第43話  それは1972年のことだった…⓮

文字数 17,199文字

インプットなくして、いかなアウトプットもあり得ない』(アマムーの定理)



既に、ご承知のことだとは思うのだが…、



表現のすべては、現実の

かの投影だと確信して取り扱っている。
たとえ、それが偏見まみれで、理解不足のものでしかなかったとしてもだ、
摂取された情報(印象)を、その人間が、内部処理した上で弾き出されてきた
アウトプットでしかない。その表現の向こうには彼という人間にとっての現実がある。



ならば、表出された内容を、我が創作物かのように思って、同調/同化して、
その創作プロセスに関与していたであろうコード群を読み解いてゆくしかない。
じゃないと、本当のところは分からない。主の御加護がある条件じゃないと先ずやれない。



こういった思惑で、自分の中に、反響や反応として引き起こる思念や思いや考えは…、
実は、その何らかの同調を叶える材料が、自分にも同じくあることの確認にしかならない。
たとえそれが不胎化であったとしても、同じ煩悩が

備わっていることの証し。



ここでも、厳格にして厳正な真剣な否定の/拒否の態度決定が必要となる/課題とされる。
もう同じ轍を/同じ誤ちを踏むことは許されない。



毎度お馴染みの作法が選択されるまで。



NG 氏は自分の写し身に過ぎない。彼は居ない。居たとしてもそこに意味はなんらない。
ある意味、契機に過ぎない。自己の中に湧き起こる反応と争うことこそが…ミッション。
その行為は、頭と心と体、全てを投入した上でのものとなる。
これこそが、今自分がやってる仕事なのだーーー!。
(かわいそかわいそ、かわいそなのです。「尼波(にぱ)ー」)


さて今回の内容はかなり語るに面倒臭く、聞くに難儀する内容になりまする…。
だから途中で拙者も時々お休みしゅる。
いろいろあってしんどすぎなんで「すぅぅぅ〜」(モモ)。
あれら、残酷でグロで非道な絵ばっかり集めたり編集したり見てたりするもんだから…。

デーモンによる「Re: 無差別合体攻撃について」になる。

出だしでは、ミー子ちゃんがもう既に登場してくれてますね。
そんで続いては定食屋で昼飯食っていたサラリーマンが突如、化け物化するって展開。
そんですぐこいつは即死してまう…。


ここで思い出していただきたいのは、この

言うにわー、(w)
人間の遺伝子情報の中には、かってこれまで地球上に生存したすべての生物の
情報が全部入っているーーーってやつ。


永谷園のお茶漬けの元が売れるのは、魚時代の名残り。
モヒカンが流行るのは鳥系の求愛デザインの名残り(雄鶏)。
豹柄が人気あるのは、雌猫科肉食獣としてのド外れて洗練されたそのデザイにある。
消化器官の蠕動運動に何を観るべきかは言うまでもあるまい…。
居丈高にして屈強なる輩について回るのは小判鮫時代の名残り…(ウッソ)

「だからー」(稲)、ああいった事態が突然に本人の了解なく起こるってことは、なんらかのコード入力がなされたのー!。特例的霊的波動の干渉が関係してんのー!。

介入して独自の目的においてその機能を乗っ取ってくれちゃうウイルス。
コロナよりコンピューターウイルスの方がイメージとしてはしっくりくるな。
その影響力たるや凄まじく、人体の

までをも引き起こしてしまってる。

さて、この攻撃は、霊的なものと、物理的なものとの二種類が考えられる。
その両方から考察は行わねばならない。

前者は禁忌としての極秘コード(プログラム)の使用をもって
個人の持つ全体秩序を、その調和を根底から侵して乗っ取ってくるみたいなやつ。
その原因体の存在形態は虚ろで曖昧なるものになる。ウイルスみたいな…。
幽霊みたいな…。

後者は、統一体が、他の統一体を合体をもって乗っ取るってやつ。こいつは分かりやすい。
でも現実的には自分のイメージ的には何故かしっくりこないんだ。なんか荒々しい。
軋轢が大きくて漫画的なお話しになっちゃう。この場合の二重化の内容は
まさにお子ちゃま向けか?!。

問題は前者だ…。こっちの方が現実的で、ある種の真実を含んでいて怖いような…。



Re:ちょっとITの話し。本論に入る前に、頭の中を整理しておいてもらおう…

ITの研究は=(イコール)「人間そのものの研究」として元々定まっている。
これは進化を管理するもの(神/自然)によってのガ誘導として自然とそうなる。
文化文明の発展進歩は、所詮は定められた必然としての向け先でしかない。
然るべきの方向としてのものにすぎない。研究者ら、人間にとって、
その自覚はあまりないかもしれないが…。

なのだ。
人間は「無自覚に」なれど、自身の認知認識理解に関わるその仕組みたるものを、
対象として、(先ずは)外に、オブジェクトとして、再現することによって、
これに関わる推測やら理論やらの有効性を確認してゆく。
そいでから、結果において自己たるものを、対外的に、理解するように段々なってゆく。

