第11話

文字数 3,293文字

 十一月二十七日。
 さすがに仕事を休み過ぎていたし、また、母を家に帰すとなればこれからも休まなくてはいけない日が多々あるだろうと思ったので、私はいつも通りリモートで仕事をした。父は病院で兄と福岡の叔父と合流し、面会のあとに在宅介護への切り替えについて、ソーシャルワーカーさんを交えて話す予定となっていた。
 私は母を家に帰してあげられると思ってからはだいぶ気持ちが落ち着いていたが、父が家を出て一人になると、やはり寂しくて涙がこぼれた。どうしてリビングに母がいないのかわからなかった。
 つい先日まで、仕事をする私の横でカタログやチラシやスマートフォンを何時間も眺めていた母が、お風呂に入ってみかんとアイスを食べてご機嫌だった母が、どうしてここにいないのだろう。なんでこんなことになってしまったのだろう。やり切れない思いがあふれ、思考が堂々巡りしていた。それでも、母が家に帰ってくるという希望があったので、昼の私はこれまでのようには泣かなかった。
 十七時頃、遅いなと心配していた頃に父が帰ってきた。玄関まで出迎えると、「お母さんが帰ってくるのはまだ出来なくなっちゃった」と父は力無く言った。私は最初、病院の都合か何かかと思ったが、聞くと母は肺に水が溜まって呼吸の状態が悪くなっていたとのことだった。
 父は、「明日朝から一緒に病院に行こう」と私を誘った。本来なら面会時間は十四時半からしかできない。時間に関係なく行っていいということは、母の容態はだいぶ良くないのだろうということは想像が付いた。
 私は玄関先で声を上げてしばらく泣きじゃくり、そのままパソコンに向かうと、チャットアプリに明日は休ませてほしいという旨を打ち込んだ。私のチームは優しい人ばかりなので、みな何も言わずにいいねボタンを押してくれた。その後三十分ほど泣きながら仕事をし、キリのいいところで退勤させてもらった。
 母を家に帰らせるという希望が生まれてからは、父と二人の食事にもいくらか会話が戻ってきていたが、この日はまた黙食の時間が訪れた。私は涙が止まらなかったし、父もひどく落胆しているのが見て取れた。
 無言の夕食後に佐賀の伯母から電話があった。福岡の叔父から話を聞いたようだった。
 「もう二、三日だろうから、会いたい人に会わせるように言われたってね」と、伯母は声を詰まらせながら言った。父の様子から察してはいたが、はっきりそう聞くとやはり打ちのめされた。そして、私にそのことを伝えることが出来なかった父のことを思うと、ひどく胸が痛んだ。
 命が助かったのだから、なんとかなるはずだと思っていた。このまま母を家に迎え入れ、母の様子を見ながら仕事をし、とにかく毎日声をかけて体をさすり続ければ、奇跡が起きるのではないか。そんな甘い希望を抱いていた。その一縷の光だけが私を支えてくれていた。
 一度は覚悟したはずなのに、怖くて仕方がなかった。
 今にも病院から父のスマートフォンに電話がかかってくるのではないか。そう思う一方で、母を運ぶ救急車に同乗したときと同じように、どこか他人事で、絶対に大丈夫だと楽観している自分もいた。
 だって母は、搬送される前日あんなに笑っていたのだから。みかんとアイスを食べてあんなにご機嫌だったのだから。
 母は苦しいのだろうし、早く楽になりたいのかもしれない。だけど私は、母に家に帰ってきてほしいとしか思えなかった。
 母の目が覚めなくとも、毎日顔を見て、私と父が長い介護生活に疲れ果てるまで生きてほしいと本気で思っていた。

