第38話 それは1972年のことだった…⑤
文字数 5,894文字
初稿!。読まないように…。永遠に!!!。
Re:ダベルナ!。
『神あれば悪魔あり』。これは
『善神と悪神における宇宙規模での闘争…』。
これはなにもユダヤ・キリスト教だけに限った話しじゃないさ。ゾロアスター教然り、マニ教然り…。極端に二元論。何でか幼い頃から身近にあって、馴染みの、溢れかえってた物語のフォーマット。それらの全てが、基本これだ。時代劇もかもね…。勧善懲悪の話しかなかった。東山の銀さん、水戸黄門、赤穂浪士、妖術武芸帳、赤影、そして怪傑ライオン丸。w。
『善と悪との戦い』
これってなんでなん?って、今の自分なんかは思うんよ。この日本においてでさえ、そうなっているのは何でなの?って。一つの仮説として考えられるのは、現代において黙示録的終末観がワールドワイドで浸透し共有されちまったからだ。時を追うごとに、世界丸ごとが、段々と狭くなってきてやがるってのが自分の感慨。同時に聖書にある預言として語られる物語(起承転結)のビジョンがやけに幅を利かせ、支配的になり始めている。そこに描かれた
『仏教において』
本当かどうかは分からないけれど、神様が仏陀に、その修めた悟りを広く衆上に教えておくれとお願いしたこともあってか、神に敵対する勢力って存在に関してはあまり話を聞いたこはない。むしろ、悟りに至るまでに実際的な障害となる煩悩の方に焦点は当てられっぱなし。余計なことには関心興味は持つなって。自分の切実なる課題とのみ格闘してなさいって。イデオン→エヴァの流れは、ヒトとしての〈業〉をテーマにしてるから日本的土壌であるからこその作品にははなるかもね…。
『ならば神道は』
どうなのかというと…自分はあんあまし詳しくない。w。だが何となく”穢れ”に関してが強調されているかのような…。それは言説としても天津罪と国津罪のふたつにハッキリ分けられている。国体スケールでの話と、個人のスーケール話で、罪としての有り様が異なるから表現を分けたまでの話だと思う。基本、日本風土においては”清浄”ってのが、生活環境の中で、また”純真純情無垢”ってのが他人に対しての価値として尊ばれているような…。清め、浄化、お祓いが必事とされるべくの世界観となっているような…。
でも高天原の神々と対立する悪しき存在については聞いたことがないな…。
要は日本は基本”一律”のみで足りてるんだ。島国で他国から隔絶された立地だからかなのかも
知れない。でも敗戦を機に、そういした閉鎖性としての枠は無効化/撤廃の憂き目に会うことになった。また別の世界観としての他国由来のフォーマットが急速に当たり前として浸透し
標準となっていってしまふ…。
Re:読んだらすぐに意識からは消し去り、肝において
『真善美』はまた別物だ。これらは物語を超えている。
まあ言葉において表記してしまった時点で効力は失われてしまってるんだけどね。
真なることはストンと肝に落ちて完全に領解される。
善なるは自然とこころに喜びをもたらす。
美なるはもうただただ圧巻。驚嘆としての刹那の到来。恵みでしかない。
こうれらは日常にふんだんに配置されていて、触れることは誰でもいくらでも可能なのだが、
物語をフォーマットとして世界を読み解くマインドとなってしまってからには、
認知することはもう簡単には叶わないんだ。
ダイレクトな覚知のみにて触れて知るしかないものなのだから。
『神』なる言葉も障害になる。
ただそこに…あちらこちに…至るところ、どこにでも…絶えずおらっしゃる。
「偏在したまふ」としかならない”絶対的価値”としかならないのだから…。
I am that I AM.
