第40話

文字数 3,212文字

一月十一日。
 私はこの日からいつも通り仕事をするつもりだったが、これまでの疲れが一気に出たのか朝から体が重く、頭痛もあったので、また仕事を休ませてもらった。母のことばかりを考え、ときに父の心配をして過ごしていたが、私自身もやはり気が張っていたのだろう。そういえば持病の薬もここ最近はちゃんと飲んでいなかったし、自分の体調など二の次になっていたことを思い知らされた。
 前夜もまた、仮祭壇のある和室の隣のリビングで父と二人で寝た。私は自室を閉め切って一人で眠る生活を長年送ってきたので、人と同じ空間で眠るのは苦手だったはずだが、通夜の晩に久しぶりに自室のベッドに入ったほうがなかなか寝付けなかった。もともと一人だと何時間もスマートフォンをいじってしまう癖があったので、リビングで母を眺めながら横になるほうが、ずっと早く入眠できた。
 父は、仏壇を置いたら敷布団を買って、交互に和室で眠ろうかと言った。ずっと母の隣で眠ってきた父は、母を一人にさせたくないという思いが本当に強かった。まだ母のお骨を納める場所は決まっていないが、私は父が逝くそのときまで、手元供養でもいいのではないかとも考えていた。
 午後からは体調が戻ったので、私は香典の整理をした。父は母の年金を止める手続きをし、それから保険証や身体障害者手帳などの返納に関して電話で問い合わせていた。マイナンバーカードなどを活用してこういった手続きが簡略化されればいいのにと思うと同時に、母のマイナンバーカードを一緒に受け取りに行ったことを思い出して切なくなった。私がスマートフォンで撮った母の顔写真は本当に写りが悪く、母は五年後の更新を心待ちにしていたのだが、結局母のマイナンバーカードはタンスにしまわれたまま一度も使用されることはなかった。
 持ち帰ったお供物なども片付けていると、わざわざラッピングして持っていった琥珀糖の大半が残されていた。お菓子類は斎場のスタッフが取り分けてくれたのだが、棺には少量ずつしか入れられなかったようだ。
 母が毎日毎日大切そうに眺めていた琥珀糖。二ヶ月近く冷凍していたものなのでもう食べることはできないだろうが、私はそれをジップ付き保存袋に入れて冷凍庫にしまった。母の大事な琥珀糖は、我が家の冷凍庫の奥に永遠に眠り続けるだろう。
 前夜に兄が、棺に入った母を囲んで撮った写真を送ってくれた。母の足元側から撮られた写真は、母の胸元に乗った「おぼうち」が妨げとなって母の顔は一切映っていなかった。そもそも花に埋もれていたのでおぼうちがなくても母の顔は映らなかったかもしれないが、私は父が母の胸元に一番目立つようにおぼうちを置いたことがなんだか可笑しくなって、自然と笑みがこぼれた。母が入院して以降、こんなふうに笑ったのは初めてだなと思った。
 私はこの日も何度も泣いたし、母を失った悲しみが消えることはなかった。だが、通夜のときにご住職がおっしゃった、「胸が痛いのはそれだけ故人との縁が深かったということ」という言葉が私の支えになっていた。こんなに辛くて苦しいのは、悲しくて寂しいのは、私が母から愛され、私も母を愛した証でもあるのだ。その愛の重さが胸の痛みとなって返って来ているのだから、私はそれを受け止めなければならないと思った。

