第47話  それは1972年のことだった…⓲ 

文字数 12,784文字

抜粋:

「地上では一体なにが起こっているのですか?」

『言っておく。ことはつまらんことだぞ。』(カミーユ)


ほんとつまらんこと…。ほんとに ほんとに……
最終章においての話しを始めよう。今回の稿が自分にとっては実質上の山場となる。
先ずは…

Re: 天地照応。

類推たるものの実際は形相の類似においての直感になる。なにかとなにかが似てるとピンとくるがスタート。でもそこにあるとされた共通内容は、実は言語には尽くしがたきものでしかない。例えばで、原子モデルと太陽系においてを見てみよう。




この二つの世界の間には共通の何かがある。このことは誰もが分かり納得する。でもその「何か」は直感としてのみとらえられるものとしてでしかありえない。表面的なるあれやこれやを語ることはできたとしてもそれらはあくまで総体としての構成要素の一部一片でしかない。(磁性だとか、電気特性だとか、牽引力と斥力の関係やらのことね。)確かにそれらは重要なるものとして着目すべきものではあるのだがあくまでそこにある「何か」を構成する一要素にすぎない。それらをクローズアップすればするほどに〜、本質からは返って外れていってしまうこととなる。木を見て森たるを忘れるの事態。細部に拘り過ぎて迷路に落ち込むの事態。五里霧中と成り果つる…。

言いたいことの第一は:
マインドによってでは、そこにある共通の「何か」に関してを正確に把握することはできないであろうということ。それこそが精髄もしくは本質として、核心的なるものだと察せられるものに関しては…。歯痒い限り。それは唯一直感ベースによってでしか捉えられない。直感をもってでしか、それに肉薄することはできないのだ。*ここでは詳しくはやらないが、ヨガベースにおけるサンヤマ(ダラーナ、ディヤーナ、サマディ)によってでしか、そのもの自体を真に識ることはできない。核心を知ろうとするならばその対象と同一化するしか術はないを言ってるだけ…。*マインドが関わると、微分化されて断片に分解されて、結果、訳わかんないようになるしかなくなる…。


その第二は:
その理屈を越えて(もしくはそれがなされる前に)直感されたるものがー、我々の生活世界圏内においても同じくして発見することがー確認することがーできるのかどうか?。このことの順序がことのほか大切なので、くどく説明しておくと…:

外部のまったく関係のない二つの世界(O’とO”があるのだ)において、最大公約数的なるものとして確認されたものの抽出がまずある。それがなされたとしよう。ならば次点では視点を折り返してきて、手元たるヒトの生活世界圏(O)においても、それに該当するもの類似なるものはないか?ないのか?と参照してみる。その作業の結果は三つの世界における、(OとO’とO”における)、最大公約数的な何かの抽出に他ならない。*その

は、まったく知覚不可能な、また言語化も不可能なるものなので、数学的なタームをあえてで採用している。

これこそが、肝心なことなのだ…。「何がだ?」。

これもくどくやっとく…。本質的なること、精髄たるものは、なんにおいてであったとしても、一番大切なことになるんだ。然るにして、それは“比較対象の操作”においてでしか見出すこと発見することは不可能となっている。不思議だ。しかしマインドにおける知性なくしては、この比較対象は不可能だったんじゃないかな?。だから主体としては役には立たないが、可能性を切り開いたという意味においては、このマインたるものはクリティカル。これの助けを借りての人間たるものが、それのみが為しうる行いうる適えうる認識においては…それはまるで両世界の重なりにおいて透けて滲み出してくるなにかを察する、その正体を把握するみたいな感じ。そんな認識行為。感覚的なるをベースとする思考…。

そしてツールたるべくしてなる物差しは(最大公約数のこと)、厳格厳密にして一切の主観性を排したる真に客観的なるものでなくてはならない。なのでこれを彼岸とてある外部に、つまりはO’とO”にて手に入れる必要がある。*出だしではマクロとしての宇宙とミクロとしての原子世界のことになる。

ここで、はっきりと言っておかなくてはならないことは、そういった学究の目的は、本来的には「Oに供する」為のものであるということ。このことを絶対に忘れてはいけない。つまりは、外界として切り離された対象世界に関しての研究結果や成果は、そのままで、そこでそれで終わりよとするのではなく、手元の現実世界へと折り返してきて/持ち越されてきて、そこで参照の上、新たなる抽出たるものがなされなければならない。ここまでが一サイクル。

