第48話  インターミッション1

文字数 12,753文字

今回の内容においては、現在我々が生きてあるこの時代としてのものはいったいどういったものなのかについて。これもいろんなアプローチや総括があり得るのだが、これもまた一つのモデル、物語なのだと、それにしか過ぎないものとしてお読みいただければと思います。草々



      カリ・ユガ(男性の悪魔カリの時代の意味、悪徳の時代ともなる)は、

     ヒンドスタン哲学において

と考えられている

ユガのうちの、

            

になる。(Wikiより)



        約四百万年    三百万年   二百万年   四十三万年間


      

、ちょっと最初に、確認をもってしての整理をしておこう…。

今の現在を標準に見てみる。ハッキリとしての節目はBC3100だ。ここが現在のカリユガとしてのその時代の始まり。2023年が今だから、その始まりからは、5,123年間が、既に経過してあるってことになる。全体としてのその期間からこれを引くと〜、約426,000年間ってのが残ってると。つまりは全体の約「1%」をまだ過ごしたに過ぎないんだと…。

   始まりとしてのそのBC3000年代ってのがどんな時代であったのかを見ておこう。

   完新世の気候最温暖期が終わりを迎え、以降気温低下が始まる。
   シュメール文明の勃興。メソポタミアのウル、黄金期を迎える (紀元前25世紀頃)
   インダス文明の形成(紀元前2600年頃)
   中国、黄河流域で龍山文化、その後二里頭文化、長江流域で石家河文化が栄える。
   日本、縄文時代中期〜後期。集落が大型化し三内丸山遺跡のような巨大集落が現れた。
   植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。(Wikiより)

つまりは有史とされてあるその時代区分の最初に当たってる。このことには何やら妙に説得力を覚える部分も確かにある…。自分としてはその辺ぐらいに、古き竜が、幽閉状態から開放されたそのタイミングと見ているからだ。(

が興味深い。)

追記:

が、この頃で、場所はバビロン近辺。そしてゆっくりと然るべくしての展開において侵略が進行が全世界に広がっていったのだ。大国をもってしのてワールドワイドとしてのムーブメントとなったのが、あの植民地政策をもってしの大航海時代のことになる。日本へのその影響力の派生浸透開始の時期が安土桃山時代。そんで、

の準備の完了をもって、御大

、勿体つけての派手派手しきなるをもって…されど”きっちり”とした名乗りを上げたのが1972年の週刊マガジン紙上でのことになる…。フ〜…。

全体のその時間スケールも確認しとこう。その有史としてのBC3000に

、延べ九百万年間ってのがあったって〜ことになる…。そして当然の前提の話として、人類はその折にも既に生存しており、文明としてのものを、築いてあったのだ〜と…言っているわけなのだが!。

………なんでそんなめまいする程までのスケールにおいての大昔のことが分かるん?………

  そこにこそ〜ヴェーダたるものの摩訶不思議なる起源、伝説たるものが、あっる〜。

先にもう端折って結論から云うと〜どうもどうやら「霊知」によってのおいての認識らしい。またそれのみならず、占星術においてのそのガイダンスに従って。当地にては、まっこと古き時代よりそれが重宝がられてきた。ことはどうやらシナリオ通りに、進んでってるとも言えるみたい…。そのシナリオのことを別途云い方を換えてアーカーシャ記録と呼ぶ。アカシック・レコードなんて突飛な名を付けたドイツ人の方もいましたね〜…。

そういった特殊な能力が、太古においては人間には、それなりの訓練を経た人たちにおいては、持たれてあったのだ。そういった人の実例ともなれば、あのマハラジが最適なものとなるだろう。その彼らによって知り得た内容が口伝においてで…それもてで伝わるようになる。
伝承の口伝をもってしてのスタートであってさへ、それは恐っそろしく古い。
遥か有史以前のことだとされている………。

少し、注を入れる:

文字に起こして伝承を行うようになったのはつい最近のこと。これには訳がある…。人の精神、こころとしての何かが脆弱になってきてしまったいたからなのだ。そのことの結果として記憶力が極端に乏しく弱くなってきてしまった。それで、危機感を覚えて編纂としての作業が必要になってしまったのだ。本来ならば、それは相応しくしての人々においての記憶をもって、口伝にて皆に教える伝えるべきものだったのだった。その人が備え持つ存在感としての波動が、放射が、それこそが理解に向けての橋渡し、触媒であり、また説得力を如実に備え持っていた。

