第45話  それは1972年のことだった…⓰

文字数 15,487文字

    注意!!! 今回の内容はいつものに輪をかけてー、全文大嘘だかんねー!。

               それに初稿でもあるからねー。





って言葉がある。今日日ではもう当たり前の一般用語となってる。少し学術性としての雅さを添えて加えてで、心的外傷だとかPTSDなんて気取った名称が使われたりもする…。

 ・さて、これっていったい本当のところは何?。

 ・何がどうなって、傷みたいなものとして残ってしまうの?。そして何処に?

 ・はたしてこれは、“傷”と、たとえられて然るべきなものなのか?。

 ・そしてこれは一旦発生/誕生したのならば…何故に、どうして:

  内面においては、リフレイン、フラッシュバックたるものにつながり、これが引き起こる
  こととなってしまうのか?。それは、実際のところは「反芻」と呼ぶにも等しい行為で
  しかないのだが、そのときの反復が内面では「もう延々と」「機械的に」「無意識的に」
  執り行われてしまうようになってしまう…。

  また外に向けてとなるならばトラウマへと至った筋道そのものを、その構成を、その仕組
  自体を、表現によって、新たなる意匠を付けて/かぶせて/舞台を改めてをもってしての、
  再現/再構築たるものが行われている。何故に表現者当人たちはこんなことをするのか?
  しているのか?。そこには明らかに、異常なまでの

への執着が認められる。

  その努力の結実としての作品、そこには確かに

かのような得体のしれない

  情熱が感じられる…。

 ・最後に、これは本質的にはどう扱えばいいのか?正解なのか?健全なのか?。
  それの妥当なる対処とは?


こいつは皆が通常思っているようなお気楽なもんなんかじゃないんだ。このことの問題は絶対に野放にしていいようなもんかではない!。対処を間違えば、後に恐ろしい程の質の悪い影響を、自分のみならず、あたりかまわず撒き散らすことになるんだから…。あのペインボディ(ヒトを傷つけるものの正体)なるもの

、遡ればこのトラウマに起源をもつものであると個人的には確信している…。

抜けるといけないので一件、先に、警鐘を鳴らしておこう。(誰かの)トラウマは、他者においてもインパクトを持つ。気を惹くに大いに足りてしまう。商業的な利用価値と大いになり得てしまう。そして、これは本格的な総合的な、抜本的な解消を、経ぬままのものであるならば、伝染していってしまうばかりとなる。やがてには、最悪のケースにおいては「実際の行為にての検証をっ」との衝動につながらないとは誰が言えようか?。そう、引き金となってしまっていたのは誰かのトラウマが原因だったのだ…。

更にもう一件。再現反復によっての直視が治療になるなどという医者がいる。こいつはバカだ。そんなことをすれば、反復によっての強化が益々なされるばかりだ。しかもそいつは意識化に潜り込んだままになっているのだ。←構成要素の殆どがもう忘却の淵の中にあり、断片としてでしかもう思いだすことはできない。概要ばかりをもってしの反復を行うならば、もう手の施しようがなくなるばかり…。基本、悟り(自己放下)死をもってでしか策はない…。
リセット。

ところでトラウマは Trauma でギリシャ語における“傷”とのことらしい。仏の心理学者ピエール・ジャネが1887年に使用したのがことの始まり。でだ自分的にはこれは、コンピューター用語における〈BUG〉(虫)を使うべきではないのか!っと思っている。「不具合」「欠陥」の意味で使われているものだ。また本来のスラング的な意味での「悩ましく災いするするもの/なにかこちらをいらいらさせるべくつきまとうもの」としても完全に正解になっている。 じゃー「何がどう不具合になっているのか?」そして「何が欠けているのか?」っていう話になる。

欠けたが為に、結果、不具合となって残ってしまってるのが、

このトラウマ!。

        So it is just a bug. But sometimes, by occasionally,
        it could be a huge one, rather tremendously fuckin' big one !