簡単に言えば「現実に役立たせてこそなんぼ」なのだ。これに尽きる。それでしかない。また違う表現をすれば「自己の外部にむけての探索は、その成果を、自己の生活に役立たせてこそ初めて意義を持つ」かな?。そこで最終的な洗い出しの行程がなされて、応用たるものがなされないとまずいけないのだ。

*これって意外と学者等連中含めてみんなやってないからね。「折り返してきて」ってのがこれまたえらく難儀なもんだから…。多大なる労力と意思の継続、不屈なる精神ってのがそのことには必要とされるもんだから…。だから言ってはなんだがみんな批評家/評論家止まりなのだ。それは科学者でってさえそうなんだ。外からああだこうだ偉そうに言うまでで、問題の解決に向けての実行そのものが欠けてしまってる。閑話休題。実際それを為すためには、上位界からの庇護とか何かに対する愛の思いが原動力となっているがセットとなって備わってないともう無理だと思う。ことの肝要なる課題としては「もう一回、余計に、川を渡る」ってのが、例えとしてはあからさまなるものとなるのかも知れない…。そんなことをする気力はもう何処にもないが常なることさ。しかしだ、結果論だけで言うならば、一旦これにおいてことが成ったならば、達成されたならば、どえらい報酬が天よりもたらされるっていうのに…。(日本人による室温超電導の達成頑張ってね♡。)

閑話休題、ここで極論を言わせてもらうならば、我々にとって実用性/実利性のない学問/学究は、基本、無意味/無価値なものでしかない。(ここでの“用”やら“利”は金儲け等における利益利潤のことではない。人類全体にとっての真に幸せを供する達成するの意味においてのものになる。)

その外部としての対象領域たるものは数多数限りなくある。なんであったって、それにおいて抽出された内容たるものは、ヒトが生きる生活圏内にて変換されて、その努力の成果は、世の中へと還元されなくてはならない…。

ここは今回の稿においては大した話ではないのだけれど、大事な話ではあるので、もう一回振り返りとしてまとめをさせていただこう:最終的には三つの世界において同じ仕組みが/同じ原理原則が抽出されたるとの事態となる。最終着陸地点たるのはヒトが日常生きている生活圏たるここ。そうやって抽出されたるものを生活世界内に適応して、そして観察するならば、これまで見えなかった分からなかったことが分かるようになる。それら自体は元からあったのだけど、まるで隠れ潜んでいたかのようだとの感慨を持つ…。

そんで、その確認を、自分として、自分自身の為に、しっかりと行う。
これこそが真の焦点となる…。

                  ***

『ならばだっ!そこまで熱心に語る話者たるあなた自身は何を見つけたのだ?!』。(読者)


それは…『すべての運動たるものは生命活動の証しである』だ。動かざる石であってでさえも、ミクロの眼差しをもってすれば、それは生きているものだとされねばならない…。

また、それは『転写』だ!。ことはあくまでもそれを枠としての創出反応でしかないんだ。量子もつれにおける、アインシュタインが、かつて「不気味な

」と呼んだ反応に限りなく近いとの感慨を自分は持つ。ことは物理的な影響なんかではまったくないんだ。(だから根源は彼岸にあるとしかならない。)

また、これは自分においてだけの確信的な話になるのだが、上位における全開層からの影響が反映(転写)されてきているのが、この世における如実なる実態なのだと思える。そしてすべては如何に分節化されていようとも全一の様子、一体化の在らまし、一枚岩としての機能のそのままになのだ…。“

”なんかではない…。例えるならば、個人たる一人の人間は、人体を構成する細胞の一つであるとなる。あなたは自分の細胞のことを、これまで気にかけたことがあるだろうか?。それが為すべきこととは、なんであると、あなたは考えるだろうか?…。追加にもう一つ。その細胞の一つたるものが、あなたの意識の座に対して、なにかをとやかく言うことができるのだろうか?。待遇が悪いとか、もっと栄養をとれとかが言える?。ええ仕事しましたから待遇を良くしてくださいとかが言える立場、身分、分際なのだろうか?。

