第36話

文字数 2,654文字

 一月五日。
 朝、葬儀会社から、十時半から十一時くらいに母を連れて来ると連絡があった。元来気忙しいところのある父はそれからずっとそわそわと落ち着きがなく、十時十五分にはもう待っていられないといった様子で、エレベーターの鍵を開けに行った。だが、借りていた鍵が合わなかったようで、慌てて管理組合に電話を掛けて鍵を届けてもらっていた。
 私はというとなぜか妙に心が穏やかで、リビングで淡々と仕事をしながら母の帰りを待っていた。
 待ちきれない父はベランダから外の様子を眺めていたが、そのせいで葬儀業者が鳴らしたインターホンの音に気付かず、私が「お父さん、来たよ!」と声を掛けると慌てて玄関を開けた。前回とは違う、だが前回と同様に大柄な男性二人が母を連れて来てくれた。
 また和室の布団に母を寝かせてもらい、顔に掛けられていた白い布を外すと、母は目と口をしっかり閉じ、穏やかな表情で眠っていた。やはり痩けて浮き出た頬骨は目立ってしまっていたが、化粧をしてもらった母は、本当にただ眠っているようだった。ファンデーションの色が濃くて母の白い肌が隠れてしまっていたのが少し残念に感じたが、いろいろと事情もあるのだろうし、元々そんなに化粧をするタイプではなかったことしか伝えていなかったので、仕方ないと割り切った。
 葬儀業者が帰ってから、父と私は線香をあげて母に手を合わせた。そして私はまた母に「おかえり」と声を掛けた。心は落ち着いていたが、やはり涙があふれた。
 安らかな母の顔を眺めていると、病院で虚ろに目と口を開けた母と会う毎日は、やはり辛くもあったのだと感じた。母の手を握れるだけで本当に嬉しかったし、どんな状態でもとにかく生きてほしい、家に帰って来てほしいと強く願っていた。生きてさえいればいつか笑ってくれる日がくるかもしれないと、心のどこかで信じてもいた。
 だが、母にとっても私たちにとっても苦しい日々であったことは間違いなく、しっかりと両目と口を閉じて穏やかに眠る母を見て、どこかほっとしている自分がいた。
 十五時になると、私は仕事の手を止めてお茶を淹れた。母は午後のティータイムを大切にしており、まだ元気だった頃にはしょうがを擦りおろしてジンジャーティーを淹れたり、ココアを作ったりしていた。最近はもっぱら私が淹れていたので緑茶で済ませてばかりいたが、時間があるときにはもっと母の好きなものを淹れてあげればよかったと、後悔しながら母の脇の供物台に湯呑みを置いた。
 夕食には、白菜のうま煮を作った。母の好物の一つで、「これ好きだからまた作ってね」と子供のように言っていた母を思い出し、また嗚咽がこぼれた。
 最近の母は本当に幼い子供のようだったが、私が体調を崩して自室で寝ていたとき、様子を見に来て「スポーツドリンク持って来ようか?」と声を掛けてくれたことがあった。重たいペットボトルなど持てない母が無理をしないように、私はだるい身体を起こして自分で注ぎに行ったのだが、ボケてもやはり「母」は「母」なのだと感じて嬉しかった。
 うま煮以外のメニューもすべて少しずつ取り分け、いつものグラスにビールも注いで母の元に置いた。父は母のお箸も用意し、サラダにはちゃんとドレッシングもかけていた。母に手を合わせてから食べ始めると、どうしても「もっと美味しいものを食べさせてあげたかった」という思いが込み上げ、また声をあげて泣いた。
 夕食を食べながら、私は九月の母の誕生日のことを思い出した。母がいいお肉ですき焼きを食べたいと言うので前日に父がデパートまで肉を買いに行き、誕生日当日は、母を連れて新しくできたケーキ屋さんにケーキを買いに行った。
 そして夜、いざすき焼きを作るとなぜか母はご機嫌斜めで、二ターン目のすき焼きを準備している間に「もう待ちくたびれたからいらない」と言って席を立ってしまった。
 母が喜んでくれるだろうと思っていた私は悲しくなって泣きながら皿を洗い、父はそんな私を見て母を叱った。だが母は意に介さずといった様子で冷蔵庫からケーキを取り出し、ケーキはいらないという私の横で一人でケーキをぼろぼろにしながら食べていた。そのときは本当に悲しくて仕方なかったのだが、翌日だったろうか。風呂からあがった母にパジャマを着せていると、母が「あのときはごめんね。でもね、あんまり普通のご飯だったからがっかりしちゃったの」と言った。
 母の言葉を聞いて、私はなんて可哀想なことをしてしまったのだろうと猛省した。私は、いいお肉のすき焼きとケーキがあればそれで十分だろうと思い、あとは簡単なサラダと副菜で済ませてしまっていた。だが、母はもっと特別なお祝い料理が食べたかったのだ。
 次の誕生日には必ず、しっかりとしたパーティーメニューを作ろう。私はそう決めていた。
決めていたのに、母を喜ばせることはもう叶わない。
 私が泣きながらその話をすると、父も目を赤くしていた。もっとしてあげたいことがあったという後悔ばかりが日に日に膨らんでいたが、それは父も同じなのだろうと思った。
 辛くて仕方がなかったが、それでも私は着実に母の死を受け入れ始めていた。そしてそれができるのは、母が意識を失ってもなお、二ヶ月近くもの猶予を与えてくれたからこそだと思った。もしさ搬送された十一月九日にあのまま母が逝ってしまっていたら、私はもっと深い絶望と後悔に襲われただろう。現実を受け入れることなど到底できなかっただろう。
 だが母は私に、「お母さんのためにできるだけのことをした」と思えるだけの時間をくれた。父と私は本当に母のことだけを考えて、母が入院してからの約二ヶ月を過ごした。それは母には本当に過酷な時間だっただろうし、そして私たちにとっても辛い時間であったことに変わりはないのだが、それでも必要な時間だったのだと感じるようになっていた。
 病室ではいつも、母の目に私が見えていてほしい、母の耳に私の声が聞こえていてほしい、母の手に私の手の熱が伝わっていてほしいと思っていた。でも母が亡くなってからは、母はずっと眠ったきりだったのだと思うようにしていた。必死に病院に通っていた私たちのことなど何も知らなくていいから、その代わりに母は苦しんでもいなかったのだと思いたかった。 
 母にお供え物をするという新しい習慣ができた私は、主人を失っていた母の茶碗と湯呑みと箸を久しぶりに洗ったとき、母が入院してから完全に止まっていた時間が少しだけ動き出したような気がした。
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