  なにやら、もう既に、結論については言ってしまったも同然なので、
  後はいつもの如く、大迂回をもっての、だらだらくっちゃべりを経て、その果にで、
  上記においての詳述たるもの(?)をやらせてもらいます…。

  皆様におかれましては各自に各様でご考察を済ませておいていただけると、
  いいかな〜と思います。結局はあれよ、分かろうと/解こうとしてんのよ。でも…。

  トラウマたるものを身近に、もしくは自身にて検討するに足りる材料が思いつかない
  方の為に、ならこれ思い出してみてよのイメージを二点ご用意させていただきました。







     *休憩タイム:「プリズム」(アニメ「電脳コイル」OP)
        https://www.youtube.com/watch?v=XHJChfTyB1s&                  list=PL5Cxh_B2zvOdUJTVipGWA1aSCxYABCHv3&index=100 
               作詞・作曲・歌 : 池田綾子
         日本国における本物の歌姫。もしかしたら最後の?…。至宝。


Re: 再開。

先ずは、自分の思う

(トラウマ)の理解を述べてみよう。とある特別なる機会にて、与えられて

情報(つまりは印象)の消化がままならくなっちゃって、プロセスが中途で、不完全なまま、留まってしまっている状態。その体験そのものは、別に当事者たるのが自分でなくちゃならないってこともない。感情移入がなされてあるならば、外部の誰それであったって一向に構わない。でもそれが外部の他者である場合には「自己に、自分の

、置き換えられてしまってる」が前提。この処理が

起こってなければならない。*漫画の登場人物への

なんかをイメージしてね。なので、もう一本化して「自分こそが被害者で、かつその事によるトラウマの保持者だ」の場合だけでいこう!。とりあえず…。話がもうめんどくさいことなるから。長くなるから…。w。

トラウマなるものが起こる原因は、なにかの際に受け取られた印象が、未消化のままに、とりのこされたことによる。*(当人においては普通なにか強烈なショックを覚えた

の自覚しか持たないのだが…。)実際をもう少し深く精査すると…。情報として摂取されたものは引き続いてマインド内にて意味としての再構成が処理としてなされる。この完結の結果が了解とか理解やら分かったになる。ところがだこのプロセスの完結たるる了承だとか納得だとかが不可能である事態も稀にあるではないか。そして未消化/未完結のままに放置されてしまうこととなる。棚上げされてしまう運びとなる。次に(こな)すべくの材料がもう既に意識上の舞台にはどんどんと上がってくるのだからしょうがない。でも、その未完結のプロセスたるやは、どこかに残っている…。それで、もやもやしたとか、後味の悪いだとか、妙に心に引っかかるだとか、何故か忘れられない捨てきれない…などの思いを心に残すことちなる…。

実際はもっと強烈にして残酷な展開になる。未消化/未完結の事態はそのことのキーとなっていた恐怖の感情を内部に残す。それは抜本的なる解消を目的として記憶の再現を延々と、機械的にしてしまうものだ。でもね、そのストーリーをしこたまの完全なる感情移入をもって、観客席から見てたものを、何度繰記憶を頼りに返して確認したって、本当の解決にはならないんだ…。また理屈を持もって「あれは作り話だから」とか「現実には存在しないもんなんだから」なんて自分を説得しようたってしょうがないんだ。本来なされるべきなのは、観客席からではなく、裏方にまわって、ことの全体を全景を、総合的に見ること。もっと広い広い視野に立ってで行わないと、このことはまったくの不可能なんだ…。よってそのこころは浮かばれない…。


          これら一連の作業をするべく瞑想たるものはある。
          別に座らなあかんちゅうもんでもないからねっ。
          馬上/枕上/厠上にてが最もその効能が優れて出るー!(w)。
          出典:水樹 和佳子作『 樹 魔 』より*大きく改造せり

補記:
これの実際を明かしておこう。

。全体を構成している要所要所、部分断片こそが重要になる。鑑賞者としてのこころ、自分のこころの琴線に触れるものに特に着目。ここになんかある。敢えてで、特別に縒りをかけてで持ち込まれている。しまっている。このあとになされるのは、

。これをやると一発で本来的に表現者がもっている解決されるべき問題ってのが判るんだ。下の傷痍軍人さんの話なんかでは「戦争は残酷だ」が、その展開の最終帰着点になる。動物の喰らい合う姿よりも、遥かにおぞましい営為を、ナンセンスを、人類は生み出して行ってきている。何故だ?があって、そんでまた別の物語でしょう…、そんでせめて自分だけはそんな行為に巻き込まれたくないの思いがあって、そんで其のための方法論としては?があって、またまた別の物語が…。わたしは天村崇だ。宇宙は突如現れた。これらが既に最初から物語。