人類の、その全体性を考慮して、環境要請からそうするよう仕向けられているのさ…。

何言ってるかと言うとーーー、このプロセスは時間が掛かり過ぎる!ってことを言いたいのー。
でも人類全体としては、その結論を全員が共有することが叶う土俵たるものは獲得される。
科学的立証/実証ってやつね。これをもってこそ社会的コンセンサスは初めて更新されうる。

これは全体としての進歩発展のプロセスになる。
だが個人はこのテンポの中に居る必要は全くないのだ。
それはクッソみたいにゆっくりのんびりとしたスピードだよ。
内観のみにて、理解できること、しておくべきことは山ほどある…。

閑話休題。現在はまだその途上にあるに如かず。
学究の道が、脇道に逸れて、そこにある可能性の全貌を知ることもなく、
枢要と見做した些細なる要点において悪用濫用の限りを尽くして
ただ自滅するだけの結果を招く事態となるやもしれないが…。
*(かっての、核物理学の研究が核兵器の開発へ舵を切ったが思い出されているんだよ。)

とりあえずは脳内の情報処理として限定されてはいるが。
これの仕組みの全貌を理解して再現利用することが課題としての流れだ。
人間はそこに爆発的な可能性だけは確信して熱心にこれに取り組んでくれてはいる。
マイコンから始まりPC、スマホ、VR、全てをつなげ相互間の関わりを達成する
記録メディア(HD等)にネットにサーバー。
ゆくゆくは人間の存在構造、その全体を射程においての話となってゆくことだろう。

ことの発端は織物機械を自動で動かす為にはどうしたらいいか?の創意工夫だった。
衣服への需要は大変なものがある。起動力としては最適だった。
次いでもって、動力としてのエンジンの発明を迎える。

第一次産業革命は西暦1700年〜1900年の百年間にイギリスを舞台としてなされ、
全世界へとその展開は瞬く間に伝播してゆく。当然な話しですよね〜。効率が違い過ぎる。
その効率は原価へと跳ね返ってくるもの。衣服はみんなに行き渡るべきものなのだから。

通信技術の発達も平行的に起こってきて、真空管が1900年ごろで、半導体の登場がその中頃。
人類初の汎用コンピューターが1946年。
ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)
「電子式数値積分・計算機」の意味だって。

まあ、百年を必要とする実際期間だとして、これが二個あって、
今現在の2020年の状況が環境が整っているってことになる。
現在の革新として捉えられるべき肝的なるものがAIなのだろうね…。

ここでコンピュータについてを確認しておこう。

*少数の皆様におかれましては薄々勘づいておられるであろうが、
 人間においても同じモデルにおいて話しは組み立てられる。

ソフトウェアなるものが絶対必要で、これの役割はハードウェアを動かすための"指示書”。
これをプロトコルと呼んで、拡大解釈として法律や戒律、規定や職務規定、世間一般にある
細々とした決め事と同義同体であるとされる。全く同じ役割、影響力、支配力を持つものだ
として大きくクローズアップされる(してきてるwww)。前にも言ったことあるけど、
この

たるものは、人類史上、最重要の最もクリティカルな考案だと思うーーー!。

*暗にモーゼの十戒を起源としての律法、法律関連のことを含意している。

*逸脱や違反に関しては、何故か、ヒトのこころの背後では懲罰の観念に起因する恐怖の
 感情が大きく色を刺す領域が存在している。この手の感情のベースはなんなのだろうか?。
 生死に関わる拒絶反応。

*では何で、死たるものを生物は恐れるのか?。あまりにも巨大な感情反応がそこには
 引き起こされてある。マハラジの言葉としては、ヒトはかって死を経験したことがある
 からだそうだ…。自分は未だこれが真実であるとは思い至れない。

*こ自分としての考察のテーブルはコンピュターをモデルにして考えることとなる。
 プログラム/プロトコルからの逸脱は基本あり得ない。どうして?。
 エラー/バグでしかない挙動だから。次点においては、プログラム的にバグと見なされて
 削除されるといった羽目となる。全体最適化を目的として修正がされる。

*そのおかしな挙動を引き起こした、顕した、示した、根拠たるものは、
 その

こととなった。ここにこそ恐怖の感情の起伏の根拠があるのでは
 ないだろうか?。かっての死の記憶ではなく。現存におけるその全体構成を一部であっても
 つまりは肉ね、失うことは存在の基盤を失うことであって、このことこそ恐怖としての
 反応が起こるのではないか?。多分プログラム的な反応の次元ではないところで、魂レベル
 で果たされる極めて稀な反応なのだと思う…。

*ひとの魂としてはそうなのだろうが、それ以前に動物次元で強制的に働く本能に起因する、
 感情反応なのではないだろうか?。絶対優先命題みたいな指令があって、全ては突如、
 これに一律で支配されてしまう。その執行スイッチが恐怖なのではないだろうか?
 『絶対に、その生存を。他存在からの攻撃によって失ってはならない』がその指令…。
 
