第27話

文字数 4,784文字

 十二月二十六日。
 午前十時、ちょうど私が自室で仕事を始めた頃に家の電話が鳴った。慌ててリビングに駆けつけたが、すでに受話器を取っていた父の口調から悪い知らせではないとわかり、私は安堵しながら自室に戻って仕事を続けた。
 しばらくすると、父が声を掛けてきた。さきほどの電話の相手は母が入院している病院のソーシャルワーカーさんで、近所の療養型病院で母を受け入れてもらえることになったという。「今日お母さんのところに行った帰りに、そのままそっちの病院に寄って話を聞いてくるから」と言う父は、少し嬉しそうだった。
 ようやく、母が帰宅する道の第一歩を踏み出せる。そう思い、私も心が軽くなった。なにより、その療養型病院は車で十分ほどの距離なので、仕事の休憩時間を使って毎日母の顔を見に行けることが嬉しかった。ただ、事前に調べていた情報によると面会時間は十五分という制限があるようだったので、そこは少し気掛かりだった。父と私、入れ替わりで十五分ずつ面会するのは許されるだろうか。そんなことを考えたりもしていた。
 しかし、この日の私はまた心がひどく弱っており、父が家を出たあとは「あの日なんでもっと早く母に声を掛けなかったんだろう」、「どうして具合が悪いことに気付いてあげられなかったのだろう」といういつもの後悔の波が押し寄せた。パーキンソン病と認知症の進行によって今まで通りとはいかなくても、この家で三人で正月を迎えていた世界線がどこかにあるのではないかと考えて涙が止まらなくなった。
 途切れてしまった、私が途切れさせてしまった母の日常。
 母は意識を失うとき、恐怖を感じていたのだろうか。せめてそんなことはなく、ただ眠ったまま意識が途絶えたのだと思いたかった。だがそれはそれで、母はいつも通りの明日を待ち続けているのではないかという気がして、胸が潰れそうになった。
 私はリビングでパソコンに向かいながら、何度も声を出して泣き続けた。気分転換と休憩ついでに夕食の準備をしても、涙が止まらなかった。白菜があったので白菜のうま煮を作ったが、これは母の好物だった。搬送される何日か前に作ったときには、母が「お餅を入れたい」と言うので入れてあげた。「これ好きだからまた作ってね」とご機嫌だった。
 母はいつも、私の作った到底母の味には及ばない料理も褒めてくれた。父と私は天邪鬼な性格な上、母の手料理が美味しいのはずっと当たり前だったので、私たちはあまり母の料理を褒めたことはなかった。いつも美味しいので、取り立てて言う必要がないと思っていた。だが今となっては、どうしてあんなに美味しいご飯を作ってくれていた頃の母に、毎日「美味しい」「ありがとう」と伝えなかったのか、後悔しかなかった。失わなければ気付かなかった自分の愚かさが憎くて仕方がなかった。
 十七時半を過ぎた頃に、父が帰宅した。玄関まで迎えに行くと、父は開口一番「がっかりした」とひどく落胆した様子で言った。その様は母が肺炎になったときを思わせてどきりとしたが、母の容態に変化があったわけではないという。ただ、転院予定の療養型病院は三週間に一度しか面会ができないと言われたとのことだった。
 私はそれを聞いてまた泣いた。週に二、三回は行けている三十分の面会でさえ足りないのに、三週間も母に会えない日々が続くだなんて考えられない。この一ヶ月半の間に何度も危険な状態に陥った母。父が毎日様子を見に行ってくれることでなんとか平穏を保っていられたが、それすら叶わない日々を耐え切れる自信がなかった。
 だが、よく考えればこのご時世で毎日面会できる病院のほうがめずらしいのだろうとも思った。コロナ禍以降、どこの病院も厳しい面会制限を敷いているという。三十分でも物足りなく感じてはいたが、それも致し方ないのだろう。
 また、療養型病院なら週一くらいでお風呂にも入れてもらえるのかと思っていたが、それも月一くらいらしいとのことだった。看てもらえるだけでありがたいのだから贅沢は言えないが、意識の戻らぬ母にそこまで手を掛けてはもらえないのだと思うと悲しくなった。
 肉体が精神の入れ物なのだとしたら、他人から見ればもう母は、「空っぽの器」なのかもしれない。だが私にとっては、その量こそほんの僅かかもしれないが、「大事な大事な宝物が入っている器」でしかなかった。
 年末年始は毎日母に会えるので、今の病院にいるうちにとにかく会えるだけ会っておこう。療養型病院に転院したらしばらくは会えなくなるが、母の容態が安定すれば、三週間も待たずに家に帰らせることができるかもしれない。
 私は自分にそう言い聞かせたが、一度は晴れかかった心にまた暗雲が立ち込めていた。

