第20話

文字数 3,838文字

 十二月十三日。
 病室に着いたとき母は目を開けていたので、私はさっそく、前日にご近所さんからいただいた花の写真を見せた。本当は現物を持って行きたかったのだが、病院のウェブサイトで確認したところ感染症予防のため生花の持ち込みが禁じられていることがわかったため、写真を撮ったのだった。その写真が母の目にどう映ったかは、知りようがない。
 ほどなくして病室に看護師さんが来て、在宅ケアに向けた講習について少し会話をした。といっても希望の曜日などを伝えたくらいで、具体的なスケジュールが決まるのはもう少し先になりそうだった。
 私は腰を折って首を左に傾け、母の顔の正面に自分の顔を持って行った。母の目は、こちらを見てくれているようでも、まったく見えていないようでもあった。いろいろと話しかけようと思っても、その虚ろな瞳を見ていると胸が詰まって涙があふれ、結局ただ手をさすることしかできなかった。
 本当にこれでよかったのかという思いが何度も過ぎった。肺炎で危なかったあのとき、人工呼吸器に繋いでもらわずに楽にしてあげたほうがよかったのではないか。母はもう、十分過ぎるほど頑張ってくれたのではないか。
 母は本来なら「死の穴」にするりと落ちていくはずだったのに、私が余計な口を出したばかりに「死の淵」に引っ掛かってしまい、今ももがき苦しんでいるのではないか。
 半開きの口、浮腫んだ手、くっきりと浮き出た鎖骨。どれもが痛々しく、数日前には「目を開けてくれた」と喜んでいたくせに、この日は虚ろに見開いた母の瞳を見るのが辛かった。
 結局ほとんど母に声を掛けられないまま、三十分の面会時間は終了した。
 病院から帰宅すると、通販で頼んでいた母の寝巻きが五着届いていた。これまでは病院のレンタルで済ませていたのだが、母が家に帰ってくるのなら、家でも浴衣タイプの寝巻きが必要になる。どうせ買うのなら、割高なレンタルはやめて病院でも自前の寝巻きを使ってもらおうと考えたのだ。病院の寝巻きは青いストライプの味気ないものだったので、ピンクや紫の華やかなものを選んだ。母には少しでも、可愛くいてほしかった。
 父はこの頃から、母のベッドを置く予定の和室を片付け始めていた。
 父も私も、母のためにできることをして、心の隙間を埋めていた。

