡単な例を一つ:
「おまえっ、なに人の”前”いってくれてんのや〜」
「ブチ殺したろうかー!」
よくある話 w…。
気に障ってしまい、怒りがこみ上げてきたまで。
こんな乱暴な物言いをされれば、相手も黙ってちゃいられない。
次の瞬間には大きく一歩前進。そして相手の胸ぐらを掴んでいる...。
いやんなるぐらいよくある話し。
もう一つ:
買いたての
シェニール織りのマットに猫が吐き戻しをしてる。猫に怒りを託つ。
みるニャンめーーー!。
要は「引っかかり」が起こってしまってるのだ。サラッと流せれない。
頭の中ではいろんな想念が立ち起こり、それがまた自己の感情を副次的に刺激していく。
そして、とうとう、遂には、言葉が外へと発せられてしまうのだ。
これは機械的な/反射反応的な/生理的なものでしかない。
『ものの〈法理〉』という言葉が禅(仏教)にある。
簡単に言えば、物事は、
コレ
に従って、”然るべく”自在に起こっているに過ぎない。ところが愚かなことに人間は、展開(流れ)が自己にとって都合が悪ければ
その事に
ひっかかて
しまう。腹を立ててしまうのだ。例:サランラップが邪魔になってしょうがなーい!
ステンの乾燥棚に物置けば、いっつもバイン〜バイン〜音たてるー!
包装フィルムが破れ〜ん!。これでは食えんではないか。
ちょっと着ただけで洗濯機に入れやがる〜!。いっつも満杯やないかー。 etc.
結果、いらぬ想念を立ち上げてしまう。
ヒステリーを起こしてしまう。
ひっかかり、これが[汚れ]とされているもの。
認知は絶対的に無色透明なフィルターを通してされるべきもの。
汚れなき心と、表現としてはなるのかな?。
(社会に染まっていない赤ちゃんが持つとされる)
引っかかりが
なければ
、ことは速やかに即時即応で次点へと移れる。滞ることなく...。
上の例であれば:
「これは失礼しました。では、お先にどうぞ。」(怒ってるようなのでお気に入るよう調整)
「タチの悪いシミにならないよう速攻雑巾を濡らして持ってきてゲボをしっかりと拭き取る」
これだけ…。次の瞬間には平時に戻っていて何も跡を残さない。
猫は相変わらず可愛いまんま。
サイレント・ストリ〜ム。
でも現実は、みんな偏向を通して観念を立ち上げてしまう。
これは、避けられない。
そうなってしまうのは必然なのだから。
この色を添える機構がマインドと呼ばれるもの。ここでは心になる。
これは世間から多くを吸収する。取り込んでしまう。染まっている。
常識、うまく生きるための、だしぬく為の、処世プログラム。
ええとこどりをする為の機転機微実践の為のノウハウ。
動力源がエゴ。これはいろんな表現があるが、キリスト教文化では
ただ〈肉の欲〉とだけ表される。(最終この言葉が最も的確になるよ)
成長においてこのことは避けられない。誰にも...。
大方、成長した後はすっかりこれが支配的になる。
ほとんどの人間は、動物次元の本領たるにすっかり染まってしまう。
〈略〉
このエゴに死んだ後、現れてくるのが自在闊達なる
真の私
になる。こいつは、かってエゴが獲得したあらゆるコードを自在に使うことができるんだ。
〈略〉
良心(真の私)は、親愛なる情と呼ぶべき(呼びたい)ものを滋養として育まれる。
それらを味わう事によって魂はここ現世にて安定化して成長できる。
天国への郷愁の味わいに近いものだから(確信犯として書いている)だろう。
一方、人格(頭)と呼ばれる機能の中に〈純粋知性〉、もしくは別称としての
〈理性〉が十分に発達/成長しえたなら、これは「愛する良心の為に」の思いで
行動選択を行うこととなる。これはかなり道徳的価値に近いもののような…。
ここまで。
基本、理想的な形のみに限った。
だが、これの逆を行くように働きかける『干渉力』の存在だってあるんだ…。』
*話者はシェニール織りがなんなのか知らずデザインにてオクで落札しました。
これにおいても語るに涙の話があるのですが、またいずれかの機会に。
追補:
Re: 拈華微笑
みなで花見に出かける。
ただ開示されて在るものに圧倒されるばかり。
お互いを見渡して、頷きあうのみ。
*間違っても「キレイ」などとの言葉は発さない/交わさない。
*これをやったら台無しではないかと...。