如何に大変に重要なる案件だったことか…。それが出来る、そうしたことが本当に適う人々が、ある頃を境に、徐々に失われてしまう。そのような変化となっていってしまってたのであった…。

そんで、こととしての、おいての内容は、書物としては残ってはいる。でも実際は、現実は、
そこに書かれていることのその意味は〜、なんのこっちゃかよく分からない、てのが実情。

注釈ってのも、奇特な方々によって残されてはいるのだが〜、あの伝言ゲームの要領と同じで、翻訳者らがまったくもって薄弱なる精神理性の権化、それしか持ち合わせておらず、あくまでも事務的な仕事として翻訳したものに過ぎないので、結果はワケワカメ…。読んでも害にしかならないっと。

ことは聖書が経てきたその変遷によく似てる。読んでもそこに書かれている内容が分からん人が、それらを日本語に翻訳してる。更には、

値段をもって訳書は値付けされてしまってる〜。

*この辺は、ユガの変遷、その進展において、どういったことが起こってきたからなのかを
 理解する上での参考としていただきたい。社会における権威者たるものが、如何に選定
 されるものなのか?と、彼らが真実に事を行うにおいて妥当適切そして可能なのか?だ。


☆ここに最初の頃の健全なる人々がどんな存在であったのかについての内容が入る。
 でもそこそこのボリュームともなるので今は割愛。

☆以下の内容は『マハーバーラタ』からの抜粋になる。
 それが成立したのは紀元前4世紀~紀元後4世紀ごろのことらしい。

☆400+2023で、今からなら2,423 年前に、

内容ってことになる。

☆その頃においての予言だってことを踏まえた上で、内容を、ご確認下さい




サティヤ(クリタ)・ユガにおいては:

ダルマ)は

で地上を歩き、その時代の人々は、それらを心に抱いて生きていた。真実、慈悲、苦行、万物の保護、この四つが、ダルマの四本の足を表している。その時代の人々は、自らに

て、憐れみ深く、全ての他の生き物に対して友好的であり、

を持ち、何事においても

。そしてよく

ことに、喜びを見い出し、全てを平等に眺めつつ、自己実現へと向けて、

ものだった……。


トレーター・ユガに入ると:

ダルマが持つ四本の足は、アダルマ(不正義)の四本の足である、偽りと暴力、不満、不和により、それぞれ四分の一が浸食されていった。だが、その時代の人々は、ヴェーダの祭式と苦行を、まだ熱心に行い続けてはいる。そして、まだそれほど暴力と不道徳には陥らず、人生の最初の三つの目的(ダルマ、アルタ、カーマ)を追求していっている。人々はヴェーダの知識を学び、その理解を深めて、社会の中では、ああ、王よ、ブラーフマナ(Braahmana)が大半を占めている。(人々の多くが、ブラーフマナのように、

生きていた)。
*ブラーフマナ:ブラフマンに連結されてある人間。(これがアートマンでもあるはず。)


ドヴァーパラ・ユガになると:

慈悲と苦行、真実、奉仕というダルマの四本の足は、アダルマが持つ、暴力、不満、偽り、
憎しみによって攻撃を受け、それぞれ半分まで減衰していってしまった。
この時代の人々は、名誉栄光を、

て、壮大な祭祀を行い、
ヴェーダの学修に喜びを見出し、非常に繁栄して、また幸福で、大きな家族を養っていた。
そして社会の中においては、ブラーフマナとクシャトリヤが大半を占める。
*クシャトリア:
 実質上の支配者階級に属する人々。
 ちゃんと教育を受けており、社会的責任を負う指導的な立場にあることを、
 その時代において、その社会によって、承認されてある人々と、捉えるべきか…。
*ただの頭でっかちで、虚栄心満載の、尊大であるだけの存在でなけりゃいいんだが……。
*ことは生活に密着してある宗教の制度化、組織化ってこと。
*いや、この変化をもって宗教って訳のわからん制度ってのが誕生してしまったのだ。
*本来は、そんな仰々しい型苦しいものなんかではないんだ。
           

としてのものであるはずなんだ……。



ところがカリ・ユガに入ると!:

ダルマが持つその四本の足は、それぞれもう四分の一しか



アダルマの足が大地にその根をおろすやいなや、
 それらは徐々に衰えしまって、ついには完全に消滅してしまったのだ。

その時代の人々は、欲深くて、不道徳な行いに耽り、無慈悲で、原因なく争い、
 不幸に満ちていて、非常に貪欲となるでしょう。

そして、教育なくしての品性卑しきあさましき人々が、
 世の人々の上に立ってしまっていることだろう。


サットヴァラジャス、そしてタマスは:

人の中において見られるものです……。

*遍くすべての人間において外において、また中において、それらの特質としての働きが
 間違いなく、完璧に、確認しうる。ただし、……バランスとしての偏り不足/過剰
 調和性

ってのが各人それぞれにおいて違ってあるのだ。
*簡単には、バランス感覚それの価値の理解承認。激質としてのものとして語られてある
 エネルギー運動展開活発化。最後のタマスであれば、それは沈静化としての停止。
*三の法則としてGにおいてはとらえられている。すべては神聖なる力としてとらえるべき
 もので、問題は、これらとしての力、質に、無自覚なれば、悪しきとしての害ある働きへ
 とも簡単に変わっていってしまうってことなのだ。
*バランスとしてのものが活きるのはどうな状況なのか?。そこには先行しての活動が確実に
 あるはず。ものごとが流動的、不安定であるときのみ、自身がその状況の当事者であるとき
 にのみ、バランスとしての中心は、意識しうる。平衡状態となるその条件を知れる悟れる。
*またことの結果の吟味検証の為のプロセス、停止、緊張の解除、エネルギー補給
 回復の為の休憩、微睡み、眠りたるものも、確かに、確実に必要なるものになる。
*お互いが、お互いを、必要としており、またすべてのことは連結されてある。
 連結されていてこその、人の活動、生存なのだ。
*TPOを適切にてわきまえない、PDCA(思考錯誤)を知らぬ/行わぬ/果たさぬままなれば、
 どれもこれも、ことは単なる宝の持ち腐れ。いや、そのことにおいての、よっての問題が
 起こってきてしまう。間違った活用/利用にて、つまりは悪癖たるものに基づいて招かざる
 悪影響を、どれもこれもが、果たすことと、相成ってしまうのだ……しまってる〜…。

そしてそれらは、時の力によって、心の中で増大し、また減衰していくものなのです。
人々の理性と心、感官がサットヴァに満たされて、彼らが苦行の実践や智慧の獲得に関心を
 いだく時は、この世はクリタ・ユガにあると知るべきなのです。

そして人々が、宗教的功徳(ダルマ)、この世の財産(アルタ)、楽しみ(カーマ)、
 それらを愛する時には、ああ、知性あふれる者よ、それはラジャスが活動的な、
  トレーター・ユガだと知るべきでしょう。

しかし人々の間に、貪欲と不満、自負、偽善、妬みが広がり、欲望を持って祭祀を行うなら、
 それはラジャスとタマスに支配される、ドヴァーパラだと知るがよいでしょう。
 
さらに不誠実と虚偽、倦怠、惰眠、暴力、落胆、嘆き、迷い、恐れ、惨めさ、
 これらが広がっている時には、それはタマスが特徴的な、
  カリ・ユガと呼ばれるべくしての時節になる。

人々はカリの影響を強く受けることによって、愚鈍で、不運、貪欲となり、
 享楽に耽って、貧困に苦しみ、女性は不品行で、淫らとなっていく。

国中に盗賊と悪漢がはびこり、ヴェーダは異端者によって非難されて、
 王達は国民を食い物とし、ブラーフマナを始めとする再生族は、
  性欲と食欲の奴隷となってしまってる。