*まあここで強調し、確認しておきたいのは、”自死”に関わる可能性にヒトが際してだ。
 ヒトのこころは反射的に、制御できなほどまでに大きく揺り動かされてしまうこととなる。
 この感情反応は理性的な次元を吹っ飛ばしてしまう。だって緊急事態だから。
 最優先とされる行動原理は、脅威たるものの絶対排除となる…。
 

閑話休題。このソフトウェアなるものはメモリに収められて保存されている。ではどういった形態、記述方法で保存されているのか?が重要。DNAなんて他人任せなものではない。ヒトの場合は、ヒトのみの特殊性に関わってくるのだが、その特徴は物語性として記憶に蓄えられることにある。つまりは起承転結の展開をユニットとして、これに

に関わる意味合いが/注意事項が、重要情報(社会コード)として関連付けられ記憶として定着される/されているのだ。多分、情報の括りとして至極効率がいいんだ。感情としても参加がしやすくなる。それに推進役、もしくはストッパーとしての関連における役割を持たせやすくなる。

以降に、いざ何かに取り組もうとした際に、その筋書きとしてのシュミレーションを走らせる(考慮する)為のサーキットとして利用される。その結果出力において、やったりやんなかったりが選択される。この物語性たるものが、一番、記憶保持するにおいては根付きがいいんだろうね。一切の情報の取りまとめ/整理/括りもダントツに効率化されたものとなる。
多分、参照するにおいて最も楽なんだ…。

そして、実際の行動たる、実行を行うべくのハードウェアが存在する。
プロセッサーって呼称がついているところに注目。
ある決められた手順において実行を実際に行うプロセス自体が存在する。
その行為を実際になすものがこれ。

*ここで念頭においてもらいたいのは、決めたはいいけど「誰がやんの?」ってな事態さ。
 自分においてでさえ、決めたことを実行せず仕舞いに終わるってことは
 よくある話しだよね。ある領域においては、つまりは自然が用意管理するところでは、
 自動的に、然るべく過つことなく全てが完全に執行される。

***事態がさ〜、ややこしいって言うかー、対処に困るってな事態もあるじゃない?。
担当者たるものがパニクって、泡くって、一切合切責任を投げ出して逃走してしまうってな
事態も当然にある得るよねー。真っ先に機長が/船長が逃げ出しましたーーーみたいなwww。
そん時には、「誰が?」操縦桿を握ることになっているのだろうか?。
そしてそいつは、然るべく責任を果たす意志を持ち合わせてはいるのだろうか?。***

実行責任者としてのプロセッサーはソフトからの指示を読み込み、実行に移すことで、
初めてコンピュータは働くことになる。

命令セットと呼ばれている。まさしく職務規定"のようなもの。
その数はとんでもない程のパターンを書き込むことができる。
ましてや人間になれば…。

その命令セット、遺伝子情報におけるプロトコルの作成をやったのは、
人知を遥かに超えた不可侵不可触の天界の存在…。
もしその全容を全貌を正しく読み解け、また利用できるるものがいるとしたら、
同じく天より来たるの存在しかあるまい…。

なんか、人間の写しだって話し…この土俵にて強制合体の話しやるんだってこと
わかってきてもらえたのではないだろうか?…。


Re: ナイーブな…ほんに、ほなこつ、人間たるものはナイーブな…。

ここでのナイーブの意味は、フランス語の「naïve」の意味そのままに、
「童心的」「うぶ」「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」を表す。
英語のセンシティブ「 sensitive 」としての意味合いも当然に含まれている。
こっちにおいては「外部の刺激に反応しやすい」という意味合いをベースに
「敏感な」「鋭敏な」「過敏な」「繊細な」の性質を表すこととなる。

『人格たるものは、ほぼバッファー(緩衝装置)だけで出来上がっている。』(G)
*(少し表現は違っていたかもしれないが、これでいこう…。)

「え〜と」ですねーーーここでのテーマは「トラウマにおいて」になります。

NG 氏の創作には、彼の保持保有する”ドラウマ”が大きく関わっている。
はっきり言ってペインボディーとしての

が、むくりとその正体、存在を
もたげて来ることこそが創作の原動力、源泉、契機となっている。こんなふうに以前に述べた。

最初にナイーブやセンシティブの意味をあげたのには訳がある。
そしてGの語録を添えたのにも…。

何かの感受/認知/認識において、衝撃を受けた。
それも、こころにおいては整理や理解が叶い得ない不条理な体験として。
自分としては、一切受け付けられない、絶対拒絶忌避恐怖の内容、現実、事態として。
バッファーの効かないところで、防衛機構を掻い潜って、
そこにある内容は届けられた。

自分は直視/認知/感受してしまった。

その時点におけるバッファーが未だ乏しい状態であったが故に、上手い処理が叶う訳もなく、
それは突如の予想外の出来事にしかず、ただ強烈なショックとして、その一瞬ののみが、
丸ごと切り取られて、記録盤に刻まれてしまう。その記憶は、未消化/未整理の状態で記憶に
留まり、丸ごとが封印されてしまうようになる…。”傷”だって解釈することができる。
それも何やらしぶとい加減の