日常的には情報の処理が主体的に行われるのは、マインドが然るべく用意した舞台においてだ。受け取られた情報は、既に日常の生活において蓄積されてきて

記録との照合を経た上で、かなりの部分まで自動的に整理は果たされている。これは最後の仕上げとしての私本人が調理しやすいようにとの気遣い配慮のためにだ。それが舞台になる。その意識のフィールドにおいて、知性やら感情やら肉体が、ことに関しての吟味を行う。太古から面々と受け継がれてきた生存情報たる本能とか、平素あまり顔を出さない性的な値踏み、その品定めをおこなう領域がやけに活発に積極的に関与してくる場合も多々多々ある。要は、アレヤコレヤが適宜、最適に、臨機応変で関与を果たして総合的なる評価/解釈を自分として果している。フー…。長文苦手。



これがマインドによって構築された我々が認識しているところの外界の様子。なんのことはない。私達がいつも生きているこの世界の様子のままではないか!。そうなのよ〜。でもね…この二人は対象の認識を識別をもって行っているの。つまりは知性がとか、感情においてはとか、本能領域においては〜とか。悪いたとえだけれど操縦席コックピットに座っている…。

*女性はね〜かなりいにしえより受け継がれてきた情報に支配されてしまっているので海に半身浸かってんの…。そんで、いっつも海の向こうから船に乗って、いい人(自分のわがままを許す叶えてくれる褒めてくれる)が現れてくるのを心待ちにしてる。もうそばにいるのに…。片や男はねっ、実は何も考えていないんだ…。だからこそ召し仕えられることになって、そんで厄介な仕事がー…。www。

ところで上の二枚は、かなり稀なる健全な発達を遂げた人たちを前提としたもんなんだ。そのイメージを念頭にして写真は用意した。でもさ実際の、多くの人たちにとっての世界は、次の様なイメージであるのが現実なんじゃないだろうか?…。



この写真に込めた意味はあまりいいものではない…。視野狭窄、頭が固い。人工物としての人格(エゴ)だけが幅を利かしている。保持されてある記憶のリフレイン(再利用)で世界観は構成されている。もうあまり真の意味においての人間ではない。結果、この手は落とし穴に落ちやすいんだ。非常に洗脳されやすい。人格障害を日常的に発症してる。その意識には小狂気が混入してるが本人にその自覚はない。ことごとく間違った解釈(マインドにおけるエラー)が常態になっている。あの女医さんなんかを思い出してもらえればいいかな…。そして…トラウマに支配されやすい。小人閑居にして不善を為す!。ずばりHasnamuss(ハスナム)らにおいての世界観。それの

…。*本人においての実際は世界そのものの見栄えは、普通に今日も天晴快晴この上ない!。皆と同じくクリアーなもんさ。あれはあくまでこちららが色眼鏡で見た場合の、外から見た様子さね…。


閑話休題。本筋に戻ろう!。ことの問題ってやつを二つばかり挙げておく。実際に取り上げるのはその片方のみにはなってしまうのだが…。先ずはその舞台そのもの。これが上の写真で表したるものになるんだ。日常において、自分の意識がA'[真実の世界]として認識しているのが、A”〈内的に再現されたる世界〉。そこには偏向/変質があるんだ。A'は自分の外に確かにあるんだけれどそのものズバリとしてはとらえれない。これは不可能。そこで視覚情報等を頼りに、自分の意識上に外界として認識すべくの何かが再現されてくる。これを世界として見ている。これがA”。ことここにおける問題は感受性におけるその感度にある。A' から受け取ることのできる、受け取るべき情報が、嫌に乏しくなってしまっている。これはなんらかの生活感の欠乏として覚えられているはずだ。要は「つまらないー」だ。この原因は、かっての人生経験、そこで蓄積されてきたの記憶が、今の認識において、再利用されてしまっているからだ(処理の合理性/効率のためにだろね)。見飽きたもの食べ飽きたものにはもううんざりしてしまう。少なくとも以前のように新鮮なる驚きをもって受け止めるなんてことはもうありゃしない。これと同じ原理。そんで、その

仮想世界に没入するってな行為にでるわけよ。テレビドラマ、映画、漫画、アニメ、スマホ(おしゃべり)、小説(物語)、音楽、絵画鑑賞、etc, これらはみんな仮想現実にて充足を求めたい人々に向けてのものだ。これらの創作において、新鮮さ、新規性、奇抜性、刺激性たるものを息継ぎしたいんだ。後タイプによっては、いろいろと、ぐちゃぐちゃと考える、想像する。つまりは観念を弄ぶことで、自前で欠損を埋めようとする人たちってのもいる…。自家発電型。思索家だね。オナニストかね?。まあろくなもん生みださないだろうけれどね…。*ここでは基本、いい悪いは言ってない。そんなことは言わない。自分の首を絞めることにしかならないからw。それらにはそれらなりの価値は確かにある。でもね…バランスがいると思うんだ。その調整こそが肝心だと。∞自然と‖人工との間においてね…。大宇宙と少世界の関係においては。そこには間違いなく開かれたる相互関係がなくっちゃならない。間違っても

