第5話

文字数 1,242文字

 十一月十八日。土曜日。
 一週間前と同じように面会時間前に兄夫婦と落ち合い、また兄と私の二人が面会に向かった。
 ベッドで眠り続ける母の顔を見ると、滝のような涙があふれた。手を握りながら声を掛けようとしても思うように言葉が出ず、嗚咽ばかりがこぼれた。兄は一歩引いたところから母の様子をただ黙って見守っていたが、三十分が経って病室を出るときには、「またね」と母に声を掛けていた。
 私は少しも希望は捨てていないはずだったが、絶望から抜け出すこともできなかった。いつか残酷な現実を受け入れなくてはいけない日が来るのかと思うと、怖くて仕方がなかった。何も考えたくないと思うのに、ネガティブな思考が頭を埋め尽くしていた。
 兄と私が待合室に戻ると、父が「どうだった?」と母の様子を聞いてきたので、私はいい意味も悪い意味も含めて「変わらなかったよ」と答えた。すると兄が、「二人は毎日会ってるからわからないんだろうけど」と静かに口を開いた。
 「先週会ったときは、まだ『生きてる』って感じがしたけど、今日は・・・」
 兄はその先は言わなかった。
 父が今後のことを少し話したいから家に来ないかと兄夫婦に提案すると、二人は二つ返事で了承してくれた。後部座席に兄夫婦が乗り込み、父の運転で自宅へと向かった。道路は混んでおり、「ここ右折信号ないとなかなか曲がれないね」などと父と兄が話していたが、私は助手席で一人眠った。睡眠不足が続いていたので単純に眠たかったのもあるが、それよりも、とにかく少しでも現実から逃れたい一心で目を閉じた。
 スーパーに立ち寄って買った弁当を食べながら、いろいろなことを話した。食欲のない私のために父は煮麺を買ってくれていたが、私はそれすらもほとんど口にできなかった。食事が喉を通らないという言葉を、このときほど体現したことはないだろう。もともと小学四、五年生ほどの体重しかない私はさらに痩せてやつれていっていたが、自分のことなどもうどうでもよくなっていた。
 父と二人きりのときはほとんど無言で箸を運ぶ毎日だったが、この日は兄夫婦のおかげで久しぶりに会話らしい会話をしながら食卓を囲むことができた。最近両親をちょっとお高い鉄板焼き屋の個室に連れていったこと、そのとき母は父が高いワインを頼んでいると言い張ってドリンクメニューを離さず、シェフも困惑していたことなども話し、少し笑い合ったりもした。だが、私の心の中を占める漆黒は、その濃さを増すばかりだった。
 最後に父が、「お母さんには頑張れるだけ頑張ってもらおうと思ってるけど、それでいいよな」と兄夫婦に確認し、二人も自分たちにできることはすると言ってくれた。
 私は、自分に何ができるのか考えたがわからなかった。
 この夜、私はパソコンを立ち上げて冒頭の文章を書いた。ただ何かをしていないと落ち着かなかったし、気持ちを整理したいという思いもあった。
 そして、これからの日々を残さなければいけないような気がしていた。
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