宿

”傷”…。

それは自分だけでは持て余してしまう、本質的にはかわいそうな話し、日常における悲劇/恐怖の体験話し、残酷にして滑稽なままでうら悲しいの限りの、剥き出しの現実。その様子、その断片…。他者においての出来事の筈なのに、その一瞬において、自分は完全に同化してしまって、まるで我がことの如くかのようにして擬似体験してしまったー!。

当然、その結果としては、自己の内面から湧き起こるのは、その事態から
一切をかなぐり捨ててでも、脱兎の如く逃げ去りたい、意識から即座に
消し去りたいといった思い出、その記憶、その時のやるせない衝動のみ…。

*この対処対応処置こそが問題。ことを未処理のまま残してしまうもんだから。
 ことをより余計ややこしい、もうにっちもさっちもいかない事態へとしてしまう…。

そんで、兎に角、忘れ去ろうとするのだけれど、未処理のまんまなもんなんで、根深いところ
では残ってしまう。その情報は切り取られて、記憶に刻まれたときのまんまだ。そして、タチの悪いことには、記憶のフラッシュバックが、時に関わらずして、のべつ幕なしに起こって来るではないか!。これが何故か止まない。感情における味わいがあまりに強烈であったがためだ。
たとえ時を十分長く置いたとしても、その記憶は、完璧に、クッキリ、はっきり、明瞭に、
鮮やかに、甦ってくるではないかーーー!。(その時の内部のフォーメーション、感情エネルギーの横溢がその時のまんまで再現されてしまう…改めて適切に処理されることを求めて…。)

あーーーこのこと

に関わる、
その自分の記憶力の良さこそが呪われるべきかなーーー!。

デビルマンの読後体験こそまさにそう言ったトラウマであったのではないだろうか?。
あとはロメロによるゾンビ映画、三部作でもう十分。
このトラウマの処理こそが、今、自分がやっていることになるー。

同じトラウマを受けたのであろう、身近にみる表現者たちがやっているのは、それの再現だ。
同じような体験を表現の中にて繰り返している。これも彼らにしては、止むせない思いで、
動機でやっているだけのことなのだろうが…。これはどうしてそうなるかは分かるのだが、
完全に間違った対処法になる。そのトラウマたる刻印を、その刻まれたる楔を、余計更に根深くすることにしかならないのに。自身において受けたダメージ、その痕跡による悪影響がより強化されていってしまう、その曖昧なるままで、どんどん増幅増殖されてしまうだけ。表現とは名ばかりで、伝染病みたいなもんこしらえているって訳なのさ。それらによって新たな似たような宿主がどんどん生まれてきて、更に同じことを繰り返してまたさらに広まっていってしまう…。

「あんたら一体何やってんの?」って思ってしまう。



ごっつより『こうま』名作です。

*ダウンタウンの『ごっつ』の中に、トラウマを材料にしたコントを数多観ることができる。
 

だろね。そんで、そこにある間違いを述べるなら、彼が救われ難いと思って
 しまうのは、彼が幼少期にかわいそうだ、哀れだと、強く共感認識したものを/相手を
 再現することにおいて、自らの手によって完膚なきまでに叩き潰してしまうのだーーー!。
 彼は本当はかなり優しくデリケートな本質と持っている。それ故にトラウマとして刻まれて
 しまったそれら哀れとしての”塊”としか思いようのないものたちを、かってのままに、
 無慈悲に扱って、その展開こをを笑い飛ばすことによってカタルシスを得ようとする。
 これって彼自身にとって、完璧によくないやり方になる…。何故か?。
 その相手を何とかしてあげる、救ってあげる、痛みを早く終わらせてあげることが正解で、
 これをすることによって自身の魂、良心が、健全性や安心を保てることとなるのだから。
 彼のやったことは自身においての再現、その破壊、そして更なる問題の先送りに過ぎない。

追記:

今が悪しき時であることの証としては…

何らかの

、それらからの脱出、その解消を語るならば価値はある。
ただし正攻法としての堅実にして健康的なるものに限定されるのだが。
だがそのインパクのみを全面にして、その後に何ら責任を取らない構成のみであったならば、
悪夢汚物の垂れ流し投げつけ、精神混乱薄弱、狂気をのものの曝け出しにすぎない。

現在の表現における定番といえば、とにかくヒトの関心、注意を引くものであればなんでもいいのだ。ターゲットはヒトの健全な理論における貧弱性。そしてあれやこれやの創作におけるアイデアは感情に働きかける梃子として計算された考案にすぎず。異常性でさえもその為の材料とされる。エログロナンセンスこれら三つが必須のエッセンスと自覚されているはずだ。

まずは知られること。インパクトを与えるをもって憶えてもらう。
背景にあるのは視聴率への配慮と、後の円盤販売による資金回収と利益の考慮。
その算段しか実質頭の中にはないのであろう…。

注)自分はこの社会情勢を憂いるものではあっても批判するものではない。
  大勢とはそういったトレンドに傾くものなのだから。
  だが、一部は、自覚の元、断固距離を置くことをお勧めするまで。