閑話休題。そして、本シリーズにおける、今回の最大の言説ともなろうとも思えるのだが、ある意味においては、神も悪魔もこのヒトの世の世界には存在しない。まったくもってしてない…。これが現実、実相なのだ。要は人間しかいない。これが実際のところなのだ…。

ヒトのする表現たるものは、現実にあるもの、あったことの描写でしかない。現実にすべて根拠を持つ。それらのすべて全部がだ!。それを、それらをー、喩えをもって再現してるでしかない。それがいかなるものであったとしてもだ…。*この辺に関してはゴジラとか怪獣そしてウルトラマンを思い出してほしい。今回ここで付け加えておくべきなのは、まったくの絵空事/空想であってでさえも、その表現が繰り返されるのならば、まるで祈りかマントラの如くして、幾人多数によってなされたのであれば、それは実体化を余儀なくされてくる、現実化を果たしてくる…といった面白い現象。「空に浮きながら咲く花」なんてのが良い例題かも知れない。*最終的にはそれの実現化にどれだけの情熱をかけかれたかに還元されるのだが…。Law of Casting。

ヒトの果たしたるの、表したるの考案は、創作は、その凡ては、人間自らが考え出したものでしかない。天使や悪魔は一切関係していない。その人間のみが生みだした考え創作アイデアにおけるその悪辣さは、悪魔であってでさえ、瞠目をもって驚嘆するしかなかったものだったのだった…。


だが、ややこしい話がここではある。


上位にて彼方にて在るそれの転写をヒトは受け取っているのだ。これを

姿

と表現するものもまたありだろう。また超越界より下位の物質界へと堕ちて、この地球の深部へと落とされるに至って、人類にとって身近となった存在たるものも確かに在る。その事態によっては一つの「あり得るべからざるトレンド」たるものが転写にも似た感じで、地上に生きるヒト、人類に影響を振るうようになってしまっている。*配置的には説明することは簡単ではない。またいつかまたどこかで…。*同居の原因は、似た者同士はより集まるの現象がため。

上位の転写たる「枠」(ブループリント)を然りとして受け入れて、これに沿って生きるが一つ。これは進化への道をゆくを意味し、高く険しい山の頂上を目指して歩む()くに等しい。

また偶然に影響力を振るうに至った「あり得るべからざるトレンド」からの遠隔作用によっては、ヒトは「自分の道は自分の選択によって決定する」といった思いを強く持つようになった。ここに、ことの進展においての、やや屈曲の、機縁が持ち込まれてしまったことになってしまっている。これまでのまま絶対の正解(自明)としての進化の道を、

、更に一切に

突き進む。これは良い消化が為された場合の展開だ。もしそうならば、そのことであってでさえ、大変に有意義な事件だったってことにもなる。

だが他方においては、苦や難儀を厭うて嫌うて、その道行きを、回避する迂回するの態度を、その選択を、ヒトが持つことをも可能にしてしまった。天界においての事件ってものが元々から、ヒトの生存状況において、影をおとしてるって言うこともできるんだろうね。あまり感心しないお手本ってのができちゃってた訳なのだから…。

ここで自分が力を込めて語りたいのは、それらは、言ってしまえば暗示みたいに不確かで仄かで幽かなものでしかないんだっよってこーとー!。ここ地球におけるヒトが生きる現実世界においては、それらはあるのかないのかさえ本当のところは誰も分からないみたいなもんでしかないんだよーってこーとー!。まるでお伽噺の登場人物であるかのよう…。ヒトが生きているこの現実においてはだ。両極ともに!。つまりは人間だけなんだ…。実際存在しているのは…。

確かに奇跡はありうる。そこら中に四六時中発生している。また彼も確かに地の底に幽閉されて現在もそこに居る。これも本当。だがーーー、それらは、このヒトの生きるこの領界においては在らず居らずにも等しい存在でしかないのだ!。そうとしかならないんだ!。結果としては、結論としては、ヒトの思いとしてはそうなってしまう…。

ヒトに直接には絶対に感知されない/しえない。それに、それらは、実際のところは、ヒトなどまったく気にしてなどいない。相手になどしていない。これが厳然たる真実現実。何故、祈りによって、我らは絶えず神に呼びかけなければならないのかだ?!。振り向いてもらうためにだ。気を

