第19話

文字数 1,416文字

 十二月十一日。
 この日も父が病室に入ったときには母は目を閉じていたが、しばらくしてやって来た女性医師と会話をしていると、母は目を開けたという。
 「高い声の方が聞こえるのかもね」と父と話した。
 まだ退院がいつになるかはわからないが、在宅療養に向けた準備を進めましょうと医師から言われたらしく、父は帰って来て早々にケアマネージャーさんに電話を掛けていた。
 意識のない母の介護は、そう容易なものではないだろうことは重々わかっていた。ある程度はヘルパーさんや訪問看護師さんに頼れるだろうが、痰の吸引や排泄の世話など、昼夜問わずに母を見守らなくてはいけなくなる。
 正直に言うと、不安は多々あった。
 父か私が体調を崩したらどうなるのか。停電や災害などが起きたとき、母を守ることができるのか。夜間に母の容態が急変した場合、私たちだけで対処できるのか。
 「家に帰れば、病院にいるよりも生きられる時間は確実に短くなる」と、私たちに母を家に帰らせるという選択肢を与えた医師もはっきりと言っていた。私たちが母に帰ってきてほしいだけで、母本人のためを思えば病院で看てもらうほうがいいのではないかとも考えた。
 母に少しでも長く生きてほしいという思いと、このまま意識が戻らないのであれば、寿命が短くなろうともとにかく帰ってきてほしいという思いが入り混じっていたが、やはり後者のほうがそのウェイトは大きかった。
 どうしても、もう一度この家で母と一緒に暮らしたかった。
 風呂に入るたびに、気持ちよさそうに湯船に浸かっていた搬送前夜の母を思い出さずにはいられなかった。その母が、どうしてこんなことになってしまったのだろうと毎晩悲観していた。
 母に会えない日は、一日が長くて仕方がなかった。

 十二月十二日。
 朝、母のスマートフォンが鳴った。母と仲良くしてくれているご近所さんからの電話だった。父は出るのを躊躇ったので切れてしまったが、私は母のことを伝えなくてはいけないと以前から思っていたので、母のスマートフォンで掛け直した。
 呼び出し音が途切れるやいなや、「おはよー」という明るい声が電話口から飛び込んできた。母よりも少し年上と思しきその女性は明るく、会えば必ず母を一緒に支えてくれる優しい方だった。私は女性に、母が意識のない状態で入院していることを伝えた。いざ言葉にすると、涙が止まらなくなった。
 搬送されたときに近所の方が見ていたようだったので噂は回っているのかと思っていたが、女性は母が救急車で運ばれたことも知らないようだった。驚いた様子の女性は父と私のことも気に掛けてくれ、私は泣きながら感謝して電話を切った。
 夕方、その女性が花を持ってきてくれた。ピンクの薔薇がメインの可愛らしいアレンジメントだった。
 母は、花が好きだった。若い頃に習いに行っていたらしく、古びた剪定バサミを持っていて、たまに花を買っては綺麗に花瓶に飾っていた。正月には必ず玄関に花を飾っていたので、本来なら今頃はカタログで花を選んでいたはずだった。
 女性が持ってきてくれた花は立派過ぎて病室には置けそうにないので、写真を撮ってから何本か取り分けて持って行こうと思った。
 「明日は母に会える」
 それはこの頃の私の唯一のモチベーションだった。そのためだけに生きていたと言っても過言ではない。
 母の病室で過ごす三十分以上に幸せな時間はなかった。
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