第38話 それは1972年のことだった…①
文字数 8,340文字
Re:宣戦布告。
それはもう、ただの作り話なんかじゃなかった。
完全にリアルなメッセージとして世に向けて放たれたものだったのだ。
誰が、誰に向かっての、宣言だったのか?。
それは描かれたまんま、その通りととるべきなのだ。
ここだけは、皮肉な演出なのか、
不遜にして傲慢なる態度のそのままに。
紛ごうことなき
その時点ではボクはまだ10歳だ。
本屋さんで立ち読みするのが恒例だった。
だからリアルタイムで読んでた。
この宣言の後の展開をご存知であろうか?。(愚問の極み)
自滅自爆覚悟で大量の悪魔が人間に対して無差別合体、無差別憑依を行う。
両者共に大勢を失うが、合体に成功するケースもあるにはあった…。
この内容は一考に値する。
*先ずは土俵固めからで参ります…。(詳述になっちゃうかも?)
① Re: 青年期。
教科書的には青年期と呼ばれるものの期間は13~19歳となっている。
この期間の課題とされるのが『アイデンティティーの確立』となるらしい。
こういうのは語り手からの勝手な押し付けなので聞いてもピンとこない。
なのでー、私流にちょっと変換させてもらう!。
この世界に生まれてき~てー:
その時点における(社会)環境を理解し~てー、
それに適合するようなってー、
独り立ちの為のノウハウを身につける。
学校にてこの課題を真剣に若年層の意識に植え込む必要があるな。男も女も関係ない。
言葉をお上品なだけに止めずあからさまにズバリで語っておくべきだ。
同時に教えておかなければならないことは:
人間にとっての社会環境は変化するものなのだ。
現時点における社会環境に適合することが先ずは大事なのだが、
それを絶対的な価値ととってはいけない。鵜呑みにしてはいけないよーって。
微分と積分の講義の時間には、類推の術をもって、これら数学概念を、
現実においても適応できなければならないと教えておくべきだね。
現実の今の一点において、解は絶対なるものとして確定される。
されど、巨視的な視点からすれば、変化の動きは避けられず、
グラフを構成する各点はどれも皆、相対的なものとなり下り、
そこでは収斂の方向性のみが確定されるまで…。
言葉足らずだか、イメージは受け取ってもらえるかと思う…。
要は、認識において:
相対的なるものと自覚して捉える見方と、
絶対的なるものとして定まっているものとする見方だ。
近視眼的な認知と巨視的/鳥瞰図的認知があるまで。
両方共に大事なのだ。
片方に偏ることなく、物事の認知/理解には両方の見方が大事なのだよっと。
太陽と月は何で空に置かれているか?だよ君 …。www。
みなさんがこれから出ようとしている社会は泡沫 のものでしかないことは重々意識しておかれるように。今現在価値とされているものが生存期間中にずっと同じく末永く価値あるものとされるかどうかなんて誰も分かったもんじゃない。
されど、いまある社会現実は、確かに現時点において”有効性”としての実体を備えたものであることに間違いはない。だから先ずはそれらをしっかり理解して、求めには答えられるようなるのが先決だ。今にある何らかのニーズに応えれるようになることこそが入り口になる。当座と限っての話しならば、その仕事の有効性は保証されていると思って大丈夫。
片や〜絶対的なるもの!…。それは具体的には何なのか?何の話しなのか?。
それについては、みなさんが一生をかけてそう言ったものが本当にあるのか?、
してその価値たるは本物なのか?その吟味を検証を自身にて重ねていくしかない。
言っておこう、多くはその確信に至れず、いずれに教えたるものを捨ててしまう。
現実の生において、微分片、雑事俗事への拘り三昧と成り果ててしまう人が
ほとんどなのだから。
例としてだけ、少しだけ言っておいてあげよう!。
それは:
神だ。彼の創り賜うたこの宇宙だ。これを動かし司っている諸法則だ。簡単に言えば真善美。
皆さん各個が与えられている魂。これが滋養を得る術としての道徳を価値として生きること。
やがてにタイムリミットってな具合で待ち構えている肉体の死。こればかりは避け難い。
幸せは、愛する伴侶(妻/夫)に出会えること。楽しい家族生活をもって足りること。
彼らを守ることこそが生き甲斐となること。とにかく愛する対象が持ててるってこと…。
こういった価値は”絶対”と見做し得るじゃないかな〜?。
追記:そんな彼方の事、観念的な事象に関して分かる訳ないじゃんって思うかもね…。
でも天地照応の考えがあるように、事は入れ子型の構造となっていて身近な出来事の
中にその反映を見ることはできるのさ。ルシファーの叛逆と失墜の話し、セトとホルス