引く必要があるから…。

*ここは誤解を招くといけないので補足しておくと、神においては、その目に留まるまでの存在でなければ気が付かないってだけっていう単純な話し。地下世界たるを生活の場とし、地中を這ってすすむモグラのことを、人間たるあなたは気づくことができるであろうか?。気遣ったことがあるだろうか?。少なくとも地表に出てきて、気づいてもらえるまでの高みに近づくことをしてくれない限りは、あなただって、彼だってどうしようもないのだ。気づきようのしようがないではないか!。そして、そうすることを求めて、命への愛もて、そうすることを勧めるのだが、これはモグラには無理な話しでしかない…。太陽の下での、真実の世界においての、そこでの要請事項に耐えうるはずがないのだから。目が焼けちゃうからね〜。

そして例のトレンドとの関わりにおいては、それはただの契機として存在しているだけのものでしかないんだ。ふんわりふわふわ浮いてるだけ。空気みたいなもんさね。ただ身近に波動としてあるだけのもの。ことの選択、その内容は、すべて人間自身が、その頭で考えて、その中からでたものに過ぎない。それは誘引としての役割はあったかも知れない。でもそれの性質上、本人当人における自己決定たるのが基本、絶対条件になる。光の下では影は存在しえない。だが影はそこらじゅうに屹立

ある。

ことこれにおいてもヒトが自分で自分の意思で、勝手にやってるやったに過ぎない。だから悪魔なんてものは現実の真実の世界には存在しないんだ。虚構、嘘においてでしか成立しえない代物なんだから。真実たる現実の世界から逸脱することによってこそ、その存在は獲得されたんだから…。されてしまったんだから…。“一律”しか現実はない。二律目からはすべてデタラメ。

ことの全貌たるのは一律たるものを外れて、その域外へ踏み出した人間らがみんなやったことに過ぎない。結果、地獄たるものをこの世界に生み出してしまった。元々としては、そんなつもりはなかったんだろうけどね。そうならざるを得なかった…。主の思惑を外れたところでの自分勝手な営為なんだから…。

原因は、あくまでことに際しての忍耐力の不足。最後の

を怠るようになったから。現実に対しての、この短命でしかない人生に関しての理解の不足。「悔いなき人生を」のスローガンが見失われてしまったがために。醜くも惨たらしい死たるものが意識上から徹底的に隠蔽されて、他岸の火事ぐらいにしか日常において意識されなくなってしまったから。夢幻想が覆いとなってしまっていてこのことの自覚がまったくない。

ありふれて野放しとなってしまっているのが、わがまま、贅沢、ワレ良しの考え、良心の不在、
情のなきことこれ極まれりのご様子…。まるでストレスの生成装置の様ではないか。爆弾になる。一旦ことが起こればトラウマとなるしかなくなる。そんでそれは伝播となって増殖してゆく…。悪循環でしかない。その左回りとしての旋回が段々と勢いをましていってる。いや現在は未だ開始でしかないのかも知れない…。神たるものを意識して、それの導きに沿うのが脱出の道だ。これしか自分は言えない。だがそれは魂の救済の為のものであり、エゴとしての満ちたりの約束とは絶対にならない。また新たな、違った、未知なる苦しみが到来してくるまで。しかしそれには希望があるんだ。安心することができるー、苦しみではある…。

最後に、興味深いなと自分が思うことを言っておこう:
その選択における快感とはいったいなんなのだろうか?。快感を感じるからこそ、それの再現を再帰を求めてしまうわけなのだが。これの仕組みとは一体どうなっているのだろうかね?。

これは単にストレスの解消が実態としての根本なんだろうな〜とは思う。緊張の緩和と行き場のないエネルギーの開放放散を絶えず求めてる。だから口の端がいつも引きつったままで固まった笑みを浮かべている。嘲笑?。アニメでは定番の描写となってるね。虚栄心の塊たるキャラが絶えずいつも間違いなく登場する。確信犯としての傲慢さの表し。高いプライド。サイコパス。製作者側の青臭さの顕著なる現れとして見てとれる。とにかく笑いたくって、大爆笑したくてしたくてしょうがないんだ…。貯め過ぎも貯め過ぎなもんなんだから…。そんで苦しくって苦しくって…。虚勢。悪意。悪魔的なるヒト。
*サンプルは70年代のもの。

