第25話

文字数 3,453文字

 十二月二十一日。
 病室に入ると、母は目を閉じていた。声を掛けても反応はなかったが、以前よりも顔が少しだけふっくらしているように見えたので安心した。今まではげっそりとした母の顔を見るたびに涙が込み上げていたが、この日は悲しい気持ちにはならなかった。人工呼吸器の酸素濃度も40パーセントまで下げてあったので、近いうちにまた人工呼吸器は外せるだろうと思った。そして、また家で母と一緒に暮らせる日はきっと来るはずだと確信した。
 母の手を数分握ったところで、経鼻チューブのテープを張り替えに看護師さんがやって来た。鼻から入れっぱなしのチューブは鼻先と左頬にテープで止めてあるのだが、かぶれないように定期的に貼り替えてくれているようだった。
 窓際に退避して遠巻きに母と看護師さんを眺めていると、別の看護師さんに連れられて見知らぬ女性が入って来た。母を家に帰らせるとなると様々な介護サービスを利用する必要があるため要介護度変更の申請をしていたのだが、その確認に来た市役所の方だった。母は元々要介護二で、それもそろそろ三に上ろうかというところだったが、一気に五の域に達してしまっていた。
 女性から家族構成や入院前の母の様子について聞かれ、父と二人で説明していると、看護師さんの処置を受けていた母がいつの間にか目を開いていた。私は切りのいいところで女性とのやり取りを父に委ね、母の元に駆け寄った。手を握って「おはよう」と声を掛けたが、母の目は私を見ることなく少しずつ閉じていき、母はまたすぐに眠ってしまった。
 「声掛けに反応されたり、手を握り返したりされますか?」
 その様子を見ていた女性にそう聞かれ、私は「いえ」と答えた。耳はまったく聞こえていないわけではないと感じていたが、声掛けへの反応があるかと言われれば残念ながらそうではない。
 「目で物を追ったりはされますか?」
 「いえ」
 答えながら悲しくなった。母の瞳に自分を映すたび、心の内では「お母さんはきっと私を見てくれている」と思っていても、客観的に見れば母が私を目で追っていないことは明白だった。
 近くの療養型病院への転院を予定していること、ゆくゆくは在宅ケアに切り替えたいと考えていることなどを伝えたあと、女性は最後に母の耳元で「お大事になさってくださいね」と声を掛けてからナースステーションに話を聞きに行った。
 その後も母は目を開けることはなく、私はベッドに散らばった母の抜け毛をかき集めては捨てた。母の髪はどんどん抜け落ちており、面会のたびに拾っても、その枕元にはいつも多くの抜け毛が散乱していた。母は服の背中側に髪の毛が入るといつも、「チクチクするから髪の毛ないか見て」と私に甘えてきていたので、首周りに落ちた抜け毛はきっと不快に感じているだろうと思い、念入りに取り除いた。
 あとはいつも通り、母の手をひたすらにさすった。余分な水分だらけの手はいつも冷え切っており、さすってあげている間は少しは温まるが、私たちがいない間はずっと冷たいだろうと思うと可哀想でならなかった。母の耳元で「また来るね」と声を掛け、私たちは十五時十分頃に病室を後にした。
 生きている、というのは本当にそれだけで尊いことなのだと日々実感していた。母の手を握ることもできなくなっていたら、父と私はただ死んだように毎日を過ごしていただろう。だが、母が頑張ってくれていることで、私たちはまだ未来を描くことができた。母が近くの療養型病院に転院する日が来ること。容態が安定して家に帰ってくる日が来ること。
 そして、いつか母が笑う日が来ること。
 私たちは、母が繋いでくれた希望があるから生きていられた。