ってなことになってはいけない。それはとにかくも不味(まず)すぎる。そこは間違いなく

世界…まさしく【(おり)】だ。

追記:
人格を構成する社会コードのすべてが実は人工物/人造物なんだ(国やら名前が良い例)。ところで現在進行中の仮想現実なるものに関してここで改めて警鐘をならしておきたい。あれらに生きた中身などはまったくない。ありえない!。最初っから自己完結しているから。如何にどう魅せようとも閉鎖系としかならない。完全に宇宙全体からは断絶した世界となる。ヒトの身勝手なエゴの願望を仮想世界にて充足させて叶えてあげましょうの誘いのものでしかない。この需要の元、これから益々発展進歩していくこととなるのであろう。これは【檻】たるものを、ますます強固なるものに進化/深化させることになる。もう戻ることなど絶対に叶わない程のものをまでも、やがてには創り出すことになる。夢見をよりいっそう深く深くするもの。そうとでしかありえない代物…。



両者を最善にて統合することがおできるのは神お一人だーーーけ!。大きな視点から調整たるものが為されないといけないのだから…。このことは、いつどうしてどこに雨が降っているかを観察することで足りる。きっと驚くことになるよ…。この作業は個人単独だけでは絶対に果たすことはできない。ほんとにそれは微妙なる火加減がいるものなのだ…。彼の叡智なくして美味しいお米は炊けない。だから自然の中、全体との糧たる物質の相互贈与の関係において、開かれたる世界を、真に生きるべき場所として、生活圏として尊ばなければならない…。

ヒトは先ずはねっ彼を「教え導き力を与える方」と、その意義を自覚しなくちゃならない。これの確信にたどり着くことがまずは先決だ!。もし幸いにもそうなるいことができたなら、彼の教えには絶対なる忠誠心をもって従わなくちゃならない。じゃないと絶対に間違った選択をすることになる…。

ところで脱線になるんだけれど、彼はさ〜奥ゆかしいかたでさ〜お隠れモードが常態でいらっしゃるんだ。隠密行動が基本なのさ。それも怖ろしくも長い長い期間でだ!。だからほんとうに居るんだか居ないんだかやがてには分かんなくなってきちゃうって寸法さねー。でもねっ心底からお尋ねすれば、いつもでも「善けれ」「悪しけり」はちゃんと教えてくださりはするんだ。たとえどんなに些細なことでのお尋ねであったって!。*(それの結果は後で感謝するに落ち着くのが殆ど。)他方、自分で考えて決めなくちゃいけない場合、もしくは現状のその迷い苦悩の中に留まれがお意向の場合は、ただ「

」と答えられるだけ…。何が善しなんすかっ?!とお尋ねしても「もう黙れ!」の雰囲気しか後にはない…。聖霊が代行者として機能してくださっているのかも知れない…。もしくはこの話者が大得意な、単なる一人遊び?…。とにもかくにも良好なる信頼関係が絶対の前提、そして基本よ〜。その加護の庇護の元に、いろんな選択やら吟味は果たされるべきなんだ…。そのことに伴うことになる当然たる価値観に基礎をおいてないと絶対におかしなことになるーーー…。

未開の自然の中に暮らしている人々と、現代に生きるわれわれ日本人とでは、ものを見たときに、対象に与える意味は大きく違っているだろう。基本、彼らの世界観は単純で素朴。大地の土や、空飛ぶ鳥に、犬や猫に注意はいくことだろう。ビルなんかに関心は持たない。たぶん彼らは、映画を観たって楽しむことはまったくできないと思う…。*言葉足らずですがこの問題に関してはこの辺にしておきます。

真に語るべくの、もう一つの、その問題とは?…。先ず意識が活躍するべくの舞台は、自動的に絶えず更新されてをもって用意されている。これまでの、その生き方における習慣や個人としての傾向性に沿った形で。*(見たいものしか見ない関心を寄せないが、見たいもの関心のあるものにしか舞台には登場してないってな事態を形成してしまう。)←汝ら偽善者たちよ。(ルカ)

