第43話

文字数 1,963文字

 二月も半ばに差し掛かると、声をあげて泣く回数はずいぶんと減った。だが、不意に涙がこぼれることはしょっ中で、私は毎日静かに頬を濡らした。
 「こんなに辛いのは、それだけ幸せだったという証だ」「誰だっていつかは死ぬんだ」「いつかは私も母のところに行けるんだ」。そう自分に言い聞かせて平穏でいられる時間もあれば、不意に「助けられたはずなのに助けてあげられなかった」という後悔と、「会いたい」「声が聞きたい」という思いが湧き上がり、悲しみに打ちひしがれる時間もあった。
 私は、母が若い頃に彫金教室で作ったというシルバーアクセサリーをいくつか引っ張り出して磨き、そのうちの一つのペンダントトップにチェーンを付け、毎日着けるようになった。母のものを身に着けるだけで、ほんの少しだけ母を近くに感じられる気がした。
 二月十三日の朝方には、母の夢を見た。それまでにも何度か母の夢を見たことはあったが、目覚めてからもはっきりと内容を覚えていたのは初めてだった。
 夢の中の母と私は、バーのカウンターのような場所で会話をしていた。母は私の隣に座っているのにどこか遠い存在に感じられ、私は母が亡くなっていることを夢の中でもわかっていた。
 泣きじゃくる私に向かって母は、「お手紙を書いてほしいな」と言った。
 「お手紙なら、棺に入れたよ。読んでくれてないの?」
 私がそう聞いたあとに母がなんと答えたかは曖昧にしか覚えていないが、母は棺の花に埋もれた手紙の存在に気づいていなかったようで、まだ読んでいないようなことを言っていた気がする。
 「それも読むけど、これからも書いてほしいな」
 そう言った母は、遺影と同じ優しい笑顔を浮かべていた。
 短い夢だったが、母に会えたことはもちろん、母が自分の死を認知していたことが、私は嬉しかった。母はもう自らの運命を受け入れ、あちらで楽しく過ごしているのだろうと思うことができた。
 朝起きてから何気なく「亡くなった人への手紙」についてネット検索してみると、亡くなった人宛ての手紙をお焚き上げしてくれるお寺があることを知った。私は、定期的に母宛ての手紙をそこに送ろうと思った。

 二月十七日には、母の四十九日法要が執り行われた。
 朝、助手席に座って骨壷を膝に乗せると、また自然と涙がこぼれた。骨になった母を家に連れ帰ったあの日から、もう一ヶ月以上も経過しているということが信じられなかった。月日は流れ続けているのに、私は母を失った悲しみの沼にどっぷりと浸かったままだった。
 四十九日も通夜と葬儀でお世話になったご住職がいらしてくださり、父に「本当に早いですね」と優しくお声を掛けてくださった。
 法要の間はただぼんやりとお経を聞いていたが、法要後のご住職のお言葉を聞いていると涙が滝のように流れ出し、私は通夜と葬儀のときよりも泣きじゃくった。あのときは単に母との別れが悲しかったが、母の四十九日を迎えた私はもう、母のいない日々の虚しさを十分に知っていた。そして、そんな毎日がこれからもずっと続くのだということもわかっていた。
 ご住職はまた「胸が痛いのはそれだけ故人様とのご縁が深かったから」というお話をされ、それから、母は極楽浄土という素晴らしい場所にいること、そして先祖を想い毎日仏様に手を合わせれば、私たちもそこに導いてもらえることを話してくださった。また、「慈悲」という字は「慈しむ」に「悲しむ」と書き、優しくなるには「悲しみ」を知ることも必要なのだということもおっしゃった。
 私は母を失うという悲しみを知って、優しくなれたかどうかはわからない。だが、私の中の何かが変わったのは間違いなかった。これほどまでの深い悲しみを知らなかった頃の私には、よくも悪くも、もう戻ることはできない。
 「深い悲しみ」を知ることが人生において必要なことなのだとしたら、子を残して逝かなくてはならない親は、身を持ってそれを子に教えるものなのかもしれない。
 だが、私はまだ知りたくなかった。せめてあと十年は、こんなにも深い悲しみがあることなど知らないまま生きていたかった。
 この日も義姉の両親も参列してくれており、ご住職が帰られたあとは義姉の両親、兄夫婦、父、私の六人で会食をした。優しい義姉の両親は私のことを気遣ってたくさん話し掛けてくれ、別れ際には「元気になったみたいでよかった」と言ってくれた。
 確かに私は、以前より泣くことも少なくなったし、食事も取れていた。始業時間になれば仕事に集中し、悲しみを忘れる時間も増えた。
 だが、私の心に空いた大きな穴は、決して塞がることはなかった。
 四十九日は一つの区切りなのだろうが、私にとっては、母がいなくなった悲しいだけの毎日の中の一コマに過ぎなかった。
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