第17話

文字数 3,224文字

 十二月五日も私は仕事で、また父が一人病院に向かった。この日は父のいない間に通話しながらの作業だったりミーティングだったりがあったので、喪失感に打ちのめされる暇もなく時間は過ぎた。
 母はまた人工呼吸器が取れ、酸素飽和度も安定していたという。きっと、母の中にある苦しみは少しは減ったはずだ。そして、呼吸さえ安定すれば母を家に帰らせられるはずだ。そう思うと嬉しかったが、母の意識はもう戻らないのだろうという暗闇からは抜け出せず、そんな母をまだ楽にさせてあげられないことに対する呵責もあった。だがそれでも私は、母にとにかく生きてほしかった。そして、ガリガリに痩せこけてしまった母があとどれくらい生きられるのかはわからなかったが、とにかく残りの人生をこの家で過ごしてほしいと強く願っていた。
 母が緊急搬送される三日前、私は仕事を抜けさせてもらって母の通院に付き添った。いつもなら通院の付き添いは父一人に任せていたのだが、母の認知機能が急激に低下していることを主治医に相談しようと思い、私も同行することにしたのだ。母本人の前ではやはり認知症の話はしづらいので、私が母を見ている間に父から主治医に話をしてもらうことにした。だが、そんなことを知らない母は私も同行することが嬉しかったようで、「あの病院年寄りばっかりだから、若い子が来たら先生も喜ぶはずだよ」などと言ってにこにこしていた。
病院に着いて母の車椅子を押していると、入口で検温の確認をしていた病院職員に向かって母は、「今日は娘が一緒なんです」と嬉しそうに声を掛けた。愛想のない中年男性は知ったこっちゃないといった様子でただ私たちに検温を促したが、母はとても満足そうだった。ただの冴えない大年増の娘でも、母にとっては自慢の娘だったのだろう。
 診察には父と私も付き添ったが、主治医とは簡単なやり取りをしただけだった。
「最近は身体が固まって動けなくなることが多いんです」
「そうですか、困りましたねぇ」
年配の主治医は、薬が効く時間が短くなっているのにこれ以上薬を増やしても意味がないでしょうと言い、胃ろうを作って薬を入れる新しい治療法ならありますが、と提案したが、母は「胃ろうなんて」と断った。父も私もまだそこまでする必要はないと思っていたので、結局今までと同じ薬を処方され、次回に採血の予約を入れて診察は終わった。
採血検査は隔月で受けており、この日が採血の回ではなかったことも、大きな心残りの一つだ。もしこの日に採血検査があれば、母の異常は見つかっていたかもしれない。そして適切な治療を受けていれば、母は今頃このリビングで笑っていたかもしれない。そう思うとやり切れなかった。
 診察の後、父が一人診察室に残って主治医と話をすることになり、私は母の車椅子を押して待合室へと向かった。父を待つ間、私の横で車椅子に座る母は、長財布のファスナー付き小銭入れから、一円玉と五円玉を取り出しては次々と札入れの方に入れていた。いつもと違う状況が、不安だったのかもしれない。「小銭はチャックのところに入れておいたほうがいいんじゃない?」と言っても母は聞く耳を持たず、ひたすらに小銭をいじり続けていた。
 ちなみにこのときの父と主治医の話はあまり実りのあるものではなかったらしく、父と私はこの日の夜、別の病院でセカンドオピニオンをもらってみようかと話していた。このままでは母の病気が加速度的に進行するのは目に見えていたので、本当にもう打つ手がないのか、別の病院でも診てもらおうと思ったのだ。だが、それも遅かった。
 いや、実際には、母の主治医は長くパーキンソン病患者を見てきた専門医であり、その主治医が母にはもう胃ろうを使った治療法くらいしかないと考えていたのだから、もっと前にセカンドオピニオンをもらっていても変わらなかったのかもしれない。ただ私は、ずっと「たられば」を考えずにはいられなかった。
 帰り際、母にミルクスタンドでソフトクリームをテイクアウトするのとスーパーに寄って和菓子を買うのとどちらがいいかと聞くと、母は無邪気に「どっちも」と答えた。以前から母は病院への道中にできたミルクスタンドのソフトクリームを食べたがっていたのだが、父一人だと母を連れての寄り道は難しいため、ずっと諦めてもらっていたのだ。私は仕事を抜けさせてもらっていたので本当は寄り道は好ましくなかったが、出掛けになかなか準備をしてくれない母に「なんか買って帰ろうよ」と声を掛けて連れ出した手前、まっすぐに帰ることはできなかった。母は、そういうことはしっかりと覚えているのだ。
 結局ミルクスタンドに寄り、私はカップ入りのソフトクリームを三つ買って車に戻った。母は絶対にこぼすので本当は帰宅してから食べさせたかったが、カップには蓋が付いておらず、保冷剤もなかったので、その場で後部座席の母に一つを手渡した。母は手や服やシートをベタベタにしながら、和菓子のことなどすっかり忘れた様子で必死に、そして嬉しそうにソフトクリームを食べていた。家の駐車場に着いた後、父と私は車中で母が食べ終わるのを待ってから、母を車椅子に乗せて帰宅した。
 夕食の後には、母は父が食べなかった分のソフトクリームも食べた。「満足した?」と聞くと、母は「うん」と子供のように答え、「また行こうね」と言うと嬉しそうに笑った。
 私は母の急激な衰えを感じつつも、まだしばらくはこんなふうに暮らせるだろうと思っていた。