これが真実にして、過不足なくして完成された表現なのだろう…。
Re:そうさ…私にとっては「私の意識に顕れているこの世界」しか存在しない…。
ならばだ…全ては私の所為だ。原因の全ては「私の有り様」に帰せられる…。
そう、全ては
(だからだ社長たる父が私が入社したが為に他界させられたとの理解を持つのさ。)
ならばだ、今の私にとって、日本状況がこんなにも酷い有様として写り顕れてきている
のも当然に自分の所為だ…。子供たち妻が愚かなのも…。
自分としては「これは何とかせねばならない」と思ふ。
一つにはマハラジの教えのままに、この”自分”の撤廃だろね。
もうストーリーはいいですわっと…。
もう一つは「存在をもって祈る」だ。つまりは
追記:神に等しくなって自身の創造をもって世界をよき方向へと向かわせる。
針の先より小さいその一点が全体さえをも変える契機となり得る。
何故って全部が関連し合って全体は構成されているのだから…。
Re:バック トゥ デビルマン その2。
今回は序がしんどかったので手を抜きます。簡単にいきまーす。
先ずは、
そんで、裏切り者扱いされて悪魔たちから襲撃を受けるって展開。
おどろおどろしい演出がなされて、残虐非情凶暴なるの
殺意をもって襲ってくる…。
シレーヌは獣 の鷹 として表現される
猛禽類の意匠なので残虐さ獰猛さ素早さが強調されている。何故かしっくりくるねw。
アモンに対しての恋愛感情、思慕などこの時点においてあり得るはずがない。(女)
他人に対して基本、そんな思いなど一切持ったりなどしない。断言しとく。大人だから。
そんな甘っちょろい人間じみた感情など
あくまでデビルマンに対しては強敵(リスク)としての意識のみ。
ゼノンからの命令に際しては絶対服従の覚悟でもって臨む。
恐怖によって成り立つ組織体質なのだから。
飛鳥了は全体のシナリオライターなので、何か事が動いたならすぐ察知できる。
狂言回しが、その真実の役どころ。たぶん奈良の飛鳥が出だよ。w。
しばらくの間は、明のサポーターとしての役まわり。
でだ展開は皆様のご期待よろしく「ダイナミックかつバイオレンス!」。
残虐さ非情さに満ち溢れたアクションものとして描かれる。
これぞまさしく自然界における獣 の世界、日常ではありませんか?。
*ここでの衝撃はヒトの感性において、そのケダモノの世界がどう映るのか?
その確認になる。
*社会人生活において営業職ならば、何の良心の呵責も感じることもなく、
日常茶飯事で行っているのがこれじゃん…。営業だけに留まることはないか…。
*主動機は所属組織内における地位向上。そしてそこでの安定。金と誉。
*ヒトのみの質は、そこにいらぬ喜び、殺すことにおけるエキサイトが認められる。
残酷としてある行為に拡大された快感を覚えている。動物にはこんな色合いはない。
戦いにおいて、やがてに絶体絶命のピンチへとシレーヌは陥る。
同じ条件ならば、肉弾戦においてはやっぱ男性の方が有利なのかもしれない。
そこにシレーヌの助太刀となるべくしてカイムが現れる。
ざっと展開を見てしまおう…。
ここの部分だけ、あの作品中においては異質だ…。
どっかからか突如路線の切り替えが行われてしまってる…。
何が起こったのかを推察想像邪推妄想してみると…。
まず前提として、大人の世界は作者の眼差しからすると、デーモンの世界みたいなものなのだ。なかなかに激しく、バイタリティーに満ち溢れ〜して、されど、ともかくにも、浅ましい限りにして、欺瞞塗 れの、嘘つきばかりで、恥知らずばかりが、まこと、とにかく多かりき…。ことに刮目もって、認識の徹底を果たすべきなのは、暴力(軍事力)こそが世界を支配しているっていうこの現実だ!…。
あれらは、恐らくは、ご両親だ。
もしくは、熟年のどこかのご夫婦を投影したもの。
カイムの見てくれの厳つさ醜さ異常さは、年輪を経てきたこと、
この世の(戦後の)荒波で揉まれ、
そこで覇者として生きてきたことの証でしかない。
従来の、古き良き日本の伝統としての家父長制にあっては、その絶対倫理としては、