まあとにかく意識がものごとを認識するべくの舞台は、いつも、絶えず、生きている限りは、自動的に用意されているわけだ。この舞台たるヒトの心(マインド)において、新たに受けとられた印象は吟味される。まあこれは一種の理解に向けてのプロセスとして、処理工程があるってことだけを言いたいんだけどね。例えば今あなたが読んでるこの文章なんかを例にとろう。なんらかの関心を不覚にも寄せてしまい、現在関わりができちゃってるー。なっちゃってるーw。であるならば、もうここでなされるべきの唯一の方策は対処は、適正にして厳正なる評価吟味しかない。そんでもしものもしも、知るべきの/もらうべき情報が、真実これにあるのであれば、それはちゃんと受けとっておきましょうとなる。掠め取っておきましょうかな〜?!。w。

このプロセスにおいては「

かつ

に処理はなされる」が課題とされる。否、絶対にそうであるべきなのだ!。本質的には、これも人それぞれにアプローチの仕方が違う。てんでバラバラ。このことはまた、別のまた違った新たなる問題を引き起こすのだが、それは同時に真に総合的な、多角的なものの見方を学習する上ので絶好の機会の提供ともなってくれている。でも脱線になるのでこのお話しはここまで。

一般的には社会人の多くは、能動的に文章を読むことはあまりない。平素は機械的に自動的に読み進むのが常だ。ビジネス関係ではこれが当たり前。そこに描かれるパターンは狭く、具体的な内容しか、それしか文面には求められていない。だから簡潔に「5W4H」が徹底されていれさえいすればもう十分なのだ。まあだからこそ流し読みで十分足りる。速読であったしてもそこにある意味はまあまあ拾えるわけさ。*これの熟達を習慣化を経られた方々には、まず私めの文章を読んで理解することは叶わないだろうね。もう絶対にできない。そう!あってくれないと逆に当方が困ることとになるんだ…。w。

またこの[

]の出来不出来ってのが、そこには残念ながら最初からあるんだ…。こっちに関しては何も持ち込まなきゃ〜、下手な構造物さえこしらえなければよかったのにーってな話だんだがそれはさておいて、これやると明日寝込むことになる、やはりことの主戦場たるるるるー、新たに意識に写りだされた、その舞台に登場した生活世界の様子を、こころが受け取った印象を、そこにある情報を、評価する吟味するってプロセスにおいてに、話をすすめよう。実は「アプローチそもののあり方」に問題がある。要は何に着目するのか?。しているのか?。何を拾ってきているか?。これらに焦点があてられた形で世界は再現されている。ここに個人の関心がその個人的な嗜好がその本来の興味が関係しているのは間違いのないこと…。何が言いたいかというと、再現情報自体が最初から偏狭に狭めららたものになっている。余計なフィルター掛けがなされてしまったものなのだから…。

そんで次のプロセスに進んでの解釈ってものも、先の流し読みやら速読の話とにたようなもんなんだが、独善的なパターン解析で行われてしまってる。その特徴となるのは、まあ言っちゃ〜なんだが、あくまで楽観的にして希望的観測に過ぎないになる。勝手な思い込みの、その投影のまんま。もしくは子供じみた願望に沿っての紋切り型でしかない解釈。あくまでも独善的に知って馴染んで保有する幾多の物語パターンを都合よく当てはめてのものなのだ。そんな風に果たされてしまってるんだ。ここでの注目すべきことには感情の関与がある。好き嫌いが大きく舵をとっている。それがいらぬ色を展開のおいて添えてしまっている。これが展開そのものの方向性を決める原動力となっている。そんで、その挙げ句にだ、なんらかの結論が内面にてなされ、実際の行動としての選択/決断たるものが行われる…。これをヒトは自分は理性的な判断をもって行動したと宣うのだ。思い込んでいるのだ。

*ここでの例題は株式投資で信用取引して大損している方々が、先ず自分の頭の中にはある。何故彼らは失敗しているのか?。もしくはこないだのエヴァの映画見て感動している方々を思い浮かべてもらうのがいいな…。来年の今頃は、みんあもう完全にあれについては忘れ果ててるよ。なんの余韻も残さずに…。そんで、その時を見計らって、「空白のあの十四年間」を描いた新作の制作発表がなされる。するとまた巷では関心が異常な盛り上がりを見せ始める。円盤がまた売れだす。だって欠落してて、なんか未だもって、もの足りないんだも〜んって。w。そんでそこから十年待たされるの…。

閑話休題。改めて、ことにまつわる情報をどう消化しているのか?。してしまっているのか?。これはみな個々人においてその様式、そのパフォーマンスの質は違う。結論めいた話を先にしてしまうなら、「自己の内にて、関与させるべきは関与させる」の能動的な使役の労が厭われることなく果たされることこそが肝心なのだ。

