第2話

文字数 6,316文字

 十一月九日の朝。私はいつも通り、七時半から四十五分くらいに起きたかと思う。起きてすぐに母の寝顔を見るのが日課だった私は、半開きにしてあるドアの隙間から母の姿を確認した。母はいつも通り、仰向けで首を少し左に傾けて眠っていた。
 台所に行くと、先に起きていた父から、母が五時前に起きてベッドから出ようとしていたという話を聞いた。「朝ご飯を作る」と言っていたらしく、父がそれを止めたとのことだった。そういえば朝方隣の寝室から声が聞こえていたが、父が対応してくれているのがわかったので、私は様子を見に行かずにそのまま眠ってしまった。
 このときなぜ確認しに行かなかったのか。ここにも悔いが残る。
 「ベッドから出るのを諦めるまでしばらく起きてたから、今日も朝ご飯には起きてこないと思うよ」
 「あんまり夜早く寝かせると、朝騒ぐからよくないかもね」
 そんなことを話しながら、父と二人で簡単な朝食を済ませた。ここ最近母は朝起きるのがどんどん遅くなってきていたが、よく寝た方が機嫌もいいしおぼつかない足の運びも多少はよくなるので、ゆっくり寝かせるようにしていた。起きてきたら食べさせようと、母の分の朝食は冷蔵庫と電子レンジにしまっておいた。
 朝食の後片付けや洗濯などを済ませ、私は自室でだらだらと過ごしながらリモートワークの始業の十時を待った。その間、父はいつも通り家中隈なく掃除機をかけていた。十時少し前に母の様子を見に行くと、相変わらず同じ体勢でぐっすりと眠っていた。母はいつも寝返りを打たずに寝ており、体重が軽いせいか今のところ床ずれなどはできたことがなかったが、気を付けるようにしようと思っていたところだった。
 パソコンに向かって一時間が経った頃、トイレに行ったついでに父に「もう十一時だしそろそろ起こす?」と声を掛けた。いや、もしかしたら父から声を掛けてきたかもしれない。このあたりの記憶は曖昧だが、とにかく私たちは二人で母を起こしに向かった。
 母にどんな声を掛けたかは覚えていないが、普通に「朝だよー」などと言って肩を揺すったかと思う。だが、何度肩を揺すっても母は目を開けなかった。父も異変に気付き、二人で母の頬をぺちぺちと叩いたり、瞼を持ち上げたりしたが、母の反応はなかった。掛け布団を捲ると、母はオムツに収まり切らない量の失禁をしており、ベッドの腰回りがぐっちょりと濡れていた。
 父が救急車を要請し、私は泣きながら「お母さん起きて」と声を上げた。わけがわからなかったが、何か大変なことが起きているということは感じていた。
 私はとにかくすぐに着替え、母の保険証などが入ったポーチと処方薬が書かれた用紙をバッグに入れた。そして職場で使用しているチャットアプリに「母の具合が悪そうなので病院に連れて行きます」とだけ一方的に打ち、ノートパソコンを閉じた。父はこの間、電話口の指示に従って母に心臓マッサージをしていたらしい。
 父から玄関の鍵を開けるように言われ、開けるとほぼ同時に救急隊員の方々が次々と入ってきた。要請からものの五分ほどでの到着だった。近所に消防署があることを、このときほど感謝したことはない。
 五、六人の男性が次々と寝室に入り、母を取り囲んで処置を始めた。父はそこに立ち会い、私は廊下で一人の隊員の方から今に至った経緯、母の年齢や病歴などを聞かれた。そして私は救急車に同乗する旨を伝え、母の靴を持って行くように言われたのでビニール袋の束を鞄にぶち込んでから母の靴を持った。言われたわけではなかったが咄嗟にマスクを着用したのは、私が病院慣れしているからかもしれない。父は「後から車で追いかけるから」と言って私を送り出した。