一月十二日。
 朝、件のご住職から戒名についての電話があった。母の出身地や長く暮らした場所、家族構成、趣味、人柄など、ご住職からの聞き取りに答える父の言葉を、私は仕事をしながら聞いていた。これまでは戒名など気にしたこともなかったが、母の新しい名前をあのご住職につけていただけることを、素直に嬉しく思った。
 父は葬儀会社から速達で届いた請求書を持ち、早速銀行に振り込みに向かった。あれだけ小規模な式でも、やはりそれなりの金額になる。このお金を、母が生きているうちに何かの形で遣ってあげたかったと思わずにはいられなかった。
 私は相変わらず、声を上げて泣いては急にすっと涙が引き、また何かのスイッチが入ったかのように号泣する、の繰り返しだった。母のスマートフォンにメールが入ったときは特に激しく泣いた。共通の友人と久しぶりに連絡を取ったという昔の友達が、母の連絡先を聞いてメールを送ってきたのだった。
 『久しぶり〜』
 そんな明るい文面が眩しく、胸が締め付けられた。私があとで返信するよと父に言ったが、私が風呂に入っている間に父が返信を済ませていた。私に辛い思いをさせたくなかったのだろう。だが、父の返信はとてもそっけない文章だったので、相手の方もどう返せばいいか悩んでいることだろうと思った。
 四十九日はまた同じ斎場を押さえたが、九州の親戚は誰も来られないようで、最大でも六人の少し寂しい法要となりそうだった。だがその分、濃い想いを母に伝えようと思った。
 毎日が、辛くて悲しくて仕方がなかった。母がもうこの世にいないなどと信じたくはないのに、否が応でもその現実を事あるごとに突き付けられ、私は防御姿勢も取れないままに打ちのめされ続けていた。
 線香に火を点け、それが静かに灰になっていくのをただぼーっと眺めるときだけが、唯一心穏やかでいられる時間だった。

 一月十三日。
 午後から母の仏壇と位牌を見に、葬儀会社から紹介された仏具店に向かった。
 道中に母が行きたがっていた洒落たカフェがあり、また涙が込み上げた。いつか行こうと言っていたのに、その「いつか」は、もう永遠に訪れることはないのだと思うと、胸が引き裂かれるようだった。
 仏具店は、子供の頃にたまに連れて行ってもらっていたショッピングモールの一角にあった。ずいぶんと寂れてしまっていたが、そこにも母との思い出が薄っすらと残っていて、本当に私の中には母がたくさん詰まっているのだと痛感するばかりだった。
 一口に「仏壇」と言っても様々なタイプ、デザインがあり、父と私は店員から説明を受けながら、狭い店内を何度も回った。何を決め手としていいのかわからず、結局はサイズと色味を重視して上置きタイプのものを選び、土台は別途家具店で購入することにした。香炉や蝋燭立てなどの一式は、私が直感的にいいなと感じた淡いピンクにゴールドの縁取りのあるものを選んだ。セットのおりんは丸いモダンなタイプのものだったが、私は一般的な形のほうが好みだったので、小ぶりな椀型のおりんに替えてもらった。
 斎場と提携している仏具店には一足先に母の戒名が伝わっており、それが書かれた紙を見ながら、位牌に入れる戒名の書体なども決めた。戒名の良し悪しなどまったく持ってわからなかったが、あのご住職が名づけてくださったのだと思うと、とてもありがたいものに思えた。
 続けて家具店に足を運び、土台となるロータイプのタンスを探した。いろいろ見て回った結果、仏壇と同じウォールナット調でちょうどいい高さのタンスを見つけることができたので、それを購入した。
 帰りが遅くなったので夕食は寄せ鍋で済ませたが、いつも薄味になってしまう締めのうどんがちょうどいい味になり、実際に食べてもらいたかったと思って涙しながら、母の供物台にうどんを置いた。
 母に食べさせてあげたいものは、まだまだたくさんあった。前回の誕生日にあげたフルーツゼリーがいまいちだったので、次はテレビで見かけた栗のテリーヌをプレゼントしようと思っていた。きっと喜んでくれるだろうと思っていたが、もうそれを食べてもらうことも叶わない。
 毎日何本も線香をあげ、何度も手を合わせ、せっせとお供えをしていたが、それらはすべて私自身の心を満たすための行為だということはわかっていた。
 こんなに母のことばかり考えているのに、母のためにしてあげられることはもう何一つないのだと思うと、やるせなさに打ちひしがれるばかりだった。
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