の話し、黙示録の展開なんか、よく注意して観察するならば、そこらじゅうで四六時中
起こっている。意外と日常的な話しで、卑近にして、あくまで身近。要はここでも類推
における当て嵌めってのが出来なくちゃいけない訳さ…。
気楽に言っているが、ことの重大さを覚えて感じていただく為に、
ある
人生は恐ろしく長く感じられる。またそうであるものなのだ。男であれば80年が視野に入る。
また恐ろしい速さで過ぎてゆく。行き先は遥か遠くに見え、過ぎたるはみな幻の如くになる。
若き日の隆盛の時節があってー、その先には老いさらばえての老衰の衰弱が
日々が待つばかりとなる。そこに至ればもう良くはならない。成り得ない。
そうなっても、あなたはあなたのままなのだ…。
付録:
Re: 「相対化ドライブ!」& 「絶対化ドライブ!」
微分/積分の概念を現実に当てはめるのみならず自分の思考内容に対しても、これらを使えなければならない。「なんのこっちゃ?」。例えば共通模試で
これは驕り高ぶり傲慢たる状態を
間違いなくそういった状態にはなっちゃう。めちゃくちゃなってる。w。
何かを確実絶対であると確定すること確信することは大事にして必要にして重要。
このこと自体も努力や集中力をふんだんに投入してこそやっとはっきりさせることができる。
でも、その解をずっとそのまんまそうであるとしてしまうのはまずい。
父なる神の御怒りに触れる前に、至急なんとかせねばと焦りあたふたするのが我ら信徒!。
取り敢えず今日は一つ標語を教えておこう。
『今日という日は、我が友たちが、みな、我より偉く思える日なり』。
こう言った時節が間違いなくやがて訪れる日がやってくることを今から覚悟しておくことー。』
ps.表題は、どちらかの技を使うときの掛け声です。「ライダーキック!」みたいなもん…。
それは我の愚かさを心底死ぬほど味わったときなんかに思ってしまうものなのかもね。
例えばだ、ばかだ俺より下だと思ってた相手が、彼自身の兄弟みんなを、
ずっと長きにわたり養ってきてたみたいな?。
② Re: ガロン
胸のところにピックが入ることによって完全体となる魔神。それがガロン。
作中の台詞そのままにピックはガロンにおける
本質と言ったり良心と呼んでもいい。
*いきなりだが、何の例えとしてこのガロンが出来上がっているのかを話してる。
広く一般的に、ロボット・ヒーローの正体は肉体だ。ただし鍛え上げられた強靭なる肉体。
ロボットには
そして、これらの中に良心としての魂が存在していて
ガロンは完全体つまりは神にも等しい存在(実在)となる。*この言葉の意味は自身の思い
描く理想が実現できるってこと。すべて(宇宙全体からの)自動的な協力をもって”
って言ってもいい。
表現者らは無自覚だったかもしれないが、その正解としての構成を投影していた。
これは理想としての目標である。簡単には達成されないようになっている。
だが
死さえも恐れなくなる!。
生まれなくして、よって死ぬこともまたないって、自分の存在は意識されるようになるから。
これはイエスが似たようなことを言ってたね…。
『私はこの大地(地球)ができる
③Re: 本能。
広義では「動物は本能に従って生きています」って偉い先生方はみんな言うんだ…。
でもこれって違うよな〜って思うんだ。背後から、闇雲に、操られて、支配されて、
突き動かされて、強制されてだろーって!…。
早速の脱線になるんだけれど、この話者は人間に限っての話とすれば、その遺伝情報にはすべての動物のものが入ってるんだろ〜なって空想してる。端はアメーバーみたいな原生動物から果ては、行き着く先の天使のものまで、全〜部、み〜んな。最初から…。言っとくけれど、遺伝情報のメディアはDNAだけじゃないから。磁気記録みたいなやつで、物質性は全然ないんだけど、つまりは人間にはみっけられないんだけど、驚くほど巨大な情報アーカイブ(プログラムの保管庫)がどっかに存在している。最初から…。その生物の主体性と環境要請から
閑話休題。さて…動物だ。人間は動物の端くれだから。このことは最大限の重きをもって、自覚を徹底しとくべきだ。その上で、何が、どう違うのか、それは何故なのかを問うてみるべきだ。この回答は後回しにして、動物の特徴を先に見てゆこう…。
それは:
欺 くもの騙 すものだ(狡知の働くもの)
奪うものだ
殺すものだ
襲うものだ
貪る/喰らうものだ
魅するものだ (異性を、餌食にするものを)
戦うものだ
過当競争に燃えるものだ
群れをなすものだ
群れにて身を守るものだ
荒野を駆け回るものだ(止むに止ませぬ思いもて)暴走族はこれの名残か?。
子育てに精を出すものだ(一定期間のみ)
警戒心の強きものだ
恐れの多い生きものだ