例えば、あなたは原付きで鄙びた町の繁華街を走っている。そこはやたらめったら老人の多い場所。信号のある

使

好き放題に道路を横切る方々が絶えない箇所。案の定、今、目の前をヨボヨボのご夫婦が二人揃って、固まって渡ってるではないか!。そろ〜りそろ〜り、不規則なぎこちない歩調で!。もう危ない危ない。まるでなんかの冗談のようだ…。あなたは先ずは事故となることに怖気を振るう。そして急いで、ブレーキをきしませながら速度を落とす。気を張って慎重に進みゆく。なんとか無事に避けて通り過ぎることができた。このときには、あなたは既にかなり頭にきてる。現場を過ぎてからハッキリと毒づく。「あんなのは早よ死んだらええのに!」と…。他のパターンってのもまたある。こっちは前半は同じだが最後だけがちょっと違う。訂正としての一文が急遽差し込まれてくる。「あのお二人が、この後もご無事で過ごされますように!」が!。

*ニュアンス的な変化について語っておく。否定怒りの感情が先ずは最初に顔をだす。これを封じて押し退けて、最後の一文を気持ちを込めて言えるよう思えるよう努力する。ここが難所だ。それに機会はほんの一瞬でしかない。先ずは頭の中で急ぎ切り替えて思えばいい。するとだ、それを本懐とすることのできる、また違った自分が顔を出してくるといった変化が起きる。この事態にはきっと驚く。穏やかな温かみ、老いたるヒトへの思いやりある、本質としての自分のこころが確認できる。これはかなりテクニカル。だが簡単な話でしかない!。そんで…「修練の機会を与えてくださってありがとうございました」も、だいぶ後になってから、思うこともできるようになる。…w。

少し無理してでも、こう思うよう願えるよう努力する。←まあこれは不自然極まりない態度になるな。この御仁においては、平素あまり世間では見ない特殊な価値観が内面の力関係においては働いている。介入してる。←この御仁てのは当に自分のことなんだけど、彼としては「この世界では真実存在しているのは自分しかいない」が認識の基底で、そんで全体のゲームマスターは神その方であると

されてある。彼の日常はゲーム進行を果たすべくの、その目的で便宜上登場してくる他者との関わり交わりにおいて、

、「いまこのとき、主のお求めはいったい何であるか?」を考慮して(それを瞬時に察して)、尚且それを、正に“真実の自分の思い”として嫌でも為すのが、この

ミッションだとしているのだ。なんて風に、何故かは知らないが思い込んで生きている。←変な物語世界、世界観にどハマリしているただの変人、奇矯なる御仁。*彼が何故に冗談笑いに固執して偏執しまくっているのか、せざる得ないのかの理由も、ここに察することもできるってもんだーーー!。軋轢葛藤の坩堝と化してずっと生きてきていはるんだから…。www。

自分の意識、その舞台上にて現れた対象素材を調理することにおいて、ことを自動性、習慣性にに委ねるのではなく、関わるものらすべてを動員しての総合的な理解を目指す。これは理想にして目標。そうできるようなるためには日常においての修練たるものが大切になってくる。それが自己観察であったり内観ってものになる。それは例えて言うなら、子供んときは、あんまり現実ってのは分かってないじゃん。それが大人になるに従ってルールやら仕来りやら仕組みやらが分かってくる。そしてそれに則っての行動がとられる。大人と子供における違いは、その決定的なる違いを簡単に言えば、外界に関しての情報の整理と蓄積、その質量差にある。「あれ何やってんの?」←「子供は知らなくていいから…」。でっあるならば、これと同じことが自身の内面においても言えるのではないだろうか?。

それに関しても長く生きてくれば、自然と分かてっくるってもんだって言うんだろね。自分が思う確信に従うならば、それは無理。できてもあくまで表層まで。内部が如何に複雑にして絶え間ない変動を交えつつ、構成されていってるのか…それじゃ〜分かるはずがない。それは自分の内部に向けて徹底的に冷徹なる眼差しを向けることに他ならず。この行為の真の主体となるべき“もの”が意識自体の中に先ず存在してない…。ところでみなさんは禅における十牛図はご存知か?。あれは人生修行そのもの、その健全なる展開を図に表したものなので、是非にどこかで消化いただけたらいいな。あれが概要としての指針になる。