*現在のものはアクが抜けて洗練されたソフィストケイトされた表象となっている。

力の無駄づかい、不完全燃焼としての習慣がせいだ。すべてが誤用とばかりになってしまっているのだから。本来的に生得的に備わっている機能が、その目的沿っての活動をしてないことにやはり原因はある…。時代が悪すぎる…。これからますます悪くなってゆくよ…。

ことは快感を新たに改めて得ようとするならば、その内容はエスカレートするしかないだ。その帰来を要せざる得ない。地獄って〜のにも、また階層ってのがあって、より深くへと下りゆくに連れ、そこで〜、更なる未知としての新たな快感がー、より寿命の長くされたるものってのがー、伴ってくる。現れてくる…。

下向きの分裂としての退化/退廃の螺旋落下は、核分裂反応にもにて莫大なるエネルギーの開放を伴う。その状態にあることが何故か当人には快感として覚えられる?。一切の拘束/制約たるものを打ち捨てると同時に自分の魂においての責任も捨て去る?。死へと自分を投げ渡すにも等しい行為でしかない…。*テレビの中ではこのことが商売となっている…。希望たるものを打ち捨てて、投げ捨てて…。

それは…獣としての「性を/プログラム」をドライブとして、そこには本来的に途方も無い期間において磨かれ、鍛えられきた〈狡知〉たるものが備わっているのだが、これの活躍が、ヒトのマインドによって何倍にも増幅されて高度化して複雑化してしまっている…、この事態をメタファーとして表わすにおいて悪魔を使っているだけ。その事態の例えでしかないのだ。外面描写でしかない…。*自分の感慨としては、現在巷にては、魑魅魍魎、妖怪変化が溢れでて、闊歩横行しまくっているとの思いを持つ。*それらになることが

のやりがい、生き甲斐、金の種、社会的評価を得る術となってしまっている…。

そして、マインドにて、一心不乱に偏執的なまでにして編まれた構築された内容ヴィジョンたるものが、計画が、実際に行動へと移されてきてしまっているのだ。その浅ましくも悍ましい狡知の限りとしての内容がだ!。

その構想を具体的に見せる為せる果たせるの存在ともなれば、それはもう伝説の架空の悪魔よりもひどい存在であるってことになる。それはまさに悪魔…。これに等しき人間たちってのがいるわけさ。それも、た〜くさんた〜くさん、有象無象に!…。

売れたい。成功したい。有名になりたい。認められたい支配したい。
とにかく他者より優秀だと証ししたい。とにかく世間から立派だ強者だと思われたい…。

創作においてのダイブにては、特別なる興奮を想像を掻き立てるにおいて、
禁じられたをなにかを破る、タブーを犯すを梃子として用い、
密かに誰に知られることもなくその世界を味わいたいなどの思いにて…。

きれいになりたい。美しくなりたい。皆からチヤホヤされたい。注目されたい。
ずっと安心して満足して生涯生きていたい。幸せで、健康なままで、愛されて。
我が身我が立場の保身保全に極力全力を上げてで努めたいだ。

それの何処が間違っているっていうの?。他人に一切迷惑かけてないじゃない。すべて私の自由なのだから。こんどスプリットタンにするの…。*あれってトカゲ/爬虫類における連奏が基礎だ。その印象の加工なんだけど。ある種の精神状態ではひどく魅力的に思えてきてしまう。あおのニュアンスを自分自身に取り入れたいって衝動につながっていってしまう…。如実なるサインでしかない…。

また、それらは、同じく創発的なる様にて、群れたるもの、軍団たるものを形成する。

これがまさに社会なのだとはなりませんようにー。(強祈願)」



































〈あと二回続くけど、それらはすべて蛇足。〉




あとがき:

なんか詐欺みたいな展開になってもーたー!。
ゆっくり丁寧にやりたかったんだけどね。飛んでも〜た〜。
だって(仮想としての)読者からの“

”が突如入ったんだもんだから…。





つけたり:

以下は割愛した内容。断片。流れ的に邪魔だと思って省いたんだけど。
ヒントとして詳述として残しておきたいと思います。




出だしにおける共通内容は、抽出内容たるものは、敢えてで言葉にするならば、感慨としてでしか口にはできないのだが「相互連携/相互関係においてすべては成り立っている」。相互給餌って言葉が採用されるならそれは更に奥深い理解となろう。見かけで一番にとらわれてしまうであろう回転運動はそれの結果でしかないのだ。