旦那さんは、いざとなったら自分の身を捨ててでも奥さん子供を救おうとするものなのだ。
これは時代背景、育った環境の所為なのか、絶対至上命題として固まっている。
デーモンに等しい存在となってしまったとしても、それはそうしてしまうものなのだ。
普段は憎み合う/いがみ合う関係がらであったとしても、心の奥底では愛し合ってる。
彼ら世代においては、一心同体は、未だ
その様子が実態が、子供心なれど強く印象が持たれていた、保たれていたんじゃないかな?。
そんで何故か知らんがどうしても展開において、それを
醜き存在なれど、何か崇高なるものを
急に覚 えて(だから聖霊からの関与も一応、あるにはあったのだ)、
どうしても顛末に持ち込みたくなった。
ここだけは、
〈続く〉
追記1:
あれらは、幼児期に特有の、偏見妄想でしかない。
そんな世界など実際には、どっこにも存在はしてない。
作者の頭の中んだけの話し。
恐怖をバネに、自らの幼いマインドを、その鋭い感性だけをもって暴走させ、
偏見妄想まみれの世界を無理からに構築してた。
尽 く救いのない展開としてだけでー、妄想想像しまくってた。
そんで過程においては、楽しくって楽しっくって、もうワクワクもワクワクで、
もう堪らんほどにエキサイトして、しょうがなかった。
そんでもって、そのトレンドを、その妄想としての
皆の意識にインパクトをもって公開しようとしてた。させられてた。
当人に、そんな自覚認識は全くなかっただろうけどねー。
背後の存在だけは、ことの他 、「(べ)リアル」…。
追記2:
いや…これもあちらにおいては想定内の配置だわ…。
然るべく予定されていた計画通りのエピソード挿入でしかない。
忘れてた…この後の、最終章に向けての助走のパートの内容についてを…。
次からはしばらくの間、小編が続く。
それも、メチャクチャ読後感の悪いやつが…。
それは端的には、「ススムちゃん大ショック」系とか「ジンメン」の話しだ。
この助走を経て、物語は最終章へと突入してゆく。
……
採用されている作戦はいたってシンプルなもの。
シレーヌとカイムは、デーモン族においては誇り高き
続く最終編へと至る、助走パートにおいて登場するのは、
低級も低級の、人格破綻者としてのクズのようなデーモン(大人)ばかりとなる。
ズバリ言っちゃうと、こっちのデーモンは市井の普通の人々らのことを暗示してる。
憎むべきの、唾棄すべきの、絶対に肯定の適わない相手、対象として。
その偏見のイメージを
分断の促進/効果を期待して。
その普通の一般人において、日本国民としての大多数が、(もうはっきりと言って、
その丸ごと、全体が)精神性のあり方においては、堕落/劣化/俗化/矮小化を
極めつつあると…。いつの間にやら急速に…悪化が進行していってるって…。
戦後の高度成長期においての、如実なる社会現象になるのだろうね。
この事態、現実のことを、読者の印象に、
おぞましさや恐怖もて、それらを梃子にして、植え付けようとしている。
これって洗脳だよ…。全部が全部って訳が、あるはずないじゃん!。
いつの時代にも、バカは大勢いるってだけの話しさ…。
「
ショックとしては効果的なのだ。ダメージーを与えるのには…。
先のシレーヌ/カイムの、やけに崇高なるビジョンとしての話を置いて、
次に小編としての人間のクズども/外道に堕ちたものたちの話しだ。
そして、最後には、圧倒的多数としての彼らが世界に解き
この展開をもって
もう絶対に収拾のつかない状況を用意してみせる。
当たり前の話しだが、対象は読者なのだ。
目的は読者の意識への
読者に、きたるべくの未来における展開としてのビジョンを
インパクトをもって植え付ける。
実際にそうなるように…。
こういった作戦、演出だった!。
*(何を言いたいのか分かってもらえるといいのだけど…。口がやけに重いんだ…。)
よくできていることを確認しておきたかったまで。
流石、抜け目はないわ…。
●●的なまでの狡知が創作においては働いている…。