閑話休題。自分の中には認める認めないに関わらず、沢山の自分を主張するものが群れとして存在している。人間の意識っては実に精妙なるにして複雑なる構成体だからね。これも人体の構造を参考にすればいい。ほんとーによく出来てる。両者ともに人間が作ったデザインしたものではない。だから当人としては手探りで一個一個確認して行くしかない。このことを誰かにやってもらったりすることはできない。聞き齧りで間に合わせることも余り意味がない。ちょっとづつ知見を貯めていって理解をしていくことにしか道はない。

自分も一つの指針たるものを残しておこう。
意外と簡単に判別することのできる領域は、感情が色を差すフィールド、知性が働いている状態、怠惰安寧たるをあくまで嗜好する肉体。*タマスの本拠地だ。また時に、活発に運動することを嗜好する肉体。欲情が発生して全領域がそれに沿おうとしている状態。理解不可能なる突如あらわれたる思い認識。*これは本能からのものだと思う。見切ったと思われたる他人に対しての飽くことのない愛情の表現。ある種のものに対しては絶対的なる拒絶をもって閉められる心のシャッター。

ここにはいろんな要素が関連しあっていることを読み取って貰えればいい。そこにある優勢劣勢は、なんに起因するものであるのかはヒトそれぞれ。これも知る必要がある。その為には、自分の中の衝動に逆らってみることも必要になる。ではそれを行うのは誰なのか?。またことは成功するのか?。失敗したならそれは何故だったのか?。

自分は、Gが使うところのセンターという概念は今ではあまり感心しない。それはフィールドとしてとらまえられるべきものなのだと思う。このフィールドがあって、主体たるいろんなものをその上に結像させているのではないか?。このフィールドが幾つもあって、お互いに複雑に交差しあっている。そんで互いの色を刺し合っている。こういう風な総括となっている。それは刹那の交感になる。

また動物も、また同じく、知性、感情、運動中枢、生存プログラムの全保管庫たる本能を備えている。最初から彼らにとっての完璧なものを。あらゆる生存の為の選択に合致したものが選べるよう幅広く取り揃えられている。それを実際に使う使わないは関係ない。あらゆる情報が完璧に最初から入ってる。人間はこの動物の体の中に住まわされている。だからその影響を受ける。それと同時に、それらの持つ機能の延長線上にマインドの機能を働かせることができる。対外的にこれが果たすのが人格なのだ。外界の認識においてで獲得されるもの。これもヒトのタイプによって、人それぞれに戦略的なる体制を獲得する。猫的であったり、犬的であったり、いろいろ…。

本質的に動物にはある種の限界がある。これを自己を知ることがないとしてしまおう。真の自己とはその体に住まわされて在るもの。これもまた知性やら感情やら運動中枢やらを支配してコントロールするこが可能なのだ。するとだ、二極において自己たるものは二重で存在していることとなる。片側は群として、もう残り片方は一者として。それも救出されることなくしては登場しえないもの。これにフィールドたるものは必要ない…。

ここでトラウマの話に戻ろう…。これも言ってはなんだが、自然が用意した機会なのだ。人生において用意される障害はトラブルはみんな機会としてのプレゼント。本人に解かれることを期待しての…。抜本的にして総体的なる解決が課題。このことを為すことにおいてでしか解消は難しい。だがそのことによってこそ、お前は真の自分自身を改めてみいだすことになるであろう…。










そこにあること、起こっていることを、もう完璧に、無理からでも拒絶せざるえなかった。
そんで、一切のそこで必要とされる情報処理の

から、つまりは全体的消化のプロセス
から、強引に単独で、脱兎のごとく、離脱してしまった。この展開を表わす意味として
上図はある。それは正解であったとも言える。でもいつかは解決しなければならない。
これこそが本当の「逃げちゃだめだ!逃げちゃだめだ!」なのだ…。

追記:
なんとなく本人も分かっているのだが自覚が足りない。それで間違ったことばかりしてしまう。結局、表現において意匠を変えてをもって再現を繰り返すばかりなのだ。それは更なるトラウマの強化にしかならない。かって可愛そうで可愛そうで堪らなかった相手がいた。でも絶対的なるノーの思いを自分は抱いた。その対象たるものを再現をもって叩き潰すことによって笑いを創作したコメディアンがいたね。幼稚であるが為に、間違った代償行為となっていた(子馬)。大人になった今ならば、ことの背景その原因もよく判るであろうに…。かって目に止めたその対象を再現において救うことこそがトラウマの解消の術なのだ。かって自分を投影してしまったからこそ、堪らなくなって傷ついたのだから。ならば今一度改めての対象の創造をもって、これに自己を投影するをもって、これが創作、そんでもって、その相手を救ってあげる、もしくは供養してあげるーのーーー。エ○ァにおいては、あれは戦争で手足を失ってしまった傷痍軍人さんか、工場で機械に巻き込まれて手か足を切断してしまった方の投影だろうね。不意に見てしまんだ。街で偶然…。そんでびっくりしてしまったんだ。とにかく怖かったんだ…。