 救急隊員の方とエレベーターで一階に降りると、近所の方と思しき女性二人が立ち話をしながら様子を伺っていた。他にも私たちのことを見ていた人はいたかもしれないが、私は周りなど気にする余裕もなく救急車に乗り込んだ。隊員の一人が、酸素を送るマスクを母の口元に当ててくれていた。私が泣きながら「手を握っても大丈夫ですか?」と聞くと、「大丈夫ですよ。握ってあげてください」と言ってくれたので、私はとにかく母の手を握った。
 搬送先が決まるまでに三十分ほど要しただろうか。その間に救急車の中でもう一度これまでの経緯や、母は心臓に持病があるか、コロナのワクチンを接種しているか、などを聞かれた。母は以前に不整脈を指摘されたことがあるらしかったが、ここ何年も通院して様々な検査を受けても何か言われることはなかったので、私は「心臓に持病はないです」と答えた。ワクチンについては「三回か四回」と答えたが、後から父に確認したところ、実際は五回接種していた。
 それから、母の顔のあざについても質問された。母はこの数日前にも転んで顔面を強打し、鼻やほうれい線周りにくっきりと青あざができていたのだ。私は「パーキンソン病でしょっ中転ぶから、あざだらけなんです」と答えたが、DVを疑われてもおかしくなかっただろう。
 そして、泣きじゃくる私に隊員の方は気を遣いながら、「娘さん、こんなことを聞くのは酷ですが、私たちは処置の資格を持っています。もしもの場合は、人工呼吸器を着けるなどの処置をしますか?」というようなことを聞いた。その丁寧な言い回しから、それがいわゆる「延命措置」を行うかどうかの確認だということはなんとなくわかったが、私は考える間もなくただ泣きながら「なんでもお願いします」と答えた。
 近所の病院からは次々と搬送を断られ、最終的に聞いたことのない隣市の病院に向かうことになった。道中の私は、いくつもに分裂したようだった。ただ混乱する自分と、絶対に助かるに決まっているとどこか他人事のように楽観視する自分、全部夢だと現実逃避する自分、冷静に「兄に連絡しなくちゃ」と考える自分。兄に「お母さんが意識なくて救急車で搬送中です」とスマートフォンでメッセージを送り、あとはただストレッチャーに横たわる母を見つめていた。
 どのくらいで病院に着いたかは覚えていないが、母が降ろされた後、私は隊員の方に支えられながら救急車を降り、院内で必要な書類を記入した。そのあと手狭な診察室のような小部屋に案内され、一人でただ泣き続けた。何をどうしたらいいのかまったくわからなかった。
 待っている間に部屋を出てトイレに行ったが、母がいるであろう処置室で大勢の医師が集まっているのが見えた。私たちを運んでくれた救急隊員の方が、何かを待っているのか廊下に立って処置の様子を遠目に見ていたが、私が頭を下げて前を通ると深く一礼してくれた。
 その後、ただ泣きながら待っていると若くて小柄な男性医師が部屋に来て、母は一度心停止したがすぐに蘇生したこと、そして母が心停止に至った原因はまだわからないことを教えてくれた。
 ここからの時系列は曖昧だが、父が到着し、兄とも連絡が取れ、義姉から電話があり、先ほどの小柄な医師から心臓に原因がある可能性が考えられるので、心臓カテーテル検査をしてもよいかという話があった。母は体力的に弱っているようなのでカテーテル検査にはリスクも伴うと言われたが、それで要因を取り除けるのならと、父が同意書にサインをした。だが、しばらくするとまた医師がやって来て、血液検査の詳細な結果が出たところ、母が異常な低血糖状態であることがわかったと伝えられた。
 低血糖と言われても、全くピンと来なかった。食事量が減っていたとはいえ、母は毎日いちおうは三食口にしていたし、前夜には風呂の後にみかんとアイスを食べていた。それからスポーツドリンクも飲んでいた。それなのに、突然意識を失うほどの低血糖状態に陥ることがあるのだろうか。
