第7話

文字数 3,639文字

 十一月二十一日も、私は病院には行かずに仕事をした。午後から母は人工呼吸器に繋ぐための気管カニューレ装着の手術が予定されていたため、父も面会を休もうかなとも言っていたが、結局いつもより少し遅めに病院に向かった。やはり、母のことが気掛かりで仕方がないのだ。
 私はまた家で涙を流しながら仕事をし、父の帰りを待った。病院で一人ぼっちの母のことを思うと父が面会に行ってくれるのは有り難かったが、家で一人になるのはやはり怖くて仕方がなかった。当たり前にそこにいたはずの母がいない現実を突きつけられ、震えずにはいられなかった。
 帰宅した父から、母の手術は無事に終わったと聞いた。そして、自発呼吸は安定しているので、痰の吸引に必要な気管カニューレは着けたままになるが、人工呼吸器はそのうちに外すかもしれないとも言われたという。母の身体の状態が悪くないというのは、唯一の救いだった。
 母が入院してからというもの、私は仕事が終わってからの時間を持て余していた。日常生活のすべてにおいて介助の必要だった母の存在が、私の隙間を埋め、私の自己肯定感を高めてくれていたのだということを痛感していた。母に頼られることだけが、何も持たない私の存在意義だったのだ。
 唯一、編み物が私の隙間を埋めてくれていた。搬送される四日前、母が私に帽子を編むと言って選んだ毛糸。その毛糸で私はニット帽を編み始めていた。
 十年ほど前は母と二人でせっせと針を動かす時期もあったが、ここ数年は二人とも編み物なんてすっかり忘れていた。なのに、急に母が毛糸を買ったのには何か意味があったのではないか。そんなことを思いながら無心で手を動かしていた。実際には、母はもう自分が編み物なんてできないということすらわからなくなっていたのだろうが、このとき私の手元に毛糸がなかったら、私は母のいない時間を埋めることはできなかっただろう。帽子は順調に編めていたが、編み終わってしまうのが寂しいような怖いような、そこはかとない不安が私を襲うときもあった。
 この日の夜、兄から父に電話があった。兄の声はほとんど聞こえなかったが、父の発する言葉から、もう現実を見なくてはいけないというような話をしているのはわかった。兄は優しいので、「お母さんが起きることを信じてる」と言い張る私にははっきりとその話はしない。ただこの前夜に、「お母さんが良くなることを信じる気持ちもわかるけど、かなこの人生の方がまだずっと長いはず。自分の人生も大事に生きてほしい。お父さんも。」というメッセージが来た。
 私だけが現実から逃げ、わずかな可能性に縋りついているのだろうか。だが私は、搬送される四日前に新しい靴と毛糸を購入した母の人生が、ここで終わるなんてことがあってはならないと思っていた。
 私は父に、兄との会話の内容を訊ねることはしなかった。父はきっと、兄の言う現実と、私の望む奇跡の間で苦しんでいたのだと思う。だが、一緒に奇跡を信じてほしいと思っている私には父が現実に目を向けるのが許せなく、私はまるで思春期の娘のように父から目を逸らすようになっていた。
 この頃、母と同じ七十三歳のお母さんが植物状態となり、四年間も眠り続けているという方の記事を見かけた。私はもう、そのようになってもいいとすら思っていた。とにかく、母が生きてさえいてくれればそれでいいと。
 カタログでクリスマスケーキやおせちを選んでいた母。当たり前に年末が来て、お正月を迎えるものだと思っていた。そのはずだった。十一月九日の朝までは。
 病院で母の手を握り、おでこを撫で、耳元で声を掛ける。
 その時間すらもなくなってしまったら、私はもう生きていける気がしなかった。さすがにすぐに母の後を追うつもりはなかったが、空っぽのままただ生きて生きて、母にごめんねと言えるそのときをひたすら待ち続けるだけの人生を送ることになるだろう。そんな風に思っていた。

