第24話

文字数 2,270文字

 十二月十九日。
 心の休まらない日々が続いていたが、私は久しぶりによく眠った。知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろう。一度トイレで目が覚めたとき、もう朝方だろうと思って時計を見たらまだ二時半だったので夜の長さを痛感したが、その後もぐっすりと眠って朝を迎えた。
 父は八時前に病院に向かい、私は「病室に着いたらお母さんの様子を連絡してね」と父に伝えて仕事のため家に残った。一人の時間は心細くて仕方がなかったが、病室で一人ぼっちの母を思うと、父が母のところへ行ってくれることはありがたかった。
 九時前に父から「落ち着いている」といういつも通りのそっけないメールが届き、私は一人胸を撫で下ろした。やはり昨日は体勢が悪かっただけなのだろう。自分で楽な姿勢をとることもできない母は、本当に些細なことで呼吸が難しくなってしまうのだ。
 昼過ぎに帰ってきた父から、人工呼吸器から送る酸素の濃度が100パーセントから80パーセントまで下げられていたが、それでも母の酸素飽和度は100パーセントを保っていたと聞いた。このまま順調にいけば、母はまた人工呼吸器を外せるかもしれない。そうすればまた、母を家に帰らせる話は進むだろう。
 私の心にはまた希望の光が灯り始めたが、この日は久しぶりに母に会えなかったせいか、涙が止まらない一日だった。
 カタログを見ながらクリスマスケーキを選んでいた母。お正月用にまた金粉を買ってねと言っていた母。私に帽子を編むと言っていた母。ソフトクリームを満足そうに食べていた母。私をベッドの隣に座らせておしゃべりしていた母。
 私が搬送前日、やたら眠いと言う母のことをもっと気に掛けていたら、当日の朝もっと早く起こしていたら、母は週末には待望のクリスマスケーキを食べていたことだろう。お正月も、この家で迎えることができただろう。私が、母のそんな些細な日常を途切れさせてしまった。母に会えない寂しさとともに自責の念がどんどんと膨らみ、私は押し潰されそうになった。
 翌日、母の車椅子と手押し車とベッドをレンタル業者が引き取りに来る予定になっていた。車椅子はつい最近借りるようになったばかりで、まだ十回ほどしか使用していない。手押し車は、ろくに歩くことのできない母にはもう使うことは難しくなっていたのだが、まだ未練があると言うのでレンタルしたままにしていた。ベッドの返却に関しては、もっとしっかりしたベッドを借りるための準備なので前向きな話ではあるが、やはり母が使っていたものがなくなるのは寂しかった。父は母が入院してからも毎日母のベッドの布団を整えていたが、この日はその布団を片付けていた。「おやすみ」と言っていつも通り眠りに就いたベッド。翌朝、そこから救急隊員に運び出されることになるなど、母自身も思いもしなかっただろう。
 何をしていても、母のことばかりを考えていた。急に冷え込んだので、人工呼吸器のせいで肩まで布団を掛けられない母は寒がっていないだろうか。浮腫んだ手は冷え切っていないだろうか。
 母が家に帰って来てくれたら、毎日時間の許す限り母の手を握りたい。
 それが私の唯一の願いだった。

 十二月二十日。
 父は早めに昼食を取って病院に向かった。先週末に一度母の容態が悪化して以降、面会時間をフリーにしてもらったままだったので、父は少しでも長く母のところにいるようにしていた。母が家にいたときも、意識を失って入院してからも、父は変わらず母中心の生活を送っていた。
 この日も母の呼吸は安定しており、人工呼吸器から送られる空気の酸素濃度は60パーセントまで下げてあったという。そして、ソーシャルワーカーさんと近所の療養型病院への転院の話もしてきたとのことだった。これだけ頻繁に危険な状態に陥るようだと家で診るのは難しいだろうという話になり、医師から療養型病院への転院を勧められていたのだ。私は少しでも早く母に家に帰ってきてほしかったが、母を危険な目に曝すくらいなら、療養型病院への転院も致し方ない。急性期型の今の病院には三ヶ月しかいられないので、どちらにせよ近いうちに出ていかなければならないのだ。まずは療養型病院に転院して、そこで母の病状がもっと安定したら、そのときにまた家に帰らせる話を進めればいい。私はそう考えていた。
 この日父は病室で二時間ほどを過ごしたが、また母の容態が安定したため、翌日からは面会時間が従来通り十四時半以降の三十分間に制限されることになった。母はまたしても、乗り越えてくれた。
 この日、両親の寝室だった部屋は母のベッドがなくなり、父一人の寝室となった。物悲しくもあるが、いつか和室に母の新しいベッドを入れることを考えれば辛さも紛れた。
 家にいた頃の母を思い出さない日はなかった。朝十時頃に起こすと、「今日はいっぱい寝たからご機嫌なの」と笑う母。トイレまで連れて行くと、「らーちゃん、オムツ脱がせて」と甘える母。風呂上がりの手伝いをしていると、「らーちゃんにこんなに世話になるとはねぇ」としみじみ言う母。「アイス食べていい?」と子供のように聞く母。何かにつけて「ありがとう」と言ってくれる母。私のことが大好きで、私のことを何よりも心配していた母。
 あの頃の母に会いたいと思う気持ちはどうやっても消えないが、今病院で一人頑張ってくれている母もまた、あの頃の母と同じ大好きな母であることに違いはない。私は昔の母の姿を胸にしまいながら、今の母を精一杯大切にしようと思っていた。
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