 搬送から一時間以上は経過していたかと思うが、母の救命措置が終わったと聞き、父と私はわけがわからないままベッドに眠る母と一緒にICUのあるフロアまで移動した。病院は建て替えたばかりなのかとても綺麗で設備も充実しているように見え、下手に近所の病院に搬送されていたら母は助からなかったかもしれないと感じた。
 待合室でしばらく待たされた後、母の入院の手続きを行った。手続きは至って普通のもので、書類に緊急連絡先などの必要事項、母の病歴や日頃の生活状況などを事細かく記載し、それから看護師さんから準備してほしい物の説明を受けた。浴衣タイプの寝巻き、タオル、オムツ、シャンプー、リンス、ボディーソープ、歯磨きなど。普通に一般病棟に入院するのと同じような説明に、私は安心感を覚えた。
 この時点では母が一体どういう状況なのかまったくわからなかったが、命が助かったのだからなんとかなるのだろうとしか思えなかった。帰宅するまでにもう一度母の顔を見せてもらえたが、そのときの母の様子はあまり覚えていない。私はただ困惑していた。
 その日はコンビニで弁当を買って帰り、それで夕食を済ませた。いつもはビールを飲む父が、この日はビールを飲まずに私と同じお茶を飲んだ。その後、父が遠方に住む母の姉と弟に電話をかけ、母が意識を失って緊急搬送されたということを伝えた。私は伯母との電話に代わってもらい、子供のように伯母に泣きついた。とにかく混乱していて、何がなんだかわからなかった。
 夜、前日に母が一つだけ食べ、パックにあと二つ残っていた大福を一つずつラップに包んで冷凍庫に入れた。母がすぐには帰って来られないだろうことだけは想像が付いたので、冷凍保存しておくことにしたのだ。
 それから、クッキングシートを敷いたラタンバスケットに入れ、ダイニングテーブルに置かれたままになっていた琥珀糖もビニール袋に入れてお菓子の缶にしまった。何日か前に、母が作った琥珀糖。母が作ったと言っても、私が砂糖と粉寒天を入れた水を煮詰めてバットに移し、水で溶かした何種類の色素を準備してから、最後に母が着色をしたものだ。母はなぜか琥珀糖作りにはまっていて、出来が気に入らないと翌日にでもまた作ろうとするので困っていたのだが、今回のものは納得のいく出来だったらしい。日に日に結晶化していくそれを毎日眺めては、少しずつ大事に大事に口にしていた。
 母は必ず帰ってくる。
 私は、自分にそう言い聞かせていた。

 翌日は、面会開始の十四時半に合わせて父と二人で病院に行った。母は変わらず眠っていたので、私は必死に母に声を掛けた。だが、少ししてやって来た医師から、今は脳へのダメージを抑えるために鎮静剤を使って眠らせ、体を低体温状態にしているのだと聞き、一気に体の力が抜けたのを覚えている。医師は月曜の朝まで低体温療法を続け、それから脳波などを測定しないとどの程度脳にダメージがいっているのかはわからないとも言ったが、私は「わざと眠らせているのなら、起きるに違いない」としか思わなかった。口から人工呼吸器のチューブを挿れられ、他にもたくさんの管に繋がれてはいたが、母は本当にただ眠っているだけに見えたし、心拍や血圧も安定していると聞いたので何も心配することはないと確信していた。すぐにでも行ったほうがいいかと気に掛けてくれていた兄にも状況を伝え、兄夫婦には翌日の土曜日に来てもらうことになった。
 翌日、十四時過ぎに病院の総合受付前で落ち合った私たちと兄夫婦はICUのあるフロアの待合室に行き、面会時間になるのを待った。これまでの経緯を兄夫婦に話し、十四時半になると兄と私の二人がICUに向かった。面会は親族のみ一日一回、二人までという制限があったので、父と義姉にはそのまま待合室で待ってもらうしかなかったのだ。