でもやはり罪深きは、最初の表現者たち、パイオニアらになってしまうだろうね!。

ではあったではあろうが、自身のトラウマを伝播させるべく、
その表現を行っていたのだから。
あまつさえその見下げた行為を金儲けの手段として何ら恥じていなかった。
それを商品として扱ったメディア関係者たちにも当然、責任はある。

悪貨は良貨を駆逐するの伝えのままになってゆく…。


追記:

人格は、ほぼバッファーだけで出来上がっている。緩衝装置としての役目たるのが現在の主流であり、主たる役割として成り下がってしまっている。要は、余計な/無駄な/対処のしようのない/よって邪魔な、社会生活と送るうえで、良心の呵責や負い目、何かに罪悪感を感じたり自己を恥じたりすることのないよう働く心の機微、対処の姿勢選択みたいなもの。取り込まれて既に習慣化されている思考様式を指す。元々は、成長過程において身近な人々、世間を見渡して、無自覚/意識して真似た取り込んだ、コピーした、社会常識/社会通念全般だってことにはなるな。
*社会環境や教育が然るべく機能するのならば、全く違う機能構成へと至り得るのだが…。

これの習得過程にある幼少期の子供なんかの場合にトラウマが刻まれてしまうが起こりやすい。バッファーを掻い潜って、いや、そもそも未完成でその効力を完全には発揮できない状態なので、不幸なことにその歓迎しない情報を丸々受信してしまう…。完全に素の思いもて感受されてしまう。また自他の区別、本当と作り物の区別も曖昧なので、例え見ず知らずの他人のことであってさえも、創作上のお話の展開であったとしても、そこにある/表現された悲劇の現実を、
惨劇を、まるで自己の体験かと思うばかりに受け止めてしまう…。
そんでそういうことになりやすい…。

「その物語の世界に引き込まれてしまったもんだから…」なのだろうね。

いくつか例を、”悪いが”、挙げさせて頂こう。

簡単なのは交通事故の目撃者となってしまった。
かなりの惨劇となっており、もう一生あの光景を忘れることはできないだろう…。
同じような話で飛び降り自殺、礫死体の発生現場…。

ニュースとしては…:
とある女子高生が妊娠して子供を産んだ。誰にも知られることもなく。
でもその乳児の実在だけはもうどうしようもなく、その娘は、錯乱の挙句、
怒りにませて自ら精神的ヒステリーに陥り、とうとう…。
もっと簡単なのでは、お財布に数十円しかない人が今あそこの公園にいる。
今晩は0℃以下になる予想だ…。
単身者の若者。コロナに感染してしまう。だが自宅待機を求められており、自身のみにて
しのがなねばならない。呼吸することさえもうかなりしんどくてベッドから動けない。
水や食料は届けられるのだが、心に思うのは心配としての、このままでの自死…。
老いた同居の親が亡くなった。だがこの事実は隠蔽しなければならない。
親の年金だけが命綱なのだから…。

自分なんかの場合も色々と数々、忘れ難き記憶ってのはあるわけさ。
中にはテレビで見ただけの高速で男女のカップルが車に吹っ飛ばされてゆくやつとか
単なるネットのニュースで確認しただけのものとか…。

朝はお仏壇の前で、自分の一族の供養をやってる。続けて母方の亡くなられた方々。
そんで自分がお世話になったもう鬼籍に入られてしまっている全ての方々。
続いて昔に心斎橋で人身事故にあったあの方のご冥福をお祈りする。
多分、その役をさせる為にあの場に連れていかれたのだとの理解において。
そして浮かばれないであろうあれらのかわいそうな不遇な最後を迎えた魂たち。
みんな思い出して、ナンマンダブを唱えてあげるのさ。
正体不明の嗚咽が引き起こり泣きながらご冥福を祈って差し上げている。

もし実際、身近に接したならば、絶対にやれることだけはやらねばと覚悟しています。

追記の追記:実は本稿を編んでいる時点で、私の体調はえらくダウンしている。
別段熱も咳もなかったのだが、えらくしんどくって意識が朦朧としていた。
ゼナF -IIを三本入れて二晩かけてようやく現在持ち直しつつある…。

ここの部分はくどくどしくやっておきたい!。

繰り返しておきます。
大人になって人格が発達してくると、こういった他人の不幸に関して見知ったとしても、
あまり気に病むことはなくなる。何故か?。タフになったから。もしくは感受性が鈍く
なったから。そういちいちその手のニュースに気を取られることもない。自分のことで
忙しいのだから。身入りとしてのお金のこととポストに関することが全てとなる。
だが一旦自分がそちら不幸の立場になったならば、お話は別だ。おそらくは慌てふためく
こととなる。そして外に向けての魂の叫びとして助けを求めることになるのは
まず間違いのないこと。背理だよね…。矛盾だよね…。お笑い草…。