夜行性だ(基本)
運動能力が極度に発達しているものだ(最初から)
ほぼ非情なるものだ
真似をするものだ(取入/学習/吸収)
死は恐ろしいまでに身近で日常茶飯事(自覚はないだろうが)
知恵があるのも確かだ。
ヒトに向けて不可思議な悲しみの訴えをしてくる…。←犬にとって飼い主たるヒトは神。
まあこんなもん…。
以降、動物のことは獣 って呼ぶことにしよう。
ニュアンス的に、その方が的を得た感じになるので。
だから〜ヒトにおいて、こう言った振る舞いがあったとしてもそれはしょうがないんだと個人的には思うようにしてる…。だって獣なんだもーん!。その名残りは拭難いものとして、強固なる習慣/性として根付いているのは確かでしょう。
さてヒトの起源来歴についてだが…。自説に関してはもう知ってる人は知っているよねー?!。核となる魂は本来はもっと上層の出なんだ。これは②におけるピックのことね。
でも懲罰くらっちゃって神様に獣の肉体の中に入れられちゃった。そんで流刑されてここ地球なる辺境の地で生きてゆかなきゃならなくなった…。
そこ、つまりはこの地球で、ヒトが果たすべきの罪の償いとしての課題、
その内容ってのがえらく難しいんだ。めちゃくちゃ厳しいんだ…。
先ずはこの地球環境において生存できなくちゃならない。そうなると獣としてのプログラムのすべてではないがある程度の範囲では和合してなくちゃならなくなる。即物的に言えば運動能力、体力/持久力、集中力、感情抑制とその爆発のコントロール能力、なんてものを引き上げておかなくちゃいけない。*後半のは精神力だと言ってもいいだろうね。
これらは喰らう為に殺す、喰らわれないようする為の(殺されない為の)能力獲得だと言っていいだろう。ヒトの場合は他方でやはり「体は資本である」は真実として説得力を持つ。肉体労働は何においてもつきまとうのだから…。
でも本当の課題はそうやって獣になりさがるその性に染め上げられるばかりではなく、その出自が故の/本来性としての身分が故の気高く貴きその魂、その”純化”とその育成/強化にこそある。不思議なことにヒトは他人の浅ましき行いに接すると嫌な不快なる印象を持つ。嫌悪としての感情が掻き立てられる。(自分のことはさておいて棚に上げといて…)。何故だろう?。魂にとっての価値観からすると真逆のものと映るからだ。だからこそここ地球環境に生存することが定めとなってしまっている。今生において確執葛藤ジレンマの中で踠き苦しみ、その本来性として価値をそれでも尚生きんとするかどうかを試さんが為に。見極めんが為に!。その境遇として与えられた”地獄”たるものにさえ慣れ親しみ、染まり、愛着し、粘着し、執着し、縛着し、天界を忘れ果てるのか?。それとも帰還を目指すべく、意思を強固に高らかに、しかして奮闘を行うのか?!!!…。
ヒトの特別なるは、対象において独自に意味づけができることにある。一拍が持てるんだ。
節がある。そんで即時即応の連続性の只中に、奇怪なる独自の
*あの歌の歌詞においても
♪「
その限りにおいて、この生は地獄が定めとなる…。
https://www.youtube.com/watch?v=gPegTk-w7Bw&t=56s
ここの一拍は/節は。
多分これが、知恵の実を食べたことによって、ヒトに起こった変化なんだろう。現実から切り離した状態で対象に関して主観的に色々あれこれ恣意的に意味づけを行い、その挙句に更に独自の観念創造構築がなされる。この内容を元に現実に対しての次点のアクションが決定されるようになった。このことは決して悪いことばかりじゃない。そのマインド処理によって文明文化芸術は発達してこれたのだから。科学だって数学だって皆そのお陰だ。こうして私が文章公開できてるってのも全てそのお陰。しかしだ…。倫理たるもの道徳たるもの、絶対の価値とすべきを見失うことによって現在(かなり前から古くから)このヒトの観念世界は暴走を始めている…。
付録: 石川五右衛門の覚醒シーン
そのプロセス自体は明かされぬままなれど、結果のみを解説するならば、
死して拾えた命ならば、もう、あの”一拍”を経るを必要とはせず。
身に差し迫る状況のそのままに反応し尽くすばかりとなりにけり…。
常人らならば、悟りたるを経ぬ人間たちならば、皆、彼に一拍遅れることは必至。
いかに鍛えられ練り上げられた腕であったとしても。
そうだ五右衛門は無敵となりたりかな…。
当然にルパンが彼を殺そうとしない限り、もう対決はあり得なくなってしまった。残念…。
④Re: 物語と呼ばれる”呪”。
〈物語〉はいるよね?。この起承転結を暗黙の了解として背景に持つお話しってやつは!?。
所詮は、これは「原因と結果」に関してのもってまわった説明だとすることもできるかもね。
