第3話

文字数 1,665文字

 待ちに待った月曜日、十一月十三日。父は母のスマートフォンを持って家を出た。母はスマートフォンでメールを打ったり電話をかけたりするどころか、画面をスワイプして電話に出ることさえできなくなっていたのでスマートフォンが役に立つかはわからなかったが、目を覚ましているであろう母のために何かを持って行きたかったのだ。私もクリスマスケーキのカタログをバッグに入れていた。搬送される数日前、母は私にカタログを見せながら熱心にケーキを選んでいた。
 父と二人でそわそわしながら病院に向かい、いつものように面会時間を待ってHCUのインターフォンを押した。ドアを開けに来てくれた看護師さんに父がすぐさま「起きましたか?」と聞くと、看護師さんは「中にどうぞ」とだけ言って私たちを母のベッドまで案内した。
 母は、相変わらず眠っていた。こちらから先生に話を聞きたいと言ったのか、先生から来てくれたのかは覚えていないが、女性医師がやって来て「高齢の方は鎮静剤が抜けるのが遅いこともあるので、現段階ではまだ何とも言えません。明日か明後日まで様子を見て起きなければ、脳波の検査をする予定です」と説明してくれた。
 そうだ。あの寝坊助の母が、そんなに簡単に起きるはずもない。きっと人よりも時間は掛かる。だが、確実に起きるはずだ。そして目覚めた母に「私が誰かわかる?」と聞いたら、母は寝ぼけ眼で「らーちゃん」と答えるはずだ。私はそう思った。
 後にそれはただの痙攣もしくは不随意運動だったと知るのだが、このとき母の手はピクピクと動いており、手を握ると握り返してくれているように思えて嬉しかったことを覚えている。目も薄らと開き、口も小さく動いていたので、このまま起きるはずだとしか思わなかった。

 翌十四日。母は依然として眠っており、母の手をさすりながら声を掛けていると看護師さんがやって来て、これからCTを撮るのでいったん待合室で待っていてほしいと言われた。父と私は言われた通りに待ったが、その間は二人とも無言だった。ただ、祈るような思いでその時間をやり過ごしていた。
 三十分ほど待っただろうか。再びHCUに戻った私たちは、CTの結果を聞けないですかと看護師さんに尋ね、医師を呼んでもらった。医師からは、脳波は通常より間隔が空いているのでなんらかの障害は残っている可能性が高いこと、CTで見る限りは低酸素脳症の可能性は低そうなこと、低血糖脳症の可能性も考えられるがまだ確定はできないこと、明日脳神経外科の専門医と今後の方針を決めること、を説明してもらった。
 まだ母は起きるはずだと信じていたが、この頃から私の心はざわめき出した。このまま起きない可能性もあるのだろうか。考えたくないことが頭を過ぎるようになり、兄にも「月曜に起きてくれるはずって信じてたから、お父さんも私もだいぶメンタルやられてる」とメッセージを送っている。この後兄は心配して電話をくれたと思うが、何を話したかは覚えていない。この頃から、父と私の会話は如実に減っていった。
 翌十五日も母は眠っており、医師には会えなかったが、看護師さんからもう一度脳波の検査をすることになったと聞いた。前回の検査ではまだ鎮静剤の影響が残っていた可能性があるからだと。私は、きっとCTでは何の問題も見つからなかったからそうなったのだろうと考えた。やっぱり母は人より寝坊助なだけで、絶対に起きてくれる。そう自分に言い聞かせていた。
 十六日。母はやはり眠っていた。手をさすり、声を掛けても反応はなく、心が不安に支配されながらも、希望は捨てずにただ母が起きることを願っていた。なんらかの後遺症があるだろうことはもう覚悟していたが、寝たきりになろうともうまく会話ができなくなろうとも、とにかく母が私を認識さえしてくれればそれでいいと思っていた。
 この日も医師には会えなかったが、看護師さんからこれからMRI検査をし、明日脳波の検査をすると聞いた。そして、明日も同じくらいの時間に面会に来ると伝えて病室を後にした。
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