第9話

文字数 1,671文字

 翌十一月二十四日も、私は仕事を休んでしまった。親との別れという、多くの人間が当たり前に通るであろう道でこんなにも挫け、周囲に迷惑を掛けるのは心苦しく、情けなくもあったが、病院で一人過ごす母のことを思うと涙が止まらず、仕事など手に付かなかった。
 父はこの頃しょっ中、私が買ったタブレットで漢字クロスワードパズルをやっていた。元々は母の暇潰しにならないかと思って購入したタブレットだが、やはり新しいものには馴染めなかったようで、母にはあまり使ってもらえなかった。ただ、脳トレの計算ゲームをやらせたときはポイントがアップするたびに「今の三位だった。もう一回やる」などと喜び、何度も繰り返しチャレンジしていた。「お母さん、まだこういうゲームもできるし、伸び代もあるから大丈夫だよ」と私が言うと、母は嬉しそうに笑っていた。
 そのタブレットで時間を潰す父もきっと私と同様に、自分の中に詰まっていた母の穴を埋められない日々を送っているのだろう。
 午後から父と二人で病院に行き、母の手や額をさすった。この日の母は両目が薄らと開いており、私はその瞳に自分の姿を映すために何度も何度も身を屈めたが、母の虚ろな目に私が見えているとは思えなかった。もう二度と、母が私を認識することも、食べることも笑うことも話すこともないのだという現実が、私を捉えて離さなくなった。もう私にも、奇跡を信じたいと言って現実と争うことが難しくなっていた。
 面会のあと、医師と面談室で話す時間を作ってもらった。「病状説明ですか?」と聞く医師に、父は「このままだと本人も辛いと思うので、もう家に帰らせたやりたい」という旨を伝えた。この「帰らせてやりたい」は命が伴わなくても、という意味だったのだが、この日初めて会った眼鏡の男性医師は、「在宅介護に切り替えたい」という意味と捉えたようだった。
 それもそうだ。母の心臓は十分に動いているし、自発呼吸もできている。私が延命を望んだあの瞬間から、母はとにかく「生かされる」ことが決まっていたのだ。意識がないとはいえ、母の命を絶つなどという権利は、医師にも私たちにもあるはずもないのだった。
 このときまで、母を家で看るという考えは私たちの頭にはまったくなかった。だが、「病院にいるより生きられる時間は確実に短くなるけれど、病院にいるのと家にいるのとどちらがご本人にとっていいだろうか、ご本人にはもう聞くことができないのでご家族で考えてください」と言われた瞬間に、私の心は決まった。父も同じだったようだ。
 私たちは、次の月曜日にソーシャルワーカーさんを交えて話をすることとなった。母にとっては辛い時間が続くことに変わりはないのだが、どうせ同じ時間を過ごすのであれば家に帰ってきてほしいと、私は強く思った。寝たきりの在宅介護というのはきっと容易いことではないだろう。だが、もう一度母に「おかえり」と言える、ずっと顔を見ていられると考えると、深く沈み切っていた私の心は軽くなった。父も同じだったようで、帰りの車中で、ベッドをどの部屋に置こうか、寝巻きも買わなきゃな、などと話していた。父とこんなに会話するのは、ずいぶんと久しぶりだった。
 母が辛いことに変わりはなく、父と私は大きく開いた「穴」を埋めたいだけなのかもしれなかった。だが、私たちにはもう、出来る得る範囲で母にとっての最良を考え、それを実行するしかなかった。
 母は遠い昔、まだパーキンソン病も患っていなかった頃、「もしお母さんが寝たきりなんかになったら、すぐに逝かせてね」と言っていた。そんなときが来るはずなどないと思っていた私は「もちろん」と笑っていたが、突然母が救急搬送されたあの日、救急車の中で蘇生や人工呼吸器の取り付けを希望するかどうかを聞かれたとき、私は泣きじゃくりながら「お願いします」と即答した。あのときの私にはそれ以外の選択肢はなかった。
 悔恨の念が消えることなどなかったが、母がまたこの家に帰ってくるかもしれないという新たな希望が、私を奮い立たせてくれた。
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