確かにその表現については一抹の真実があると言えばある。
でも、これも針小棒大をもって、たぶらかしにきてるってのに過ぎない。
デフォルメ、事実の歪曲、嘘偽りのオンパレード。
まさにマンガ…。
そうだと思えば、そう見えてきてしまうものだ。
そして、その数が増えてくると、嘘も現実へと変わっていってしまう。
トレンドが社会全体に起こってきてしまう…。根付いていってしまう…。
さて、48年を経ての、その結果は?効果たるは?…。』
蛇足:
*ネットやメディアで散々語られている話も全部も全部、みんな嘘だからね!。
*一切気に留めてはいけない。あなた自身が良きものの萌芽たればもう十分なのです。
*『光の前では闇は成り立たず』
しっかり心に刻んで、憶えておいて下さい。
それは、いつ、いかなる時代においても、そういったことは起こっていたのだ。
親殺し、子殺し、稚児殺し、縁者殺しの話は…。
今日日は「一あれば、さも千あるかのように」して触れ廻ることが、
吹聴して回ることが、誰にでも可能となってしまってる。
最大限利用してきてる。
ようつべチャンネルにはバカで薄っぺらな人々が山ほどいる。
デーモンに取り憑かれて、喜んで、その片棒担がされている。
もうキ○○イが氾濫しまくっている。
そういったご様子だ…。
謝
Re:ダベルナ!。
『神あれば悪魔あり』。これは
お約束事
だ。片方だけって訳にはいかないのさ。これがヘブライらが保持する宗教観なのだから。「いる」以上は、それらを対象として意識せずにはおれなくなる。現実の日常の、あれやこれやと関連付けてしまうこととなる。ああだろうこうだろうと思い考えを及ばせる。想像を膨らませる。そんで理屈を捏ねくり回してしまう。その世界観としての枠/構造/文法に沿った形で、支配された形で…。これはことの「背景」の話である!。『善神と悪神における宇宙規模での闘争…』。
これはなにもユダヤ・キリスト教だけに限った話しじゃないさ。ゾロアスター教然り、マニ教然り…。極端に二元論。何でか幼い頃から身近にあって、馴染みの、溢れかえってた物語のフォーマット。それらの全てが、基本これだ。時代劇もかもね…。勧善懲悪の話しかなかった。東山の銀さん、水戸黄門、赤穂浪士、妖術武芸帳、赤影、そして怪傑ライオン丸。w。
『善と悪との戦い』
これってなんでなん?って、今の自分なんかは思うんよ。この日本においてでさえ、そうなっているのは何でなの?って。一つの仮説として考えられるのは、現代において黙示録的終末観がワールドワイドで浸透し共有されちまったからだ。時を追うごとに、世界丸ごとが、段々と狭くなってきてやがるってのが自分の感慨。同時に聖書にある預言として語られる物語(起承転結)のビジョンがやけに幅を利かせ、支配的になり始めている。そこに描かれた
巨大な物語
そのものが、世界規模で現実を動かし始めてしまってる。それは尚も現時点でも、展開は世界規模にて進行している…。『仏教において』
本当かどうかは分からないけれど、神様が仏陀に、その修めた悟りを広く衆上に教えておくれとお願いしたこともあってか、神に敵対する勢力って存在に関してはあまり話を聞いたこはない。むしろ、悟りに至るまでに実際的な障害となる煩悩の方に焦点は当てられっぱなし。余計なことには関心興味は持つなって。自分の切実なる課題とのみ格闘してなさいって。イデオン→エヴァの流れは、ヒトとしての〈業〉をテーマにしてるから日本的土壌であるからこその作品にははなるかもね…。
『ならば神道は』
どうなのかというと…自分はあんあまし詳しくない。w。だが何となく”穢れ”に関してが強調されているかのような…。それは言説としても天津罪と国津罪のふたつにハッキリ分けられている。国体スケールでの話と、個人のスーケール話で、罪としての有り様が異なるから表現を分けたまでの話だと思う。基本、日本風土においては”清浄”ってのが、生活環境の中で、また”純真純情無垢”ってのが他人に対しての価値として尊ばれているような…。清め、浄化、お祓いが必事とされるべくの世界観となっているような…。