各個の重心として、存在の重さなるものがある。これは知恵と実行力の相互関係、
その相互関係の次戦における練磨によって特徴づけされるものだとしておこう…。

少し脱線して、民謡においてを例にしよう。歴史が長い分、その洗練度には大変なものがある。これは自身が実際に民謡を習い唄うようなってから初めて分かること。まあ、言いたいのは、
あれだ、…、単なる評論家には何の価値もない。もしくは軟弱で強弱でしかない知者は何の役にも立たないが分かりやすいかな?。自分ができもしないことにおいて他人にあれこれアドバイスすることはおこがましい。恥ずべき行いでしかない。このことに関してはまた別に、正しく伝統の精華たるものを知らず、教えられず、ただ我流にて出来上がっている歌手も、その存在には価値はない。ただ存在のみが、実践によって積み重ねられ、鍛えられてきたものも駄目!。多分、自己満の権化でただただ嵩高い存在であるばかり。欠落するのは『真『善『美』を直感させる洗練調和の要素。

閑話休題。各個の存在は(その理想的な意味合いにおいて)広がり重みを増し深まってゆくべきものなのだ。そうなるべくしてサポートとして世界は現れてくる/いる。各個に相応しい助けとなるように!。いいかい、各個、それぞれに合わせて世界は、プラクリティーたるものは、状況を逐次創造しているんだぜ。それも個々の相互関係も計算に入れて!。

長くなるがやっておこう…。
人生における成長期には、星辰によって刻まれた、遺伝によって元々獲得されている、さらには前世での成果に基づいて、これを強みとして働かせるべくの人格が、『型/行動スタイル/特徴』として自然と形作られ、そして強化される。他者に対しての、ある種の優位性を誰もが獲得する為にだ。だが他人との相互関係においてそれが万能ではない/無敵ではないことも、何処かで
意識されるようにもなる。お互いの発する活性元素の相互反応が、特別な、価値ある現象であることも理解されるようにもなる。相性やまとまりみたいなもんをイメージしてもらえればいい。
当然に反吐が出るほどアイツ、アイツら嫌いもありすね。

そんで、ある時節からは、自己の強みが無力化されてしまうような局面がやってくる。それも自然に。間違いなく。確定的に。それは必然として。これは自分がこれまで権勢を発揮できた、その基盤たるものが突如、取り上げられて、失われて全くの無力とされてしまったみたいな表れ方となるのかもしれない。とにかくだ、これもある意味健全な世界な顕れであると言える。考えようによっては神の、愛の思いからの干渉だ。そういった思惑で、契機として用意されたる事態なのだ。

この局面においてなすべきことを簡単にまとめれば:

自分の内で、未発達のまま放置されている、その子(霊枢)の面倒をちゃんと改めて見なさい。
強みを放棄してでも、自分の出力を損なうようなことになったとしても、それを含めての存在の発現に切り替えなさい。例えば、弱きものを思いやる自分の良心が安らぐよう、目の前の/日常に触れ合う相手にしてあげななさい。

自己満、思い上がりのみにて出来上がっている自分に対する思い込みを改めなさい。
その為の、切っ掛けとなるべくの、日常のドラマは然るべくちゃんと用意してあげます。
あなたは苦しむことになるでしょうが、それは今の貴方にとっては必要なことなのです。
一人だけではどうしようもないことなのですから。バッファーの破壊。それを無効化すること、それから自由になることこそが大事なのです。貴方は愛をこれまで一切実行してこなかった。
人に、動物に、植物に、花に、そして何より自分に対してでさえ…。その努力によってこそ、
貴方の内のフォーメイションが改変される可能性が初めて出てくるのです。

これも可能性としての選択可能な道の内の一つに過ぎないな。
他にも道はあるのであろう。
信じるか信じないか、選ぶ選ばないかは、個人の選択においてでしかない。
ここに語られるは、単なる御伽噺でしかないのだから…。

この御伽噺にどっぷり嵌って頑張ったとしたならば、以下のような、
こんな展開もまたお話しとしてあり得るのさ…。

同じシステム、同じ目的において作動する巨大な世界内に人類の全員が生きている。
このことが理解されるようになる。
このシステムから自由になることこそが人生における真の目標とされるべきものなのだと。
その鍵はやはり…超越者からの導きを前提としない限り成功はおぼつかない。
何故なら、システムの基本的作動原理は、我欲に対して、それの隆盛を叶えつつも、
最後には徹底的に絶望させる結末たるを用意することにあるのだから…。
求めて、然るべくして得ることが叶うものではまったくないのだ。
与えられる、それの到来を、待つしかない事態としてしかあり得ない。

では!、そうならば!、

は、いかなるヒトなれば、
そうすることを思い付かれ、
実行されるのであろうか?。

聖書からのアドバイス:

[マルコ13-33〜35]
Be on guard! Be alert ! You do not know when that time will come.
It's like a man going away: He leaves his house and puts his servants in charge,
each with his assigned task, and tells the one at the door to keep watch.