 十二月二十二日。
 母の声が聴きたい。笑顔が見たい。
 前日は落ち着いていた私の心が、この日は激しく揺れた。母に会えない日の私は、いつも情緒不安定だった。何かがほんの少し違っていたら、母は今も家にいたはずなのに。そんな思いがあふれかえり、涙となってボロボロとこぼれ落ちた。
 父は私を安心させるため、病室に着くと必ずメールをくれるようになっていた。
 「落ち着いている。」
 たったそれだけのそっけない文章だが、リビングで一人パソコンに向かう私にはその一文が何よりもの励みだった。だがその後、「今から帰る」とメールがあってから父がなかなか帰ってこなかったので、私の心は不安で埋め尽くされた。「当たり前」が当たり前ではないことを知ってしまった私は、ちょっとしたことでも「父に何かあったんじゃないか」と心配するようになっていた。こちらからメールをしたらきっと、父は運転中であっても病院からの連絡ではないかとスマートフォンを気にしてしまうだろう。そう思うと、こちらからは安易に連絡はできず、私は祈るような気持ちで父の帰宅を待った。メールから一時間ほど経ってやっと父が帰ってきたときは、心の底から安堵した。
 母はこの日ようやく、私が買った寝巻きを着せてもらっていたらしい。その姿を早く見たいと思っていたら、兄から「明日も十四時半に行くつもりだよ」とメッセージが届いた。兄夫婦は父の負担を減らすため、毎週土曜日に面会に行ってくれていた。その厚意を無下にはできないし、私は年末年始にたくさん母に会えるのだからと思い、素直に「よろしくお願いします」と返した。
 だがその後、明日は義姉は予定があるので兄一人で面会に行くというメッセージが送られて来た。すかさず父にそのことを伝えに行くと、父は私の気持ちをすぐに察してくれ、「じゃあお前も行くか」と言ってくれた。電車とバスで一人で行くから大丈夫だと言ったが、父は「車で送る」と言って聞かなかった。父もまた、私にまで何かあったらという気持ちを抱えているのだと思った。
 母に会えると思うと、私の心は軽くなった。だが、この母への依存は、決していいものでないだろうことはわかっていた。
 母が搬送されるずっと以前から、母と私は共依存のような関係にあった。互いに子離れ、親離れができないままずっと一緒にいたことで、もう離れることのできない関係性になっていた。四十を過ぎてもこんなにも幼い私を見れば、その関係性が褒められたものでないことは明白だろう。もの言えぬ人となった母にまでこうしていつまでも縋ることは、きっと私にとってよくないことだというのはわかっていた。私の中の母が大きくなれば大きくなるほど、いつかは必ず訪れてしまう別れに耐えられなくなるだろう。
 だが、それでいいと思った。このまま母が生きてくれて、私の中が母で満たされればそれでよかった。その先のことは考えたくなかった。
 母と代わってあげたいと、本気で思った。何もない私の人生などどうなってもいいから、母に美味しいものを食べてほしい、好きなところに行ってほしい、たくさん笑ってほしい。代われるものなら、本当に代わってあげたかった。
 だがその反面、寝たきりになったのが私でなくてよかったとも思った。
 母に、こんなにやるせない気持ちを味わわせたくはなかった。

 十二月二十三日。
 結局義姉も行けることになったとの連絡があり、父と私は面会を休むことになった。行く気満々だったので朝メッセージが来たときは正直言うと少しがっかりしたが、母も父と私ばかりでは飽きてしまうだろう。何より、家を出てからは年に数回しか会うことのなかった兄が毎週通ってくれていることを、母はきっと喜んでいるはずだ。
 私は午前中に歯医者に行った。休みの日の午後は面会に行くと決めているので、通院などはすべて午前中に済ますようにしていた。処置中、歯を削る痛みを紛らわすために何か考えようとすると母のことばかりが浮かび、物理的な痛みよりももっと辛い痛みに襲われて泣きそうになった。そして、病室で一人過ごす母を思えば、これしきの痛みなどなんてことないと思った。
 道を歩いていて八十代、九十代くらいのお元気そうなおばあさんを見かけるたびに、どうして母にはあの方々のような日々が訪れないのだろうと悲しくなった。毎日手の込んだご飯を作り、元気な頃にはパートに出ていた時期もあった母。家族のために懸命に生きてきた母に、神様はなぜ穏やかな老後を与えてくれなかったのかと恨めしくて仕方がなかった。
 ただ生きていてくれればそれでいい。そう思いながらも、母の笑顔を見たいという願望が私の中から消えることはなかった。
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