第28話

文字数 1,293文字

 ゾロアスター(フリードリッヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラ」に同じ。所謂拝火教の教祖)教の善悪二元的な世界観はその後の様々な宗教にも影響を与えているとも云われている。クィーンの映画でフレディ・マーキュリーも「パキスタン人」と他の英国人に差別されていたように見えるシーンも垣間見られ、彼も死後、この宗教に則って、葬られたようである。

 すべての人間が神か悪魔の善か悪かのどちらかに与している存在で、これによって、キリストの再臨において復活できるか否かが決せられる、という教え・考えは、わかりやすくスッキリできる方々も少なくないようであるが、自分はその様なモノクロームの世界は好きではなく、馴染めない。神も悪魔も存在しているであろう。何故なら、(そういう)言葉がある故。言葉にあるものは凡そすべて存在する。どのような形で存在しているかは、人それぞれではあろうが。
 人には人の存在様態があり、人間(人の間)とは倫理である、と和辻哲郎が教えてくれている。すべての人間は、神でも悪魔でもなく、人としての在り方・生きて行く道があり、善悪というわかりやすい神でも悪魔でもない、その間(あわい)の存在としての人独自の生き行く・進む道があろう、そう自身は考えている。

 人には自分と違う価値観などを「悪」と判断してしまう性向がある。特に、真っ向から、対立する感じ方・考え・想いに対し、その想いが強い。神の罰を説くことにより、優秀だと自他ともに認じている者たちは人々を支配し、都合の良い「善を掲げ」人々を支配し、虐げ、収奪する。真に優れたものであるのなら、何故、他者に慈愛をもって接し、その幸せをも考慮してやれぬのか。エリートとは選ばれた良き人のことを言うのではないのか。そういう存在である人が、己の所有を大きくすることを第一に考え、他者を使役、恣にコントロールすることしか考えないのは不可思議にしか感じ得ない。

 その無慈悲な性向は生まれついたもので変えようがないものであるのなら、幾ら話し合ってもどうにも出来ぬものであるのなら、自分はそのような人々から、そっと離れよう、そう考えている。棲み分ける、それがお互いの幸せにとって最もよいことだろう。

 先の世界大戦があった時、わが国にはある大学に研究者がいて、彼は自身の研究に没頭するあまり、周りの人の大騒ぎなどにも気づかず、国家が総動員で戦争に臨んでいたのも知らなかったという。これは、作り話のようであるが、実話であるという。

 彼の外の世界には戦争で喧しい人の世があったが、彼の内・上・周りには戦争は存在しなかった、と自分は考える。棲み分けるということの一例はこういうことである。つまり、生きている意識がかけ離れているいるが故、存在している次元・領域が違い、殆ど周りの自身とは合わないものとは関係なく生活していけること。多くの価値観が違う人々と違う次元の存在となり、自身の静穏を維持し生きていける。そんな時空を小さな集落でいいから、同じような価値を持つ人々と営み、楽しんでいれたら、大艱難とか終末とか騒いでいる世界の中でも幸せに暮らしていれる、そう考えている。
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