聖なる学徒(ブラフマチャーリー)は、定められた規範を守らず、
 純潔の誓いも破ってしまってる。

そして家長たるものが(他人に布施をせず)物乞いを行い、
 隠棲者が村落で暮らして、遊行僧(サンニヤーシー)は貪欲に金銭を求めるのです。

女性は発育が悪くても食欲は旺盛で、多くの子供を出産し、
 

無くしていくでしょう。

*「かわいい」としてのこの一語、その免罪符をもって、いまや誰もがかもが性的魅力を
 核心としての発信、振りまきを、その拡散を行っている。スマホベースで、SNS等でね。
 相手選ばずとしての”イザナイ”をするのが最早彼女たちのトレンドになっちゃてるね…。
 この辺において、多くの子供が生まれてきてしまうって、読んじゃったんだろさ……。
           この辺の現象面においては特別な表現がある
 ペネトレイタブル・ユビキタスト〜リニアン・セダクティブ・インセン(さ)ティブ。
 破瓜できるかもよと遍く広く扇情的なるをもってで見せかけるその隠された動機(阿呆さ)
                  元い
 デュータペネトレイティッド・ナンヤサカイニヤル・モゼッタイ・ニガサヘンカライナ。
 破ってしまいはりはったんやからもう絶対死ぬまでうちのこと面倒みたってくれはらんと
                  ん?
              ことの本質を表してあるそなw。
*広く遍くにまで至るよう網を張る、それを投げてあるって、どんだけ強欲なんか…。
 あまり現実的ではない。浅はか。怖いもの知らず。誰も彼もが「夢」の中っと……。

そしてたえずガミガミと

言い、盗みに耽って、狡猾となり、
 恐れを知らなくなるでしょう(発言力を増す)。

*自制心として働く道徳を最早持ち合わせていない、意識できないようなっちゃってるんだ。
 このことの根本的なる原因はその責任は、

ある。あんたちがみんな悪い!w。

卑しき商人は、品物を動かすだけで利益を得て、平気で詐欺を働くようになるでしょう。
(仕入れたものに付加価値を自ら築き付け加えるといった一手間をしない。面倒くさがって)

そして困った状況でもないのに、人々は、正しき人からすれば、
 非難すベきものとある仕事を、(自ら好んで)為すのです。
  (兵器の製造や水商売のことかしら?)

召使いは主人が貧困に陥ると、他にどんな優れた点があっても彼を見捨てていき、
 主人もまた、世襲として続いてきた召使いであっても病気などで仕事が出来なくなるや、
  その彼を解雇してしまってる。

そして、乳を出さなくなった乳牛を、人々はもはや養おうなどしなくなる。(18~36) 
(金を稼いでこれなくなった人、高齢者としての方々を軽んじるようになるってことだろう)

*ここにおいて追記を行う。:
 逆に男側から観て、
 女性としてのその本来性を、伴侶としてのその機能を、果たさない女ならば…
 ってなことでもあるのだろう。ことはそれが好きか嫌いかの話しなどではなくて、
 生まれ持ったるその資質を開花できているのか、自覚できているのかにかかってくる。
*ことにおいての切ななることを言えば、

強制をもってしてのものとはなり得ない。
 

相手の

為すべきことのその答えを教えることはできない。
 

、自発性に基づいてのその態度でなければならない。じゃないとなんの意味も
 ない。師は弟子がなにを為すべきかは知っていても、それを教えることはできないんだ。
 そこにこそ、育成としてのその難しさがある。
*生来として与えられているその本質が、無事健全に育っているのか、
 それの求めにおいて行動が選択されているのかにすべてかかってくる。
*キテレツ、奇形なるものを、養おうとするものがないのも、これもまた自然…道理…。


カリ・ユガでは、

奴隷となり
、まことに情けなく、
 性の悦びが、男女間におけるそのの基本(根本)となるでしょう。
 (プロジェクションにおいての”好き”であり、肉体関係における満足でしかないっと…)

そして男性は、自分の両親や兄弟、親族を棄てて、
 義理の姉妹や、その兄弟たちに相談を持ちかけるようなってしまってる。
  (血の繋がりにおいての関係が、水臭くなってしまってるってことだろね…。
    つまりは人情の尽くが廃れてしまってて、実利を元にしての関係のみだっと。)

さらにシュードラが隠棲者や聖者の身なりをして、人々から布施を受け取り、
 信仰について何一つ知らぬ者が、高い席に座って人々に説教するのです。

カリ・ユガの人々は、飢餓と重税に苦しみ、不安に苛まれて、
 土地もやせ細るため、たえず干ばつを、恐れて暮らすのです。

人々は着物や装飾品を着けずに、食べ物や飲み物も、寝場所や


 沐浴も行わない為、まるで悪鬼のような姿に、変わるでしょう。
 (ここでの性の悦びは、実体をもってしての和合において果たされるもの。)
 (ファッションとしてのあのダメージなんちゃらがどうして流行ったのか…。)

