第32話

文字数 2,724文字

 一月二日。
 この日、母が家に帰って来た。
 白い布に包まれて。

 この日もいつも通り早めに昼食を済ませ、私は自室で家を出る準備をしていた。
 「かな!」
 突然、父が私の名を呼んだ。その声のトーンに、私の心はざわめき立った。
 「病院から心拍が弱くなってるって電話があったから、もう行くぞ」
 父の言葉を聞いて、私は泣きながら急いで準備を済ませた。
 前日に少し酸素の数値が下がっていたこと、また熱が出ていると言われたことは気になってはいたが、急変するような状態ではないと思っていたので、青天の霹靂だった。無事に年を越せたのだから、母はこのまま家に帰ってくるものだとしか思っていなかった。
 駅前のデパートなどはこの日が初売りだったので渋滞を危惧していたが、昼過ぎだったせいか道路は思ったほどの混雑はなく、十三時前には病院に着いた。休診日なので総合受付にはいものように年配の警備員がいたが、母の名前を告げ、病院から呼び出しがあったことを伝えると、「あー、◯◯さんね。行って大丈夫ですよ」とすぐに入館証を渡してくれた。休診日にしかいない警備員にも覚えられるほどに、父と私は病院に通い詰めていたのだ。
 エレベーターに飛び乗って七階に上がり、父が病棟のインターホンを押した。
 これまでにも何度か、こんなふうに病院からの呼び出しで駆け付けた。そして、そのたびに母は乗り越えてくれた。だから、今回もきっと大丈夫だろう。
 そう思いながら看護師さんの応答を待ち、扉が開くと同時に病棟に入って廊下を足速に進んだ。
 だが、私の希望的観測は、病室に足を踏み入れると同時に打ち砕かれた。
 赤いランプが点ったモニター。両目を見開いて大きく口を開けた母。
 もう息をしていないのがひと目でわかった。
 父と私は母に駆け寄り、母の体を揺すった。私は「お母さん」と泣き喚いた。握った母の手は温かかった。
 母は前日まで着ていた紫の花柄の寝巻きから、ピンクのイチゴ柄の寝巻きに着替えさせてもらっていた。少し薄手だったが若者向けのローブのようなその寝巻きは、私が母に一番着てもらいたいと思っていたものだった。きっと母が見たら「ちょっとぶりっ子過ぎない?」と笑っただろうが、いわゆる「介護用」ではないそれは、母に少しでも可愛らしくいてほしくて購入した一着だった。
 看護師さんが先生を呼んで来ると言って病室を出たあと、父は母に何度か心臓マッサージを施した。私も父と同じ気持ちだった。どんな状態でも構わないから、とにかく母に生きてほしかった。
 だが、私はやんわりと父を止めた。母の身体がとっくに限界を越えているのは明白だった。
 父は「だって息してない」と言って私に訴えかけるような目を向けたが、それ以上母のガリガリの胸を押すことはしなかった。
 ほどなく例の眼鏡の男性医師が来て、朝から呼吸の状態が悪くなったこと、投薬をしたり人工呼吸器の設定を変えたりしたが、改善しなかったことを説明してくれた。その後、私たちにもわかるように一つ一つ言葉にしながら母の瞳孔の確認などを行っていたが、私はただ呆然とそれを眺めていたので詳細はあまり覚えていない。
 そして、令和六年一月二日午後一時二分。母の「死亡」が確定した。
 父は兄や親戚に電話をするために病室をいったん出たので、私は一人で母の手を握って泣き続けた。一人の看護師さんが椅子を持ってきて「座ろうか」と声を掛けてくれ、言われるがままに私がそれに腰掛けると、看護師さんたちは母と私を残して病室を出ていった。
 せっかく母と二人きりにしてもらったのに、私はただ「お母さん」と繰り返すしかできなかった。胸が苦しくて、言葉が出てこなかった。大きく見開いた目と口が、母が苦しい思いをしたであろうことを如実に物語っていた。
 父は病室に戻ると、スマートフォンで葬儀業者を調べ始めた。「どこがいいと思う?」と聞かれたが、私は「どこでもいい」としか答えられなかった。父が業者に電話をしている間に看護師さんが来て、父と業者のやり取りを手助けしてくれた。前日に母のオムツを替えてくれた看護師さんだった。
 母の身体を綺麗にしてもらえるとのことで、父と私は談話室の個室に案内された。母に着せたい服があるかと聞かれたがそんなものは用意しておらず、薄手のぶりっ子の寝巻きのままというわけにもいかないので、病院で用意できるという浴衣を着せてもらうことにした。
 お母さん、よく頑張ってくれたよね。
 搬送されてあのまま逝ってしまっていたら、きっと受け入れられなかった。
 私たちに覚悟する時間をくれたね。
 家に帰って来てくれるんじゃないかって希望も持たせてくれた。
 寂しいけど、お母さんが楽になったって思わなきゃ。
 でも、どんな形でもいいから生きててほしかった。
 取り止めのない話をしながら「お父さんは長生きしてね」と私が泣きつくと、父はただ力無く笑った。
 しばらくすると看護師さんが迎えに来て、私たちは病室に戻った。荷物が綺麗にまとめられた部屋のベッドで、母は黒と白の浴衣を着て眠っていた。口がどうしても開いてしまうとのことで、顎下に丸めたタオルを挟んであった。左目は閉じていたが、右目は半開きだった。あれだけ見開いていたのだ。簡単には閉じさせられないだろう。
 父はいったん車に荷物を積みに行き、父が戻ってからストレッチャーに乗せられた母と一緒に一階に向かった。所々に廃棄物などが積み上げられた廊下を進み、花が飾られた白一色の小部屋に入ると、看護師さんが蝋燭を模したライトを点けてくれた。父と私の順におりんを鳴らして合掌し、看護師さん三人も続いて母に手を合わせてくれた。私はその様をぼんやりと眺めながら、どこの病院にもこういった場所が密かに用意されているのだろうななどと考えた。私の心はまた深い絶望に沈み込み、それに飲み込まれてしまわないように分離していた。
 葬儀業者が着くと、父は一足先に車で帰ると言ってその場を後にした。入れ替わるように眼鏡の男性医師も母の見送りに来てくれたので、母が葬儀業者のストレッチャーに乗せられている間に、母を家に帰らせるための準備をしてくれたことに対する感謝を伝えた。医師は、「人工呼吸器の設定を変えていたんですが、もうお身体が持たなかったようですね」と応えてくれた。
 母を乗せた車に同乗し、私は病院を後にした。母が搬送されたあの日から、何度も何度も何度も通った病院。こんな形で出ていくことになるとは思ってもみなかった。
 ちらりと振り返ると、医師と看護師さんたちは頭を下げて母を見送ってくれていた。
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