でも高天原の神々と対立する悪しき存在については聞いたことがないな…。
要は日本は基本”一律”のみで足りてるんだ。島国で他国から隔絶された立地だからかなのかも
知れない。でも敗戦を機に、そういした閉鎖性としての枠は無効化/撤廃の憂き目に会うことになった。また別の世界観としての他国由来のフォーマットが急速に当たり前として浸透し
標準となっていってしまふ…。
Re:読んだらすぐに意識からは消し去り、肝において
のみ
しかと留めおくべきこと。『真善美』はまた別物だ。これらは物語を超えている。
まあ言葉において表記してしまった時点で効力は失われてしまってるんだけどね。
真なることはストンと肝に落ちて完全に領解される。
善なるは自然とこころに喜びをもたらす。
美なるはもうただただ圧巻。驚嘆としての刹那の到来。恵みでしかない。
こうれらは日常にふんだんに配置されていて、触れることは誰でもいくらでも可能なのだが、
物語をフォーマットとして世界を読み解くマインドとなってしまってからには、
認知することはもう簡単には叶わないんだ。
ダイレクトな覚知のみにて触れて知るしかないものなのだから。
『神』なる言葉も障害になる。
ただそこに…あちらこちに…至るところ、どこにでも…絶えずおらっしゃる。
「偏在したまふ」としかならない”絶対的価値”としかならないのだから…。
I am that I AM.
これが真実にして、過不足なくして完成された表現なのだろう…。
Re:そうさ…私にとっては「私の意識に顕れているこの世界」しか存在しない…。
ならばだ…全ては私の所為だ。原因の全ては「私の有り様」に帰せられる…。
そう、全ては
私にとってのストーリー
の体裁をとってくる。(だからだ社長たる父が私が入社したが為に他界させられたとの理解を持つのさ。)
ならばだ、今の私にとって、日本状況がこんなにも酷い有様として写り顕れてきている
のも当然に自分の所為だ…。子供たち妻が愚かなのも…。
自分としては「これは何とかせねばならない」と思ふ。
一つにはマハラジの教えのままに、この”自分”の撤廃だろね。
もうストーリーはいいですわっと…。
もう一つは「存在をもって祈る」だ。つまりは
神頼み
!。追記:神に等しくなって自身の創造をもって世界をよき方向へと向かわせる。
針の先より小さいその一点が全体さえをも変える契機となり得る。
何故って全部が関連し合って全体は構成されているのだから…。
Re:バック トゥ デビルマン その2。
今回は序がしんどかったので手を抜きます。簡単にいきまーす。
先ずは、
チートで
明は悪魔人間になりましたーだ。w。そんで、裏切り者扱いされて悪魔たちから襲撃を受けるって展開。
おどろおどろしい演出がなされて、残虐非情凶暴なるの
衣装を着た
ものたちが殺意をもって襲ってくる…。
シレーヌは
成熟した大人の女
でしかない。猛禽類の意匠なので残虐さ獰猛さ素早さが強調されている。何故かしっくりくるねw。
アモンに対しての恋愛感情、思慕などこの時点においてあり得るはずがない。(女)
他人に対して基本、そんな思いなど一切持ったりなどしない。断言しとく。大人だから。
そんな甘っちょろい人間じみた感情など
もう
疾うに持ち合わせちゃあいないのさ。あくまでデビルマンに対しては強敵(リスク)としての意識のみ。
ゼノンからの命令に際しては絶対服従の覚悟でもって臨む。
恐怖によって成り立つ組織体質なのだから。
飛鳥了は全体のシナリオライターなので、何か事が動いたならすぐ察知できる。
狂言回しが、その真実の役どころ。たぶん奈良の飛鳥が出だよ。w。
しばらくの間は、明のサポーターとしての役まわり。
でだ展開は皆様のご期待よろしく「ダイナミックかつバイオレンス!」。
残虐さ非情さに満ち溢れたアクションものとして描かれる。
これぞまさしく自然界における
*ここでの衝撃はヒトの感性において、そのケダモノの世界がどう映るのか?