ただそれらだけだと聞き手/受け手にとって納まりが悪いので中間のくだりもも含めて語るが
標準となった。そうすると皆が理解するのが驚くほどに容易くなったではないか!。
さらには何かに例えて話すと、その内容を理解できる人々のレンジがびっくりするほどに広くなった。子供らまで難しい概念であるにも関わらず何らかの理解を持ててるではないか!。
例えなんで、ここはそれ、
物語はヒトが物事を理解するための土俵となっている。物事をその展開の中で見れてこそ意味たるものは納得され得るのだから。例えばだ…苦労して貯めた資金をもとに何らかのビジネスを始めた。お金は資本にて転じてもう元のお金に戻すことはできない。紆余曲折あったが最後には大成功を収めてその何倍ものお金に恵まれることとなった。私の人生は満足なものであった…。
いつからか、ヒトは自分という名の物語を求めるようになってる。いや夢見るようになってるが正しいだろうね。それは当然な話し、上昇としての話し、成功譚、ハッピーエンディングとしての物語だ。そのお話の実現に精を出すしか他に生きがいとなるべくの内容やら価値と思えるものはないんだろうね。
問題は事後の語りとしてこそ意味のある物語が、最初から卵の状態であるときから、しっかり決められてしまっていることにある。思い描くストーリーが思いの中にはあるってこと。そんで、その世界観において沿って、日常起こってくるすべてを意味づけし整理をしてしまう。その物語に相応しい納得の形において…。ところで、今ここで、言うことではないかも知れないけどボクは
物語はマインドにおいてのみの方便だ。ヒトのみに有効にして必要不可欠。そこで問題とされるべきなのが「卵が先か?鶏が先か?」の議論になる。マインドのその特異な機能性からすると、頭が考え出したもの、無理からにひねくり出したものであってさえも、事後は、その内容は実体化に向けての動きを開始する側面がある。宇宙たるものは、そうした反映を返すものなのだろう。器が造られたならば何かがそれを埋めるまで。これも真実。ただしだ…筋書き通りには何事もいかないのだけど…。いくわけがないのだ…。
追記:
ひとを愛するのは自然なことさ。でも、これが、天国に行く為だとか、その相手も同じ気持ちでこちらを愛してもらえるとかの算段、ストーリー展開を最初から当てにしてのものだったなら?。善行を行うのは良いことが後に自分に返ってくるから…。方円の器が真実だって聞いているから…。ここに悪しきマインドの関わりがある。落とし穴。すべては台無しに終わる。
そういったことは念頭にあってはいけない。これはとっても難しいこと。
自分を(我欲を)完全に捨てれてないと、このマインドの背景にあって、
暗黙の了解ごととしての前提付与は解消されない。それは自動的に付随的なる決まりとして、
その個人が思う物語の背後にて機能している。これは夢幻に過ぎないものなのだ…。
まとめ…
それら物語性の一切を無効化し、真の現実において目覚めることそが、
ここ地球に生を受けての課題であるまで。
そうなりえてこそ、本当の真実(神)を知ることが可能となる。
十戒への橋渡しもしておこう:
(あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。)
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
ここでの”
補記:
ここでは念頭において欲しいのはマハラジの言葉の数々だ。そして仏陀の悟りとしての色と空は表裏一体であることの教え。物語のすべては夢物語に如かずして、また同時に、ヒトのマインドにとっては実態を備えた現実として
最終的には何かが存在を顕してくる。
同時に自己をそれとの連続性において同一と確信する。
これもまた一つの物語、ストーリー…。
それはもう、ただの作り話なんかじゃなかった。
完全にリアルなメッセージとして世に向けて放たれたものだったのだ。
誰が、誰に向かっての、宣言だったのか?。
それは描かれたまんま、その通りととるべきなのだ。
ここだけは、皮肉な演出なのか、
真実丸出し
となっている。不遜にして傲慢なる態度のそのままに。
紛ごうことなき
それ
による宣戦布告となっていた…。その時点ではボクはまだ10歳だ。
本屋さんで立ち読みするのが恒例だった。
だからリアルタイムで読んでた。
この宣言の後の展開をご存知であろうか?。(愚問の極み)
自滅自爆覚悟で大量の悪魔が人間に対して無差別合体、無差別憑依を行う。
両者共に大勢を失うが、合体に成功するケースもあるにはあった…。
この内容は一考に値する。
*先ずは土俵固めからで参ります…。(詳述になっちゃうかも?)