カリ・ユガでは、人々はたかだか二十枚の子安貝(少しのお金のこと)のことで、
 今までの友情や善意を捨てて、自分の家族を殺して、
  愛しき自分の生命までもを、捨てようとするのです。
 (ここの前提になるのは貧すれば窮するが、行き過ぎて長らく続いてあることだろう。)

欲深い者は、年老いた両親を養おうとせず、(その関心は)性欲と食欲を満たすだけとなり、
 両親もまた、全てにおいて優れた自分の息子を、自分とは関係ないと言うのです。 
(後段が分からない。本当はそうなんだけど、社会に染まりすぎていてそのことが見えない。
 もしくは、お偉い人に最早なってしまってて彼からすればもう関係なしとしているか…。)

ああ、王よ、宇宙の最高の礼拝の対象であり、
 三界の支配者までがその御足に礼を捧げる主アチュタを、
  異端に毒されたカリ・ユガの人々は、もはや崇めようとしなくなるのです。

主の御名は、たとえ病いの床にある時や、臨終の時、さらにつまずいたり、
 転んだりした時、思わず唱えただけでも、主はその者のカルマを消して下さり、
  最高の目的(徳目)(モークシャ)を遂げさせて下さるのです。

(カルマってことで語られてあるものが事象が興味深い。

何によって
 起因してるのかってこと。またこの世に生誕してしまっている以上は何らかの為すべきこと
 為し得ることってのがあるわけさ。それに気づく、至るべくしては、確かに、何かの導き、
 助けが要るのかもしんない…。)

でっ、あるにも関わらず、カリ・ユガの人々は、その主を礼拝しようとしない

プルショーッタマ[最高の者・クリシュナ]は、人々の心に祭られるや、
 カリ・ユガの影響で生じる、物質や場所、心からの悪を、

のに…。

主の御名を聞き、それを讃美して、さらに主を瞑想して、
 主を礼拝し、主を崇めたなら、主は必ずその者の心に住まれて、
  彼が幾千もの転生で積んできた罪を、全て除いてくださるのです。

火が金塊を溶かして、そこから不純物を除くように、
 ヴィシュヌは御自身を思う者の心に住まれて、
  そのヨギーのカルマを消してくださるのだ。

聖典の学修、苦行の実践、呼吸制御(プラーナーヤーマ)、
 人々への友愛、聖なる水での沐浴、誓戒の遵守、布施、マントラの詠唱、
  これらは、自分の心に主を祭ること以上に、その者の心を浄化してはくれないでしょう。

それゆえあなたは、ああ、王よ、全存在を賭けて主ケーシャヴァを心に祭り、
 自分が死ぬであろう、まさにその時に、その主を思うようにするのです。

そのようにすることで、あなたは最高の目的を遂げることが出来るでしょう。

全宇宙の主宰者であり、全ての者の霊魂でもあり、かつ庇護所である主を、
 人は、一時も休まずに、瞑想すべきなのです。

なぜなら、生きている間にたえず主を思うことで、
 その者は臨終時にも主を瞑想することが可能となり、
  そしてそのようにして死んでいく者を、ああ、親愛なるパリークシットよ、
   主は必ずご自身と一つの境地へ導いてくださるのです。

*ここは重要なのでチョット介入:

  死したる貴方はその極点において何を求めてしまうのか?ってのが殊の外重要なのだ。
  どのような状態にあるのか?そのこころはどうなのか?。恐れてとしての感情がある
  のなら、それはなにを恐れている?生前執着してあったものがあったなら、どうしても
  自動的にそれらに対しての欲望としての念が浮かび上がってきてしまう。
  心の内に忘れ去られている後悔、こだわり、悔恨。心の奥底へと追いやられたままと
  なっている誰かへの、何かへの、怒り、憎しみ、糾弾断罪としての思い…。 
  (実はリモースや許しにおいてそれらは滅尽しておくべきだったのだ…)
  こころに刻まれてある

のすべてが吟味、評価としての対象になったしまう。
  ことここにおいて、この状況下にあっては、もはや嘘はあり得ない。
  体裁など繕えようはずがないのだ!。
  その時のマインドが構成してある世界観において、その後の流れは、決まる。
  生前と同じくして死後の世界も、その時の貴方に

反映を行うだけ……。

 「幸いなるかな心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり。」(ラゲ訳文語聖書)

