第21話

文字数 3,341文字

 父もまた、眠れなかったのだろう。四時半頃に父が寝室を出る音がしたので、私もすぐに部屋を出た。「今から一人で行くよ」と言う父に「私も行く」と伝え、私は家を出る準備を始めた。病院からの連絡はないので悪化はしていないということはわかっていたが、家で一人で待っていられるような心境ではなかった。仕事を休ませてもらうことは、前日帰宅した後にまた一方的にチャットで伝えていた。
 急いで着替え、私が食事を摂れなかった頃に買った栄養補助食品のゼリーと伯母から送られてきた一口羊羹を一つずつ食べてから、四時五十分頃に家を出た。まだ外は真っ暗で、この冬に新調したウールのロングコートを下ろしたが、それを羽織ってもまだ肌寒かった。日中は暖かい日が続いていたので午後から病院通いをする日々だと実感がなかったが、もう師走も折り返し地点に差し掛かっているのだと思い知らされた。
 薄暗い道はガラガラかと思いきや、それなりの交通量があった。こんな時間に通勤している人、すでに仕事中の人、仕事を終えようとしている人、私たちのように特別な事情があって車を走らせている人、いろいろな人がいるのだろうと思った。世の中には、自分の知らない世界がまだまだたくさんある。母が目を覚ましてくれないという、こんなに辛くて悲しい世界があることも、私はほんの一ヶ月半前までまったく知らなかった。
 病院に着いたのは五時半頃だった。また救急の入り口から入って病室に向かうと、ベッド周りの明かりだけが点いた薄暗い部屋で、母は少し息苦しそうにして眠っていた。
 また母の両脇に椅子を置き、父と二人で母の手をさすった。病室は肌寒かったが、人工呼吸器を着けた母は、肩まで布団を掛けてあげることはできない。私はせめてもと思い、棚にしまってあったバスタオルを出して、人工呼吸器のホースの邪魔にならないように母の肩に掛けた。空きベッドの目立つ病棟はとても静かで、人工呼吸器やモニターのアラーム音がそこかしこから聞こえてきた。母の枕元にあるそれらも、時折その独特なアラーム音を発していた。
 六時を過ぎたくらいだったろうか。モニターのアラームが鳴る間隔が短くなり、母の呼吸もどんどんと苦しそうになっていった。胸がゼイゼイと音を立てて苦しそうだったので、看護師さんにお願いして痰の吸引をしてもらった。薄暗い病室で必死に手をさすり、不快なアラーム音を何度も聞きながら母が落ち着くのをただ待った。
 八時頃に母の体勢を変えてもらい、耳たぶに着けていた酸素濃度の計測器を着け直してもらうと、アラームが鳴る回数が減っていった。その前に経鼻チューブから薬も入れてもらっていたので、薬が効いたのかもしれない。徐々に母の呼吸は落ち着いてゆき、やがて酸素飽和度は90パーセント台後半を保つようになった。安心した私は一人掛けのソファーの上で身を丸くしてコートを羽織り、少し仮眠を取った。ソファーはベッドと距離があるので母の手を握れないのは寂しかったが、母と同じ空間で眠れることに幸せを感じた。
 その後、歯医者で使用するような器具で泡を吸引してもいながら歯を磨いてもらい、体を拭くなどのケアをしてもらった。その様を眺めながら、あらためて母がたくさんの方の手を借りて生きているのだということを実感した。病院の先生、スタッフには本当に感謝しかなかった。
 看護師さんに先生が来るかどうかを尋ねると、もう少ししたら回診があるとのことだったので、それを待ってから帰ろうかと父と話した。ずっと母の傍にいたい気持ちはあったが、私たちもご飯を食べなくてはいけないし、睡眠ももう少し取らなくてはいけないし、掃除や洗濯などもしなくてはならない。病院がもう少し近ければそれらを済ませてまた来ることもできるが、車で往復一時間半、電車とバスを乗り継ぐともっとかかる距離をそう簡単には行き来はできない。私も若いうちに運転免許を取っておけばよかったと、今更ながら後悔していた。