① Re: 青年期。
教科書的には青年期と呼ばれるものの期間は13~19歳となっている。
この期間の課題とされるのが『アイデンティティーの確立』となるらしい。
こういうのは語り手からの勝手な押し付けなので聞いてもピンとこない。
なのでー、私流にちょっと変換させてもらう!。
この世界に生まれてき~てー:
その時点における(社会)環境を理解し~てー、
それに適合するようなってー、
独り立ちの為のノウハウを身につける。
学校にてこの課題を真剣に若年層の意識に植え込む必要があるな。男も女も関係ない。
言葉をお上品なだけに止めずあからさまにズバリで語っておくべきだ。
同時に教えておかなければならないことは:
人間にとっての社会環境は変化するものなのだ。
現時点における社会環境に適合することが先ずは大事なのだが、
それを絶対的な価値ととってはいけない。鵜呑みにしてはいけないよーって。
微分と積分の講義の時間には、類推の術をもって、これら数学概念を、
現実においても適応できなければならないと教えておくべきだね。
現実の今の一点において、解は絶対なるものとして確定される。
されど、巨視的な視点からすれば、変化の動きは避けられず、
グラフを構成する各点はどれも皆、相対的なものとなり下り、
そこでは収斂の方向性のみが確定されるまで…。
言葉足らずだか、イメージは受け取ってもらえるかと思う…。
要は、認識において:
相対的なるものと自覚して捉える見方と、
絶対的なるものとして定まっているものとする見方だ。
近視眼的な認知と巨視的/鳥瞰図的認知があるまで。
両方共に大事なのだ。
片方に偏ることなく、物事の認知/理解には両方の見方が大事なのだよっと。
太陽と月は何で空に置かれているか?だよ
みなさんがこれから出ようとしている社会は
されど、いまある社会現実は、確かに現時点において”有効性”としての実体を備えたものであることに間違いはない。だから先ずはそれらをしっかり理解して、求めには答えられるようなるのが先決だ。今にある何らかのニーズに応えれるようになることこそが入り口になる。当座と限っての話しならば、その仕事の有効性は保証されていると思って大丈夫。
片や〜絶対的なるもの!…。それは具体的には何なのか?何の話しなのか?。
それについては、みなさんが一生をかけてそう言ったものが本当にあるのか?、
してその価値たるは本物なのか?その吟味を検証を自身にて重ねていくしかない。
言っておこう、多くはその確信に至れず、いずれに教えたるものを捨ててしまう。
現実の生において、微分片、雑事俗事への拘り三昧と成り果ててしまう人が
ほとんどなのだから。
例としてだけ、少しだけ言っておいてあげよう!。
それは:
神だ。彼の創り賜うたこの宇宙だ。これを動かし司っている諸法則だ。簡単に言えば真善美。
皆さん各個が与えられている魂。これが滋養を得る術としての道徳を価値として生きること。
やがてにタイムリミットってな具合で待ち構えている肉体の死。こればかりは避け難い。
幸せは、愛する伴侶(妻/夫)に出会えること。楽しい家族生活をもって足りること。
彼らを守ることこそが生き甲斐となること。とにかく愛する対象が持ててるってこと…。
こういった価値は”絶対”と見做し得るじゃないかな〜?。
追記:そんな彼方の事、観念的な事象に関して分かる訳ないじゃんって思うかもね…。
でも天地照応の考えがあるように、事は入れ子型の構造となっていて身近な出来事の
中にその反映を見ることはできるのさ。ルシファーの叛逆と失墜の話し、セトとホルス
の話し、黙示録の展開なんか、よく注意して観察するならば、そこらじゅうで四六時中
起こっている。意外と日常的な話しで、卑近にして、あくまで身近。要はここでも類推
における当て嵌めってのが出来なくちゃいけない訳さ…。
気楽に言っているが、ことの重大さを覚えて感じていただく為に、
ある
事実
をとり上げておこう…。人生は恐ろしく長く感じられる。またそうであるものなのだ。男であれば80年が視野に入る。
また恐ろしい速さで過ぎてゆく。行き先は遥か遠くに見え、過ぎたるはみな幻の如くになる。
若き日の隆盛の時節があってー、その先には老いさらばえての老衰の衰弱が
日々が待つばかりとなる。そこに至ればもう良くはならない。成り得ない。
そうなっても、あなたはあなたのままなのだ…。
付録:
Re: 「相対化ドライブ!」& 「絶対化ドライブ!」
微分/積分の概念を現実に当てはめるのみならず自分の思考内容に対しても、これらを使えなければならない。「なんのこっちゃ?」。例えば共通模試で
クラスで一番