気をつけて、しっかりと目を覚ましていなさい。(意識的に生活していなさい)
その時が、いつ到来するのかを、あなた方は知り得ないようなっているのだから…。
それは、喩えて言うならば、ちょうど、ある金持が、旅行に出かけようとしていて、
出立前に、僕たち全員を呼び集め、全権をゆだね、ひとりひとりに仕事を割り当て、
また門番には絶えず目を覚まして我が家を守れ、と言いつけるようなものである。

Therefore keep watch because you do not know when the owner of the house will come back
--whether in the evening, or at midnight, or when the rooster crows, or at dawn.
If he comes suddenly, do not let him find you sleeping.

故に監視を怠ることのないように。目覚めた状態であることを絶えず意識して留まり、
自己の内と外にて起こる出来事に関して、注意して、健全なる認識もて、生活することに
怠りなくありなさい。あなたがたには、それがいつのことになるのか、いつ主人が本当に
帰ってくるのか、それは夕方のことなのか、夜中のことになるのか、それとも鶏の鳴く
明け方のことであるのか、それはまったく分からないことなのだから…。
(強意訳byMe)

もう一ヶ所:

[マタイ25-1〜25]
その(終わりの)時の、天国たるやをたとへれば、
十人の乙女おりて、そのそれぞれが灯明を持って、花むこを迎えに出かける。
もの状況に似たる。それら乙女らの中の五人は思慮の浅く、残る五人は思慮深き者だった。
思慮の浅い者たちは、最初灯明を持っていたが、油の用意はしなかった。それを怠った。
賢いおとめたちは、己が灯明が燃え尽きないよう、壺に油を十分に足して持っていった。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
"At midnight the cry rang out: `Here's the bridegroom! Come out to meet him!'
真夜中ごろ『花婿のご到着です!。皆急いでお迎えしなさい!』と叫ぶ声がした。
ところが、その折、思慮の浅い女たちの灯明においては、油がつきかかっており、
まさに今消えんとしているではないか。そこで彼女らは慌てて思慮深い女たちに向かって
『すまないが、あなたがたの油をわたしたちに少しわけてください。』とお願いした。
この求めに対して、賢いおとめたちは、『分けてあげれるほど残りは多くありません。
それよりも、急いで店に行って必要な分を買ってこられるのがいい。』
しかし愚かなおとめたちが急いで油を買い求めて行っている間に、花婿が到着してしまった。
用意のできていた準備のできていた賢い乙女五人は、花婿と一緒に婚宴の席へと入り、
そして入り口の戸はきつく閉められてしまった…。少しあとになってあの愚かな乙女たちが
慌ててやって来て『御主人さま、御主人さま、あけてください』と入り口の前で声を上げた。
"But he replied, `I tell you the truth, I don't know you.'
しかし、花婿たる主がその求めの声に返した、その答えたるは、
『真実を語るならば、私は、あなたたちを知らない』だった…。
Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour.
故に…分かるだろ…。
だから(たえず)目を覚ましていなさい。
あなた達は(人の子が

再臨するのか)その日も時間も知らないのだから。

[意訳:byMe]


なんか大変そう…またスパンが長そう…。

もっと端的に簡単なものとするならば!。

彼の目に映る、それに見合う存在を備えた人間だと、なるのではないだろうか?

自分の心をすべて傾け、真の憐れみをもって隣人を助けるということは、
どういうことなのか?、これを本気で考えてみる必要がある。

自分が、自分の良心が、真実他人に対して思う感じるがままに、それの求めを叶えてあげたい。
そうできるように努力、試行錯誤を積み重ねたい。何故なら自分も自分自身が幸せであること、健全に無事に生きて今ここに存在していることに感謝をするからだ。
何よりそう願う自分こそを大事に愛おしく思い、深く愛しているからだ…。

『私は今ここに、完全に実在して在ることを徹底する。(全感覚印象による確信/確認/信任)
 私は真実、本当に、完璧に、今ここに存在して在ることを、そうできることを欲し願う。
 私が関わる全ての人々にとって、

!!!』 

(I AM, I WISH TO BE, FOR THEM)

あれを抜粋して改稿いたしました…。

あとね〜、…あなたは食卓が汚れているのが嫌いな神経質なタイプだとしよう…。
それで家族がわりかし無頓着だとしよう。あなたはガミガミ家族に説教してはいけない。
あなたが綺麗にすればいいだけなのだから。そんでねーやるときゃー完全に綺麗するの。
神が完全であるように、あなたも完全に完璧に仕事をやり遂げることを旨とするの。
これは天からの求めになる…。