例えば三の法則だ。あなたは現実の中に、自分の生活環境のの中に、その発現をその顕現をどれだけ具体的な例をもって見ることが出来るだろうか?。

Archetypeの形容詞形でアーキタイパル。この神話とか原型とかのイメージって何?。何故ヒトのこころに対して時を超えて有効なの?。働きかけるのか?。それは滅多にない奇跡と呼ぶしかない事件だったからだ。当然にそこには上位界がこの世界に介入したのは間違いのないこと。ヒトの集合意識の中には、これまで生きた人類の記憶の全部が記録されている。だから、ある意味みんな知ってはいるんだ。意識下ではね。でもねっ、その本当の意味ってのは未消化なままなんだ。だからそのことがなされる機会があったなら居ても立っても居られなくなる。でも大概は失望に終わる。マーケティング・ツールに成り下がってるもんだから。思わせぶりだけ。製作者側はパズルやってるだけ。金儲け売名だけでやってるんだったら罪深いことだよ。

今回の稿において強調しておかなくちゃならないのは、それはあくまで反映として創出されてきたのだ/くるのだということ。そこに転写された

のそのままに、その限定された領域の持つ制約に

沿

で、顕在化してくるんだというニュアンス。そこには下手な了見や思惑やら直接的なる強制力/影響力なんてものはないんだ。ただ「上の如くにして、我をもまた(身丈にあった上で)形作る」でしかない。まるで自動的にことは整っている/いったとしか思えないような感じで…。

そんで、それはまるで

して、運動たるものを備えている。

ヒトという存在においては、もしかしたらだが、すべての階層の構成を備えた宇宙の雛形たる存在なのかも知れない。原子の世界、そして細胞の世界、其れ等がまとまっての人体。これらってある意味かってにそれらは機能してくれてるじゃない。よっく道理たるものをそれらはわきまえている。これが生体としての舞台を形作り、ここに、より高次の存在体としてのあれやこれやが順次出現してくる。感情とか良心とか、精神とか意思とか、魂とか気付きの主体たるなんかとかが…。

基礎研究はそりゃ大切さ。でも応用に関しての具体的なビジョンがなかったなら不毛なる作業/結果に終わるってのは当然な話しさ。やりがいたるものがあってこそ、その情熱の持続ともなるであろうからに…。

AE.・ヴァン・ヴォークトによる「宇宙船ビーグル号の冒険」における“総合科学”(Nexialism)の理念からの薫陶を自分は受けている。これは1950年に出版されたSF小説だ。SFがゲテモノ扱いされた時代の産物。それは普遍的に有意義なる示唆だと思う。追記:でも睡眠学習は、ディアーナに置き換えなければならない。宇宙コンピューターとの接続によってことはなる。

要は、自分はここで、彼方の話は、現実の中へと折り返してこなきゃ~ただ空論に終わっちまうんだよーと言いたいだけ。当然に、その現実とは、ヒトの内界内面においての「思い世界」ってことにはなるんだけれどね。ここにおいて、善しを、満足を、幸せを、なによりも根本としての問題解決を、導き出せない、達成できない、具体化実体化できないものに存在価値や意義はない。*ここキリストの伝導者たるものが言ってるってのが皮肉だよね〜。w。

最初の文では、あそこんところはミミズだった。これでは卑下し過ぎということでモグラになった。

次に、重要な着目点として持たれるべきなのが、ヒトが生きて生活している環境や社会にて確認される事象における原理原則が、彼方においても同じく備わっているのではないか?との見地。
これもいろいろあるのだが、最重要として意識されるべきなのは、階級とか職位とか階層とか順位に基づいたハイアラーキーの概念だ。これに関しては、ヒトの社会における上下関係におけるあれやこれやを思ってもらえればいい。これに関しては生活世界に観測された事象を、それを両端上下の方向に当てはめて逆に考えてみるのが正解だったのだろう。*階級に関しては、自分はグルジェフからの情報提供から学んだのだけどね。*階層を形成するはやはり上位における階層構造の転写でしかない。そこに軋轢が備わるのも必然。苦しむっていう生体における味わいこそが必須となっているのだ。ある物質の生成の必要性から。だから下手な理屈は言わない。w。