だった!。でも全国順位では849位だ。クラスのメンバーの中で一番賢いは絶対ではあるが、全国区で考えると、上にはまだまだ沢山いるな。こんな感じ…。『上を見れば果てしなくして、また下を見ればまた果てしない…。』これは驕り高ぶり傲慢たる状態を
解消
するための技。*回避はできない。間違いなくそういった状態にはなっちゃう。めちゃくちゃなってる。w。
何かを確実絶対であると確定すること確信することは大事にして必要にして重要。
このこと自体も努力や集中力をふんだんに投入してこそやっとはっきりさせることができる。
でも、その解をずっとそのまんまそうであるとしてしまうのはまずい。
父なる神の御怒りに触れる前に、至急なんとかせねばと焦りあたふたするのが我ら信徒!。
取り敢えず今日は一つ標語を教えておこう。
『今日という日は、我が友たちが、みな、我より偉く思える日なり』。
こう言った時節が間違いなくやがて訪れる日がやってくることを今から覚悟しておくことー。』
ps.表題は、どちらかの技を使うときの掛け声です。「ライダーキック!」みたいなもん…。
それは我の愚かさを心底死ぬほど味わったときなんかに思ってしまうものなのかもね。
例えばだ、ばかだ俺より下だと思ってた相手が、彼自身の兄弟みんなを、
ずっと長きにわたり養ってきてたみたいな?。
② Re: ガロン
胸のところにピックが入ることによって完全体となる魔神。それがガロン。
作中の台詞そのままにピックはガロンにおける
魂
になる。本質と言ったり良心と呼んでもいい。
*いきなりだが、何の例えとしてこのガロンが出来上がっているのかを話してる。
広く一般的に、ロボット・ヒーローの正体は肉体だ。ただし鍛え上げられた強靭なる肉体。
ロボットには
高性能の
電子頭脳が当然備わっている。お約束ごと。これはマインドだ。そして、これらの中に良心としての魂が存在していて
すべてが
これに従う状況をもって、ガロンは完全体つまりは神にも等しい存在(実在)となる。*この言葉の意味は自身の思い
描く理想が実現できるってこと。すべて(宇宙全体からの)自動的な協力をもって”
なされる
”って言ってもいい。
表現者らは無自覚だったかもしれないが、その正解としての構成を投影していた。
これは理想としての目標である。簡単には達成されないようになっている。
だが
ヒトは
この達成において間違いなく無敵
となるのだ。死さえも恐れなくなる!。
生まれなくして、よって死ぬこともまたないって、自分の存在は意識されるようになるから。
これはイエスが似たようなことを言ってたね…。
『私はこの大地(地球)ができる
前から
父たる神と共に存在していた。』③Re: 本能。
広義では「動物は本能に従って生きています」って偉い先生方はみんな言うんだ…。
でもこれって違うよな〜って思うんだ。背後から、闇雲に、操られて、支配されて、
突き動かされて、強制されてだろーって!…。
早速の脱線になるんだけれど、この話者は人間に限っての話とすれば、その遺伝情報にはすべての動物のものが入ってるんだろ〜なって空想してる。端はアメーバーみたいな原生動物から果ては、行き着く先の天使のものまで、全〜部、み〜んな。最初から…。言っとくけれど、遺伝情報のメディアはDNAだけじゃないから。磁気記録みたいなやつで、物質性は全然ないんだけど、つまりは人間にはみっけられないんだけど、驚くほど巨大な情報アーカイブ(プログラムの保管庫)がどっかに存在している。最初から…。その生物の主体性と環境要請から
適切なものが
、そこから
選び出されて、顕在化してくるまで…。閑話休題。さて…動物だ。人間は動物の端くれだから。このことは最大限の重きをもって、自覚を徹底しとくべきだ。その上で、何が、どう違うのか、それは何故なのかを問うてみるべきだ。この回答は後回しにして、動物の特徴を先に見てゆこう…。
それは:
奪うものだ
殺すものだ
襲うものだ
貪る/喰らうものだ
魅するものだ (異性を、餌食にするものを)
戦うものだ
過当競争に燃えるものだ
群れをなすものだ
群れにて身を守るものだ
荒野を駆け回るものだ(止むに止ませぬ思いもて)暴走族はこれの名残か?。
子育てに精を出すものだ(一定期間のみ)
警戒心の強きものだ
恐れの多い生きものだ
夜行性だ(基本)
運動能力が極度に発達しているものだ(最初から)
ほぼ非情なるものだ
真似をするものだ(取入/学習/吸収)
死は恐ろしいまでに身近で日常茶飯事(自覚はないだろうが)
知恵があるのも確かだ。
ヒトに向けて不可思議な悲しみの訴えをしてくる…。←犬にとって飼い主たるヒトは神。
まあこんなもん…。
以降、動物のことは
