第16話

文字数 1,008文字

 十二月四日も父が一人で面会に行き、私はいつものように時折涙をこぼしながら仕事をしていた。
 そろそろ父は病院を出る頃だろうか。時計を見ながらそんなことを思っていた十五時頃、父から着信があった。母に何かあったのだろうかと思い、震える手で電話を取ったが、電話口の父の声は明るかった。
 「お母さんの肺炎が良くなって、また人工呼吸器を外せそうだって。これからソーシャルワーカーさんと家に帰らせる話をするから、ちょっと帰りが遅くなるかも」
 私は母が意識障害となって以来、父の起床が遅かったり帰りが遅かったりすると過剰に心配するようになっていた。当たり前が当たり前ではないのだと知り、いつも私より早く起きるはずの父が起きていないと、寝室に行って寝息を確認したりもしていた。
 だから父は、帰りが少し遅くなるだけでもわざわざ電話をくれたのだろうが、とにかく、母が良くなったことをすぐに私に伝えたかったというのもあっただろう。私は「良かった」と心底安堵して電話を切った。
 母の肺炎が治った。それはもちろん医師や看護師さんや抗生物質やらのおかげだが、何より母にまだ闘う力が残っているからこそだろう。
 母はまだ、生きようと頑張っている。そう思えることが嬉しかった。
 もしも自分が母のような状態になったら、まだ生きることを望むだろうか。
 以前の私なら、意識もなく寝たきりになってまで生きたいとは思わなかっただろう。だが、戦ってくれている母を見ているうちに、私の考えは変わりつつあった。もし母と私の立場が逆だったとして、私がどんな形になってもとにかく生きることで父と母の希望になれるのなら、それもひとつの「生きる意味」ではないのかと。父と母のためになるのならば、私はどんな状態でも生きていたいと思えるのではないだろうか。
 もちろん、高齢者を闇雲に延命させることに関して批判的な意見が多いことはわかっていた。意識が戻ることはないであろう母の治療費も、自己負担分以外はもちろん税金で賄われている。そのことには負い目も感じていたが、それでも私は、とにかく母に生きてほしいとしか思えなかった。そして、どんな状態でもいいから、もう一度この家で母と一緒に暮らしたいと切に願っていた。
 人工呼吸器の取れた母に会えることが楽しみで仕方なかったが、根底にある悲しみが消えることもなかった。
 ひたすらに母のことだけを想う日々が続いていた。
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