その確認になる。
*社会人生活において営業職ならば、何の良心の呵責も感じることもなく、
日常茶飯事で行っているのがこれじゃん…。営業だけに留まることはないか…。
*主動機は所属組織内における地位向上。そしてそこでの安定。金と誉。
*ヒトのみの質は、そこにいらぬ喜び、殺すことにおけるエキサイトが認められる。
残酷としてある行為に拡大された快感を覚えている。動物にはこんな色合いはない。
戦いにおいて、やがてに絶体絶命のピンチへとシレーヌは陥る。
同じ条件ならば、肉弾戦においてはやっぱ男性の方が有利なのかもしれない。
そこにシレーヌの助太刀となるべくしてカイムが現れる。
ざっと展開を見てしまおう…。
ここの部分だけ、あの作品中においては異質だ…。
どっかからか突如路線の切り替えが行われてしまってる…。
何が起こったのかを推察想像邪推妄想してみると…。
まず前提として、大人の世界は作者の眼差しからすると、デーモンの世界みたいなものなのだ。なかなかに激しく、バイタリティーに満ち溢れ〜して、されど、ともかくにも、浅ましい限りにして、
あれらは、恐らくは、ご両親だ。
もしくは、熟年のどこかのご夫婦を投影したもの。
カイムの見てくれの厳つさ醜さ異常さは、年輪を経てきたこと、
この世の(戦後の)荒波で揉まれ、
そこで覇者として生きてきたことの証でしかない。
従来の、古き良き日本の伝統としての家父長制にあっては、その絶対倫理としては、
旦那さんは、いざとなったら自分の身を捨ててでも奥さん子供を救おうとするものなのだ。
これは時代背景、育った環境の所為なのか、絶対至上命題として固まっている。
デーモンに等しい存在となってしまったとしても、それはそうしてしまうものなのだ。
普段は憎み合う/いがみ合う関係がらであったとしても、心の奥底では愛し合ってる。
彼ら世代においては、一心同体は、未だ
定め
として機能してくれてたもの。その様子が実態が、子供心なれど強く印象が持たれていた、保たれていたんじゃないかな?。
そんで何故か知らんがどうしても展開において、それを
謳いたく
なってしまった?。醜き存在なれど、何か崇高なるものを
も
、確かに宿してはいると、急に
どうしても顛末に持ち込みたくなった。
ここだけは、
唯一
、共感できる部分になる。〈続く〉
追記1:
あれらは、幼児期に特有の、偏見妄想でしかない。
そんな世界など実際には、どっこにも存在はしてない。
作者の頭の中んだけの話し。
恐怖をバネに、自らの幼いマインドを、その鋭い感性だけをもって暴走させ、
偏見妄想まみれの世界を無理からに構築してた。
そんで過程においては、楽しくって楽しっくって、もうワクワクもワクワクで、
もう堪らんほどにエキサイトして、しょうがなかった。
そんでもって、そのトレンドを、その妄想としての
物語を
、ビジョンを、皆の意識にインパクトをもって公開しようとしてた。させられてた。
当人に、そんな自覚認識は全くなかっただろうけどねー。
背後の存在だけは、ことの
追記2:
いや…これもあちらにおいては想定内の配置だわ…。
然るべく予定されていた計画通りのエピソード挿入でしかない。
忘れてた…この後の、最終章に向けての助走のパートの内容についてを…。
次からはしばらくの間、小編が続く。
それも、メチャクチャ読後感の悪いやつが…。
それは端的には、「ススムちゃん大ショック」系とか「ジンメン」の話しだ。
この助走を経て、物語は最終章へと突入してゆく。
……
採用されている作戦はいたってシンプルなもの。
振幅の大きさをもって