ニュアンス的に、その方が的を得た感じになるので。
だから〜ヒトにおいて、こう言った振る舞いがあったとしてもそれはしょうがないんだと個人的には思うようにしてる…。だって獣なんだもーん!。その名残りは拭難いものとして、強固なる習慣/性として根付いているのは確かでしょう。
さてヒトの起源来歴についてだが…。自説に関してはもう知ってる人は知っているよねー?!。核となる魂は本来はもっと上層の出なんだ。これは②におけるピックのことね。
でも懲罰くらっちゃって神様に獣の肉体の中に入れられちゃった。そんで流刑されてここ地球なる辺境の地で生きてゆかなきゃならなくなった…。
そこ、つまりはこの地球で、ヒトが果たすべきの罪の償いとしての課題、
その内容ってのがえらく難しいんだ。めちゃくちゃ厳しいんだ…。
先ずはこの地球環境において生存できなくちゃならない。そうなると獣としてのプログラムのすべてではないがある程度の範囲では和合してなくちゃならなくなる。即物的に言えば運動能力、体力/持久力、集中力、感情抑制とその爆発のコントロール能力、なんてものを引き上げておかなくちゃいけない。*後半のは精神力だと言ってもいいだろうね。
これらは喰らう為に殺す、喰らわれないようする為の(殺されない為の)能力獲得だと言っていいだろう。ヒトの場合は他方でやはり「体は資本である」は真実として説得力を持つ。肉体労働は何においてもつきまとうのだから…。
でも本当の課題はそうやって獣になりさがるその性に染め上げられるばかりではなく、その出自が故の/本来性としての身分が故の気高く貴きその魂、その”純化”とその育成/強化にこそある。不思議なことにヒトは他人の浅ましき行いに接すると嫌な不快なる印象を持つ。嫌悪としての感情が掻き立てられる。(自分のことはさておいて棚に上げといて…)。何故だろう?。魂にとっての価値観からすると真逆のものと映るからだ。だからこそここ地球環境に生存することが定めとなってしまっている。今生において確執葛藤ジレンマの中で踠き苦しみ、その本来性として価値をそれでも尚生きんとするかどうかを試さんが為に。見極めんが為に!。その境遇として与えられた”地獄”たるものにさえ慣れ親しみ、染まり、愛着し、粘着し、執着し、縛着し、天界を忘れ果てるのか?。それとも帰還を目指すべく、意思を強固に高らかに、しかして奮闘を行うのか?!!!…。
ヒトの特別なるは、対象において独自に意味づけができることにある。一拍が持てるんだ。
節がある。そんで即時即応の連続性の只中に、奇怪なる独自の
思考世界
が持ち込むことが可能となってる。結果この間の処理をもって次点でのアクションはイレギュラーにできる/なされることが可能になった。「意識的な選択が行われるようになった」なんて言い方もできるが、実際の所は夢現における馬鹿げた戯けた行為の”びっくり箱”となっちまったが正しいのかも知れない…。w。*あの歌の歌詞においても
このこと
に脚光が当てられている!。♪「
スコープ
越しに〜、見える、そんの〜未来〜、それでも明日はまた来る〜」♪その限りにおいて、この生は地獄が定めとなる…。
https://www.youtube.com/watch?v=gPegTk-w7Bw&t=56s
ここの一拍は/節は。
完全に
動物にはないものだ。*先に世界
としたのはそれがあまりにも広い…、いや無限に、広くも深くも高くもできるから/なるからだ。そのおかげで際限なしにグダグダ言える思える考えられる。イメージ沸かせば途轍もない大言壮語(嘘)を生み出すこともできる。要は「切りがない」のがそれの特徴だ。大伽藍を構築できる。ただ悪戯に…。多分これが、知恵の実を食べたことによって、ヒトに起こった変化なんだろう。現実から切り離した状態で対象に関して主観的に色々あれこれ恣意的に意味づけを行い、その挙句に更に独自の観念創造構築がなされる。この内容を元に現実に対しての次点のアクションが決定されるようになった。このことは決して悪いことばかりじゃない。そのマインド処理によって文明文化芸術は発達してこれたのだから。科学だって数学だって皆そのお陰だ。こうして私が文章公開できてるってのも全てそのお陰。しかしだ…。倫理たるもの道徳たるもの、絶対の価値とすべきを見失うことによって現在(かなり前から古くから)このヒトの観念世界は暴走を始めている…。
付録: 石川五右衛門の覚醒シーン
そのプロセス自体は明かされぬままなれど、結果のみを解説するならば、
死して拾えた命ならば、もう、あの”一拍”を経るを必要とはせず。
身に差し迫る状況のそのままに反応し尽くすばかりとなりにけり…。
