第4話

文字数 1,018文字

 鍵は日常にある。すべての人・存在は表現者だ。

 人間は比べる・比べてしまう存在だ。それがいいか・悪いか。本来はどちらでもない。だが、その比較を実行した結果、自身や他者との幸福につなげられたら、それは素晴らしい。「面白き事満載の世の中を楽しめぬなら心開けよ」

 生きるということは苦しくて、切なくて、悲しくて、辛くて、堪らないことも沢山あって、自分を殺めてしまう人もいっぱいいる。それが、とても悲しい。

 悩み(汝=「な」の闇)。つまり、あなたは逡巡や苦悶の中にいる時、闇の中にいる。だから、外からの光に気づき、自身を照らしてみよう。

 人と関わったり、映画や観光、本を読んだり、絵などの芸術を堪能したり、音楽に合わせて踊ったり……。

 この世界には、想像を絶する苦しさや悲しさを乗り越え、人々の光となった(なっている)人が沢山いて感激するに違いない。「世界中の苦しみを自分の肩に背負う」ことなく、氣楽に氣軽に氣長にやっていかない?

 心が疲弊している時、大切なのは休息と笑うこと。生きているとなにが待っているか、起きてくるか、心底から感謝するほど嬉しいことに巡り逢うこともある。そう信じて、今はとても苦しいかもしれないけど明日への扉を開け続けて行こう。

 確か、三歳ぐらいの砌(みぎり)、母に「人は死ぬ」=自分も死ぬ、と教えられ、怖くて悲しくて、暫く声をあげて泣いた。人にとって「死」こそが最大の苦悩・懊悩の原因ではなかろうか。「不安」が人間の常態なのは「死をどこかで意識している」からだろう。

 「死」という概念を知って半世紀ほどたったある日、「吾々(=自分)はこの世界が存在し始めた時から、常になにものかとしてあり続け、この世界が消滅しない限り、常に何者かとして存在し続けて行く」ことに、世界を観察してして気づいた。

 その事実・真実によって、自分は半ばではあるが安心立命を得た。「半ば」であるのは、自力でなんとかしようとしていること・時が大であるからである。それが例え、大いなる者の掌(たなごころ)の中での遊戯であったとしても、そのような生を活きていなければ「真に生きている」という実感が味わえないから、である。

 自身の欲するままに生き、泣きたいときに泣き、したいことのみして、自身の本分を全うしよう。そして、人々と交歓し、愛し愛され、人々・世の光となり、闇の中で苦しむ人に自らの光を届けよう。闇は光の敵ではなく、常に随伴している「友」である。
 
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