第49話

文字数 2,565文字

 母の五度目の月命日が過ぎた頃には、声を上げて泣くことも、激しい罪の意識に飲み込まれることもずいぶんと減った。
 私の目からこぼれ落ちる涙が、心の傷から流れ出る血の代わりなのだとしたら、私の傷はだいぶ塞がってきているのだろう。二度と立ち直れないだろうと思うほどの悲しみにも、自分で自分を殺したくなるほどの後悔にも、「慣れ」はくるものなのだなと、どこか他人事のように感じる日々だった。当初は「時間薬」などという言葉は信じられなかったが、時間には傷を癒す力が確かにあるのだと思い知った。
 だが、心の傷は塞りこそすれど消えることはなく、深い傷跡と鈍い疼きは、私の胸に一生残るのだろう。母がくれたその痛みもまた、私という人間を作る要素の一つとなった。
 母を死なせてしまったという呵責にどっぷりと苛まれていた頃は、胸が苦しくなるので母のことをあまり考えないようにしていたせいか、母の夢を見ることはなかった。だが。すべてを背負って生きていくしかないのだと腹を括ってからは、二、三週間に一度は母が夢に現れるようになった。私は近年夢を見ることなどほとんどなく、見たとしてもすぐに忘れていたのだが、母の夢だけは覚えていられた。
 せっかく夢に出てきてくれたのに、母と会話することなく目覚めてしまったときには淋しくて泣いたし、「らーちゃんてば可笑しいな、可愛いな」と昔のように笑う母が出てきたときには、懐かしくて恋して泣いた。二人で宅配のカタログを見ながら「これ安いから頼もうか」などと話している夢を見たときには、なんでもない毎日が本当に幸せだったのだなと痛感してまた泣いた。だが、私はその涙をいつまでも引きずりはしなかった。遺影の母に話しかけるときにもよく涙はこぼれたが、「この涙は私が幸せだった証だから、心配しないで大丈夫だよ」と母に笑顔を見せられるようになった。
 母との思い出は枚挙に遑がないが、母が亡くなってから特によく思い出すのが、私が初めて入院したときのことだった。小学二年生のときに感染症に罹った私は、近所の市立病院に二週間だけ入院した。症状は少し重めの風邪程度で、肉体的な辛さはさほどなかったかと思う。だが、二年生とはいえ平均よりもずいぶん小さかった私の細い血管にはなかなか点滴の針が入らず、何度も針を刺し直されては私はベッドの上で大泣きした。そんな私を見て、母も大粒の涙を流していた。
 それよりもさらに辛かったのが、母との別れのときだった。夕方になって母が帰宅してしまうのが悲しくて仕方がなく、私は声を上げて泣き続けた。母はそんな私を置いて帰ることができず、泣きながら看護師さんにお願いして、一晩だけ病室に泊まってくれたのだった。泊まりの準備など何もしておらず、折りたたみ式の小さなベッドで一夜を過ごした母は大変だっただろうが、私は母が泊まってくれたことが嬉しくてよく眠った。
 あの日、母の夕食はどうしたのだったろうか?父と兄は、家でどんな夜を過ごしていたのだろうか?自分のことしか頭になかったあのときの私には、知る由もなかった。
 翌日、母は一度帰ってまた来たのか、そのまま病院にいたのかは覚えていないが、夕方になり、ついに母が帰るときが来てしまった。私はまた、母に縋りついて号泣した。兄が一人で母の帰宅を待っていることも、母は帰って夕食を作らなくてはいけないこともわかってはいたが、母が帰ってしまうことが悲しくて悲しくて、どうしても涙があふれてしまうのだった。母も私同様にぼろぼろと泣きながら、それでも必死に私を宥め、最後には振り返らずに病室を出て行った。私はベッドの上で夕食を食べながら、一人泣き続けた。
 あのときを思い出すたびに、私は本当にあの頃から、いやさらに二年ほど前の幼稚園のお泊まり会でぐずった頃から、何も成長していないことを思い知らされる。
 「お母さんに会いたい」
 そう呟いて泣く毎日を、私は今も過ごしていた。
 二週間の入院の間、父が仕事の日は、母は毎日自転車を漕いで面会に来てくれた。母はもともと自転車に乗れず、私たちが生まれたことで必要に駆られてなんとか乗れるようになったくらいなので、自転車は得意ではなかった。その上、病院までの道のりには長い上り坂があるので、電動アシストなど付いていない昔ながらの「ママチャリ」で通うのは、本当に大変だっただろう。だが、母は毎日私に会いに来ては、帰り際に私と一緒に泣いてくれていた。母自身もあとから当時を振り返ったとき、「あのときはとにかく必死だった」と言っていた。
 母は私のために、本当にたくさんのことをしてくれた。
 車酔いのひどかった私は通園バスですら酔ってしまうため、母は毎朝徒歩で私を幼稚園まで送ってくれた。エレベーターで痴漢被害に遭ってから一人でエレベーターに乗れなくなった時期には、私が学校から帰る頃に下に降りて待ってくれていた。私が小四でブラスバンド部に入ると、部活メインの生活になった私を支えてくれた。中学生になってからは毎朝弁当を作ってくれ、塾の帰りが遅いときには徒歩で迎えに来てくれることもあった。
 高校生になって私が消化器系の病気を患うと、レシピを勉強して私の体調に合わせたご飯を作ってくれるようになった。私が少し離れた大学病院に入院したときには、電車を乗り継いで毎日面会に来てくれた。
 家族の誕生日やお祝い事のたびに、手の込んだご馳走を作ってくれた。アップルパイを焼くときには、甘く煮たりんごが苦手な私のために、ペースト状にしたさつまいもを入れた一角を作ってくれた。私が内視鏡検査の前日に検査食で過ごしていると。鯵や鰯など私の苦手な食材をメインにした献立にして、「らーちゃんが食べられないのにごめんね」と申し訳なさそうに食べていた。
 母が救急搬送される何日か前、私にパジャマを着せられながら「らーちゃんにこんなに世話になるとはねぇ」と呟いた母に、私はなんと返しただろうか。まったく覚えていないが、おそらく「ほら、いいからおズボン履いちゃおう」などと言って私はその言葉を受け流しただろう。
 「これまで私がお母さんにしてもらったことを考えたら、こんなことなんでもないよ」
 そう言えばよかった。
 やはり、後悔は尽きない。
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