第23話

文字数 2,032文字

 十二月十八日。
 十七時ちょうどに、父のスマートフォンが鳴った。ちらりと見えた画面には病院名が表示されており、父は慌てて電話を取った。
 電話口の声は聞こえなかったが、受け答えする父の様子から良い知らせではないことはすぐにわかった。「今から行きます」。そう言って父は電話を切った。また母の呼吸状態が悪くなり、酸素飽和度が下がっているとのことだった。
 それは、いつも通り二人で母の面会に行き、病室を後にしてから二時間も経たないうちの出来事だった。
 面会中は母の酸素飽和度はずっと100パーセントで安定しており、私は伸びていた母の両手の爪を切った。私たちが幼かった頃の家蔵写真を母に見せたり、音楽を聴かせたりもした。母はまだ病院の寝巻きを着ており、早く私が買った寝巻きを着てほしいななどと思いながら、いつものように母の手をさすって限りある面会時間を過ごした。
 そして面会開始から三十分が経過した十五時十五分、私たちはいつものように「また明日来るからね」と母に声を掛けて病室を後にしたのだった。
 そんな矢先での電話に、私は混乱した。つい二時間ほど前までずっと100パーセントを示し続けるモニターを見ていたので信じられなかったが、父と私は家を飛び出した。無言で車を走らせる父の横で、私は泣きながらまた母に届くことのないメッセージを母のスマートフォンに送った。兄にも連絡したが、既読は付かなかった。
 病院に着いて小走りで病室に向かうと、そこには昼と変わらない母がいた。小脇にあるモニターが示す酸素飽和度は100パーセント。母は苦しそうにすることもなく、相変わらずベッドの上で虚空を見つめていた。
 安堵する父と私のもとに看護師さんがやって来て、「十六時半頃から酸素の値が下がって60から70くらいまで落ちたんですが、痰の吸引をしたり体勢を変えたりして、先ほどから落ち着いてきたところです」と説明してくれた。そして、呼び出したことを詫びてくれたが、父と私はとんでもないと頭を下げて感謝した。
 私はまたしばらくの間、母の瞳に自分の姿を映し続けた。視線が合うとこちらを見てくれているように思えるが、数秒すると母の視線はどこか違うところへ行ってしまう。それでも私はしつこく母の視線の先に顔を移動させ、いつまでもこれを繰り返せば、いつか母が私を認識してくれるときが来るのではないかなどと考えた。だって、母は確かに生きている。生きてさえいれば、人には無限の可能性があるはずだ。
 十九時半を過ぎたあたりから母の瞼は少しずつ下がっていき、二十時前には左目は完全に閉じ、右目だけが薄っすらと開いている状態になった。母が眠るのを見届けてから帰ろうと話していた私たちは、二十時過ぎに部屋に来た看護師さんと話をして帰ることにした。
 「電話はいつでも出られるようにしておいてください」
 念を押すようにそう言われ、私たちはまた病室を後にした。
 帰りの車の中で、私は安堵の気持ちよりも不安のほうが大きかった。もう、いつ何が起きるかわからない状況に母はいるのだと痛感した。つい二時間ほどの間で急変してしまうのだ。夜になっても、今にも父のスマートフォンか家の電話が鳴るのではないかと思い、気が気ではなかった。
 父と母と私の三人の日常は、すべてが嘘だったかのように消えてしまった。そして、病院で母の手を握ることが日常となってきた今、またその日常が奪われてしまうのかと考えると胸が張り裂けそうだった。
 こんな状態の母に、生きる意味があるのかと思う人もいるだろう。
 生きる意味とは何か。毎日のように考えていた。
 母がもしいなくなってしまったら、父と私は立ち直れないほどに打ちひしがれるだろう。だが、母が頑張って生きてくれているおかげで、父と私は母の手を握ることのできる喜びを感じていた。人のためになることが生きる意味なのだとしたら、母にはそれが十分にあった。私なんかよりもよっぽど、「生きる意味」を有していた。
 もう母の意識が戻ることはないだろうと言われた直後、一度は母を失うことを覚悟したが、私はその後に、「母を家に帰らせる」という夢を持ってしまった。リビングで仕事をしながら、隣の和室に眠る母を見守るという日常を描いてしまった。
 そんな日常を手に入れられるなら、私はなんだってするつもりだった。
 父は翌日も朝から病院に行くと言っていたが、私はさすがに仕事をしなくてはいけないので、父に任せようと思った。母はあんなに落ち着いていたのだから、きっと大丈夫だ。このまま落ち着くに決まっている。そう自分に言い聞かせた。
 私は当初、悲しい結末を迎えることを覚悟して本稿を書き始めた。だが、それは変わっていた。
 私は、母がこの家に帰ってくるというハッピーエンドに辿り着くために、日常を記録するようになっていた。そしてできることなら、第二章でその後の母の回復を綴りたいと考えていた。
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