常人らならば、悟りたるを経ぬ人間たちならば、皆、彼に一拍遅れることは必至。
いかに鍛えられ練り上げられた腕であったとしても。
そうだ五右衛門は無敵となりたりかな…。
当然にルパンが彼を殺そうとしない限り、もう対決はあり得なくなってしまった。残念…。
④Re: 物語と呼ばれる”呪”。
〈物語〉はいるよね?。この起承転結を暗黙の了解として背景に持つお話しってやつは!?。
所詮は、これは「原因と結果」に関してのもってまわった説明だとすることもできるかもね。
ただそれらだけだと聞き手/受け手にとって納まりが悪いので中間のくだりもも含めて語るが
標準となった。そうすると皆が理解するのが驚くほどに容易くなったではないか!。
さらには何かに例えて話すと、その内容を理解できる人々のレンジがびっくりするほどに広くなった。子供らまで難しい概念であるにも関わらず何らかの理解を持ててるではないか!。
例えなんで、ここはそれ、
類推
のことを思いだしてやってねっ♡。物語はヒトが物事を理解するための土俵となっている。物事をその展開の中で見れてこそ意味たるものは納得され得るのだから。例えばだ…苦労して貯めた資金をもとに何らかのビジネスを始めた。お金は資本にて転じてもう元のお金に戻すことはできない。紆余曲折あったが最後には大成功を収めてその何倍ものお金に恵まれることとなった。私の人生は満足なものであった…。
いつからか、ヒトは自分という名の物語を求めるようになってる。いや夢見るようになってるが正しいだろうね。それは当然な話し、上昇としての話し、成功譚、ハッピーエンディングとしての物語だ。そのお話の実現に精を出すしか他に生きがいとなるべくの内容やら価値と思えるものはないんだろうね。
問題は事後の語りとしてこそ意味のある物語が、最初から卵の状態であるときから、しっかり決められてしまっていることにある。思い描くストーリーが思いの中にはあるってこと。そんで、その世界観において沿って、日常起こってくるすべてを意味づけし整理をしてしまう。その物語に相応しい納得の形において…。ところで、今ここで、言うことではないかも知れないけどボクは
クリスチャン
なんだけどね…。You know what I mean?物語はマインドにおいてのみの方便だ。ヒトのみに有効にして必要不可欠。そこで問題とされるべきなのが「卵が先か?鶏が先か?」の議論になる。マインドのその特異な機能性からすると、頭が考え出したもの、無理からにひねくり出したものであってさえも、事後は、その内容は実体化に向けての動きを開始する側面がある。宇宙たるものは、そうした反映を返すものなのだろう。器が造られたならば何かがそれを埋めるまで。これも真実。ただしだ…筋書き通りには何事もいかないのだけど…。いくわけがないのだ…。
追記:
ひとを愛するのは自然なことさ。でも、これが、天国に行く為だとか、その相手も同じ気持ちでこちらを愛してもらえるとかの算段、ストーリー展開を最初から当てにしてのものだったなら?。善行を行うのは良いことが後に自分に返ってくるから…。方円の器が真実だって聞いているから…。ここに悪しきマインドの関わりがある。落とし穴。すべては台無しに終わる。
そういったことは念頭にあってはいけない。これはとっても難しいこと。
自分を(我欲を)完全に捨てれてないと、このマインドの背景にあって、
暗黙の了解ごととしての前提付与は解消されない。それは自動的に付随的なる決まりとして、
その個人が思う物語の背後にて機能している。これは夢幻に過ぎないものなのだ…。
まとめ…
それら物語性の一切を無効化し、真の現実において目覚めることそが、
ここ地球に生を受けての課題であるまで。
そうなりえてこそ、本当の真実(神)を知ることが可能となる。
十戒への橋渡しもしておこう:
(あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。)
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
ここでの”
像
”とは、また物語のことを指してのことでもある。補記:
ここでは念頭において欲しいのはマハラジの言葉の数々だ。そして仏陀の悟りとしての色と空は表裏一体であることの教え。物語のすべては夢物語に如かずして、また同時に、ヒトのマインドにとっては実態を備えた現実として
映る
認識される。いや創造されて事実となっているが正しいかも?。あるとないを同居させるしかないが…。最終的には何かが存在を顕してくる。
同時に自己をそれとの連続性において同一と確信する。
これもまた一つの物語、ストーリー…。