また世界スケールの違いからくる制約も取り入れ、それを考慮に入れとくってのも必要性としてはあるわ。まあとにかく、世界は入子型の構造となっていて、お互いを、然るべくの関係性において保ち合っている。(これにはマトリョーシカ人形をイメージするのがいい。そのどれもが皆微笑んでいるのが理想かな。仏等はみんな微笑んでるね。)そんで近接する世界からの影響を受けている。その場合はダイレクトな影響とする。そして珠々つなぎ的に、上位各階層からの某らかの影響が伝播されてきているのも確かで、これらは間接的なる影響とする。*前々回の⓰ において舞台とかの構成を分けてはなしたけど、すべてはお互いの影響を受けているのが本当。明確な仕切りなどないにも等しい。個別にあんなのやこんなのになっちゃうけど…。

人類皆平等にして同権は本質の魂としては正解だが、外面たる人格を構成する社会コードにおいてはまったくの嘘っぱちになる。厳然たる現実においては、格差や階級差は、人の思惑を完全に超えたところで、そこに起因するなんらかの作用によって

構成される/されてしまう。それの展開/登場/創出は、この人間が生存する惑星地球における物理法則にも等しい何かの影響の結果なのだ。原生生物の群れにおける行動原理にもこのことは確認できる。自然と組織化がなされている。それを創発と呼ぶ。

極論を言えば、神は、関係していない。そして、ならば、また悪魔も関係していない。直接的にはね…。超常的にして超越的な、そのものずばりのものとしてはだ。ことは、それらのどちらかを体現したるのヒトがいるだけなのだ…。そこには意識的あるか無意識無自覚的であるかの違いは出てきてしまうだけ…。

宇宙の全体は、実は入子型の構造をした階層構造をとっている。そして各階層ごとにそこで働く力は世界は著しく違っている。ここでの最重要の特徴は起点に近づけば近づくほど純度は上がる、振動数はハイになる。そして末端へ行けば行くほどにー、粗雑なる物質性が増大するになる。鈍く機械的反射的なるがままとなる。川の源たる水源の水は清く、大海へと注ぐ間際の水は不純物まみれ。これと同じことを現実に見ることができる。起点はビッグバンを引き起こしたとされるなにか。また末端は今も継続して引き起こりつつあるそれの延展延長の結果。これも本質は起点たるのは神であり、その創造が現在も進行されてあるのだと理解するのが一番肝心なこと。極論としてにはなるのだけれど、善きものだけ見つめてりゃ〜いいんじゃないかな〜?。

ヒトはその可能性から全階層の物質性をその身に宿しているので、特異なる生存体ではあるのだが…。だから総体としての転写が適う。この結果としての枠に馴染むかどうか、行けせるかどうかはまた別の話し。

原子分子のより集まりで、組織化された内蔵組織があって、一個の独立した生命かのような感情、肉体、知性がいて〜、その総体としての顕現もあってー、冷徹なる眼差しの気付きとしての奇っ怪なる霊体もいてー、なんか形成しつつあるし〜、実態を見るならば如実に天空の星辰からの影響に影響されているしー…。

だから特異なる存在。全天まるごとを下手したら転写しうる。だから神の子なんかもね。

ここでの特徴は、上位からの力には逆らえないってこーとー。翻弄されるがまま。他方、下位の世界に対していは好き放題ができるってこ〜と〜。だからって地球に(自然の生態系に)好き放題していいってわけじゃない。下方に対してはまた、慈しみ憐憫そして愛としての思いを持つってのも転写されたるの思いとして持っているはずなんだけどねー…。」


いつか必要があれば、改稿の際に組み込みます。
かなり舌っ足らず。


ここ地上において為されたこともまた天上界にて反映する。これに関しては本稿では未消化。
「知らないし、分かるわけないし…」。(吉沢明歩調で)
でも期待されているってことは重要なことなんで心しておくべきです。

モグラがー、皆打ち揃ってで、力を合わせて、
頑張って土を耕して柔らかくしてくれたなら〜収穫が多くなる?。

違うか…。




蛇足:

すべてノンフィクションであることを、実は心がけているんだ。
これほんと。じゃないと表わす意味がないからね。やる意義もない。
でも、それも、所詮は嘘にしかなんだいんだ。だいたいがだ、いろいろと拙いから。
まあ〜嘘も方便ってことでいいのかな?って自分では納得してる。

いつもありがとうございます。

ご迷惑、ご不自由を、おかけしています。

たっぷりと…。


謝。








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