 山上の垂訓においてイエスが語った

になる。
 まず最初にこれを語ったことにはなにか、とてつもなく重要な意味があると自分は考える。

          これを自分なりに修正すると、
 「こころに欲、煩い、執着、なかりしければ、これ清められしものなり。
       祝福あれ。彼ら天の王国そのものならんや。」となる。

 ことの急所となるのは、

にての、その状態!。

 だから、

、思い残すことのないようにしとかなきゃなんない。

 今生においては。



再開:


ああ、パリークシットよ、ありとあらゆる悪が存在するカリの時代は、
 ただ唯一の偉大な徳目を持つのです。

それは、人々は、クリシュナの御名と栄光を唱えるだけで、
 全ての執着を除かれて、最高の帰趨(きすう)に、至れるということなのです。

*ことにおいての実際を語るならば、カリの時代たるものにおいては、ものごとがとにかく
 あまりにも悲惨なのだ。よって人々は神仏にでも頼らざる得なくなってしまうのだ。
 他はまったく当てにならないので!。切実なる苦境に苛まれて、ついぞ日頃これまで
 意識することなどもなかった超越存在に、助けを求める祈ることになる。それまでの
 こと!。切羽詰まって

神仏拝む。困ったときの神頼みっとくぅら〜。

サティヤ・ユガで、主を瞑想して得られたもの、トレーター・ユガでは祭祀で主を
 満足させて得られたもの、そしてドヴァーパラ・ユガでは主を礼拝して得られたもの、
  それらはこのカリ・ユガでは、ただシュリー・ハリの御名を唱えて、
   その誉れを歌うだけで、人々は容易に手に入れることが出来るのです! 』(37~52)

 注1 この記載からも、ヴァルナはその人の性向(罪)によって生じたものであり、
    主が決めたものではないと理解できる。

泥棒は王になり、王は泥棒になります。

支配者は財産を没収し、それをひどく使用します(無駄使い)。

彼らは人々を保護することをやめます。(その使用に必要な美徳を持たずに)

ある程度の学習を獲得したベースの男性は、賢人として尊敬されます。

ある国から別の国へとさまよっている多くの避難民がいるでしょう。

略奪的な動物はより暴力的になります。

胎児は母親の子宮の中で殺されます。

人々は間違った考えを選ぶことを好むでしょう。

誰も他の人を信頼することはできません。

人々は(外見においてのその他人が)うらやましくなります。

平均余命が16歳以下の子供がたくさん生まれます。

飢餓と恐怖に苦しむ人々は、地下の避難所に避難します。

若い女の子は、彼らの処女を(金銭と)交換します。

雲の神は、雨の分布に一貫性がありません。

店主は、不正な事業を営むでしょう。

多くの物乞いや失業者が、いるでしょう。

誰もがハードで(容赦遠慮のないあからさまなるの)下品な言葉を使います。

男性は、お金を稼ぐことにしか関心がなくそれに専念しています。

最も裕福な人こそが、力を(権力を)保持します。

州の指導者は、もはや人々を保護しませんが、税金を通じて、すべての富を充当します。

水が不足します

[そして私のお気に入り]:調理済みの食品が、すぐに利用できるようになります!

私たちの食糧供給には栄養がほとんど含まれておらず、
 毒素が豊富であるという事実は、
  私たちが住んでいる時間の頻度(ひんど)(←?)について、
   私に多くのことを明らかにしてくれています。



          以上





これも一種の預言の書なんだけど…当たってない?。

もしそうならば、次点にては、帰納的に、何と何がどうだと云うことができるだろうか?。

クリシュナとイエスはもしかしたら同義、同体なのではないだろうか?。

ならばだ、何が云える?。

全人類にとってのユニバーサルな信仰がありえるのでは?

真実に神なるものとしての概念の統合が必要なのではないのか?。

自らを「ただ在るのみ存在」と宣っておられることこそが核論なのではないだろうか?。

この辺においての頭の整理をすることが実は大事。

信仰においてを生きるを実際になしての体験/経験をもってして……

公教においてのものから、秘教としてのものへの移行がこのことには必要になる。

何を?ではもはやなく、「如何に」こそが切実なる課題として意識されるべきなのだ。

真実に御わす神は、唯の、お一人の、はずなのだから…。

おそらくはイエスは残る。

確実に残さなければならない!