 十二月十四日。
 十六時頃、病院にいる父から「また調子が悪くなって処置を受けているので、それを待ってから帰る」という電話が来た。私は動揺しつつも、この間も大丈夫だったのだから今回も大丈夫に決まっていると自分にいい聞かせて仕事を続けた。ちょうど排水管清掃の作業員が家に来ていたこともあって、私は平静を保っていた。
 それから約一時間後、また父から着信があった。
 「危ないからタクシーで来れるか?」
 父の言葉を聞いて私はすぐにタクシーを呼び、泣きながら着替えとトイレだけを済ませて下に降りた。出際にバッグに入れているはずの鍵がなかなか見つからなくて時間が掛かってしまったので、タクシーはすでに到着していた。
 乗り込んですぐに病院名を告げたが、運転手には聞き馴染みがないようだった。ナビで調べようとする運転手に向かって「道はわかっているのでとりあえず国道に出てください」とお願いし、車を出してもらった。父に電話をしてタクシーに乗ったことを伝え、兄には連絡済みであることを聞いた。運転手は状況を察してくれたのだろう。信号待ちの間にナビで場所を調べてくれ、ただ無言で車を走らせてくれた。
 車内で私は母にメッセージを送った。母のスマートフォンは家にあるのでもちろん母に届くはずはないのだが、この頃の私は毎日のように既読の付かないメッセージを母に送り続けていた。
 「まだいかないで」
 「頑張って」
 祈るような思いでそんな言葉を送った。母とのトーク画面には四月に撮った母の写真が残っており、私はその写真を眺めながら心の中でも母に声を掛けた。我が家には写真を撮るという習慣がまったくないので、私のスマートフォンにある母の近影は、「おぼうち」を被って膝当てをしているその一枚だけだった。
 母に無理をさせていることに罪悪感を抱いていたはずなのに、私は心の中で「お母さん、お願いだから頑張って」と何度も繰り返した。
 ぼろぼろと泣いてはふっと落ち着き、しばらくしたらまた涙があふれる、を何度も繰り返すうちにタクシーは病院に着いた。正面玄関はもう閉まっているかもしれないので救急の入り口から入るよう言われたことを伝えると、運転手は駐車場の向こうにある救急の入り口をすぐに見つけてくれた。
 運転手に礼を言ってタクシーを降り、救急の入り口の警備員に呼び出しがあった旨を伝えると、いつもの総合案内で手続きをするよう言われた。私は小走りで総合案内に行き、入館証をもらうための用紙に必要事項を記入した。それはひどい文字だったが、総合案内の警備員はすぐに用紙を受け取って代わりに入館証を渡してくれた。
 エレベーターで七階に上がり、病棟のインターホンを押して母の名を告げた。心臓がバクバクとうるさかったが、やはりどこか冷静な、いや、実感の湧いていない自分もいた。迎えにきてくれた看護師さんに「まだ大丈夫ですか?」と震える声で聞くと、「落ち着いてきていますが、まだちょっと不安定なところもあります」という答えが返ってきた。ほっとしたが、母の顔を見るまでは安心はできなかった。
 病室に入ると、再び人工呼吸器に繋がれた母と、それを見守る父がいた。酸素飽和度は90パーセント台前半くらいだったかと思う。人工呼吸器を着けているにしては低い値で、母は少し苦しそうに口をパクパクと動かしていた。
 私は母の右脇に椅子を置いて腰掛け、母の右手を握って親指の腹で母の手の甲をさすり続けた。相変わらず浮腫みのひどい手はパンパンでぶよぶよとしていたが、その体温を感じられることが嬉しかった。
 父の話によると、父が病室に入った十四時半頃は母の容態は安定していたらしい。だが、看護師さんと在宅ケアに向けたスケジュールについて話をしていたところ、急に呼吸状態が悪くなり、血圧も急激に低下したとのことだった。体の至る所に管を挿れている母は常に感染症のリスクを抱えていたのだが、ついにその感染症に罹ったようだった。
 しばらくして兄夫婦も病室に到着したが、私は立ち上がって挨拶をする気力も湧かず、二人を一瞥しただけで母の手をさすり続けた。せっかく二人で駆けつけてくれたというのに、失礼なことをしてしまったと後から思った。
 母の状態は徐々に落ち着いてゆき、一時は上が50ほどしかなかったという血圧も異常値を示すことはなく、酸素飽和度も概ね90パーセント台を保つようになった。少し安心したところで軽く談笑もし、兄夫婦には十九時過ぎに帰ってもらった。
 その後、また少し酸素飽和度が下がり、90パーセントを切ると鳴るらしいアラームが数分置きに鳴るようになった。あの心を掻き乱すような不穏なアラーム音は、今でも頭にこびり付いている。私は母の顔よりもモニターの数値を眺めながら、父と一緒に母の手をさすり続けた。数値が80パーセント台に下がるたびに、「上がれ」と手に祈りを込めた。「お母さん、大丈夫だよ。ゆっくり深呼吸して」と心の中で話しかけもした。
 二十一時を過ぎたあたりからまた母の呼吸は安定し出し、二十二時頃にはただスヤスヤと眠っているような呼吸音しか聞こえなくなった。口も半開きではあったがパクパクと動くこともなくなり、このまま朝になったら普通に目覚めてくれるのではないかと思うほど穏やかな寝顔になった。モニターの酸素飽和度も90パーセント台後半を保ち続けていた。
 父と一度帰って朝また来ようと話し、病室の近くにいた看護師さんにその旨を伝えると、夜勤担当の看護師さんがやって来た。「まだ完全に落ち着いたわけではないので、何があるかはわからない」というようなことを言われて悩んだが、私は慌てて家を飛び出したのでこたつを消していたか、ちゃんと鍵を閉めていたか、などの不安もあり、後ろ髪を引かれる思いではあったが一度帰ることにした。何より母の寝顔とモニターの数値を見て、もう大丈夫だと確信していた。
 二十三時半頃に家に着き、排水管清掃のために出していたシンク下の物などを片付けてから冷凍ご飯をレンジで温めて食べ、風呂に入った。二十五時前には就寝の準備ができたので、それは普段とそんなに変わらなかった。
 「明日は朝起きたらとりあえずお父さんが一人で行くよ」と父は言ったが、私は「一緒に行けたら行く」と言った。もちろん母の容態が心配だったし、父のこともまた心配だった。母を家に帰らせるという目標を達成するには、母の頑張りはもちろんのこと、父と私が健康であることが大前提だった。どちらかが倒れでもしたら、母に帰ってきてもらうことは不可能になる。免許を持っていない私は運転を変わることはできないが、せめて一緒に前後左右の確認をしたり、話し掛けて父の眠気を覚ましたりはしたかった。
 六時半頃に家を出ようと話してベッドに入ったが、私はいつまでも寝付けなかった。またいつ電話が掛かってくるかもしれないと思うと平静でいられなかった。「やっぱり病室に泊まればよかった」、そんな思いも抱えながらベッドの中で長い夜を過ごした。
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