 十一月二十二日。
 この日は午前中に歯医者に行った。銀の詰め物が取れたところを治療中で、本来なら前週の金曜日の夕方に行く予定だったが、その日は医師から「母の意識が戻ることはないだろう」という説明を受けたために間に合わなくなり、予約を変更したのだった。
 詰め物を五千円の銀にするか七万円以上のセラミックにするか聞かれ、以前から目立つ銀の詰め物を替えたいと思っていた私はセラミックを選んだが、後から「こんなときに自分のために大金を使うのか」という後ろめたさが湧き上がった。
 兄と電話する父の話を聞いてから、私は父とうまく話せなくなっていた。母の回復を信じる同志だと思っていたのに、諦めの匂いを出していた父を見て裏切られたような気持ちになったからだ。午後から父の運転する車で、無言のまま病院に向かった。
 家を出る少し前に父へ連絡があった通り、母のベッドはHCU内の重篤な患者がいるエリアから、比較的軽度な患者がいるエリアへと移されていた。容態が安定しているのだろうと安心すると同時に、意識回復の見込みのない老人にはそんなに手を掛けられないのだろうと思うと少し悲しくもなった。もちろんそれは仕方のないことなのだが、このまま母はどんどん隅へと追いやられてしまうのではないのだろうか。そんなことを考えていたが、ベッドを囲むカーテンを開けて母の顔を見た瞬間、様々な思考は一気に消え去った。
 母の顔は、驚くほどにげっそりと痩せこけていたのだ。頬どころか、額までもが骨張っていて、本当に皮一枚のすぐ下に頭蓋骨があることが見て取れた。生きてくれている母にこんなことを思いたくはなかったが、私はその姿に思わずミイラを連想してしまった。目と口は虚ろに開いており、ただただ痛々しくて仕方がなかった。
 さすがの私でも、受け入れざるを得なかった。
 母はもう、「こちら側」には戻ってこないのだということを。
 これだけ痩せこけているというのに、顔のあざは日に日に薄れていくのが余計に物悲しかった。肌にはまだ再生する能力が残っているのに、そこには確かに「生」があるのに、母はもう目を覚ますことができないのだ。
 この日は、今までにはなかった「匂い」も感じた。母から発せられているのか、近くの患者から発せられているのか、それとも病室全体に充満しているのかはわからないが、糞便の匂いがした。これまでも薄らとは感じていたが、このときはより強く感じた。あの痩せ方だと、もう鼻からチューブを使って胃に流し込んでいる流動食すらも消化できていないのかもしれない。そしてそれが、そのまま糞便となって出て来ているのだろうと思った。
 母の肩は枯れ枝のように刺々しいのに、動かすことのできない手は針で刺したら破裂しそうなほどに浮腫んでいて、すべてが痛々しくて仕方がなかった。
 無言で帰宅した後、父が「もうお父さんもお母さんを見てるのが辛くなってきた」と力無く言った。「今の状態が本人にとっていいとは思えない」と。
 私は声を上げて泣いた。何も言うことはなく、ただ頷いては小さな子供のように泣きじゃくった。諦めたくはないけれど、もう諦めるしかないのだと思うと苦しくて辛くて、どうにかなっていまいそうだった。
 週明けの二十七日には、福岡にいる母の弟が来ることになった。佐賀にいる母の姉も来ようと思っていると言っていたが、こちらに数回した来たことのない伯母が一人で羽田から病院まで行くのは難しいだろうと思い、今回は断念してもらった。申し訳ないが、父にも私にも、迎えに行ってあげる余力がなかった。
 夜に兄とも電話して父と私の気持ちを話し、「今の状況が本人にとっていいとは思えない。福岡の叔父が来るまでは頑張ってもらいたいけれど、もうそれ以上は無理をさせないようにしよう」という意見で一致した。
 母が目を覚ましているだろうと思い、母のスマートフォンを持って面会に行った前週の月曜日が、遠い遠い昔のことに思えた。
 私はこれまで母に「ごめんね」とばかり言ってしまっていたが、次会うときには「ありがとう」と伝えようと決めた。もう母の耳には届いていないのかもしれないが、それでも母が生きているうちに伝えなければいけないと思った。産んでくれたこと、育ててくれたこと、愛してくれたこと、すべてへの感謝を。
 もう諦めなくてはいけないのだ。それが母のためにもなるのだ。
 痩せこけて虚ろに目と口を開いた母の姿を思い浮かべると、そう思うしかなかった。
 だがその一方で、やはりまだ諦めたくない自分もいた。生きてさえいてくれれば、奇跡は起きるのではないか。医師だって、意識が戻る可能性は0パーセントと断言することはできないと言っていたのだから。
 自分の人生に、こんなに辛いことが起こるとは想像だにしていなかった。
 どうやってこの辛さをやり過ごせばいいのか、私にはまったくわからなかった。
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