だが………。




             これが信仰たるものの真実のモデルになる。

           ルートが分かれてあるのは、しまっているのは、
      民としてのその民族を、一単位としてでしか、

ことはできないから。
             そうでないと絶対にことは成し得ないから。

表現言語を離れて通称”石突き”と呼ばれてある

を、信じ信仰することこそが本当の課題。

    ならばだ他のすべて!とは言わんが、いろんな筋道においての、それらの考えも、
               取り込み、統合する必要がある。
            場合によっては、貴方としての独自性を発揮して、
             


                  (つまりは点線部のこと)
      新規としてのなにかを、付け加えることも、また可能、出来るのかもしれない。


           後の世に、後の人類において、つまりは進化するにつれて、
   そうなる、そうされることを見越しての、それとしての筋書きだったのかもしれない。
     (各宗教としてのそのバラバラなるものが一つにて統領解されるってことが)
           統合が、各個人において、

ってことがさ………。


        我々日本人からすれば、クルシュナは少しばかり縁遠い。

                ただそれだけのこと……。




以下は参考としての補足情報。違うルートからの持ち込み。



四つのユガ:

私たちが次々と循環し続ける4つの時代があります。
サティヤ・ユガ:真実と真の宗教の時代。
世界の誰もが真実であり、世界で唯一の宗教であるヴェーダの宗教の信奉者です。
ユガ(年齢)は17億2800万年続き、人間の寿命は最大10万年です。
Treta Yuga:無知の導入はこの時代に起こります。ヴェーダの宗教は世界で唯一のものです。
ユガ(年齢)は12億9600万年続き、人間の寿命は最大1万年です。
Dvapara Yuga:真実と宗教的価値観の低下の増加は、この時代に影響を及ぼします。
ヴェーダの宗教は世界で唯一のものです。ユガの寿命は864,000年、
人間の寿命は1,000年です。

カリ・ユガ:無宗教と無知の時代。宗教的原則は完全に衰退しています。
最初の数千年の間に多くの宗教があり、それらは徐々に、地球の表面から
 一つずつ完全に消えていきます。
ヴェーダの宗教だけが生き残るでしょうが、信者はほとんどいません。
カリユガに入って15,000年までに、世界の人間の99.9%が無神論者になるでしょう。
カリ・ユガでは、親が自分の子供を食べるように事態が悪化します。
ユガの寿命は432,000年、人間の寿命は最大100年です。
私たちは現在、カリ・ユガに入って5,000年になります。



宇宙の寿命
宇宙の総寿命は311兆年と400億年です。
この宇宙は155.522兆年前のもので、155.518兆年後に終わります。
この計算は、梵天の寿命に基づいています。
何百万もの惑星があり、生き物がいる何百万もの宇宙があります。
この惑星地球は、単に惑星の海の一滴です。
すべての宇宙には生命があり、閉じられており、サイズと特性が異なります。
Millions of Universesによる素材の作成全体は、
 srishti(作成)のわずか4分の1を構成します。
   srishti(創造物)の他の4分の3は、ヴァイクンタと呼ばれるスピリチュアルです。
各宇宙の存続期間中、部分的なスリシュティ(創造)とプララヤ(消滅)があります。
ブラフマーの毎日の初めには創造があり、毎日の終わりには部分的な消滅があります。
ブラフマーの1日は43.2億年です。夜も同じ期間です。
私たちは現在、梵天の今日の半分を過ぎているので、
現在の小さなサイクルで約21.6億年存在しています。







あとがき:

本来ならばこれはは3Fに収めるべき内容だった。
だいぶ前に作って、ほったらかしにしてたやつ。

これに引き続くべきものとして、「ハスナム的なるもの」においての、
自分おける現象学的記述が近々登場する。*ここの2Fに連続で追加される。
こっちの方が先行的に書かれていたんだけどね...。

こっちは現在進行中の真火星においての新稿におけるスピンアウトとしてのもの。
コラムなんだが、それの補足というか、ちゃんとした陳述が、
どっかでなされるべきだと思ったの。

いろんなのの混線としての、その結果としての作品にはなりますが、ここに入れる。


こちら、2Fのラインの再起動、その狼煙としてのものでもある…。


よろしくおねがいします。



敬 具


天村崇



追記:

現在の扉絵は釣り針だかんねっ。

間違っても、釣られないように!。







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