終はり


Re: 同じシステム、同じ目的において作動する巨大な世界内に人類の全員が生きている。
   このことが理解されるようになる。

これ、さっき上で言ったやつ…。

この世たるものの本当の正体を、その理解が求められてくる時節が来るんだわさ…。

無常にして非情にして避け難き、ちゃぶ台返したる事件を通して。これが起になる。
以前とは違う世界/環境に転落することになる。
そんで、自分の生活を立て直そうとして悪戦苦闘する羽目になる。
この時に重要なのが世界の現れに逆らわないってこと…。
自分の欲や望みや拘りをもって抵抗してはいけないの…。
前向きに正攻法で挑むだけでいい。粘り強く。根拠がなくても希望を持って…。
ならば情勢は状況はやがてに変わってゆく。それは全く不本意なものに尽きるでしかないものかも知れないがそれに沿うのが正解。試行錯誤の自己の本分が試される時節。承かな?。
できれば周りを世界の反映を、よく、こっそりと、それに気付かれないようにして観察して
おく。かって所属していた転落した体験を持つからこそ、そのある種の境地は根深く残り、そこから、そのポイントから、内や外の様子を観察することができるよう実はなっている。かっては同一化ばかりであったものが、今や、今度は、それが上手く成り立たない事態となっているのだ。それが/そこで観察において集まってくる情報や知見はこれまた以前には入手の叶わなかったまた新しいタイプのものになる。それらはゆっくりと少しづつ集められてゆく。そしてある分量を越えて集められてくると、また自分の心が定まって落ち着いてくると、総合化を行う為の材料として使えるようになるのだ。何の総合化かと言うと、世界観の再構築、つまりは本当の世界について再考察するための根拠となるのだ。身の回りの世界、世の中に対しての見解が変わる。転としよう。
そこに展望としてあり得るのは、自己を冷徹に見つめそのあり方を理解する自己知の深まり。
同時に自己の外の周りの世界についての新たなモデルの獲得。これはヒトの生活する社会がいかなるものであるのかにおいてと、それを含んで更に巨大で真に本質的なる世界、宇宙全体といったものについての理解になってくる。本来的にこれら二種において働きは異なる。社会は宇宙の反映に如かず、それの目的に操られているだけの傀儡としてしかあり得ない…。なんてねーw。
ここで言っとくなら、こうした実際内容は、自分の頭の中からしか導き出し得ないものなのだ。
誰かの話を鵜呑みにすることもできない。本から回答を探しても納得したものがそこにある訳が基本あり得ないんだ。これまでに学習したことは助けにしかならない。自分がその境遇において捕まえて感知して察したことのみが考察の材料とされるべきなのだ。それらにしか意味はない。

追記:最重要の課題として定められることがある。あなたにとって、絶対にあってもらわなければ困る何か、大切な重要な何か、それらはあってこそが当然たるもの、それらの放棄、犠牲である。食べ物なんかが分かりやすいだろう。数が少ないので、自分の分は諦めて、家族子供に行き渡るようにする。こういった犠牲は、誰か愛するもの/責任があるものがいないと無理だろうね。だって自己犠牲を決断させるものは、いつも誰かへの思いやり、ズバリは愛なのだから…。
その実行は少なからずあなたにショックをもたらすことになる。それは小さな死であるのだからだ。これの繰り返し、その積み重ねが必要なのだ。Gも言ってた通り、その犠牲は永遠には続かない。長くとも六年かな?。そのあとは実はお楽しみーーー!。

すると…究極的にはある存在に関してが突如、念頭には結ばれて離れなくなってしまう。その実在を触れることなく観ることなく直接感知することがなくとも意識してしまうようになる。すべてを統べる方に関してをだ…。

、間接的に、帰納的にではあるが、それの実在における作用を干渉を示唆を感知すること察することが当たり前になる。あくまで抽象的な存在でしかなく幽霊もしくは聖霊としてしか思われないに尽きるのだが…。

そうれなればもう結に等しい。かって吸収したはいいが、大事に意識に留められることもなく、どこか彼方に埋もれてしまっていた、数々のガイドとしての情報群が、突如意識に浮上してくることになる。本当に大事にして信奉しておくべきであったことが改めて確認されることとなる。

さて、長くなってしまった…。

ある種の特殊な境地でことを見定めているのが本当の自分。プルシャなんかもね?。
それを中心として自己を世界を再統合して、生きるのが本来の生。そして願うのさ、
祈るようになるのさ…「神よ、どうか、私を、貴方のお役に立つようお使いください
ますようにーーー!」って。あなた様からのインスピレーションが無ければ
私はいつも萎れたままで、何も意義あること価値あることはできませぬーーーって。


*これってさー、2Fにおける第10話Cocoon繭3の台本じゃん。
 あそこは勿体つけて引き伸ばしてるのにー。w。
 いや3は締めとして、その内容は本当に精緻に誤り抜かりないよう誠実にまとめようと
 考えているしてるだけなんです。まっいいかー書いちゃったもんは仕方がないーー。


今回はここまで。


このまま、ここで、近日中に再開してまた続けます…。

今回はおもろないで〜。


読むのは時間の無駄やで〜〜〜。(老婆心)



あっ、そうそう。

1972年の十年後、1982年に初公開されたとある映画が思い出されてしょうがなかったんだ。


" The Thing "


スクロールするな!











「あ〜っ、見ぃちゃったー。俺知らないよ…」(小林P岳夫(たけお)ちゃん)

 実写版ではないでしょうか!

 わかるでしょう?

 完全に狂った世界でしかんない。

 辛い思いして文章書いているんだわさーーー。

 バイビー
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