 十二月二十七日。
 朝、父が今の病院の相談員に電話をし、療養型病院についてあらためて話を聞いていた。父も私も、一度療養型病院に転院させてそこから在宅介護に切り替えるつもりでいた。だが、それは難しいのだということが判明した。
 あくまで療養型病院がしてくれるのは、風邪などを引いた際の最低限の治療と、現状維持。人工呼吸器を着けた状態で療養型病院に入れば、そこから自発呼吸が安定したとしても人工呼吸器を外すようなことはしないだろうし、在宅への切り替えのサポートなども期待はできないという。つまり、母を一度そこに入れたら、そのままただ別れのときが来るのを待つだけになるのだ。
 療養型病院についていろいろと聞いた上で父は、午後からの面会時に担当医と話したいと伝えて電話を切った。
 このまま予定している療養型病院に転院させたら、三週間に一度の十五分の面会以外に母に会う手立てはなく、家に帰すこともできなくなる。意識のない母を、そうしてただ長く生かすことに意味があるのか。私はわからなくなった。
 ただでさえ母はもう、自分の意志で生きているわけではなかった。私たちがただ生きてほしくて、どうしても諦められなくて、私たちのために生きてもらっているのだった。そんな母を今以上に一人ぼっちにさせるしかないのなら、母はなんのために生きるのだろう。
 いつも通り十四時半に母の病室に入ると、母はやはり半目を開けて宙を見つめていた。私はもともと声が小さいので、バッグに入れていたチラシを筒状に丸め、メガホンのようにして母の耳元に当てた。そして、「お母さん」と声を掛けると、母の目が大きく開いた。やはり耳は聞こえてるのだと思い、私は何度も必死に「お母さん」「らーだよ」と呼びかけたが、母は少し口をもごもごさせただけでそれ以上の反応はなかった。
 母の顔にクリームを塗ると、くっきりと浮き出た頬骨が痛々しくて涙があふれた。浮腫んだ指ではパルスオキシメーターが正確に作動しないため、しばらくの間額にヘッドバンドのような計測器を巻き付けていたのだが、その部分が少しかぶれて赤くなっており、それも可哀想で仕方がなかった。手は相変わらずパンパンだったが、皮膚の一部がかさぶたのようになって剥がれかけており、その下には新しい皮膚ができていた。母の体にはまだ、再生能力はあるのだった。
 またいつものように手をさすっていると、担当医が来た。以前に母を家に連れ帰りたいと相談したときの眼鏡の男性医師だった。
 父はおもむろに、やはり療養型病院には入れずに自宅に連れて帰りたい気持ちがあると話し始めた。父から事前にそういう話をするとは聞いていなかったので少し驚きもしたが、私もまったく同じ気持ちだったので、母の額や手を撫でながら黙って父の話を聞いた。
 「一度療養型病院に入れたら、そこから家に帰すのは難しいんですよね?」
 父がそう聞くと、医師は「自分はその病院で働いたことはないので正確にはわからないですが」と前置きした上で、「おそらくそうでしょう」と答えた。そして人工呼吸器に関しても、転院時の設定で装着したままで、もしまた呼吸の状態が悪くなっても酸素濃度を上げてはもらえないだろうと言った。療養型病院では、延命措置となることは一切望めないという。
 父と医師の会話を聞けば聞くほど、母を療養型病院で一人ぼっちにさせて最期を迎えさせる意味があるのだろうかと思った。だが医師が言うには、「以前は人工呼吸器を着けていなかったので在宅の話をしましたが、今はもう人工呼吸器を外せる状態ではないので、在宅で看るのは難しいです」とのことだった。
 私は思わず、「在宅で使える人工呼吸器もあるって聞いたんですが」と泣きながら口を挟んだ。「確かにありますが、今のような設定で使えるものがあるかはちょっと自分にはわからないので確認します。ただ、自分が見てきた限りでは、今の◯◯さんのような状態で自宅に帰られた方はいないです」と医師は答えた。
 その後も父は「療養型病院の方が安全なのはわかっているけれど、リスクを承知の上でこの病院から家に帰らせられないか」という内容を繰り返した。医師は父の堂々巡りの話を最後まで聞いてくれ、「まずは在宅で今のような設定で使える人工呼吸器があるかどうかを確認します」と言って病室を後にした。
 私は母の骨張った額を撫でながら、「お母さんもお家のほうがいいよね?」と嗚咽混じりに問い掛けた。
 大腿骨骨折による入院が続いたとき、母は父に向かって「お家に帰りたい」と言って泣いたという。父はそれを覚えていなかったが、私は母から「そうしたらちょうど看護師さんが来て、心配されちゃってね」と話していたのをはっきりと覚えていた。母は、父と私と暮らすこの家が大好きだったのだ。
 帰りの車の中で、私はまたずっと泣き続けた。わかってはいたが、担当医と父の話を聞いて、もう母の看取りについて考えなければいけないのだという現実を突きつけられたのが辛かった。げっそりと痩せこけた母の、死に向かう歩みを止めることはもう誰にもできないのだ。
 帰宅してから、私は在宅型の人工呼吸器について調べた。酸素ボンベを使うものもあるようだった。父も同じだったらしく、「人工呼吸器はなんとかなりそうじゃない?」という話をした。そしてその後、夕食を食べながら、空気清浄機やエアコンを買おうだとか、停電に備えた発電機なんかも必要かもねだとか、いろいろと会話をした。また少しだけ、父と私の気持ちが前を向いた。どんなに困難だろうとも、このまま母を家に帰らせようと、私たちは決意していた。
 母をこんな目に遭わせてしまったという罪の意識も、もっとやってあげたいことがたくさんあったという後悔も、そして意識を失う前の母に会いたいという強い願望も決して消えることはなかった。だが、先の二つはもう一生背負って生きていくしかないし、最後の一つに関しては、もう会うことはできなくとも私の中にはあの頃の母が鮮明に残っていた。私はそれを一つ残らず大切にしながら、今の母に今の私ができることをすべてやりたいと思った。
 まだ医師の許可が降りるかはわからないし、在宅に切り替えられたとしても、その後母がどれだけ生きられるのかもわからない。すぐに容態が悪化して、後悔することになるのかもしれない。
 それでも、きっと母は父と私と暮らすことを望んでいると思った。いや、そう思いたかった。
 もうすでに、母の命は母の管轄を外れてしまっていた。父と私がその命を預かり、生きてもらっている以上、母が望むであろうと思う道を進むしかないのだった。
 搬送されたあの日に亡くなっていてもおかしくなかった母。その母の頑張りのおかげで、父と私はまだ母のために何かができるという希望を与えてもらっていた。
 母がこの家にいる毎日。それを思い描くと、私はまだ前に進めるような気がした。
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