 十二月六日。
 この日私はもともと休みを取っていたので、父と二人で午後から病院に向かった。
 人工呼吸器が取れて容態が落ち着いた母は、半個室の部屋からまた四個のベッドが立ち並ぶエリアに移されていた。右目が半開き、左目がうっすらと開いた状態で口を開け、虚空を見つめていた。気管に挿れた管からは酸素が送られており、枝分かれしたもう一方の管からは母の吐き出す息が音を立てて排出されていた。
 母の両耳にイヤホンを入れて音楽を聴かせながら、父が左手を、私が右手を握った。この日はいつも右腕に挿れている点滴をしておらず、パルスオキシメーターも左手の指に付けられていたため、右腕は肘上に血圧計を巻かれているだけだった。パンパンに腫れた右手を握って肘下を持ち上げると、やはり見た目に反して異様に軽かった。母の手指を開いてマッサージをしたが、浮腫んだ手は軽くグーに握らせることすらできなかった。
 唇にリップクリームを塗り、顔に保湿クリームを塗り、ミニばさみで顎の黒子から伸びる数本の毛を切った。母はその毛が伸びてくると私に切ってとお願いしてきていたが、パーキンソン病でじっとしていることのできない母の顔にはさみを近づけるのは難しく、いつも上手く切ることができなかった。だが、このときは容易く切ることができた。
 十分ほど音楽を聴かせたところで母の耳からイヤホンを外し、右耳に顔を近付けて声を掛けたが、大した話題は思い付かなかった。伯母に送ったお菓子が届いて喜んでくれていたこと、もうすぐ家に帰れるよということ、今夜のミールキットのメニューのことなど。もっと色々と話し掛けたいと思っても、単調な私の暮らしにはわざわざ母に伝えるほどのトピックが生まれないのだ。
 母の眼球は時折動き、唾を飲み込むような仕草もあったが、相変わらず感情のない表情を浮かべたままだった。ひたすらに右手を握っているうちにあっという間に十五時となり、十四時半に入室した父と私は、洗濯物のバスタオルを持って病室を後にした。
 母がどう思っているかはわからないが、私は母に会えることが素直に嬉しかった。母の手を握れることが、唯一の幸せだった。
 この日、母のために編んでいたニット帽が編み上がった。
 母が喜んで被ってくれる日が来るはずだと、私は自分に言い聞かせて無理やり前を向いていた。
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