第13話

文字数 943文字

 十一月三十日。
 この日も私は仕事だったので、午後から父が一人で病院に向かった。
 家で一人になるとやはり何度も涙がこぼれたが、以前のように声をあげて泣く回数はずいぶんと減り、仕事にも集中できるようになっていた。当初は「時間が解決する」などという言葉は信じられなかったが、日を追うごとに人間はいやでも「慣れる」生き物なのだと痛感していた。一人病室で戦う母を置き去りにして、母のいない生活が日に日に当たり前となっていく。それが申し訳なくもあったが、私が日常を過ごせるのは母がまだ生きてくれているからこそだった。
 一度は外せた人工呼吸器を再び母に着けさせてしまったことに関しては、これでよかったのだろうかと何度も自問自答を繰り返した。救急車の中で訳も分からずに答えたあのときとは違い、今回はこれがいわゆる「延命」に当たるのだと私は十分に分かっていた。分かっていて、私はそれを選んだのだ。
 母自身はもう楽になりたいと思っているのかもしれない。苦しい時間を長引かせているだけなのかもしれない。そう考えると罪悪感に押し潰されそうにもなったが、それでも私はとにかく母に生きてほしいとしか思えなかった。生きてさえいてくれれば、病室で手を握ることさえ出来れば、それでもいいとすら思うようになっていた。
 人間の身体には、未知の可能性が秘められているという。大腸を切除した人の小腸が、大腸の働きをすることがあるとどこかで聞いたことがある。脳幹が生きている母の脳にも、そのような可能性は残っているのではないか。
 私はそんな風に考え、天地がひっくり返るほどの奇跡に縋りながら自分を正当化していた。
 高齢者の延命についてはいろいろな意見があるだろう。私自身も、どちらかというと否定派だった。自分がこういう立場に置かれるまでは。
 もし母がもっと高齢だったら、もっと弱って寝たきりに近くなっていたら、私は諦めがついただろう。母を楽にさせてあげたいと思えただろう。だが、母はまだ七十三歳だ。母より高齢で元気な方はそこかしこにいるし、何より母は、搬送される四日前に靴を買ったばかりだった。母は、あの靴を履いて行きたいところがまだまだあったはずだ。
 そんな母の命を諦めることなど、私には到底出来なかった。
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