「効果を最大限に活かす
」だ。シレーヌとカイムは、デーモン族においては誇り高き
上級クラスの戦士
になる。続く最終編へと至る、助走パートにおいて登場するのは、
低級も低級の、人格破綻者としてのクズのようなデーモン(大人)ばかりとなる。
ズバリ言っちゃうと、こっちのデーモンは市井の普通の人々らのことを暗示してる。
憎むべきの、唾棄すべきの、絶対に肯定の適わない相手、対象として。
その偏見のイメージを
暗に
読者に植え付けようとしている。分断の促進/効果を期待して。
その普通の一般人において、日本国民としての大多数が、(もうはっきりと言って、
その丸ごと、全体が)精神性のあり方においては、堕落/劣化/俗化/矮小化を
極めつつあると…。いつの間にやら急速に…悪化が進行していってるって…。
戦後の高度成長期においての、如実なる社会現象になるのだろうね。
この事態、現実のことを、読者の印象に、
おぞましさや恐怖もて、それらを梃子にして、植え付けようとしている。
これって洗脳だよ…。全部が全部って訳が、あるはずないじゃん!。
いつの時代にも、バカは大勢いるってだけの話しさ…。
「
高みから低きへと
振幅を最大限に活かして落とす
」が、ショックとしては効果的なのだ。ダメージーを与えるのには…。
先のシレーヌ/カイムの、やけに崇高なるビジョンとしての話を置いて、
次に小編としての人間のクズども/外道に堕ちたものたちの話しだ。
そして、最後には、圧倒的多数としての彼らが世界に解き
放たれた
と持ってくる。この展開をもって
底を
抜いてしまう。もう絶対に収拾のつかない状況を用意してみせる。
当たり前の話しだが、対象は読者なのだ。
目的は読者の意識への
とある物語
の展開、その刻印になる。読者に、きたるべくの未来における展開としてのビジョンを
インパクトをもって植え付ける。
実際にそうなるように…。
こういった作戦、演出だった!。
*(何を言いたいのか分かってもらえるといいのだけど…。口がやけに重いんだ…。)
よくできていることを確認しておきたかったまで。
流石、抜け目はないわ…。
●●的なまでの狡知が創作においては働いている…。
確かにその表現については一抹の真実があると言えばある。
でも、これも針小棒大をもって、たぶらかしにきてるってのに過ぎない。
デフォルメ、事実の歪曲、嘘偽りのオンパレード。
まさにマンガ…。
そうだと思えば、そう見えてきてしまうものだ。
そして、その数が増えてくると、嘘も現実へと変わっていってしまう。
トレンドが社会全体に起こってきてしまう…。根付いていってしまう…。
さて、48年を経ての、その結果は?効果たるは?…。』
蛇足:
*ネットやメディアで散々語られている話も全部も全部、みんな嘘だからね!。
*一切気に留めてはいけない。あなた自身が良きものの萌芽たればもう十分なのです。
*『光の前では闇は成り立たず』
この単純な真実だけ
をしっかり心に刻んで、憶えておいて下さい。
それは、いつ、いかなる時代においても、そういったことは起こっていたのだ。
親殺し、子殺し、稚児殺し、縁者殺しの話は…。
今日日は「一あれば、さも千あるかのように」して触れ廻ることが、
吹聴して回ることが、誰にでも可能となってしまってる。
彼奴ら
は、ネットをメディアを、洗脳を行うための装置として、最大限利用してきてる。
ようつべチャンネルにはバカで薄っぺらな人々が山ほどいる。
デーモンに取り憑かれて、喜んで、その片棒担がされている。
もうキ○○イが氾濫しまくっている。
そういったご様子だ…。
謝