第7話

文字数 1,190文字

 文字(エクリチュール)には、知識を智慧から叡智に変容させる力(フォース)があるという。それには、昨今、もてはやされている「速読」によっては困難で、「熟読」「熟考」することによって実現化が高まるという。

 プラトンはその作品の中で、文字というメディアは人々を愚かにする因である、というようなことを述べていたと聴いているが、人というのは新たなメディアや生活様式が採用される度、それを危惧する存在であるようだ。

 新たなことに人々が慣れ、広く流布してしまうと、最早、そのものなしの生活に戻ることは殆ど不可能で、生活のエントロピーは増大していく一方だ。゜

 「読む」ということは主体的・積極的・能動的な営為だ。動画を見たり、なにかを聴くという行為は、或る種、ひとりでに入ってくるもので、「読む」ことに比べれば、とても楽である。それが、読書が叡智を齎してくれる因であるように想われる。

 「売れる・売れない」「広く認知されている・いない」「高評価か否か」は気になって仕方のないことだろう、文字を記す者たれば。だが、誰かの胸の深奥までは必ず届く、そう信じ、文章表現を続けて行こう。記すことによって、先ず救われ、生きて行く力を与えられているのは、表現者本人である。「自分は流行情報(例えば、『今、儲かる暗合資産』とか『アツイ副業』など。筆者本人が想いついたまま述べた架空の本の題名だが、実在したとしたら、大変恐縮です)を扱っているのではなく、不易なる叡智慧を世に問うて変容を促さんとしているのだ、という気概で、愛を以て人々に語りかけるように文章を紡いでいたい。自分にとって文章表現とは、生であり、快楽であり、(身心)脱落だ。

 傷ついても、落胆させられても、騙されても、純なる・穢れもしない魂を保ち続け、孤独や誘惑にも克ち、見えない羽で恐れを飛び越え、光に変え、自他を信頼し、起きている(くる)ことは常に自身にとって最善である、ことを自己の悦ばしき知識としよう。

 「飛ばねぇ豚はただの豚だ」という台詞があるが「書けねぇ文士はただの死者」の如き存在であると感じる。冒頭の著述から「メイ・ザ・エクリチュール・ビー・ウィズ・ユー」=「エクリと共にあれ」。何となれば、エクリチュールは力(フォース)であるが故。

 動画全盛期を迎え、文字を読まぬ人・読めぬ人が増えているという。人とは楽な方に流れ易き性質を持つ。斯く言う筆者も、本を取り寄せ読むより手軽で楽な動画をつけ流しつつ、この文を記している。

 文芸=文章芸術は、自身にとっては商品ではない。商品とは「消費」され、やがて「破棄」されるであろうものである。自負している文芸作品とは、愛され、残され、大事に保存され続けていくものだ。流行に乘れば(或いは仕掛て、創り出せば)多くの作品が商品化する。文芸はコピー=「複製」芸術故、各各の境地により左右される処が大きい。
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