自分はねただ心配してあげてるだけなんだ。彼らのことを…。あまりに繊細であったばかりに、感受性が豊かであったばかりに、優しすぎたが為に、想像力があり過ぎたばかりに、いたく傷ついてしまってた…。また現実における生活感の欠如、充実感のやせ細りが、悪しき罠へと彼らをを追い込んでしまっていたのだ。注意をしておかなければならない。画面を賑わしている注目するに値すると皆が報じているもの、それらは悪意のもと仕掛けられた罠だ!。

されど問題は解決せぬままに放置されたならば二次被害を引き起こす。それに其のトラウマそのものが伝播されていってしまうこととなる。これは災厄でしかなくなる。まるで

そのものと、同じではないか!。←(これ次回のテーマ。)

最後に、怖ろしくも悍ましい事態について。それはキャッチーなのだ。ヒトの関心をもうどう
しようもなく呼んでしまう。惹いてしまう。こういったことに着目する人たちってのもいるわけさ。自分の作品を表現を売りたいが為に、自身の仕事を成功させようとせんが為に、金と名誉の為に!、これを敢えて積極的に利用する。自身の解決の済まない問題を広く視聴者に共有させようとしてしまう。そりゃ〜それは意匠を変えてだ。核心たるものをもっともっと際どく激しく大きく増幅して…。

このことの背景には悪しき存在が関与しているってのが自分の見解。

巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの…。


〈続く〉



「ぼくの苦しみを皆もっと分かってよー」が実は隠されてある願望・動機。

 迷惑!それはあなたの弱さ!。解消してからそのプロセスこそを表現しろよ!!!。

 それこそが出来た暁には、あなたは○○たらん…。




追記:

本来的には、芸術文芸語り、表現のすべてはこれであるべきなんだ。

なにか大切なものを自分は得た。もしくは心のなかに、頭の中にとらまえている。

これは皆に伝えなきゃならないものなんだ。何故って回答になるのだから!。

その核心たるものはしっかり自分の中にある。

あとは如何に、どうやって、他人が分かるよう表現すればいいのかだ!?。

これだけであってほしい…。



おまけ:

フィールド間の相互のやりとりを表現にしてみたのがあそこ。
8.無底の底より一部抜粋して再掲させてもらう。




冷徹なるエノクの眼差しが捉えたのは、泡同士で起こる同期化を意味するであろう光芒であった。離れてある、アレとコレが同時に「ぼわん」っと瞬いたかと思うと、その光輪が緩やかに
周囲へと延々と広がってゆく。これに触れて「ワサワサ」と多くの他の泡が追随して反応を
起こしている…。その界隈ではノイズ音が一層高まっていた。ホワイト・ノイズは、その処理におけるプロセスの進行を表しているのやも知れない。轟音は、あらゆる領域から響き渡って涌き出で、決して尽きることはなかったのだから…余りにも遠く離れたもにおいても同期が起こっている。何らかの処理を行なっていることが分かる。その組み合わせに法則性は一切ない。まったくのデタラメとしか言えないものだった。だが、共同で何らかの作業が行われたであろうことに確信があった…。










     ここでのロボットは、日常における私達の有り様のことを表しているまで。
     よって、この漫画は本当のことを、真実を、描いている。



量子力場の概念の登場が決定的だ。センター概念より、こっちの方を採用するのが妥当だと思う。肉体があってこそ魂はその上で自己を初めて結ぶことができる。それ専用のフィールドがあってこそ、感情もそこに発現することができる…。


自分においては、もっとも厄介だったのがこれ…。望めば簡単にその記憶は意識に呼び起こすことができる。どれだけフラッシュバックで悩まされたことか…。





さて進撃の巨人も、これの再現、生きている死人(機械人間たち)の、そのおぞましき生態の投影であった訳だけど、問題における解消解決救済の道は、提示されていただろうか?。答えは「ノーだ。」ならば、ことは、またもや再帰となる。改めて、よりおぞましい表現となって。また再び誰かの手によって現れてくることとなる。場合によってはリアルなるものとして…。

これがトラウマたるものの恐ろしさなのだ。
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