 十一時前頃、病室に回診の一団がやってきた。大きな病院でよく見られる、偉い先生がたくさんの医師を引き連れて周り、患者を一瞥しただけで「変わりありませんね」と言って去って行く儀式めいたものだった。その一団の後方にいた、これまでにも何度か説明を受けたことのある女性医師に父が声を掛けると、医師は足を止めてくれた。
 「今このくらいの数値で安定しているので、いったん帰っても大丈夫でしょうか?」
 「酸素を最大で送っていてこの数値なので完全に安定しているとは言えないですが、今は落ち着いているので大丈夫かと思います」
 「午後からも来たほうがいいか迷ってるんですが」
 「ご主人の体調も考えて、無理なさらないでください」
 父と医師はそんなやり取りをした。回診中にあまり長く引き止めるのはよくないだろうと内心ひやひやしたが、医師は丁寧に受け答えしてくれたし、おそらく父が通い詰めていることも知ってくれていたのだろう。容態が悪くなる可能性はまだあることをやんわりと伝えつつも、父が無理をしないように安心させてくれていた。
 十一時頃に父と私は母に「また来るからね」と声を掛けて病室を後にした。体を拭いてもらったあたりから母はしっかり目を開けており、母なりに睡眠と覚醒のようなサイクルはあるのだろうと感じた。そうだ、母は確かに生きているのだ。そう強く思った。
 いつも話を聞いてもらっている高校時代の友人に、「母に無理させてるのかなと思うと辛いけど、どうしても生きててほしいと思ってしまう」というような内容のメッセージを送った。すると彼女は、「あまり罪悪感を持たなくていいんじゃないかな。お母さん、辛いかもしれないけど、辛くても頑張りたいと思っているのかもしれないしね。「まだ生きていてほしい」って思ってもらえるのは、嬉しいと思うよ」と返してくれた。本当のところ母がどう思っているのかは知る術がないが、その言葉で私の心はずいぶんと楽になった。大切な人にとにかく生きてほしいと思うのは、誰でも同じだろう。
 周囲の人から見たら、たくさんの管に繋がれて痩せ細った痛々しい姿の母をいつまでも頑張らせるのは残酷に思えるかもしれない。私の中にも、そう感じる部分がないわけではない。
 それでも私は、母に生きてほしいし、母もまだ生きたいはずだと思っていた。意識が戻る可能性だって、天文学的な数字かもしれないが、決してゼロではないのだから。
 父との会話は日に日に少なくなっていた。母の容態が落ち着いており、家に帰る話が進んだときなどはあれこれと話したが、そうでないときはお互い何を話せばいいのかわからなかった。だが、兄夫婦や親戚の力を借りながら、二人で一緒に乗り越えているという絆は確かに深まっていた。
 母はよく、私が母の着替えを手伝ったりしていると、「お父さんとらーちゃんが二人で仲良くしてると悔しいけど、お父さんも私とらーちゃんが仲良くしてると悔しいだろうね」などと言っていた。父はまったくそんなことは思っていなかっただろうが、母は私を父に取られるのが気に入らないらしく、母のわからない話で父と私が盛り上がったりしていると、いつも面白くなさそうな顔をしていた。きっと今の父と私を見て、母は嫉妬していることだろうと思った。
 家の廊下には、母のための手摺りが至る所に付いている。この夏にもいくつか追加したばかりだった。廊下には部屋のドアを避けるために手摺りが途切れている部分もあるのだが、左手で掴んだまま右手を伸ばせば次の手摺りを掴め、今度は右手で掴んだまま左手を伸ばせば次の手すりを掴めるようになっている。だが、母は何度教えてもそれがわからなくなることがあり、「ここどうするんだっけ?」とよく私に聞いていた。教えても上手くいかないこともあったが、たまにスムーズに行けることもあり、そうすると「今じょうずく行けたでしょ」と嬉しそうに笑っていた。
 あの頃の母は、もう戻ってこないだろうことはわかっていた。だが、病院のベッドで戦ってくれている母もまた、私を産み育て、私のことを何よりも大切にしてくれていた母であることに変わりはなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み