 変わらず眠る母を眺めながら、私は兄に最近の母の様子などを話した。たまたま兄夫婦は十月下旬に家に顔を出してくれていたので、母の認知症が始まっていることは気付いているようだった。母はその日、家に祖母が描いた絵があると言い張り、兄と義姉そっちのけでタンスやら戸棚やらを引っ掻き回していたのだ。
 「この間お母さんの主治医の先生に相談したんだけど、パーキンソン病が進むと認知症の症状が出てくるのは仕方ないんだって」
 「そうなんだ」
 「もう食べちゃった食材とかを、まだあるって言い張って冷蔵庫開けっぱなしでしつこく探すのとかもしょっ中だよ」
 「困ったもんだね」
 「この間はお父さんに、『うちのお父さんはどこにいるの?』って聞いたんだって」
 「そんなになんだ」
 そう、母は最近、長年連れ添ってきた父のことすらもわからなくなることがあったのだ。私がご飯の用意をしていると「アルバイトのあの子の分はいいの?」などと聞いてくることが度々あり、最初は何のことを言っているのかまったく検討も付かなかったのだが、父から「お父さんに向かって『うちのお父さんはどこにいるの?』って聞いてきたんだよ」という話を聞いたときに、私は「そういうことか」と合点がいった。
 父は昔から掃除や洗濯、皿洗いなどありとあらゆる家事を手伝ってくれていたが、料理だけはしてこなかった。そんな父が最近、私の仕事が終わらないときなどに食事の準備をしてくれるようになっていたのだが、母の中ではどうしても父と料理が結び付かなかったのだろう。だから、台所で包丁やフライパンを持つ父のことを、「アルバイトの男の子」だと思うようになっていたのだ。
 そのうち、父のことも私のこともまったくわからなくなる日が来るのだろうか。私はそんな不安を抱いていたが、そうなったらそうなったで仕方がないとも思っていた。
 眠る母の横で母の近況について会話した後、兄と私は母を取り囲む装置類をあれこれ言いながら観察した。母の頭側の左には酸素飽和度や心拍数などが表示されたモニター、そして母の口から延びる管が繋がった人工呼吸器があり、右にはたくさんの点滴が並んでいた。ベッドの脇には尿の溜められたパウチがぶら下がっていたので、尿道から管を挿れているのだろうことはわかった。足元には何やら大仰な装置があって「36°C」と表示されていたが、その装置が母の体温を下げる役割を担っているようだった。
 私たちは最後に母に「またね」と声を掛け、三十分の面会時間を終えた。どうせ今は薬で眠らされているだけなのだから。月曜日に母は起きるのだから。私は本気でそう思っていたので、特に後ろ髪を引かれることもなく病室を後にした。
 待合室に戻ると父から母の様子を聞かれたが、「昨日と変わらず寝てたよ」と私は軽く答えた。その後、兄夫婦を最寄り駅まで送ってから、父と私は家路に就いた。
 翌十一月十二日も父と二人で面会に行き、眠る母を三十分間ただ眺めた。いや、手を握ったりはしただろうか。正直、この頃のことはあまり記憶になく、兄とのメッセージのやり取りなどを見ながら思い返してこの文章を書いている。母は月曜日に起きるものだとしか思っていなかったから、ただひたすらその日を心待ちにしていたのだ。私はむしろ、認知症の母が知らない場所で見ず知らずの人たちに囲まれて目覚め、混乱してしまうことを杞憂していた。
 「起きるなら、私たちが行く時間まで待っててくれないかな」
 父にそんなことを言ったのを覚えている。
 その日の面会後に、母がICUからHCUに移動するとの連絡があった。ICUにいるほどの危険な状態は脱したのだ。私はそう思って安心した。とにかくこの時点では、私は母が目覚めて快方に向かうことしか考えていなかった。
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