 十一月二十八日。
 前夜は父と二人で重苦しい沈黙の時間を過ごし、二十三時半頃には各々の寝室に篭った。だが、早く布団に入ったところで簡単に寝付けるはずもなく、私は何をするわけでもない時間をただやり過ごした。それは父も同じだったようで、私が一時頃にトイレに行ったときにも、隣の寝室の明かりはまだ点いていた。
 私は父のスマートフォンが鳴ることに怯えながら、布団に頭を埋めて眠った。はっきりとは思い出せないが、明け方に母の夢を見た気がする。
 無事に朝を迎えた父と私はいつもより少し早く起きて朝食を取った。昨晩父は、どうせ食べる気がないから買い置きしているゼリーでも食べようかと言っていたが、私はせめてもと思い、卵を落としたしめじとほうれん草の味噌汁を作り、冷凍ご飯をレンジで温めた。「食べる」ことの重要さは母が身を持って教えてくれた。私自身も食欲がないので大したものは作れないが、私たちが体調を崩してしまったら母に会いに行くことも出来ない。
 一回目の洗濯だけを済ませ、私たちは九時前に家を出た。道路は思ったよりも混んでおらず、九時半頃には病院に着いたかと思う。いつものように入館許可証の手続きはせず、直接HCUへと向かった。
 いくつかのベッドが並んだ区画から半個室のような部屋に移されていた母は、相変わらずうっすらと目を開け、下顎をかくかくと上下させていた。痩せ細っていたのも変わらなかったが、モニターの酸素飽和度は99から100パーセントで安定していたので、昨日の様子を見ていた父はひどく安心したようだった。昨日は常に80台で、アラーム音がしきりに鳴っていたという。
 看護師さんが、「熱も昨日は三十八度台あったけど、解熱剤を使って今日は三十七度台まで下がってますよ」と教えてくれた。母のおでこを触った父は、「昨日は汗ばんでたけど今日は熱くないな」と胸を撫で下ろしていた。
 レントゲンを撮りに行くとのことでいったん私たちは待合室に行き、レントゲンが終わってから病室に戻ると、母は先ほどよりも大きく目を開けていた。私が耳元で大きく「お母さん」と呼ぶと、反応して目が微かに動いたように見えた。
 母の様子を見てすっかり安心した父と私は、一度帰宅して二階目の洗濯をして昼食を取り、父は風呂掃除、私は夕食の準備をしてからまた病院へと向かった。朝は充満していた重苦しい空気が、午後の車内ではだいぶ薄れていた。
 十五時前に病室に入るとモニターの酸素飽和度は86パーセントほどだったが、看護師さんが「今痰の吸引をしたところだから、もう少ししたら落ち着くと思いますよ」と教えてくれた。その通り徐々にモニターの数値は上がっていったが、朝のように高い数値にはならず、90台前半くらいで推移していた。看護師さんにレントゲンの結果を知りたいと伝えると、しばらくして医師が来てくれた。
 以前にもCTの結果を説明してもらったことのある若い女医は、肺の水は減っておらず、肺炎の薬を変えてみたりはしているが、まだ効果は見られないことを神妙な面持ちで教えてくれた。水が減っているのだろうと楽観していた私は正直がっかりしたが、昨日の様子を見ていた父は「落ち着いてきてるから大丈夫だろう」と、それほど悲観はしていなかった。
 私は相変わらず母の手を握り、額や肩をさすり、大きく開いた母の目に映るように身を屈めることしかできなかった。母の瞳の中央に自分の姿が反射するように立つと、確かにこちらを見てくれているように思えたが、私が姿勢を変えても母の目は私を追ってくれないのが悲しかった。
 母の下顎はまだ常に上下しており、何かを必死に伝えようとしているように思えてならなかった私は、「うん、うん」と一方的に相槌を打った。私の名前を呼ぼうとしてくれていると信じたいが、もしかしたら「つらい、苦しい」と訴えているのかもしれない。そう思うと、ただ母の「生」に縋り付いていることが心苦しくなった。
 一時間ほど経って、父と私は病室をあとにした。看護師さんに「明日も好きな時間に来てもいいですか?」と訊ねると、「大丈夫です」と言われた。そして、「夜中に電話した場合は、やはり到着まで一時間くらいかかりますか?」と聞かれた。
 まだ夜中に電話がかかってくる可能性がある。そういう状況に母は置かれているのだった。
 だが、父も私も母は大丈夫だと信じていた。そうでないと、私たちの心が持たなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み