第28話

文字数 1,983文字

 十二月二十八日。
 朝、父がまた病院のソーシャルワーカーさんと電話をしていた。病院の人工呼吸器を在宅用人工呼吸器と同じような設定にしてみて、それで母の呼吸が確保できるかを確認してもらうことになったという。
 父と私の要望を聞き入れ、即座に対応してくれる病院には感謝しかなかった。もし堅物の先生しかいないような病院だったなら、「在宅で看るなんて無理だから、療養型病院に入れなさい」の一言で済まされてしまっていたかもしれない。だが、たまたま母が搬送された病院が、意識もなく人工呼吸器も外せない状態の母を家に帰らせたいという、私たちの切なる望みを叶えようとしてくれるところで本当によかったと思った。
 私は病院が在宅療養に向けて動いてくれるという話を聞いて嬉しかったのだが、なぜか朝から心が落ち着かず、仕事が手に付かなかった。母のことで頭がいっぱいで、私の脳にはもう、他のことに割くリソースはなかったのだろう。取り立てて急いで片付けなくてはいけない案件もなかったので、時間があるときにやろうと思っていた単純作業を淡々とこなしていたが、得体の知れない不安が私の心をずっと掻き乱していた。
 手早く昼食を済ませたあと、病院へ向かう準備を始めた父に「仕事抜けさせてもらって私も行こうかな」と声を掛けた。父も「行けるなら行くか」と前向きに言ってくれたので、私は仕事をいったん抜けさせてもらうことにした。これからも急に仕事を休まなければいけない日があるだろうことを考えると、働けるときにはちゃんと働いておくべきだということはわかっていたのだが、なぜかこの日は絶対に母に会いに行かなければならない気がして仕事どころではなかった。
 病室に着くと母の脇に看護師さんが二人いて、ちょうど痰の吸引を終えたところだった。吸引を行うと一時的に酸素飽和度が下がるため、モニターには85パーセント前後というやや低めの値が表示されていた。人工呼吸器を見ると、これまでは40パーセントに設定してあった酸素濃度が30パーセントに下げてあったので、おそらくすでに在宅用人工呼吸器と同様の設定に変えてくれているのだろうと思った。
 看護師さんから「年末年始ですし、今日からは時間外も面会してもらっても大丈夫ですよ」と声を掛けられ、私は思わず「母の状態が悪いということですか?」と聞いてしまった。すると看護師さんは両手を振りながら、「いえ、そういうことではないです。ただ、お家に帰られることを希望されているとのことですし、年末年始は長めにいていただいても大丈夫ということです」と慌てて答えてくれた。父と私は、病院側のその心遣いに素直に感謝した。
 三十分ほどをかけてようやく母の酸素飽和度は90パーセントを越え、最初は少し苦しそうに見えた口元も徐々に緩んでいった。母の顔が少しだけふっくらしたように見えたが、右頬を下にしていたせいで水が溜まっているだけだということはすぐにわかった。母の顔からは使うことのできない表情筋がすっかり落ちてしまい、その代わりに首回りなどに水分が溜まっているようだった。
 母はほとんど目を閉じていたのであまり無理に声は掛けず、私は母の顔や体にクリームを塗ったり、鼻毛を切ってやったりした。母の目は右目よりも左目の方が輝きが鈍く、開くことも少ないのだが、それは耳も同じなのかもしれないと感じていた。右耳に近付いて声を掛けると、大きく目を開けるなどのわずかな反応を見せることがあったのだが、左耳だとそれがまったくなかった。
 私たちはさっそく病院側の厚意に甘え、病室で一時間以上過ごした。いつものようにひたすらに母の手や足をさすり、「お家に帰ろうね」と何度も声を掛けた。母の酸素飽和度が96から97パーセントほどまで上がったところで、「明日はもっと早く来るからね」と母に声を掛けて病室をあとにした。十六時頃には戻りますと言って仕事を抜けさせてもらっていたのに、病院を出たのは十六時を過ぎていたが、正直仕事のことはもうどうでもよくなっていた。
 病院に着くまではずっと心がざわめいており、頭にチラつく「虫の知らせ」という言葉を必死に掻き消していたのだが、長く母に会えたことで私の心はすっかり満たされていた。当たり前に年を越すと考えていたであろう母を想うとつらいことに変わりはなかったが、意識を失ってもなお懸命に生きてくれている母が私に希望を与え、私を支えてくれていた。
 母が家に帰ってきてくれたら、毎日たくさん話し掛けたい。一緒にテレビや昔の私たちの映像なんかも見たい。訪問医に相談しながら身体中をマッサージしてあげたい。お風呂にも入れてあげたい。とにかく、母が少しでも快適に過ごせるように尽力したい。
 そんなことを考えている間だけ、私は絶望からわずかに顔を出すことができていた。
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